私が愛したブロンズ像 (オリジナルフィクション) 5471回

2016/02/24 08:46┃登録者:あでゅー◆UokxQKgo┃作者:あでゅー
20160103-私が愛したブロンズ像(改)

 朝、目が覚めると、やけに寒気がしてカーテンを開けた。思った通り雪が降り積もっていた。イブには、これ位雪が降っていないとつまらないが。それにしても寒い。私は堪らず身震いして、石油ファンヒーターのメモリを上げ、身体が冷えないように急いで身支度を始めた。

 出勤の30分前。毎冬恒例のいまいましい雪かきをしながら思う。
 私は、昨夜から降り出した雪が、根雪になってイブを向かえるのが望ましいと思っていた。それでも、これからは毎日のように雪かきをしなくてはならない事には不満を持っている。しかし私は、ここから雪の無い内地へ引っ越す気にはなれない理由が有るのだが。
 答えの決まった押し問答をしながら、スコップで歩道をひたすら雪かきをするのだった。

 朝の労働から解放されて、バスにやっと間に合った。肩で息をしながら吊革につかまっていると、バスは坂道を下って幣舞橋に差し掛かった。私は、いつものように、窓の凍りを手で溶かし外を見る。
 ――薄絹一枚をまとい、長い髪を後ろでまとめ、一点遠くを見つめ、凛と立つ姿は、美しい……。だが、どんなに美しくても彼女はブロンズ像。私の声には答えてくれない。

 私、新井雪彦はいつしか幣舞橋(ぬさまいばし)の彼女、ブロンズ像『春』に恋してしまった。
 それは、私が美術教師として北海道釧路市の高校へ新卒で来た年の春だった。初めて彼女と目があった時は動けなかった。一目惚れだった。何時間も見入っていた。そして翌年、幣舞橋を見下ろすアパートへ引っ越してからは、この3年の間毎日彼女を見て来た。
 それを変だと言う者がきっといるだろう。しかし、私は彼女を見ているだけで満足だった。

 だが、その彼女の身体が最近洗われていない。私は、鳥の糞で汚れた彼女を見るのが辛かった。それは、彫刻をやっている私にとっては、到底耐えがたい事だったのだ。
 だから、今日彼女を綺麗にする。但し、不審がられないように他の3体のブロンズ像『夏』『秋』『冬』も洗うようにした。


 私は、学校の仕事が終わってから、バケツとスポンジを持って幣舞橋へ来た。私は、まずお店の人にお願いしてお湯を貰い、ブロンズ像『春』を見上て「最後に洗うから待っててね」とつぶやいて白衣を着た。
 腕時計を見ると時刻は午後6時。もう既に街灯が点き、静かに降り積もる粉雪を暖かく照らしていた。

 まずは『夏』の像。
 彼女の肢体は、夏の日光を浴びたように伸びている。
 これを、スポンジを泡立たせ、勢い良く汚れを落としていった。
 次に『秋』の像。
 少々骨が太く健康的な彼女。
 私は、友達の身体を洗うように、ごしごしと洗った。
 『冬』の像。
 寒さに凍えるような彼女を見ていて辛くなった。
 私は、お湯で温めてから、丁寧に汚れを落とした。

 腕時計を見ると、もう夜の10時。私は、汗を拭いてブロンズ像『春』の台座に上り、粉雪をはらった。
 初めて近くで見る彼女の顔は、やはり凛として美しい。特に、口元と目元が引き締まって丹念に創られ、作者『舟越保武』(ふなこし やすたけ)氏の思い入れの深さが伺える。
 きっと彼は、この像を顔から作ったに違いない。一体誰をモチーフに使ったのか気になる。それにしても、端麗とした顔だ。
 私はスポンジを泡立てて、後ろでまとめた長い髪から優しく洗っていった。時間も忘れ丁寧に洗っていき、本来の美しい顔が現れた。私は少しの間、見とれてしまった。
 それから身体を洗ったが、その薄絹をまとった肉体は程よく膨らみを有し、まるで人間をブロンズ像にしたように思えた。
 ――耳を澄ますと、今にも鼓動が聞こえそうだ。
 そんな妄想に取りつかれ、私はブロンズ像『春』の身体を磨き上げていった。
 どれ位経っただろうか、私はようやく洗い終え、台座を下りホッと一息ついた。
 時刻はもう直ぐ深夜0時。空を見上げると、雪は既に止んでいた。私はバケツの水を捨て、白衣を脱いだ。


 もう一度、ブロンズ像『春』を見て満足して立ち去ろうと背を向けた、その時だった。
 誰かが、私のオーバーをつかんだ。
 ギクリとした。
 ――深夜で周りには誰もいなかったはずなのに。
 私は、恐るおそる振り返った……。

 そこには裸の少女が、たった一枚薄絹をまとった裸の美しい少女が、震えて立っていた。

「――!」
 私は無言の悲鳴を上げた。
 が、直ぐにあわてて自分のオーバーを脱いで彼女に掛け、冷たいそうな足に脱いだ靴を履かせた。
 ――なぜ、こんな美しい少女が裸でいるんだ?
 私は、完全に動揺して、凍えるような寒さなのに冷や汗をかいていた。
 そこで、私は気付く。
 ――そう言えばブロンズ像は?
 ブロンズ像『春』がいた台座の上をゆっくりと見上げると……。

 そこには、何も無かった。

「……」
 私は、めまいがして呆然と立ち尽くした。

 しかし、我に返り、このままにしては置けないと思い、恐るおそる彼女に声を掛ける。
「もし、もし良かったら私の家に来ませんか?」

 思い付かなかった、それ以外に彼女を連れて行く場所が。出来る事なら置いて逃げたかったが、それは彼女には余りにむごい事だ。

 彼女はホッとした表情で
「お願いします」
と寒さに震える声で言った。それが、彼女の美しい第一声だった。
 私はコクリとうなずき、周りを気にしながら彼女と共に家路を急いだ。

 その時、彼女は手を差し出したのだが、私には怖くてどうしてもつかめなかった。そして、歩いている最中、私がなぜ震えているのか。寒さの為か、恐れの為か、それさえも分からなかった。あんなにブロンズ像『春』が人間だったらと思っていたのに。いざ、それが現実になったら恐ろしいと思ってしまった。
 私は、この現実に酷く混乱して更には恐怖していたが、それでも彼女を家に招いた事は間違いでは無かったと思った。それは、彼女をあの橋の上に置き去りしたら、私は自分を責めてどうにかなってしまうと思ったからだ。


 私は、急いで家に着き、玄関に溜まった粉雪をはらって、アパートの鍵を廻した。
ガチャ、バッタン。
「どうぞ、上がって下さい」
「ありがとうございます」
 彼女の声が震えている。私もガタガタと震えていた。私は急いで石油ファンヒーターに火を入れ、何枚かの暖かい服を二人で着た。二人して火に当たりコーヒーを飲んで、私の方はようやく温まってきたが、彼女は未だガタガタと震えていた。
 ――無理も無い、裸であの橋の上にいたのだから。
 私は恐るおそる彼女に訊(たず)ねた。
「まだ……、寒そうですね。良かったら風呂に入りますか?」
「風呂とは……、何ですか?」
 ――そうか、彼女には日常生活の常識が抜け落ちているのか。
 私は少しの間固まったが、苦労して説明した。
「……えーと、大きい容器に暖かいお湯を入れて、人間がそのお湯に浸かって温まる物です」
「お湯に浸かる! ぜひ入りたいです!」
 彼女は感激したようで喜んでそう言った。
 私は「分かった」と言って急いで風呂を沸かし始めた。
 ――そう言えば、健康保険証も持っている分けは無い。風邪でも引かれたら大変だ。
 私は、あわててバスタオル等の入浴に必要な物を用意した。だか、下着は私のしか無い。それも一応用意した。

 彼女を、風呂に入れるは、やはりとまどった。まず、服を脱がせるところから教え、蛇口をひねってお湯を出して、それを全身に浴びてから湯船に入って貰った。
 そこで彼女は「ほおっ」と声を出す。
「本当に暖かいです」
 私は目のやり場に困っていたが、彼女はお湯を手で掻いて肩に掛けて、本当に気持ち良さそうにしていた。
 ようやく震えも治まった頃、私は彼女がまだ寒いだろうと思い、湯船に浸かったままシャンプーを渡し、洗い方を教えていった。髪を洗い身体も洗い終え、ゆっくりとお湯に浸かって風呂から出た。そして、シャワーで泡を落とし私の服を着て貰った。

 ようやく、私の緊張は薄れて丁寧語で話すのを止めた。
「どうだい、良いもんだろ、お風呂って」
 髪をドライヤーで乾かしながらクシの使い方を教え、そう言った。
「ありがとうございます。身体がホッカホッカして気持ちいいです」
「よかった、さっきまで震えていたから。ところで、お腹は減ってない?」
「そう言えば、お腹がペコペコです」
「よし、急いで用意しよう」

 私は、作り置きのシチューを温めながら考えていた。
 この少女、ブロンズ像『春』だった者は、どうやらあの橋の上にいた時から意識が有ったらしい。それで、その橋の上を行き交う人々から言葉と行動を知ったのだろう。だから、普段家でやるような、風呂に入ったり服を着る事が出来なかったのだ。また、裸でブロンズ像として立っていたから、裸を見られる事に抵抗が無いのだ、そう推察した。
 そして、さっきからの会話で彼女が真面目で素直な性格だと知り、少しずつだが初め懐いていた恐れは薄れていった。
 ふと目をやると、今も石油ファンヒーターの前で暖を取っている彼女、その横顔には安堵の様子が感じられた。

 ご飯に温めたシチューを掛け、スプーンを挿して居間のテーブルに置くと、やはり食事の仕方は知らなかった。彼女は、皿とスプーンを交互に見てとまどっている。
「私の真似をしてごらん」
 私は、スプーンを持ち、皿の中のご飯とシチューをすくい、それを落とさないようにして口に運で見せた。
「やってみて」
「はい」
 ――初めての食事だ。口に合うと良いが。いや、それよりも消化の良い物にした方が良かったか……。
 そんな私の懸念もなんのその。彼女は勢いよくスプーンを口に運んだ。
「ぱく、もぐもぐもぐもぐ、ん! ごっくん。美味しい!」
「良かった。ゆっくり噛んで食べるんだよ」
「はい!」

 彼女が満足そうな顔をして、ごちそうさまと言ったのは、もう深夜1時半。
 ――明日に備えて早く眠らなければ。
 彼女に歯磨きを教え、寝室のベッドへ寝かせた。
 私が「お休み」と言って居間のソフォーで寝ようと電気を消した時、彼女に呼び止められる。
「どこへ行くんですか?」
 不安そうな声だ。
「いや、私はあっちで寝るから」
「お願い、行かないで」
 彼女は今にも泣きだしそうに言う。

 もしかして、彼女はあの橋の上で、40年間意識があったのかも知れない。それで孤独を恐れているのだ。
 人が直ぐ目の前を通り過ぎるのに、自分は声さえもかける事が出来ずに、只ずっと立ち続けるだけとしたら……。私なら耐えられない。
 ようやく、彼女が泣き出しそうになった気持ちが分かった。

「ごめんね。一緒にいるから」
 そう言って、私は彼女の隣で背を向けて寝た。彼女は安心したのか、私の背中にぴったりとくっ付いて、スヤスヤと寝息をたてた。


  ◆
 翌朝、私は寝坊してしまった。急いで顔を洗い身支度をしていると、彼女が途中で起きてきて不安そうに私を見た。
「ごめん、顔洗って昨日のシチューを食べて。学校は今日は昼で終わりだから、直ぐに帰ってくるからね」
 その私の言葉に、ホッとしたようで、
「分かりました。行ってらっしゃい」
と笑顔で言ってくれた。
 そうだ、彼女を安心させれば良いんだと気が付いた。これからは、行先といつ帰るかを言ってから家を出よう、そう思った。


 お昼過ぎ、私が急いで家に帰ると、彼女は「お帰りなさい」の言葉で私を笑顔で迎えてくれた。
「ただいま。……そう言えば、ただいまなんて言ったのは久しぶりだ。高校の時以来だよ」
「それは、なぜですか?」
 返事に困った。私は、改めて自分が孤独だった事を知る。
「さあ、急いで食べて出掛けるよ」
 そう言って、私は昼食の用意をして質問から逃れた。

 シチューの鍋を温めながら、私は母の事を思い出していた。
 私は母子家庭に一人っ子として育った。母は苦労して私を札幌の大学に行かせ、そして卒業させた年に癌で亡くなった。まだ、45才だったのに。これから親孝行をしようとしていたのに。行って見たいと言う場所へまだ連れて行ってないのに。母は半年の闘病の末逝った。だから、私には家族はいない。孤独なのだ。
 だからかも知れない。彼女、ブロンズ像『春』に心奪われたのは。母を亡くした私は、心の隙間を埋める為に彼女をめでていたのかも知れない。そして……、これからは人間になった彼女と、お互いの孤独を埋めていく? 何を大それた事を。
 その考えを否定してシチューをコンロからおろした。

 昼食の後、私達は彼女の服を買うために連れだって家を出た。いつまでも、私の服はおろか下着まで着せているのは、さすがに拙いと思って。


 家の近くのバス停からバスに乗って、デパートの最寄りのバス停で下りた。初めてのバスに、彼女は緊張と感動をしていた。私は、それを微笑ましく見ていた。
 その途中、幣舞橋でブロンズ像『春』がいた場所には、警察が2−3人来ていて何やら騒いでいた。私達はお互いに顔を見合わせて、私は必死で笑いを堪えた。彼女は困った顔をした。

 それにしても、彼女の顔はそっくりそのままブロンズ像だ。それに誰も気づきはしないのは、彼女の髪型のせいかも知れない。前髪を下ろして後ろを真っ直ぐ伸ばした髪型は、私でも見間違えるほどだ。女性の髪型に、どことなく不思議な世界を感じずにはいられなかった。


 足元の氷を気にしながら目的のデパートに着いた。私は、店員さんにお願いして、彼女に似合う服を数点見繕って貰うように頼んだ。
 小一時間経って、店員さんに呼ばれて行って見たら……。そこには優等生の高校生、いや、女子大生がいた。店員さんは彼女のキリットした口元と目に、これを想像したのだろう。彼女は、笑顔で鏡の中の自分に見入って、満足げな顔をしていた。

 きっと、彼女にとっては初めての洋服だろう。彼女は、その誰もが振り向く自分の姿を鏡で見て、これから人間として生きていくんだと言う心構えと決意をした事だろう。これから何が起こるか分からないが、強く生きて行ってほしいと思った。私も、彼女の余りにも似合う服装に胸の高鳴りを感じつつも、彼女が人間として生きる事を助けて行こうと思った。

 そして私達は、店員さんに感謝して店を後にした。


 買い物袋を下げて通りを歩いていると、ふと薄氷で彼女が転ばないかと心配した。恐るおそる手を差し伸べると、彼女は喜んで手を繋いでくれた。
「やっと、手を繋いでくれたのね。嬉しい」
 そう言って彼女は微笑んで涙ぐんだ。
 ――彼女はずっと待っていたのだ。私が差し伸べる手を。ここに私を必要としてくれる人がいる。
 彼女の手の温もりに、私も目に涙がにじんだ。


 その後、私達は、ちょっとオシャレなレストランで楽しい夕食を摂った。あらかじめ、私のまねをして、と言っておいたので、食事は無難に出来た。
 バス、買い物、そして外食。今日は初めての事ばかりで、彼女は四苦八苦していたが、とても楽しそうだった。私は、それをハラハラドキドキしながら、時に苦笑しながら見ていた。
 この分なら、彼女はきっと思ったより早く、人間の生活に馴染むだろう。そう考え、私は胸を撫で下ろすのだった。


 街灯が優しく道を照らす頃、家に辿り着き彼女にコーヒーを入れて貰って幸せを感じていた時、不意に言葉が出てしまった。
「そう言えば、」
 ここまで言って、しまった、と思った。果たして彼女に聞いて良い物かと。
 それを感じ取った彼女は、凛とした口調で言った。
「何か質問があるなら仰って下さい。私は平気ですので」
 その言葉に促され、私は質問を口にした。
「君は、一体いつから意識があるの?」
 まず、一番気になっていた事から聞いた。

「私が……」
 彼女の話を要約するとこうだ。

私が意識を持ったのはブロンズ像が完成した時。
なぜブロンズ像に私の魂が宿ったのかは分からない。
そして、舟越さんや橋の上を行き交う人々から言葉や行動を学んだ。
ある日、あなたが私に好意を持っている事が分かり嬉しかった。
そして昨日、私を心を込めて優しく洗ってくれた。
すると突然、私の身体は人間になり、あなたの事をつかんでいた。
これから事は分からない。

 どうやら、私の推察は当たっていたらしい。
 それにしても、当時65才だった作者『舟越保武』(ふなこし やすたけ)氏の思い入れは凄まじい。像に魂を呼び込んだのだから。
 もしかしたら、病気か何かで亡くなった昔の恋人を掘ったのかもしれない。それに、神様が間違って亡くなった恋人の魂を転生させたのか? そうすると、彼女は亡くなった舟越保武氏の恋人の生まれ変わりと言う事に。それを知ったら彼女はどうなるのか……。
 そこまで考えて、彼女が私の元から去ってしまうようで、急に怖くなった。いつから意識があるか等と、聞かなければ良かったと後悔した。

 私は、話をそらす為にも、今の彼女の気持ちを聞いた。
「ねえ、君。もしかして君は、私の事が好きで人間になったの?」
「はい、そうです。そして、神様も私を人間にして下さったのだから、私達の出会いは神のお導きなのです」
「ちょっと待ってよ。いきなり神って。一体何から知ったの?」
「それは、私の作者『舟越保武』さんから。彼は、熱心なクリスチャンでした」
「やっぱり」
「何が、やっぱりですか?」
 彼女は眉を上げて私に聞く。
「君の意識の根底には『舟越保武』氏が大きい。だから、君の考え方や性格は『舟越保武』氏そのものなんだ」
 そう言うと、彼女はちょっと怒った顔をした。
 だが私は、彼女が舟越氏の性格を受け継いでいる事を印象付ける為にそう言った。決して転生などと言って、前の記憶を思い出させないように。
「それが悪い事なんですか?」
「いや。君を形成している人間性は、はっきり言って素晴らしい」
「ありがとうございます……」
 そう言ったが、彼女の表情は冴えない。きっと自分を他人に乗っ取られた気分なのだろう。
 ――彼女が、舟越氏の性格を受け継いでいると言う事を、少し強く言い過ぎたか。
 私は、彼女を元気づける為に、今の私の気持ちを告白した。
「君は、誠実で、賢く、品が有って、私の理想の人だ。私は好きだよ、君が」
 そう私が言うや否や、彼女は抱き付いて来た。
「ねえ、やっぱり神のお導きだわ」
「ちょっと待って。君はなぜ私を好きになったの?」
 自分に自信の無い私は、一番気になる事をここで聞いた。
「それは、あなたの目。あなたの眼差しは、誠実で、優しく、いつも私を暖かく包んでくれる。言わばオアシスのような存在なのです」
「ありがとう。でも見掛け倒しかもしれないよ?」
「良いんです。そう思っているだけで幸せなんです。それに、あなたにはそれを目指してもらいますから。だから良いんです」

 そう言って彼女は私の唇を求めた。私はそれに答えた。そして、二人はベッドへ潜り込んだ。

 彼女を抱いていて私は思う。孤独な私と彼女が、新たな家族になる事。それが神の定めた運命ならば、私はこれに従おうと。


  ◆
 朝起きると、彼女の寝顔が横にある。すやすやと、音がしそうな寝顔だ。
 私は、そっとベッドから出て洗顔もそこそこに、上機嫌で朝食の用意をする。そして、腕によりを掛けたパンを使った朝食を作った。それは、私と彼女の新しい門出を祝う私の、ちょっとした儀式だった。

 このパンが彼女のエネルギーに成り、このミルクが彼女の血と成り、このベーコンが彼女の骨て成り、このサラダが彼女の身体を瑞々しく保って、そして彼女は新しく生きるのだ。この世界にしっかりと両足を着けて。

 太陽がようやく顔を出す頃、寝室のカーテンを開け、彼女の肩を揺り起こした。
「おはよう」
「うーーん。おはようございます、雪彦さん」
 彼女は大きな伸びをして、ニッコリ微笑みながら、私の事を名前で呼んだ。
「さあ、起きて。朝食が出来てますよ、お嬢さん」
「すみません、本当は私が作らなくっちゃいけないのに。昼食は作り方を教えてください。私が作りますから」
「ありがとう。それじゃ次はお願いね。まずは顔を洗って朝食にしよう」
「はい!」
 彼女は、そう言って元気にベッドから起き上がり、身支度をて顔を洗った。そして私達は、彼女の門出ために作った、サックサックのパンとミルクたっぷりのコーヒーを美味しく頂いた。そう、私の呪文たっぷりの朝食を。

 二人で仲良く朝食を片付けた後、私は机の上のノートパソコンのモニターと睨めっこしている。彼女の戸籍を手に入れる為だ。
 調べてみると、彼女の事情を知られずに戸籍を手に入れるには、誰かに親になって貰って出生届を出して貰うのが、一番リスクが無い方法のようだ。

 ――でも、一体誰に頼む?
 そこで、行き詰ってしまって頭を抱えた。
「ねえ、雪彦さん。何を調べているの?」
 彼女が心配そうに私を見ている。
「いや、君の戸籍を手に入れたいんだが、良い親がいないんだ」
「戸籍って何ですか?」
「それはねー……」

 戸籍とは、家族単位で国民を登録する物で、それは役所に保管される。これは、無くても大概の事は出来るが、結婚するの時の戸籍作成で、色々詮索されるが怖い。だから、彼女の素性がバレ無いようにするには、戸籍がどうしても必要なのだ。

 私は坦々とこう説明したが、彼女は結婚の言葉に敏感に反応した。
「結婚!」
 彼女はそう叫ぶと、いきなり私に抱き付いて来た。
「……ああ、そうだよ。君と結婚するために戸籍が必要なんだ」
 ――しまった。つい、うっかり口が滑った。本当は戸籍が作成出来たら結婚の申し込みをするはずだったのに。調べ物をしてると直ぐこれだ。
 自分の失言にうんざりしていると突然閃いた。
「そうだ! 一太郎おじさんだ! おじさんならきっと話を聞いてくれる!」
「一太郎おじさん?」
「そう、私の母の弟だ。早速電話してみよう。……念の為に明日二人で遊びに行くとだけ伝えるよ」
 そう言って、私は携帯電話を掛けた。

 新井一太郎おじさんに電話を掛け終って時計を見ると、もう昼前だった。
「よし、それじゃ一緒に昼飯を作ろうか」
「はい、よろしくお願いします」
 私がさっき言った「結婚」の言葉で、春の顔がまだ火照っている。私は、エプロンを上機嫌の彼女に着せ、調理に取り掛かった。

 昼は朝溶かして置いたサンマを調理した。
 まず、フライパンに薄めに油を引き、あらかじめ内臓を取ったサンマを中温で炒める。その間に、大根の皮を剥いて摩り下ろす。そしてフライパンのサンマが焼けたら皿に移し、大根オロシを乗せ醤油を掛ける。
「どう、簡単だろ?」
「ええ、思ったよりも」
 彼女は真剣な眼差しで続けて調理をした。
 ――彼女が焼き過ぎたサンマは私が頂こう。でも筋は良い。この分だったら結婚しても大丈夫だろう。

「頂きます」
「頂きます」
 初めての箸だ。でも、私の使い方を真似て、何とか使えるようになった。
 彼女は、まず味噌汁を一口飲み、早速サンマにかぶり付き満面の笑みを作った。
「美味しい!」
「それは良かった……」
 私は、複雑な顔でそう言った。なぜなら私は、彼女が焼き過ぎたサンマを食べている。ニガい。
「人間になれて良かった。毎日こんなに美味し物が食べられるなんて幸せです」
 言ってる間も箸が止まらない。私はそれを呆気に取られて見てた。
「……明日の晩ご飯はもっと良い物を出すから、期待して置いて」
「はい!」
 彼女はわきめも振らずに、サンマを二匹もペロリと平らげた。
「ごちそうさまでした」
 彼女は満足したようにお腹を撫でた。

 私は、彼女にたくさんの美味しい物を食べて貰いたかった。そう、この40年彼女が味わえなかった物を。きっと彼女は知らないだろう。世の中にはたくさんの食材が有って、それを調理する事で匂いとうま味が増す事を。それを私の出来る範囲で教えたかった。
 他の人は、それじゃレストランで食事を摂ればいいだろう、と言うだろう。だが私は、自分で出来る範囲で、素材の味を出来るだけ生かして、さまざまな料理を食べて貰いたかった。
 食べる事。それは生きる事、そして自分の生き方を左右するものだと私は思う。

 昼食も終わりテレビを見て団らんしていた。ふと、彼女がテレビのテロップが読めるかが気になった。
「ところで、君は文字は読めるの?」
「余り読めません。ぜひ、教えて下さい」
「分かった。早速国語の教科書を買いに行こうか」
「ありがとうございます。やっぱり、人が出来る事は全部出来ないと、いい気はしませんものね」
 ――おや、負けず嫌いなとこがある。でも、向上心と捉えるとこれも又嬉しい事だ。
 私達は早速国語の教科書を買いに出かけた。


 近くのわりと小さな本屋の扉を開けた。すると、彼女は目を輝かせ陳列していた書籍を手に取った。
「どうだい。ここには小さな本屋だけど、教科書も置いてあるんだ。さあ、こっちだよ」
 国語の教科書を一揃えしてレジに向かう途中、ファッション雑誌が彼女の目に止まった。食い入るように見てる。私はそれも買い物カゴに入れた。
 レジを終えお店を出ると、彼女は嬉しそうに
「ありがとございます」
と言って頭を下げた。
「どういたしまして、お嬢様」
 私はおどけてそう言った。そして、私達は手を繋ぎ横断歩道を渡った。

 私は嬉しかった。彼女が普通の人間に出来る事を補おうとするのが。彼女は、これからたくさんの事を学んで、たくさんの喜びを知って、たくさんの感動を知るだろう。
 しかし、世の中には苦しみや悲しみ、それに人に騙される事もあるだろう。きっと、人はそれを避けては生きられない。それが人間の宿命なのだ。
 きっと彼女は人間になって喜んだろう。だが、それが間違いだったと思う日が来ない事を、私は祈るだけしかできない。私は神じゃなくて、只の人間だから。

 家に帰ると、彼女は嬉しそうに早速教科書を袋から出した。しかし、かな文字が読めないで困っている。私は、彼女に「あいうえお」から読んで聞かせた。それからは一人集中して勉強をした。
 晩ご飯の仕度の時間になったが、彼女はそれに気付かずに勉強を続けていたので、私が一人で晩ご飯の仕度をした。

「ごめんなさいね。気が付かなくって」
 彼女は、夕飯の支度を手伝うのを忘れた事に、眉を下げて落ち込んでいた。
「良いんだよ。君は勉強に集中してたからね。私は嬉しいよ。君がどんどん知識を吸収してお利口さんになるのが」
 そう言うと、彼女はようやく笑顔になり箸を取った。

 その晩、彼女は寝るまで集中して勉強を続けた。

 この分だと、直ぐに読み書きが出来るようになるだろう。そうしたら、彼女に私のお気に入りの小説を読んでもらおう。楽しい話ばかりの。


  ◆
 翌朝彼女は生きいきしてる。新しく入って来た知識に頭が刺激されて、ベールが一枚剥ぎ取られた気分なのだろう。私は、彼女が更に美しくなったように見えた。
 私達は、二人で朝食の準備をして楽しく頂いた。


 家を出る際空を見上げると、気になっていた天候は冬の釧路には珍しく晴れだった。
 私達は、朝から四駆のちょっと古い車に乗り、前日に電話をした新井一太郎おじさんの家を目指した。

 一太郎おじさんは私の唯一の親戚、亡くなった母の弟だ。年は40でバツ1の独身。珍しい話が大好きで、他人の言葉なんて気にしない、そして何よりも口が堅いナイス・ガイだ。
 家は浜中町にあり、一太郎おじさんは琵琶瀬湾を見下ろせる高台に住んでいる。そこでカキの養殖を営んでいる。東日本大震災の時はかなり被害を被ったらしいが、今は復興して前のように海のミルクを量産している。今日はそのカキもご馳走してくれるだろう。私は、思い出して生唾をお飲み込んだ。

 安全運転で、一太郎おじさんの家に向かう長い道中、気が付いた。まだ、彼女の名前を決めていなかった事に。出生届を頼みに行くのに名前を決めていないなんて。とんだ間抜けだ。
「すまない。君の名前をどうするかまだ決めていなかった。何にする?」
 彼女は、ちょっと悩んだ顔で言った。
「そのまま『春』じゃ駄目ですか?」
「『新井春』ね。うーーん、ちょっと語呂が悪いが、『春』が気に入っていたら良いじゃないかな。私もその方がしっくりくる」
 やはり彼女は『春』が似合う。

 亡くなった母も、この名前はきっと気にってくれるだろう。年明けに一度、母の墓へ二人で報告に行こう、そう思った。


 家を出発してからおよそ1時間後、新井一太郎おじさんの家にようやく着いた。
 一太郎おじさんは冬の間も養殖の仕事で忙しいが、今日は私の為に時間をさいてくれた。
 ピンポーン。
「今日はー。雪彦でーす」
 ドタドタと足を鳴らし、一太郎おじさんが玄関へ来た。
「いやー、良く来たねー。待ってたよ。で、その子が雪彦の彼女? 可愛いねー、名前は?」
「春です。どうぞよろしく」
「そう、春か。良い名前だね。あははは」
 春はハニカミながら挨拶して、一太郎おじさんは上機嫌に笑った。
「一太郎おじさんも元気そうで何よりです。これ、つまらない物ですが」
 私はそう言って、むき出しの名酒『ご機嫌酒』を差し出した。
「いやー済まないねえ。高かっただろう? 大事に飲むよ。ありがとう」

 新井一太郎おじさんは、春がお茶を炒れるのを暖かい目で見てる。どうやら、第一印象は良かったらしい。私、新井雪彦は早速本題へ入る事にした。
「一太郎おじさん、実はその子の事でお願いがあるんです」

 一太郎おじさんは、私の話を最後まで黙って聞いた。そして、春に近づき四方から食い入るように見た。
「うん、どこから見ても人間だ」
 そして、私の差し出した写真を一目見た一太郎おじさんは、急に大きな声で笑い出した。
「ぶはははは。無いよ! ブロンズ像が台座だけ残して無いよ。いやー見事! 良くやった!」
 一太郎おじさんは、驚きと興奮をない交ぜにして春に握手を求めた。春はちょっと照れている。

 ようやく、一太郎おじさんが落ち着きを取り戻し、ソファーに腰かけた。
「それで、この子の戸籍を手に入れるには、俺が子供の出生届けを出していなかったが、ようやく改心して出生届けを出す、って事にするのが一番安全な方法なんだな?」

 一太郎おじさんは、しばらく下を向いて考えていたが、ようやく答えを出した。
「うん、良いだろう。それでお嬢ちゃんが救われるなら。俺の経歴に傷が付いたって、それは小さい事だ。よし、唯一の親戚の頼みだ。任せろ」
 そう言って、一太郎おじさんは承知てくれた。
「ありがとうございます」
 私と春はおじさんに深く感謝した。春は、これで人間の温かみが分って感動している。
 ――そう、人間って良いもんだよ。

 春にはもっと、人間の心の暖かさや、感動を知って貰いたいと、私は思った。
 それに、もしも私が不慮の事故などで死んだら、一太郎おじさんを頼って貰いたいと思った。その為にも私は、一太郎おじさんに全てを打ち明ける事を決心をしたのだった。それだけ信頼している人だった。

 そして、昼になり、一太郎おじさんの出してくれたカキを美味しく頂いた。久しぶりに食べたカキは思いの外美味しくて、私達はカキのお土産も頂いた。
 その後、他愛もない事を皆で話し笑い合い、一太郎おじさんに再度出生届けをお願いして家路に着いた。届け出の時は一太郎おじさんと春が役所に行かなければならない。その約束もした。


 帰りの車の中。
「よかったね、春」
「うん、これで結婚できるね私達」
 目が夢見る少女のようになっている。
 ――戸籍の事は一太郎おじさんに頼んだし。指輪が無いけど仕方がない。今プロポーズをしよう。緊張する。
 車をパーキングエリアに止めた。
「春」
「はい、雪彦さん」
 春は、私の緊張した声に、敏感に何か感じたようだ。
「私と、け、け、結婚してください!」
「はい、喜んで!」
 春は、涙を滲ませ感激した。
 それから長い時間二人は抱き合いキスをした。

 こんな短い期間で結婚を決めるなんて、と人は言うだろう。しかし、彼女がブロンズ像だった頃から数えると、もう4年もお互いを見つめ合っていたことになる。だから、短いと言う事は無い。
 それに、私には強い見方が付いている。それは、神だ。私はクリスチャンでは無いが神の存在だけは信じよう。だって、その証拠が、今、私の手の中に有るのだから。


 再び車を走らせた。
 私は、新井一太郎おじさんが泥を被ってくれた事に感激して言った。
「それにしても、一太郎おじさんは凄い人だな。私だったら、躊躇(ちゅうちょ)してしまう。やっぱり、底抜けに心の広い人だな」
「うん、一太郎おじさんて本当に良い人だねー。なぜ、おじさんにお嫁さんがいないのか不思議だわ。ねえ、誰か紹介してあげて、おねがい」
「ふふふ、実は密かに計画しているんだ。一太郎おじさんの嫁獲得作戦」

 私は、学校の35才の古文の高校教師の女史に、それとはなしに話てきた。一太郎おじさんの事は、とても好奇心旺盛で、それでいて温かみがある男だと。その話に怪奇現象好きの女史が飛びつかない分けは無い。きっと良い縁になるだろう。

 春はニコニコして言った。
「やっぱり、あなたは優しい人だわ。私の目が確かだって事を証明してくれる」
 私達は、車を止めて、今日二度目の長いキスをした。

 私は、春の期待を裏切らない人間であろうと思った。誠実で優しく心暖かい事。どれだけ自分がそれに近づけるかは分からないが、春も人間になる事に努力している様に、私も努力をしなくてはならない。そう思った。


 キスやら求婚やらで大分遅れたが、新井一太郎おじさんにさよならをして2時間後、ようやく家に辿り着いた。
 春はコーヒーを炒れてくれて、私はテレビを見て寛いで、春は国語の教科書を出して勉強を始めた。春は何も言わなかったが、テレビが煩いだろうと思い、私はテレビを消して小説を読み始めた。
 そう言えば、学校で作成中の彫刻、あれを家でやりかったがスペースが無くて断念していた。春と結婚するわけだし、この際もっと広い所へ引っ越したいと思った。

 ネットで安いアパートを探していると、時間があっという間に流れた。もうそろそろ、晩ご飯の準備をしなくては。
 今日はメニューはパスタ。私は、鍋にお湯を入れるところから教え始めた。

 調理が始まって30分。ようやく花咲ガニのクリームパスタの完成だ。レタスとトマトのサラダも美味しそうだ。
 私達は、仲良く頂きますと言った。
「どうだい、味は?」
「ぱく、もぐもぐもぐもぐ、ん! ごっくん。カニさんが本当に美味しいですー!」
 春は、目を丸くして言った。
 しかし、直ぐに声を落として。
「でも、美味しすぎます……。人間って欲張りですね」
「そうだね。花咲ガニは特別美味しいからね。それにしても、その『人間って』言うのはもう止めよう。春も人間に成ったんだから」
「すみません。癖が出てしまって。もう言うのを止めます」
「それにしても……、春はもう立派な人間なんだな。この前までブロンズ像だったのに」
「そうです。私は人間です。だから、あなたと愛し合える。……幸せです。ありがとうございます」
 春は、満足そうに微笑んだ。
「こちらこそ。春が来てからこの家は明るくなったよ。そして、一番幸せなのは私だ。こんな、誠実で、賢く、品が有って、そしてエッチな春は、私の理想の人だ」
「あっ! この前よりも一つ増えている! もう!」
「あはははは」

 ひとしきり笑った後で、私は何気なく春に年齢を聞いた。
「ところで、春は何才だい?」
「えーっと、像が創られたのは1977年で今年は2016年だから……39才ですね」
「いや、そうじゃなくて、春を一体何才と想定して創ったかだ」
「多分……、20才だと思います。舟越さんが見ていた写真にそう書いてありましたから」
 ――そうか、やはり彼は恋人を思って創ったのかもしれない。
「……その写真に他に何か書いてなかった?」
「そう言えば『没』って書いてありました。何と読むんですか?」
 春は、鉛筆を引っ張り出し紙に『没』と書いた。
「……この文字は死んだ事を意味する」
 ――しまった! 私は、なぜこんな事を言ってしまったんだ!
「ええっ!」
 ――ああ、春はあの事に気付いたかもしれない。
 私の背筋は冷たくなった。

 春は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「それじゃ、私は舟越保武さんの亡くなった恋人を掘った像だったんですね」
 そして長い沈黙後
「もしかしたら、私はその人の生まれ変わりかも知れない」
 ――ああ、春はとうとう気付いてしまった。春が舟越氏の亡くなった恋人から転生したかも知れないと言う事を。
 その重い空気を振り払うように、私は強い口調で言った。
「そうだとして、春には何が出来る? まさか、舟越保武氏に会いに行くとでも言うのかい? 舟越氏は2002年に亡くなっているんだ」
「舟越さん事、調べたんですね」
「それは、春が人間になるずっと以前に調べたんだ」
「そうですか……」

 まずい。春は舟越氏の墓に行くつもりだ。何が起こるか分からない、何も起こらないかも知れない。問題は、生まれる前の記憶が戻ってしまう恐れだ。自分を舟越氏の亡くなった恋人の生まれ代わりかも知れないと知った今、それはあり得る。

 私は、胸騒ぎがして、春を止めた。
「舟越氏の墓に行っちゃ駄目だからね。場所も分からないし。とにかく、反対だ!」
 私は、きつくそう言って、まだ食べかけの皿を流しに出した。
 食欲なんてもう無い。

 生まれる前の記憶、舟越氏と愛し合った頃の記憶。私はその記憶を取り戻した春を愛せるか、不安だった。
 いや違う。春がもう私を愛せない事が不安なんだ。そして、春が私の前から消えてしまう事が不安なんだ。

 私は、にがいツバを飲み込んだ。

 その晩、私は春を抱いた。舟越氏の記憶を断ち切るように、激しく精一杯強く抱いた。


  ◆
 次の日の朝、目覚めると春はもういなかった。
 そして、テーブルの上には私の財布と一枚の紙切れが。そこには、綺麗にな文字で「お借りします 春」と書かれてあった。
 ――綺麗な文字に漢字……。
 多分、彼女は生まれる前の記憶が戻ってしまったのだろう。そして、舟越氏の墓に会いに行ったのだろ。

 私は舟越氏の墓の場所を調べる事もせずに、ただ家で春の帰りを絶望的な気持ちで待った。


 今日一日、春は帰って来なかった。
 独りになって、改めて孤独がこんなに辛い物だ知った。
 無駄になった国語の教科書の表紙が、虚しく光っていた。


  ◆


 帰って来た! 春が帰って来た!
 時計を見ると、夜の8時。
 私は何も聞かずに、ただ熱いコーヒーを炒れた。春はコーヒーカップを両手で持って、ゆっくり飲み干した。そして、私の前に座って話始めた。


ごめんなさい。二日も留守にして。
あれから記憶を辿って舟越さんの家に行ったの。
ええ、きっと生まれる前の記憶が戻ったのね。
舟越さんは家はもう取り壊しになってて、新しい家に違う表札が掛かっていたわ。
それで私は兄を尋ねて行ってみたの。兄は今年90でまだ健在だったわ。
兄に聞いて見ると、墓は港の見える丘公園にあって、行ってみると綺麗に手入れされてた。
きっと、ご子息がやってくれのね。

私は二日間、舟越さんと話をしたの。
ごめんね、今まで一人にして。
これからは、あなたの側にいますって言ったの。
そうしたら、何が起こったと思う?

突然、ハトが飛んだの。
それも、沢山。全部で100羽はいたわ。
私は空を見上げて手をかざしたの。

そして、足元を見ると手紙が有ったの。
古い手紙よ。
手紙を開くと、そこには彼、舟越保武の名で書かれてあったの。


『すまない。僕はもう行くよ。君は新しい出会いをしてくれ。
我が『春』。君の幸せを祈っている。
舟越保武』


 その手紙を私に見せて、春は涙を流した。


 こんな事があるのか? 舟越氏は知っていたんだ。ブロンズ像に亡き恋人の魂が宿った事を。
 そして、亡くなるまでずっと君、ブロンズ『春』が人間になる日を待っていたんだ。
 しかし、月日は過ぎ、亡くなる前に舟越氏はメッセージを残した。
『君の幸せを祈ってる』
 この、神が手を貸したとしか思えない春への手紙の配達。


 こんな深い愛があるのだろうか?
 私は絶句した。と、当時に出来すぎた物語のストーリーのようで、少し微笑んだ。
 奇跡? そうかもしれない。でも、それを起こしたのは人間の深い愛だ。

 そして、この場を借りて言いたい。


舟越保武氏へ
春を返してくれて、ありがとうございます。


 舟越氏に深く感謝して、私は春に歩み寄り抱きしめた。春が泣き止むまでずっと抱きしめた。


  ◆
 あの日から、私と春はまた一緒に住んでいる。何事も無かったように。
 それから、新井一太郎おじさんはしっかり役目を果たし、春は無事戸籍を手に入れた。これで私達の結婚が滞りなく出来る。
 そして、おじさんは35才の高校教師の女史と目出度く結婚した。これで、少しは恩返し出来たかも知れない。

 後日、私と春の結婚式は札幌の羊ケ丘公園で行った。やっぱり奇跡が起こり、なぜか沢山のハトが飛んで来て、私達は神に祝福された。
 そして今、春のお腹には子供が宿っている。生まれるのは、まだ大分先だが、私は女の子が欲しいと言い、春は男の子が欲しいと言う。でも、どちらでも元気な子さえ生まれたなら、私は満足だ。


 最後に。
 私はもう像は創らない。もう、奇跡は十分だから……。


(終わり)

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