このお話は、これまでにもこのブログでたびたびご紹介しているお話ですが、自国の安全を自国で図ろうとしなかったとき、その国に何が起きるのか、どういう事態を招くのか、そのことを歴史に学ぶことはとても大切なことと思います。 とりわけ私達日本人には、聖徳太子の十七条憲法があり、その第16条には「古之良典(古の良典を用いよ)」とあります。 そしてなにより事実以上の良典はないと思います。 アフリカの中央部にあるコンゴは、たいへん国土が豊かな国であり、しかもそこは人類発祥の地でもあります。 そしてそのコンゴは、すくなくとも15世紀の終わり頃までは、王のもとに各部族が統一され、近隣諸国とさかんな交易も行われる、平和でたいへんに栄えた国でした。 ところがそのコンゴは、その後、世界最大の黒人奴隷輸出国となり、また、一時は、人間の手首が通貨として流通する国になりました。 そして昭和46(1971)年からの内乱では、なんと600万人という途方もない人々が殺害され、その内乱はいまもまだ続いています。 いったいなにがあったのでしょうか。 コンゴに、はじめに西洋人(ポルトガル)がやってきたのは、1482年のことです。 日本に西洋人がやってきたのは、1543年(1542年という説もあり)のことで、この年に日本に鉄砲も伝来していますが、その時間差は、わずか60年しかありません。 つまり、ほぼ同じ時期に、コンゴにも、日本にも同じポルトガル人がやってきています。 当時のコンゴは、王国です。 そしてポルトガル人がやってきた2年後の1485年には、コンゴ王国とポルトガル王国との間で「対等な」国交が結ばれています。 ともに五分と五分のお付き合いをする。 ただし違うのは、ポルトガル宣教師によるキリスト教の布教を認めることが、条件となっていたことです。 コンゴはこれを承諾しました。 人の道を解く宗教であるし、これといって問題視することもないと思われたからです。 1491年には、ローマから宣教師も派遣されてきました。 コンゴでは、国王のジンガ・クウ自らが率先してカトリックに改宗し、さらに自分の息子で王子のジンガ・ムペンパを、ポルトガルに留学させました。 王子のムペンパは、ポルトガルで学問を修め、1506年に父親の後を継いでコンゴ国王に即位しています。 ポルトガルの進んだ文明を学んだムペンパ国王は、積極的にコンゴの欧化政策を進めました。 さらに多くのポルトガル人を受け入れ、コンゴの近代化に励みました。 と、ここまでは、悪くない話です。 ところが、そうした欧化政策と、ポルトガル人の招聘(しょうへい)のために、コンゴ国内にポルトガルの奴隷商人たちが、大量に入り込み出したのです。 このことは大事なポイントです。 交易をすれば、優秀で良い外国人たちもたくさんやってきますが、同時に、どうしようもないワルも同じくらいたくさんやってくるものなのです。 そして彼らには、その国の秩序や法の認識はありません。 すこし脱線しますが、以前たまたま知り合ったナイジェリア人男性は、日本の夜の街で働いているのですけれど、彼は毎晩、飲酒して、ベロベロに酔っ払った状態で車を運転しています。 当然、何度も捕まっており、免許証も取り上げられているのですけれど、全然平気です。 「ワタシタチノクニ、インシュウンテンOK!、ニホンオカシイ」のだそうです。 話を戻します。 コンゴにやってきたポルトガルの奴隷商人たちは、人の売り買いをするわけですが、元手は、そこらへんで捕まえてきた黒人です。 多少の経費はかかりますが、元手はタダです。 そして奴隷は高値で売れます。 いまで言ったら、クルマを買うような感覚と考えるとわかりやすいです。 元手タダで仕入れた新車が飛ぶように売れる。 ですから奴隷商人達は、またたく間にたいへんな金持ちとなりました。 そして儲けた資金力を背景に、コンゴの国政を平然と壟断(ろうだん)しはじめたのです。 コンゴは、もともと貿易立国していた商業国です。 それだけに、欧州経済をいち早く受け入れることができるだけの土壌も育っていました。 けれど、コンゴ人がコンゴで行う商売と、外国人がコンゴで行う商売は、その本質がまるで違います。 コンゴは歴史ある王国です。 ですからコンゴ王国の民衆には、自国への愛国心や愛郷心があります。 しかも身内が同じ国内にたくさんいます。 ですからたとえ儲けるためであっても、そこに最低限の秩序や規律が守られていました。 ところが、外国人であるポルトガル商人たちには、そうしたコンゴへの愛国心も愛郷心もありません。 あるのは欲だけです。 そして彼らは、あらゆる方法を使って自分たちの行いを正当化し、気がつくとコンゴ国内は、ポルトガル人の奴隷商人たちと、その下請けとなったコンゴ人達が、経済的だけでなく、政治的にも多大な影響力を持つようになっていたのです。 事態を憂慮したコンゴ国王は、ポルトガル王に対し、奴隷貿易を止めるようにとの書簡を送りました。 けれどポルトガル王国は、コンゴ政府ではありません。 ですからコンゴ国内の治安には、何の責任もありません。 あたりまえのことですが、ポルトガルは、ポルトガルの都合のためだけに動きます。 このあたりもとても大切なポイントです。 結局は外国に期待しても、その外国は、自分たちの利益だけが優先し、その国のため、世のため、人のためなどという理屈は通用しないということだからです。 その国のために、本気になって親身になって尽くしぬいたのは、世界の歴史上、おそらく戦前の日本くらいなものです。 で、どうなったかというと、日本は世界の敵となり、いまもって日本は国連の敵国とされているわけです。 世界は決して甘くないのです。 ですから当然のように、コンゴ国王の書簡は無視されました。 そしてポルトガルの本国政府が黙認することに自信を深めた奴隷商人たちは、ますますコンゴにおける奴隷貿易を盛んにし、ついにコンゴは、アフリカにおける最大の奴隷貿易の中心地となってしまいました。 コンゴでは、民衆が怒りました。 当然のことです。 ある日突然、家族が、子供達が白人達に追いかけ回されて網ですくわれ、拉致され、奴隷、つまりモノとして勝手に売買されてしまうのです。怒らないほうがどうかしている。 世界の歴史上、20万人という途方もない数の女性が性奴隷にされても怒らなかったのは、韓国人男性くらいなものです。(もし性奴隷徴発が事実ならですが)。 コンゴ人達は、敬愛する国王を信じ、事態が必ず解決し、いつか拉致された人々も国に戻れる日が来ると信じました。 そしてコンゴ王のもとに団結しようとしました。 けれど、そんな日が来ないまま、コンゴ国王が永眠してしまったのです(毒殺されたという話もあります)。 国王が亡くなると、コンゴの民衆は、ついに暴発しました。 民衆は反乱し、暴動が相次ぎました。 普通なら、暴動には警察や軍隊がその鎮圧に動きます。 ところがその頃のコンゴには、もはや民衆の暴動を鎮圧できるだけの力は残っていなかったのです。 どうしてか。 博愛主義を説くキリスト教によって、コンゴ国王の武力は否定され、コンゴ国軍は、ほとんど解体状態となっていたのです。 しかも適齢期の若者達は、男女を問わず奴隷狩りにあって、その多くが連れ去られていました。 このあたりも近年の日本と(少しだけですが)似ています。 日本は武力が否定され、適齢期の若者たちは、国を護ることよりもお笑い芸人やオカマになったり、あるいはキャバクラ嬢になってお金儲けすることが大事と思われているフシがあるといわれています。 もっともその一方で、日本の教育界の程度が極端に下がったことから、逆に勉強しない若者たちの中に、大和魂や大和撫子がスクスクと育ち始めています。 このことはテレビ局とちょっと似ています。 テレビ局が在日に事実上乗っ取られ、番組が見るに耐えないくだならいものばかりになる一方で、若者たちを中心にテレビ離れが進み、いまや多くの若者達がネットを通じて真実の日本を知るようになってきています。 そこがコンゴとの違いでもあったのかもしれません。 新たにコンゴ国王になった王は、なんとか暴動を鎮圧しようとしました。 国内の平和と安定は、国王の使命だからです。 ところがそこで、ある大きな事件が起きました。 1568年のジャガ族の襲来事件です。 この事件は「やらせ」だったという説が有力です。 ジャガ族という無法者集団が、コンゴ国内に攻め込んで、一部の奴隷商人を襲撃し、さらにキリスト教施設を破壊したのです。 コンゴ国王は、ジャガ族鎮圧のため、同盟国であるポルトガルに軍事支援を要請しました。 すでにコンゴ王単独で武装集団を退治するだけの力が、コンゴ王室になくなっていたからです。 要請を受けたポルトガル軍は、またたく間に、ジャガ族を鎮圧しました。 けれど、事態はそれだけに終わりませんでした。 すでに国軍が衰退していることを知ったポルトガルは、ここにきて、コンゴ王国との関係を、対等な関係から、主従関係へと変更することを要求してきたのです。 圧倒的な軍事力を見せつけたポルトガルの前に、武力のないコンゴ王は従わざるを得ませんでした。 こうしてコンゴは、ポルトガルの従属国となったのです。 属国となっても、コンゴ王は、細々と存続し続けました。 けれどそれは国として存続したというよりも、国王を名乗る家がコンゴ地方内に存続していた、というだけの情況でした。 コンゴ国の秩序は崩壊し、国は荒れ、ほとんど無政府状態となりました。 国内では武装した奴隷商人達がほしいままに闊歩し、贅沢な暮らしを満喫し、コンゴの民衆はひたすらそれにおびえながら、極貧生活を余儀なくされる状態となったのです。 そんな状態が、どれだけ続いたのでしょうか。 答えは300年です。 情況に変化が起きたのは、1885年のことです。 ベルリン会議の決定によって、ポルトガル領コンゴは、ベルギーの領土となったのです。 新たな支配者となったベルギー国王のレオポルド2世は、コンゴを「コンゴ独立国」としました。 そして自身がコンゴの元首となり、コンゴを自由貿易の国としました。 ただし、カタチは自由貿易の独立国であっても、コンゴは、土地も人も一切合切、レオポルド2世の私有物です。 王制というのは、そういうものです。 ですから、ベルギー領となったコンゴ政府は、コンゴ国内にはありません。 コンゴ政府は、ベルギーのブリュッセルに置かれました。 レオポルド2世も、コンゴへは足を運んでいません。 コンゴへは、総督が派遣されました。 実際には私有地、私有財産にすぎないのに、カタチだけは独立国です。 ですから英国人達は、これを揶揄して、コンゴのことを「Congo Free State(コンゴ自由国)」と冷笑しました。 いまでもコンゴのことを「コンゴ自由国」と呼ぶ日本の学者がいますが、酷いことです。 コンゴを私物化したベルギー国王は、1830年にオランダ(ネーデルラント)から独立したばかりでした。 その親元の国であるオランダは、世界中に圧倒的な植民地を持ち、巨富を得ていました。 ですからベルギーからコンゴに派遣された総督の任務は、ベルギー初の植民地(私有地)であるコンゴから、一日もはやく経済的利益をあげようとしました。 ところがこの頃には、奴隷貿易はすでに下火になっています。 しかもコンゴ独立国建国当初はインフラ整備に経費がかかり、さらにコンゴには奴隷以外に主たる産業も産物もなかったことから、コンゴの経営はたいへんに苦しいものでした。 当初の状態は、むしろベルギー側の持ち出しの方が大きかったのです。 ところが、その頃から事情に変化があらわれます。 英国で、1887年に、自転車用のゴムタイヤが発明されたのです。 これはたいへんな技術革新でした。 そしてそのタイヤ技術が自動車のタイヤに応用されるようになったのです。 こうなると、ゴムの需要がうなぎ上りになります。 そしてゴムの木は、他に産業らしい産業のないコンゴの、国中のいたるところに、自生していたのです。 コンゴにやってきていたベルギー人達は、ゴムの採取に目を付けました。 そしてコンゴ人達を使って、徹底的にゴムの採取を行ったのです。 おかげで、コンゴのゴムの生産高は、20世紀のはじめには、世界全体の生産高のほぼ10%を占めるに至りました。 ベルギーは、コンゴ産のゴムによって、経済的にたいへんに潤いました。 苦労してコンゴを入手したベルギー国王が喜んだことは、いうまでもありません。 ところが、そうした生産高を上げるために、現地で何が行われていたのか。 コンゴにいたベルギー人達は、コンゴ人にゴムの採取を強制するために、女子供を人質にとって男たちを働かせたのです。 夫がゴム採取のノルマを達成できないと、人質にとった妻子の右手を、見せしめとして切断しました。 手を切られたコンゴ人 マーク・トウェイン「レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護」p.40 コンゴ自由国 ここまでくると、コンゴ人達も黙っていません。 中には集団で徒党を組んで反乱を組織するコンゴ人も出てきました。 こうした反乱ゲリラを鎮圧するために、ベルギーは周辺に住む未開の部族達を徴用して、公安軍を組織しました。 この「少数民族を利用して現地の人々を統治する」という手法は、植民地支配では、ごく一般的に行われてきた統治手法です。 未開の蛮族達による徴用兵たちは、白人以上に恐ろしい残忍さを発揮しました。 徴用兵たちの任務は、ゴム採集のノルマの達成管理です。 その中には、未達者に対する手首斬り落しの強制執行も含まれていました。 徴用兵達の給料も、利益に基づく歩合性でした。 蛮族たちは、任務を果たしている証拠である「懲罰のために切り落とした手首の数」が、昇級や賞与の額が決められました。 ということは、ノルマを達成して、さらに手首もたくさん所持していれば、もっと給料が上がるわけです。 蛮族達は、次々とコンゴ人の女子供の手首を切り落としました。 コンゴの人達からすれば、その手首の取立から逃れるためには、他の村人たちを襲って手首を集めてくるより他ありません。 こうして手首は、それ自体が価値を帯びるようになり、一種の通貨にさえなっていったのです。 コンゴが、ベルギー領コンゴとなったのは1885年のことです。 そしてコンゴが、ようやく独立を果たしたのは、昭和35(1960)年のことです。 その間、わずか75年の間に、コンゴで虐殺された人の数は、1000万〜1600万人であったといわれています。 コンゴが独立したときの人口が1400万人です。 これは恐ろしい数です。 せっかくのコンゴの独立も、独立からわずか1週間で、内乱とベルギー軍の介入によって崩壊してしまいました。 こうして始まったのが「コンゴ動乱」です。 「コンゴ動乱」は、国連が支持し、民主化を促進しようとするムルンバ大統領派と、ソ連やキューバに後押しされたコンゴ国軍が対立するという構図となりました。 さらに国内を二分しての民族紛争がこれに重なり、コンゴはこの後約5年間、動乱に継ぐ動乱の時代となったのです。 そしていまもなお、コンゴは戦場の中にあります。 今年は2015年ですが、自主自存の国家だったコンゴの崩壊の引き金となったのは、447年前の1568年のジャガ族の襲来事件でした。 この事件のときに、コンゴが自前の防衛力を保持していたら、つまり強力な軍隊を自前で保持していたら、おそらくジャガ族の襲来もなかったし、ポルトガルに援軍を要請する必要もなかったし、結果としてポルトガルの従属国となることもありませんでした。 それどころか、奴隷商人たちの跋扈そのものを、自前の強力な軍隊の出動によって防ぐことができたかもしれません。 「そのとき軍隊が弱かった」 たったそれだけのことで、コンゴは国を崩落させ、それからいまにいるまで約五百年、コンゴは悲惨な歴史をたどり、しかもいまなおコンゴは内乱と戦火の中にあります。 コンゴで、これまでに戦火や奴隷、ムチ打ちや私刑などによって、いったいどれだけの人の命が奪われたのでしょうか。 大事なことは、どんなにご立派な講釈を垂れたとしても、力なき正義は正義になれない、ということです。 それどころか「国が弱い」ということは、それだけで多くの国民の不幸を招くのです。 現実に日本は、どんなに立派な法的根拠、歴史的根拠を並べ立てたとしても、武力を背景にした他国による領土の占有(竹島、北方領土)の前に、なにもできていません。 北朝鮮に国民を拉致されても、何もできていません。 自衛隊はあります。強いです。 けれど専守防衛をうたう以上、他国は日本に対していかなる不条理を押し付けたとしても、その国が日本から攻められる可能性は皆無なのです。 いくらカツアゲしても絶対に反抗しない、それどころか「暴力だけはふるわないで」と、欲しいだけカネを出してくれるお金持ちで腰抜けのボンボンがこれまでの日本です。 「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼すると日本国憲法前文に書かれていますが、公正な国ってどこでしょう?信義ある国とは、どこの国を指すのでしょう? すくなくとも、この憲法前文が書かれ、施行された昭和22年の時点では、中共政府も韓国政府も北朝鮮も、まだこの世に存在していません。 つまり、すくなくともこの三カ国は対象外です。 私も戦争は反対です。 二度と戦争の悲惨を繰り返してはならないと思います。 いつまでも平和に安心して暮らせる日本でいてもらいたいと心から願います。 そうであるならば、日本は軍事的にも強くなければならないのです。 でなければ、日本は4百年前のコンゴになってしまう。 一部の憲法学者が国会で、自衛隊は違憲であると言ったのだそうです。 けれど生存権としての自衛権は、憲法以前の自然権です。 ですから自衛隊の存在は、日本国憲法下にあるのではなく、日本国憲法以前の自然権の発露としてあります。 その憲法学者を、私がいまから殴り殺しますと言ったら、彼らは私との外交手段として一切の防御をしないのでしょうか。家ごと家族を焼き殺すと言っても、なんら防衛しないのでしょうか。 そういうことがわからないなら、彼らはただの曲学阿世の徒であり、日本国内で手首を通貨にしたいと思っている人達であるということです。 日本にも16世紀にポルトガル人が来日し、鉄砲などが伝えられました。 けれど日本は、鉄砲をまたたく間に国内に普及させ、秀吉の時代には、日本は全世界の鉄砲保有数の約半数を持つという、すさまじい鉄砲大国、軍事大国となっています。 けれど、鉄砲に使う火薬の原料となる「硝石」は、日本で産出しません。 あたりまえのことですが、火薬がなければ鉄砲はただの鉄パイプです。 ですから、日本の戦国大名たちは、こぞってポルトガル人達から火薬を買いました。 代金は、火薬一樽につき、日本人の若い女性50人が相場であったといわれています(徳富蘇峰、近世日本国民史)。 日本女性が奴隷に売られたのです。 日本でも、コンゴで起きたことに近いことが、現実にあったわけです。 けれど日本がコンゴのように、ポルトガルの属国とならずに済んだのは、彼らの鉄砲という兵器を駆使する戦いに学び、これを吸収して自前の鉄砲隊を組成してしまったこと、硝石が糞尿の結晶であることを知った日本が、それを自国内で製造してしまったこと、これにより日本がポルトガルを圧倒する強力な軍事力を備えたためです。 これによって日本は堂々と奴隷売買とキリスト教を禁じ、日本人女性が奴隷として国外流出することも阻止したのです。 幕末動乱も同じです。 日本は、外国からの圧力に対し、これを学び、吸収して、その外国以上に強靭な国家を造り上げました。 なるほど幕末に日本は外国との間に不平等な条約を締結しました。 けれど日本は、日清日露の戦争に勝利し、明治44年に、日本は完全に外国との関係を対等なものに修復しました。 もし、日本が過去においてそういう努力をしてこなかったら、もしかすると日本人もコンゴと同様に奴隷に売られ、女性たちは旦那のために手首を斬り落され、通貨は小判や銀貨、銅銭などではなく、手首が用いられるような国になっていたかもしれない。 銭形平次の投げるのが寛永通宝ではなく、紐でつないだ手首だなんて、想像もしたくないことです。 大事なことは、他国に支配されるということは、いかなる場合においても、自国民の幸せには絶対にならない、ということです。 もちろん例外はあります。 それは日本がかつて統治した国々です。 どの国もすべて発展し、なかには歴史上初と言って良い平和な時代を迎えた国もありました。 けれど、日本がそうしてきたからといって、他国も同じようにするなどということは、金輪際ないし、上に述べたコンゴのように、他国の支配を受けることは、これ以上ないといって良いくらいの国民の不幸を招くのが、世界の歴史です。 日本が、独立した国家でいられたのも、いま、私たちが平和に暮らして行けるのも、私たちの父祖、祖先が、それこそたゆまぬ努力を重ねてきたからに他なりません。 ところが戦後の日本は、GHQによって憲法を与えられ、逮捕拘留してあった共産主義者たちを解放させられ、それまでの国の中心であった愛国者たちを公職追放によって放逐され、間接統治のために特権を与えられた不逞朝鮮人が日本人からいいようにカネや財産を奪い、その状態という「歪み」がいまだに、続いています。 冒頭に書きましたが、コンゴは1996年以降の動乱で、この19年の間に600万の人がなくなっています。 コンゴは資源国ですが、その資源をめぐって、それだけの争いと殺戮が起きているのです。 コンゴは、ゴムの採取からはじまって、いまではコバルトなど、電子機器に必要なレアメタルが大量に採れる地域となっています。そのため資源を狙う西欧諸国の利害が、コンゴの国内と周辺国の事情を複雑にし、それが原因で、いまだ内乱が絶えません。 第二次世界大戦の頃、まだ中東には石油が発見されていませんでした。 それが発見され、中東は諸外国の利害が対立する地域となり、結果、紛争地帯となっています。 そして地球最後の石油埋蔵地帯として、いま、東と南シナ海が注目されています。 日本は、コンゴのようになるのでしょうか。 コンゴが動乱を終え、ほんとうの意味での平和を取り戻すためには、何が必要だとお考えでしょうか。 おそらく、誰もが口を揃えて、「それは、コンゴの人たち自身が努力するしかない」とお答えになるものと思います。 ならば、それはそのまま日本にもあてはまるのではないでしょうか。 日本が日本を取り戻し、真の独立と自存を取り戻すためには、なにより日本人自身が目覚めなければならない。 そういうことなのではないでしょうか。 そのためには何が必要でしょうか。 左前や反日にかぶれた人たちとの対話でしょうか。 そんなものが意味を持たないのは、誰もがおわかりと思います。 なぜなら、彼らは考えを変えない。そこに利権があるからです。 そういう人たちは、日本が変ったら、逮捕される人たちです。 それよりも、中庸と思っている人、まだ目覚めていない人、反日でも在日でもない、普通の日本人に、いかに目覚めてもらうか、そのために私たちひとりひとりに何ができるかが、問題なのではないかと思います。 日本を取り戻そうという意見が、我が国の本当の意味での主流となったとき、日本は、またたく間に変わる。 必ず変わる。 そのために、私たち自身が、自分できることを、ほんのちょっとずつでも続けていくことではないかと思います。 1日、たった1分の誤差が、4年目のうるう年となって、1年が一日長くなります。 たった一分の積み重ねが、4年でまる一日、24時間分になるのです。 ほんのちょっと、でも続けること。 遠回りにみえて、実は日本を取り戻す一番の近道が、そこにあるように思います。 出典:コンゴと安全保障のお話 リンク:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2673.html#more |
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