20160412-転生 クラクションの音。バスのブレーキの排出音。バイクのいかれた空ぶかし。横断歩道ののどかな電子音。そして、人の騒めき。 つむった目を開けると、目に前に大きな電子掲示板が見えた。サラ金の宣伝をしてた。あたかも、お得ですよと言っているような、そんなCM。 わたしは、この世の事が全部虚像だと気付く。本当の事なんて何も無い。けれど、自分に一番嘘を付いているのは、この自分自信だ。そう思うと、スクランブル交差点の前で足が止まった。どうしても、前に進まなかった。 きっと今渡っている人はみな、目的を持ってどこかに向かっているんだ。けれど、わたしは……。 わたしは、交差点の前で渡るのを止めた。なんだか、無意味に思えて。 誰かが、わたしの背中にぶつかってきた。それを合図のように、わたしはスカートの裾をひるがえし、踵を返した。 すでに交差点を渡り始めた高校の女友達は、驚いて声を上げる。 「なに?」 「瞳ー。どうしたの?」 わたしは、その声を無視して、急ぎ足で地下鉄の駅を目指した。 カラオケなんかで、この気持ちは晴れない。勉強していても、ゲームをしていても、映画館で洋画を見ても、体育の時間に思いっきり走っても、お買い物をして着飾っても、スマホを買って貰っても、わたしの気持ちは晴れなかった。 あの人に会いたい。ただ、それだけが、わたしのこころをしめていた。だけど、どこにいるのか、どんな顔をしているか、そして名前さえも知らない。 前世の名前は、源順と書いて、みなもとの―したごう。それだけだ。知っているのは……。 あの日、わたしは居間で両親と一緒にテレビを見てた。いつものコーヒーでいつものお菓子を食べていた。妹だけが二階で真面目に受験勉強をしてた。 その時やっていた番組は『不思議な体験談』。再現ドラマがある、ちょっとわざとらしい番組で、○○リが司会をしてた。今日は、輪廻転生をした少女の話だ。わたし達は、わりと真剣に見入った。 少女はある日突然、前世の記憶がよみがえる。それは、前世で悔いが強く残っていたため。 二人は魂に導かれて出会う。 そして、他のことは全て捨てて、二人は愛し合う。 そんな荒唐無稽な話だった。ああ、面白かったと言ってお休みを言った。別段変わったことなど無く、ベッドに付いた。だが、翌日わたしは夢を見た。 ……ごう様、したごう様、したごう様、「したごう様ー! はあ、はあ、はあ、はあ」 目を覚ますと、両手が中空をさまよっていた。天井が涙でにじんでる。わたしは、頭を上げて涙をぬぐった。 激しい呼吸と鼓動が身体の異常を訴えていた。だが、どこも痛い所は無く、苦しい事も無かったので様子を見ていた。しばらくすると、次第に呼吸は穏やかになり鼓動も聞こえなくなって、いつもの心拍数に落ち着いて来た。ほっとして横になる。頭の上のスマホは起きるにはまだ大分早い時刻を映していた。わたしは、もうひと眠りしようと布団を被った。 だが、眠れない。頭が妙に冴えて。さっき見た夢の事を考えている。確かしたごうとか言ってたような。誰の事か思い出そうとしても頭に浮かんでこない。ただ、妙に懐かしさを感じるだけ。こころが穏やかになる。それは今まで味わった事のない甘い記憶……。記憶? 変だ。そんな経験がある分けない。誰かと愛を確かめたなどと。何かの錯覚だ。したごうと言う人とそんな事をしたなんて……。 さっきから頭に浮かぶ人。したごう。この人は一体誰なのか? 思い出そうとするがもう少しの所で出てこない。学校の人ではないし、近所の人でもない。幼馴染ではないかと思うが、それなら愛を確かめたことが不自然だ。いくら考えても分からなかった。記憶のカギを無くしたように。 わたしは思い出そうとする事から、なかなか抜け出せずに記憶の迷路をさまよっていた。仕方なく二段ベッドを降りて床をそっと踏む。大丈夫、妹の結花は眠ったままだ。机に腰かけノートパソコンを開く。液晶がまぶしくて一瞬冷やりとする。だが、妹は枕を抱いてぐっすり寝ている。わたしはほっとしてキーを叩いた。したごうと。 直ぐにヒットした。けれど、随分昔の人みたいでそれ以外は見当たらなかった。仕方なくそのページを開いた。 源順と書いて『みなもとの―したごう』と呼ぶ。平安時代911年生まれ983年没。 千年も前の人なのか。多分違う。でも、もう少し読んでみよう。 嵯峨天皇の子供が臣籍降下した嵯峨源氏の一族。学者、歌人、貴族。三十六歌仙の一人……。 和歌の名人のようね。なかなか凄い人。 『うつほ物語』『落窪物語』『竹取物語』の作者だと思われる。 ……。 ドックン。 心臓が大きく鼓動した。竹取物語。この言葉にわたしの心臓は、確かに反応した。 かぐや姫……。かぐや、かぐや、かや? そう! わたしの名前は香耶(かや)! そう呼ばれていた。 きっと、来世で再び相まみえましょうぞ……。そう言って別れた。したごう様と……。 わたしは、放心状態になりしばらく動けなかった。どうやら、わたしは平安時代から輪廻転生したらしい。しかも、わたしの名は香耶。竹取物語のかぐや姫のようだ。 それが本当にそうなのか、またあの物語と同じく無理難題を出して男性を困らせたのかは分からない。そして、月に帰って行く事も。にわかには、信じられなかった。 ただ、わたしの名前は香耶。そのことを明確に覚えていた。そして、目をつむると竹林が浮かんできた。わたしのこころは、いつしか遠い平安時代をさまよった。 月明かりの中、わたしとしたごう様は引き裂かれる。父の手によって。 涙ながらに、わたしは叫ぶ。来世で、再び相まみえましょうぞ、と。 そして、手が離れ、わたしは涙にくれる。 「したごう様ー!」 虚しく声だけが響いた。 その時、わたしはあの満月に願う。 きっといつの日にか、この月が再び満ちた時、二人はきっと再開するだろう、と。 すると涙が出た。急に切ないような気持ちになりどうしようも無くなった。いくらぬぐっても涙は流れ続けた。パジャマの胸が涙で濡れるほどに。なぜ、こんなに涙が出るんだろう。もしかしたら、このわたしの頭に浮かんだ事は現実に起こった事なのかも知れない。竹取物語は現実には悲しい話で、本当は引き裂かれて、生まれかわって来世で会う約束をしたとしたら……。 わたしは、さっき浮かんだ名前、したごうという人の事を考えた。なぜ、この名前が愛しのか。なぜ、この人を思うとこんなにもこころが切ないのか。分からない。けれど、確かに感じる。香耶の生まれかわりのわたしが、したごう様を強く求めている。輪廻転生した理由はその事だったのだろう。それで、納得がいく。わたしは、何度もしたごうとこころの中で繰り返し呼んだ。 けれど、もしその人に会ったら愛せるか。それが分からない。いくら千年前に約束したからって、今その人が現れても愛せる自信がない。でも、どうしても会いたい。それは、切ないほどに。 だが、どこにいるのだろう? そして今の名前はなんと言うのだろう? それが分からない。まさか一人ひとりに聞くわけにもいかず、新聞に探し人で出すわけにもいかない。それやってしまうと、世の中に輪廻転生をしたとあからさまに知らせる事になる。それがどんな状況を生み出すのか考えただけでも恐ろしい。きっと、マスコミや研究機関の餌食になるだろう。わたしには出来ない。 わたしは、程なく降参した。 もし、これがテレビの番組のような話なら、巡り合えるかも知れない。そう思いわたしは、運命に身を任せる事にした。たとえ逢えないとしても、それが運命だ。その時は、あきらめよう。 ……いや、きっといつまでも、歳をとっても忘れないだろう。いつの間にか、そう思うほど、深くこころに刻まれていた。 この事は誰にも話していない。余りにも出来すぎていて。誰も信じないだろう。 もし、こんな事を言えば友達は、わたしを小馬鹿にするに決まってる。不思議ちゃんだって。仲のいい友達だってきっとそうだ。裏で悪口を言われるに決まっている。そんな事耐えられない。 でも、わたしだっていい加減うんざりしてた。面白くもない化粧品やファッションの話。それに男の値踏み。そんな話ばかり。 もう付いて行けない。今までありがとうね。さよなら。友達ABC! でも、カラオケに行く途中で帰って来たのは、さすがにやり過ぎたと思った。後で、頭を下げて謝った。 両親にも話していない。もちろん、妹にも。それは、精神科に行けと言われるの怖いから。 それに、無駄に心配されるが嫌だ。一応は大事な家族だ。ましてや、泣かれるのはもっと嫌だ。 「おーい。あなたの娘さんは前世の記憶があるなんて言ってますよ」 その言葉を大きな木の穴に言った。そんな訳はないか……。 その日から、わたしは本を読み始めた。 他の人は、文学少女ぶっちゃって、と言う。でも、そんな事が気にならないほど、わたしは本に熱中した。なぜだか、文字がわたしを呼んでいるようで。 それは、前世の記憶のせいかも知れない。とにかく、無性に文字が読みたかった。本を読んでいる時、わたしにこころは不思議と落ち着いた。そして、何も耳に入ってこない位、わたしは集中した。 まれに、旧かなづかいの本を見かける。でも、なんとなく読めた。わたしの頭は、今前世の記憶と現世の記憶が重なっているんだ。それは、無意識の反射のような物。同じように、自分の事をわらわと言ったり、友達の事をそちと言うようなことがあった。ごまかすのに、どれだけ苦労したか。もう、慣れてそんな事は無くなったが。 それに対して、前世の覚えている記憶はとても少ない。思い出せるのは、したごう様と愛し合った幸せな時間、したごう様との悲しい別れ。そして、泣き暮らす日々。そう、こころに強く残っている事しか、思い出せないのかも知れない。 旧かなづかい。それは夏目漱石の本だった。きっと、昔からある本で、買い替えるのが惜しかったのだろう。それとも、誰かの寄贈品か。よく分からないが。 彼はいい。 人の在り方。生きるとは。困難に立ち向かう勇気。どうしても、あがなえない運命。それを受け入れる気持ち。 それは、自分の生きる道――道しるべ。それを、示されたようだ。 ほかの人は、違うかも知れない。だけど、わたしはそう感じた。 家に帰ってからも本に熱中した。そんなわたしを見て妹が言った。 「お姉ちゃん。どうしたの? 熱でもあるの?」 わたしは、視線を本から逸らさず言った。 「なに馬鹿な事言ってんの。いいから、あなたは受験勉強してなさい」 「ふん。分かったわよ」 妹の結花は中学3年。来年受験だ。 わたしと同じ公立の高校へ行くと思っていたら、ずっとレベルの高い私立に目指すらしい。なぜ、そんなにシャカリキになって上を目指すのかと聞いたら、妹は真剣な顔で言った。 わたしは、お姉ちゃんの様に美人じゃないし、プロポーションが良い分けでもない。それに、目が悪いからこの牛乳瓶を一生手放せない。こんな女の子、誰も近づいて来ないでしょう? だからわたしは、勉強をして一人でも生きてけるようにしなくちゃいけないの。 妹のその言葉を聞いて、わたしは何も言えなかった。今までは理数系が強い、ただの頭でっかちだと思っていた。けれど、自分を知り、将来を考えて前向きに生きてる姿は、尊敬に値する。 わたしは、その言葉を聞いた日以来、妹をわたしの後に付いてくるオマケでは無くて、人格を持った一人の人間として扱っている。こころ中だけであるが。そんな事口が裂けても言えないけど。だから、正直妹には頭が上がらない。 それでも、妹がわたしに勝っている事がある。それは身長だ。中学3年で173cm。わたしが162cmだから随分と差がある。きっと、お父さんの血を引き継いだのだろう。その身長で、足がやたらに長く胸がないから、きっとモデルに向いていると思う。 わたしがそう言うと、そんな不確かな世界、自分の将来を託す勇気はない。そう怒って言った。わたしは妹に、ごめん、と言った。わたしは、どこまで能天気だろうと、その時思った。 そんな妹の受験の成功を、わたしは祈っている。今はそれしか出来ないのだから。 ふと、妹を見るとイヤホーンを耳に挿して、何か聞いていた。きっと、ヒヤリングの練習をしているのだろう。わたしは、また前を向いて本の続きを読み始めた。 わたしが、夢を見て丁度一か月が経った。 その頃、わたしは学校の勉強を集中して聞いて、図書室と家ではなるべく本を読む時間に当てていた。その日もいつもの通り、わたしは放課後図書館にこもり、一人静かに本を読んでいた。 その時、静かな図書室に足音が響いた。図書室の係りの女教師、平泉こよね先生だ。本を整理しているようだ。ワゴンを押して一つひとつ本を本棚に入れていく。とても静かに。わたし達の他には、誰もいない図書館。一種の連帯感が沸く。わたしだけかも知れないが。わたしは、安心して本を読んだ。 ふと、わたしの後ろで平泉先生が立ち止まった。わたしが顔を上げると、平泉先生はメガネを上げにこっと微笑む。ショートカットから覗く金色のイヤリングが、かすかに光る。 「仲根瞳さん。あなた最近、よく本を読んでいるようだけど。なにか、あったの?」 わたしは、ちょっと驚く。 なぜ分かったんだろう? そんな波長が出ているのかなあ……。そう、あったの。わたしは平安時代の貴族ですって。 そう、こころの中で返して、独りにやける。自分が馬鹿みたい。この頃そう思う事がよくある。 しかし、わたしの口は、全く別の事を吐き出した。 「先生。生きるって辛い事なんですね」 そう言うと、平泉先生は持っていた本をワゴンに置くと、わたしの横に腰かけた。何も言う訳でもなく、ただ手をテーブルの上に乗せて前を見てる。 あれ、めんどくさい生徒だなって思わない? わたしだったら、聞こえない振りするのに。フーン、心配してくれるんだ。ちょっと意外。 わたしは、自然にこころの中を吐露した。 「わたし、こころの中に思い人がいるんです……」 「……」 よかった。静かに聞いてくれて。わたしは、相槌が嫌い。わざとらしくて。 「でも、その人は遠くにいて……。彼を思うと、無性に本が読みたくなったんです」 平泉先生は、黙って足を組んで、手を膝に乗せた。 「本を読んでいくにつれて、いろいろな事が分かって。 それは、書いている人の価値観かも知れないけれど。 自分が、それによって形作られて行くような、そんな気がして。 その形作られた物が、なにかを訴えようとしてあえいでる。 このままじゃ……。 このままじゃわたし、壊れそう、こころが……」 いつのまにか、わたしは涙を流していた。 不思議だった。ただ、本を読んでたはずなのに。いつのまにか、わたしの中はそうなっていたのか。こんなに訴えていたのに、それに気付かず本を読み続けていた。 でも、このままじゃ、いつかわたしのこころは崩壊する。 わたしの涙は止まらなかった。 平泉先生は、わたしの頭をなで、優しく言った。 「仲根さん。あなた、小説を書きなさい」 「えっ」 わたしは、意外な言葉に驚いた。 「短い文でもいいわ。そして、全部吐き出してしまいなさい。ね、そうなさい」 吐き出す? そうか、わたしのこころは、何かを吐き出したくて訴えていたんだ。それが分からず、ただ本を読み続けていた。あのままではいつか壊れていただろう。その事を平泉先生は教えてくれた。きっと、これで何かが変わる。 わたしは、安心して泣きながらうなずいていた。 次の日から、わたしは小説を書き始めた。 道具は、自分のノートパソコンを学校に持ち込んだ。軽くて安いノートなので、念のためにデータをSDカードに保存するようにした。 なぜ、そんなに小説を学びたかったのか。こころが訴えたがっている事意外に理由が有るように思う。それは、きっと和歌や日記にのめり込んだ前世のあわい記憶。なにかを文字にしなくてはいけない。そんな気持ちからかも知れない。とにかく、何かを書きたかった。 それ以外の事は、省エネでいった。勉強も。もちろん、友達と遊ぶこともしなかった。大好きだったゲームも封印した。 はたから見れば、異常だろう。若い女の子がわきめもふらず、小説に没頭している姿は。それでも、わたしの魂は叫んでいた。書きたいと。 小説の書き方は、全部平泉先生から教わった。先生はていねいに教えてくれた。 始めは句読点(くとうてん)の使い方から。 人称――一人称。三人称。それから視点の違い。 会話文以外の地の文。その中の心理描写、情景描写、説明文。 起承転結。 そして、プロット。 わたしは、熱心に聞いた。今までの、どの勉強よりも集中した。 聞いたところによると、平泉先生は国文学科を出ているそうだ。それで、小説の書き方も一通り覚えたらしい。 国語教師を馬鹿にしていたが、今回の事で分った。わたしは、井の中の蛙だったと。 わたしの処女作は、短い物語だった。わずか10数ページの。 作名は、『転生』。 文字通りに、一人の女性と一人の男性が輪廻転生して、現世で巡り合う話だ。しかも、前世の名前も源順と源香耶そのままなのだ。なにを危ない事をしているんだ。そんな事書いたら自分が輪廻転生した事がバレちゃうと思うだろう。 でも、わたしはきっと誰も気付かないと思った。それは、誰もわざわざ自分の首を絞めるようなまねはしないと思ったからだ。唯一、気付くのはしたごう様だけだ。その時は、そう思っていた。 わたしは、初めての小説なので起承転結に気を配り書いた。何度か書き換えてストーリーが出来た時、わたしは思わず涙が出てしまった。 それはそうだろう。これはわたしと、今はどこかで待っているはずの彼の話だからだ。きっと、この短い文のように巡り合える。そう願いを込めて書いた。 最初は馬鹿にしていた元友人も、わたしが放課後、二時間に渡ってひたすらノートパソコンに打ち込む姿を見て、なにも言わなくなった。きっと、自分もなにかをしなきゃ、と思ったはずだ。わたしの行動がみんなに影響しているのが分かる。最近、授業中にふざける人がいなくなった。きっと、自分の夢や、将来を真剣に考えての事だろう。 わたしは、家に帰ってからも小説に打ち込んだ。 テレビも漫画も見ない生活は、はたから見れば退屈そうだろう。けれど、テレビよりも漫画よりも面白いんだ。小説を書くことが。 妹はそんな私を見て、静かに「お姉ちゃん。目が生きてる」と言った。確かに、今までのわたしの目は死んだ魚のようだったろう。目的も無く、ただダラダラと生きていた。それは、本当の意味では生きてなかったのだろう。まるで、食用を待つブロイラーのように。 本当に不思議だった。なぜ、今まで書かなかったのかと。それは、きっとあの日見た夢の影響だろうけど。ここまで夢中になるとは思わなかった。もしも、この世にタイムマシーンがあるなら時間を戻してほしいと思った。 わたしは、今までの時間を取り戻すように、ひたすら小説に打ち込んだ。 そして、書き始めて一週間。ミスタッチが多くて中々進まなかったけど、ようやく書けた、転生が。 それを平泉先生に見せると、彼女は目を輝かせて言った。 「これは……。凄い! 本物だわ!」 その、余りにも大きな感激の仕方に、わたしはギクリとした。もしかして、わたしが輪廻転生したことがバレたと思った。だが、そんな証拠はどこにもない。わたしは、澄まして次の言葉を待った。 「仲根さん。凄いじゃない。あなた、才能があるわ」 よかった。わたしの事がバレたんじゃないわ。ホッとした。どうやら、わたしの作品に先生は本当に感激してくれたみたい。すごく自信になる。 でもわたしは、書き終えると満足してしまった。 こんな疲れる作業はもうコリゴリだ。2−3日書かずに過ごした。そして、また本を読んで過ごした。久しぶりに見る活字は新鮮で、新たにわたしのシナプスを刺激した。今までにないスピードで読み続けた。他人の言葉も聞こえぬほど集中して。 しかし、本を読むにつれ、また指がうずうずしてきた。ああ、あそこのセリフは良くなかった。この部分は説明不足ではなかったのかと。そう、もっと内容を書き込めたのにと。まるで、書ききれなかった言葉が、わたしの中から出たいと、うごめくのだった。 もしかして、読むと書くは互いに相乗効果をもたらし、どこまでも終わりのない旅にでるような物ではないか。一体いつたどり着くのかは知らない。きっと、わたしの命が尽きるまで……。 「同じテーマで、書き直したい? いいんじゃない。こころのままに」 平泉先生は、そう言ってくれた。そしてわたしは、その一つのテーマだけに力を入れた。 白状すると、それ以外のテーマは、気持ちが込められないのだ。ちょっと書いて見て分かった事だが。途中で書くのを止めてしまう。そんな調子だ。 だが、それでいい。納得のいくまで一つのテーマに取り組む。そして、ストーリーや登場人物の人格を、より明確に形作るのだ。書いてみて分かった事だが、読み返すと一つの事を書くにしても言葉足らずだったことが分かる。 こうしてみると、意外と自分は凝り性なのかも知れない。短気な性格だと思ったのに。それとも、これも輪廻転生のせいだろうか。いずれにせよ、この性格は使わせて頂こう。前世の性格だろうと現世の性格だろうと、結局はわたしの手によってのみ生みだされるのだから。 始めは10枚ほど。二作目は50枚。三作目は100枚も書いた。 この100枚が当初の目標だった。 白状するが、100枚は作品を賞レースに出すための最低ラインだ。それ以下の枚数でも募集はあるが、それだと短すぎて作品にどうしても収まらない。それで、100枚だ。 ゆくゆくは、その公募に作品を出して、確かな評価を受けたい。実は、先生はちょっと感激しすぎて評価は出来ないのではないかと、疑っている。それは、わたしの思う所作家には向かないのではないかと思う。もっと理性に作品を読めないと改善出来ないからだ。 それとも、感激してるは別の事かと考えた。もしかして、わたしが転生した事がバレているのではないかとも思った。しかし、その証拠は無いはずだ。まさか、したごう様もわたしと同じように、この転生と同じように書いていたならまずいが。ネットで検索したところ、それらしい物は出て来なかった。きっと、ホームページなどは書いていないらしい。それに、誰が書いたかネットでは分からないだろう。実名で書く人はいないだろうから。 そう思って安心して書いていてのだが、この100枚を書き終えるとわたしは本当に満足してしまった。一か月もの間、全く書く気が起きなかった。もうこれで、これ以上書く必要が無い。わたしの熱は冷めたのだろうと、安心した。それに、もうそろそろ受験勉強を始めないと手遅れになる。浪人は絶対に嫌だ。ちょうど区切りがいいや。そう思っていた。 しかし、ある時突然欲望がふつふつと沸き上がってきた。次は、きっと500枚と。 もう、わたしの創作意欲は止まる事は無かった。 そして、わたしは四作目の転生を書き始めた。 しかし、これは珍しく書き出しで悩んで、何度も頭の中で書いては消してを繰り返した。何日も真っ白なWORDがわたしを悩ませた。このままでは前に進めないと思い、えいや! とばかりに書き始めた。 やっぱり、書き直しが何度も必要になった。一日に数ページしか進まない。それでも、あきらめずに少しずつ進めた。何度ももう消そうかと思った。けれど、わたしはあきらめなかった。そして、ようやくプロットの三分の一を書き始めた頃、急に書くスピードが上がった。それは、一日に数十ページも。 わたしは、ホッとして気を緩めた。お気に入りのスマホは夜の9時を少しまわったところだ。アイスが食べたい。ふと、そう思い立ち、妹に一声かけて、わたしは近所のコンビニに足をはこんだ。 夜のコンビニ。それだけでも、何かわくわくする。どんな店員がいるか、客はアベックか、弁当の搬入は来るか。わたしは、その人たちを観察する。前までは、そんな事はしなかったが、この頃注意深く見ている。そして、その人たちの話言葉や、動作を頭に書く。 今日は客がいなかった。無口な店員が二人いるだけだ。だが、その内の背の高く痩せた店員は、どうやらわたしに気があるみたいだ。ちらちらこちらを伺っている。ちょっと格好いいが、わたしは今好きな人がいるの。ごめんね。そう、こころの中に書き込んだ。 アイスをゆっくり選び結花のお気に入りを買い物かごに入れ、ついでにマンガコーナーに刺さった。少年誌をパラパラとめくると、原作募集のコーナーを見つけた。大賞、佳作のタイトル、それにあらすじを読む。ストーリーは少年誌らしく異世界冒険だったり、がらっと違って学園純愛物だったりする。どれも、ありきたりで新鮮味がない。これだったら、あたしのストーリーの方が勝っている。きっと、デテールではなくて、ストーリーの出来を見られるのだろう。わたしもいつか、応募してみたいと思った。考えただけでもわくわくする。わたしの書いた原作が、マンガに採用され、そしてアニメ化。 そんな幸せな妄想を想像して、アイスだけ買ってコンビニを後にした。なんとも、めでたい頭だ。 「ありがとうございました」 高くなく低すぎも無いキーの爽やかな声だ。きっと、大学生だろう。最近の学生は仕送りが少ないと聞く。わたしは、この苦学生にこころの中でエールを送った。 「頑張って!」 と。 そんな風に、今までには無いじっくりしたペースで書き上げていった。修正も入れると二か月近くも掛かった。そして、出来上がった。当初の予定の500枚には、ほど遠いが300枚弱が。 平泉先生は、その作品を読んで、うーんとうなった。そして、わたしの顔を見上げると、凄い事を言ったのだ。 「仲根さん。あなた、出版社に出して見なさい。この作品を」 まさか、そんな事を言われるとは思っていなかった。ただ、こころの中の思いを吐き出していただけなのに。 でも、これはチャンスだ。もしも、わたしの本が出て、それを彼、したごうと言う人が見てくれたら。 そう思うとわたしは 「はい」 と言っていた。 少し目がうるんでいたのか。平泉先生は、わたしの頭を撫でてくれた。 それからの行動は、テキパキしていた。 わたしは、先生に言われた通りに、SDカードに提出用の文書データを入れた。もちろん、プロットもちゃんとファイルを分けて入れた。 その間に先生は電話を掛け、アポイントメントを取ってくれた。 「あ、わたし。平泉。明日、どうしても見て貰いたい人がいるんだけど。うん、うん。それでね、あなたに見て貰いたいのよ。うん、うん。お願いね。それじゃ」 先生は電話を終え、わたしに微笑んだ。 「バッチリよ。でも持ち込みなんて非効率な事、普通じゃ絶対に駄目だけど。そこの編集長はわたしの同窓生だから大丈夫なの。 さあ、これをメモして」 そう言って、平泉先生は名刺を出した。そして、わたしの目を見て言った。 「この事は他の人に言っちゃ駄目よ」 先生は片目をつむって、自分の口に人差し指を当てた。 わたしは「はい」と言って、出版社の住所、電話番号、そして編集長の名前をメモした。 本当に頼りになる。改めて先生を尊敬のまなざしで見上げた。 「じゃ、明日頑張って!」 平泉こよね先生は、そう言ってわたしを送り出してくれた。 日曜午後1時。それが約束の時間だ。わたしは、どきどきしながら翌日の身支度をした。 次の日、電車の席に座り銀座を目指した。 その日は、やたら暑く黙っていても汗が出た。今年一番の夏日だそうだ。 わたしは、ハンカチで汗をふきつつ、昨夜の両親との会話を思い出し、苦笑いをしてた。 「あのね。わたし明日、出版社に行く」 いきなりの事で、父は飲んでたお茶をこぼした。 「えー。何しに行くのーそんなとこ?」 父は、驚いてずり落ちそうになったメガネを直して聞いてきた。 「ちょっと、見て貰おうと思って。わたしの書いた・小・説・を」 「なに? そんな事してたんだ。瞳は! で、どこの出版社だ? それに住所は?」 わたしがそれを教えると、父は安心したような表情をした。 母が、洗い物を中断して、二人の話に聞き耳を立てた。 「○○出版社か。なかなか立派な会社じゃないか。これだったら、安心していいよね。ねえ、かあさん?」 「まったく、この子ったらこそこそ何かしていると思ってたけど。 まあ、わたしの娘ですから。変な事はしないわね。ねえ、瞳?」 「はいはい。その通りです。わたしは、小説を見せに行くだけです。ただ、それだけです」 その後、父と母は言い争いをしていた。内容は、どちらに似て文才があるかだった。強いて言うなら、母か。一応は文学部の出だから。インド語学科だが……。一体なにを勉強していたのか。なんのために行ったのか。謎だ。 妹には、わたしから言ったが、妹いわく。 お姉ちゃんは近頃、頭が小説家になった。この前、わたしにせつせつと夏目漱石の話をしたから。きっと、前世は女流作家だったろう。そう言ったのだ。 前世などと言う言葉が出て、わたしはドキリとした。妹にも、わたしが千年前から転生した事は話してないのに。もしかして、寝言で何か口走ったのかも知れない。 そう思って、妹に何か言おうとしたが、やぶ蛇になるのが怖くって聞けなかった。正直、妹にはその内、全てを話す事になるだろう。そう、覚悟している。 その事を思い出したら、ため息が出た。ふと、駅のホームを見ると銀座だった。わたしは、あわてて地下鉄を下りた。 銀座は幾重にも電車が折り重なって、出口に迷うと聞いたが、案の上、その通りだった。本当に分かり辛い。念のために1時間余裕をとってよかった。 そうして、やっと地上に出た。もう、二度と迷わないぞ。地下鉄の乗り口をシミュレーションした。 おまけに、へとへとになって銀座をさまよった。東京都中央区銀座X丁目はやたら広い。スマホでナビしたが、それでも迷った。 これか? ○○出版社は。 その建物の前に、ようやく立つ。汗だくだ。 狭い敷地に立つが、地上10階ほどの立派な建物。見上げると首が痛い……。 父もこんなところで働いているんだろうか。帰ったら肩を揉もう。 ウインドーの前で、汗を拭きつつ、身なりを整えた。 今思うと恥ずかしいが、きっと受付の女性は笑っていた事だろう。中から外は丸見えだったのだから。 気付かずに、わたしは深呼吸して扉を開けた。 「いらっしゃいませ」 いきなり受付に綺麗な女性が二人。なぜか、わたしを見て笑いを堪えてる。 不思議に思い、入口を振り返った。 えっ! 外が丸見え……。 恥ずかしい。全部見られてたんだ。 わたしの顔は、きっと真っ赤だっただろう。 気を取り直し、練習通りに言った。 「あの、わたしは仲根瞳ですが、編集部の中根巧さんにお会いしたいのですが……」 かなり緊張した。手がこころなしか震えている。 「失礼ですか。もう一度、あなた様のお名前を頂けないでしょう?」 もうその言い回しに、わたしは溶けた。じゃない。うっとりした。 「仲根瞳です。あっ。仲は仲良しに仲です」 お姉さんは、訪問者リストをみていたが、指が止まった。 「はい。うけたまわっております。わたしが案内いたしますので、どうぞこちらへ」 そう言って受付の女性は、エレベーターに向かった。 タイトスカートに背の高いヒール。 あこがれるー。いつかわたしも……。 そうして、後姿も美しい受付のお姉さんについて、エレベーターに乗った。 静かに二階に止まって、ドアが開く。 ○○出版編集部と書いた、白いプレートが見えた。が、そこには入らず、壁に面した小さな個室の一つに入って行った。 席に、うながされ座る。 「少々お待ちください」 会釈をして行ってしまった。その後姿を見えなくなるまで追った。 就職したら、わたしもあんな風に……。 それが夢。 一度、受付の席に座ってみたい。担当者に頼む姿を想像した。 けれど、本が売れたなら、ああはなれないのか……。 普通はありえない妄想をする。かなり図々しい。 しばらくすると、さっきとは違う女性が、冷たいお茶を入れてくれた。わたしを見て、にっこり微笑み出て行った。 ここは、綺麗な人しかいない。社長の好みか? ふっ、と笑う。 その途端に、ようやく緊張が取れた。 ガラスのテーブルには、画面の大きなノートパソコン。 新し機種だ。 でも、触りたいのを我慢する。 周りを見渡すと、まるでネットカフェの様なたたずまい。 そして、テーブルに置かれた一輪挿しのヒヤシンスが、爽やかな香りで包んでくれる。 わたしは、居心地のよい空間で冷たいお茶をゴクゴク飲んで、身体の熱を冷ました。 10分ほど待った。 足音が近づいてくる。そして、戸が開いて背の高い男性が入って来た。180位か。いかにもスポーツマンだ。短髪が似合っている。 わたしは、席を立って挨拶をした。 「はじめまして。仲根瞳です。よろしくお願いします」 「やあ。どうも。編集長は多忙で。 僕は担当の高田です。ああ、『たかた』だから。間違えないでね。あはは。 さあ、席について下さい」 そう言って高田さんは名刺を出した。わたしは、持っている分けは……、無い。 名刺を見る。高田公平……。なんだか、評価を素直に聞けそうなきがする。 「いやー。君みたいな可愛い子の担当なんて。ツイテるなー。あははは」 なんて軽い男なの。それによく笑うなー。ちょっと心配……。 「どうも……」 「で、中根編集長の紹介ね。どれどれ、まず見せて貰いましょうか?」 SDカードを差し出すと、「どうも」と言って、ノートパソコンに挿した。 ほおに手を当て、ノンビリ見てる。でも、読む速度が早い。あっという間に、もう三分の一。 凄いなー、やっぱプロだ。ちょっと、尊敬。 そう思って高田さんを見ていると、突然ビックリしたような顔をした。 「へー。瞳ちゃん。あなた、中根編集長と仲がいいんだ」 なに言ってるのか分からない。わたしは、平泉先生がその人を紹介してくれただけだが。 「あのー。わたしは、お会いした事無いんですが」 高田さんは笑って、こう言った。 「えー、だってこの小説は編集長の『新・竹取物語』を使った話でしょう?」 「えっ!」 初めは、何を言ってるのか分からなかった。でも、直ぐに結びついた。 わたしと中根編集長は、どうやら同じ話を書いたようだ。 「すみません。その新・竹取物語。見せて頂けないでしょうか?」 冷静になって言ったつもりだが、焦っていたかも知れない。 高田さんは、あわててノートをクリックしていた。そして、180度回転させ、画面をわたしに見せた。 1999-06『新・竹取物語』by中根巧 昔々、竹取地方のある村に竹取の翁(おきな)が住んでおりました。 ある日、竹取の翁が竹を切っていますと、目の前に肌衣をまとった若い女が現れた。何という可憐さ。竹取の翁は、見とれて呆然と立ち尽くした。 その女は言った。 「その方、この竹林になぜ入って参った。わらわの安息の地を汚すもの。その方は、悪しき人か?」 甘い声と香りに平静さを失いつつも翁、女の眼を一点見つめながら答えた。 「我は、この竹林の正当な持ち主。そして、この竹は我が書物を束ねる物。また、悪しき人かと尋ねられれば、我人であるゆえ、決して善い者とは言い難いことよ」 その女は問うた。 「では、どうすればその方は、この竹林をそっとして置いてくれのか? そちの願い事を叶えるゆえ、申してみるが良い」 何という幸運。ここぞとばかりに翁は言い放った。 「さすれば、我に世に出ても恥ずかしくない文才。そして、美しいその方が欲しい。この二つを満たさば、我この竹林より永遠に立ち去ろう」 その夜、翁の蔵に数多の書物が積まれた。そして、あの可憐な女が寝所(しんじょ)に現われた。その日から、翁は書物を読み漁り、夜なよな女の身体を貪った。 しかし、翁の幸せは長く続きませんでした。二人が出会って3年目の夏の満月の夜、女は大勢の守護者達に迎えられ、翁の元を去っていくのでした。 何を隠そう、その女とは清和源氏の一族で源満仲の娘「源香耶(かや)」なのでした。竹取の翁、嵯峨源氏の一族で源順(したごう)は、あの女が自分の姪である事、そして次期天皇のお后になる事を知り、保身の為に竹取物語を書くのでした。その物語の中で香耶は「かぐや姫」、その人だったのです。 その後、竹取の翁はその物語と数多の歌によって世に認められました。そして、一人の妻をめとる事無く、ひっそりとこの世を去ったのです。翁73才。一人の女を愛し続けた男の寂しい最後でした……。 (終わり) 「ねえ。本当でしょ? これは編集長のホームページにある作品。その頭にある1999ってのは、それ以前に書いたって事らしいよ。 へー、この短い作品がこんな小説に化けるんだ。あ、まだ途中だけど……」 中根編集長が、したごう様? 頭がくらくらする。まさか、こんな所で会えるなんて。嘘のような本当の話。これが、魂が呼び合うって事なのね。そう一人納得していた。 でも、1999年以前の作品だってことは、18年前。当時20才の学生だとして今年で38。わたしは16。その差22才……。 やっぱり、そうなるのか。 年上だろうとは思ったけど、20才以上も上だったなんて。なんてこった。 もしかして、きもいオジサンだったらどうしよう……。 あっ、そんな事より、とっくに結婚してるかも知れない。一応聞いておこう。 「あ、どうぞ続きを見て下さい」 ノートを高田さんに方へ向けた。 「ありがとう、瞳ちゃん。今急いで読むね」 今聞かないでどうする? わたしは、そのために今まで書いて来たんじゃないか。 わたしは、恐るおそる聞いた。 「……それで、編集長は結婚なさってるんですか?」 生唾を呑み込んだ。 「いいえ、編集長は結婚していませんよ」 高田さんは、声をひそめて言った。 「離婚したんですよ。だいぶ前にね」 「そうですか……」 それ以上、聞く気にはなれなかった。 40才くらいで、×1独身……。 一体、この処理をどうすればいいのか? わたしの頭は思考停止した――。 「瞳ちゃん、瞳ちゃん、おーい」 はっ。呼ばれてる。 「どうしたんですか? ぼーっとしちゃって。 大丈夫? で、取りあえず全部読みましたけど。 まあ、素人にしちゃ頑張った方ですね。 でも、プロにはちょっと……」 やっぱり、そんなに甘くないか。ちょっと、ショック。 「それで、わたしの指導の下で勉強しませんか?」 驚いた。そんなシステム?があるなんて。 「はい! お願いします」 そう言って、わたしは頭を下げていた。 あ、でも、ちょっと不安だなあ。この人、軽いから。 でも、担当者を名乗るのだから、それに文句を言うのは……。 仕方ない。この人で我慢しよう。 それから、高田さんの授業は長く続いた。 でも、言う事はいちいちもっともで、いつしかわたしは集中していた。編集長のことも忘れて。 言わなくてもいいのに、この後高田さんは野球を今でもやっていると言った。それも、ピッチャーで5番打者。わたしにアピールしているのか? わたしは、野球なんて見たこともないのに……。直ぐに頭の海馬から消去した。 帰りの電車でイスに座り、わたしは腕組をしながら考えていた。編集長に、わたしが香耶だと名乗り出るべきかどうか。 40才ぐらいだから、結婚はしてると思った。 しかし、離婚してるだなんて……。 高田さんは、ずいぶん昔と言っていたけど。 それにしても、40才と16才。 こんなに年の差があるだなんて。わたしの倍以上だ。 あーあ、好きになるのかなあ。こんなオジサン。 考えてる間に、乗り換え駅に着いた。わたしは、思案顔で電車を降りた。 夜、遅くになってしまった。お腹も減った。わたしは、早くご飯が食べたくて急いで歩いた。猫のしっぽが見えた。いつもならちょっかいを出すのに、わたしはしっぽに未練を残して帰り道を急いだ。 駅から歩いて20分程。ようやく、家に辿り着き玄関のチャイム鳴らした。 「お帰りー、瞳」 父は、そう言って玄関を勢いよく開けた。 珍しい。玄関に出るなんて。 わたしは、ちょっと驚いて返事をした。 「う、うん。ただいま」 クツを脱ぐのも待たないで、結果を聞いてきた。 「で、どうだった?」 母も、手を拭きつつ急いできた。そんなに結果が知りたいのか。 わたしは、ちょっとイラッときた。 「まだまだ素人だって。でも、うちで勉強しないかだって」 両親は顔を見合わせ、ハテナ顔で父が聞いてきた。 「それって、見込みアリ、って事だよね?」 「うん。一応」 「そら見なさいよ! やっぱりわたしの娘よ。 さあ、今夜はすき焼きだわ」 二人とも上機嫌で祝杯をあげるようだ。 だけど、作家になれるかどうかは、これ以降のわたしの成長次第だ。 自信は、正直ない。 けど、この祝杯ムードをぶち壊すのは、ちょっと……。 父には珍しく、わたしにコーヒーを入れてくれたり。母は今にも踊り出しそうに鼻歌を歌ったりと。なんだか、居心地がいい。 小遣いのおねだりなら、今だと思った。 だけど、今日電車賃を出して貰ったし、止めておいた。 妹の結花は、相変わらず受験勉強で忙しい。わたしの事など気にしないで、ひたすら数学の問題を解いていた。ちょっと、覗いてみたが全然分からなかった。もしかして、もう高校の問題を解いているのかもしてない。それも、文系のわたしには全然分からなかったが……。 月曜の放課後。 わたしは、いつもの様に図書室にいた。昨日、高田さんに言われた個所を直す。だが、言葉の繋がりが悪く中々いい言葉が出ない。もしかして、頭が疲れているのではないかと、目をつむってしばらく仮眠を取っていた。 すると、勢いよく図書館のドアが開いた。目を開けると平泉先生だ。職員会議を終えて急いできたのか、だいぶ息が荒れていた。 「はあはあはあ。仲根さん。で、どうだった?」 平泉先生はかなり期待していたのか、目を輝させていた。 「まだまだ、だって……。はっきり言ってショックです。 でも、編集部の人が、わたしに付いてくれて、来週も習いに行くんです」 平泉先生は、かなり驚いたようで、わたしの目をまじまじと見て言った。 「あなた。中根編集長とは会ってないの?」 わたしは、先生が何に驚いたか分からなかった。 「はい。忙しいようで。代わりに、高田さんって言う人が見てくれました?」 「そ、そう。ごめんなさいね。わたしの指導が至らなくって」 平泉先生は、かなり落ち込んだようで、申し訳なく思った。 「でも、これから作家になれるか。それとも、よく書けるおばさんになるか。それは、あなた次第ね。頑張って」 そう言って、先生はわたしの肩をポンと叩き、図書館を後にした。 『おばさん』って言葉が引っかかった。 もしかして、先生もプロを目指していたんだろうか。 平泉先生の若い頃を想像してみた。文学少女。いや、作家志望の少女。 一体何をテーマに書いたのだろうか……。 やっぱり、愛をテーマに書いたのではないか。ドロドロの。 そう、思えてきた。あのメガネを掛けた上品な顔で。 わたしは、にやけて身震いした。 そんな変態チックな妄想。癖になりそう。 ふと、気が付いた。 先生は、中根編集長の新・竹取物語を読んでる? もしそうなら、転生の事も話したかもしれない。それなら、わたしの書いた小説『転生』を読んで驚くはずだ。 あなただったのね、編集長の片割れは、と。 それとも、新・竹取物語を読んでなかったのか? うん。きっと、そう言う事だろう。わたしに、隠しごとをする理由はないのだから。 でも、やぶ蛇になるのが怖かった。 わたしが転生したって事は、まだ誰にも話していないのだから。だから、何も聞かない。 翌週、わたしは手直しをして○○出版社へ行った。この日は、雨が降って少し涼しい風が吹いていた。それでも、十分暑いが。 わたしは、傘をたたんで受付の女性に挨拶をした。今日も横から見た姿が美しい。わたしは、彼女をうっとり眺めながらエレベーターに乗り込んだ。そして、二階のボタンを押すと、いきなり男性が飛び込んできた。ちょっとドキッとした。 「失礼」 「いいえ」 見たところ30才ほど。どうやら、雨に降られたようだ。髪に雫が。 ひょっとして編集部の人? 挨拶しなきゃ。 「あの」 「はい、なんでしょうか?」 わたしは、その顔を見て固まった。 この人、どこかで会った。なぜだか、懐かしい顔。やだ、涙が出そう。 「あの。ぐっすん……」 「君は……。ひょっとして、香耶?」 「はい」 わたしは、その場で泣き出してしまった。 オジサンなんて言ってごめん。どう見ても30才だ。イケてる。うれしい。 ドレスシャツをサラッと着て、一体どこのモデルさん? おまけに水も滴るいい男。イイ。めっちゃタイプ。 「あーあ。泣かしている」 エレベーターのドアが開き、それを待っていた女性が大きな声で言った。 泣いている女の子。とまどう中年男性……。(・_・;) これは、まずい。勘違いされちゃう。 「違うんです。ぐっすん。あまりに久しぶりで。そう、これはうれし涙です。ぐっすん」 「本当? 駄目ですよ、編集長。女の子泣かしちゃ」 そう言って女の人は、エレベーターに乗った。 わたしは、個室でしばらく泣いていた。編集長は、わたしをソファーに座らせると、冷たい麦茶を二つ抱えて帰って来た。残念ながら、頭の雫は拭き取ったようだ。 「多分、会ったら分かるって思っていたよ、香耶。 しかし、よく来たね。こんな所ろまで」 そう言って編集長は、麦茶を勧めた。 暖かい笑顔が、目に染みる。 「やっと会えた。したごう様、と呼んで構いませんか?」 彼は、ちょっと小首をかしげて言った。 「それは、まずいな。きっと、分かる人には分かっちゃうから。 そうだな、みんなと同じに編集長と呼んでよ。 ところで、君の現世の名前は?」 「はい。仲根瞳です。あ、仲根の仲は仲良しの仲です」 「こりゃ、苗字が俺と同じ呼び名で面倒だな。 そうだな……。瞳ちゃん。そう呼んでいい?」 「はい。よろしくお願いします。 ところで……、編集長のお歳は?」 きっと、自分の歳なんて気にしてないと思って、ずばり聞いた。 「俺? 俺は38だけど。瞳ちゃんは高校生だね? こよねの生徒だから」 38か。思った通りだ。だけど、イケてる……。……。 えっ! 今、確かに平泉先生の名前を呼んだ。しかも呼び捨て。 「あのー。平泉先生とは?」 「ああ、彼女とは夫婦だった。昔ね。もう10年も前だ。 それで、ねえ……」 あとに何を言ってるか分からなかった。目が点。 編集長と平泉先生が夫婦だった。 悪い冗談? 一体どういうと事? ……もしかして、先生のお古? 駄目だ、こりゃ。 前言撤回。涙を返して。 わたしは、あきれた。 「なんで、分れたんですか」 「瞳ちゃん。君のせいだよ」 「えー!」 「いや、冗談じゃなく。名前をね。香耶。君の名前を間違って呼んじゃってね」 「……」 「まあ。俺のせいだけどね。あはは。瞳ちゃんは気にしなくていいよ」 「ええ……」 わたしは、それしか言えなかった。 「それにしても、俺たち。20近くも年が離れているんだねえ。 これじゃ、再び相まみえましょう、って言ってもねえ。 それに淫行条例もあるし。俺、捕まるの嫌だから。あははは」 この状況。どう返せばいいのか……。 淫行うんぬんは置いといて、もう一度整理する。 編集長と平泉先生。二人は結婚していたが、わたしの名前、香耶を間違えて呼んでしまい、怒った平泉先生は三下り半を突き付ける。 確かに、勝手に名前呼んだのは編集長。わたしは、悪くない。 すると、一つの疑問が沸いてきた。 平泉先生は、編集長が転生した事を知ってる? まさかと思うが一応聞いて見た。 「あの、編集長が源順だってことは?」 「うん。ばれちゃった」 ずいぶんあっさり言った。でも、その事でなにか不都合があった訳では無いんだ。勿論、二人はそれが原因で分れたんだから、その後の人生に大きな傷を残す事になるが。それでも、二人の関係は最悪では無い。電話のやり取りを聞いたところは、むしろ同窓生のいい関係にように聞こえた。 ところで……、わたしの事は平泉先生はなにか感づいている? わたしは、むしろこちらの方が気になって恐るおそる聞いた。 「あのー。先生は、わたしが香耶だって事は?」 「さあ。知らないんじゃないのかな」 「そう言えば、わたし転生の話を書いてる……」 「……」 「やっぱり、知っていたんだわ。どうしよう?」 わたしは、かなり動揺した。顔が青ざめたのが分かる。 「うーん。そのままで良いんじゃない? 彼女が、俺と香耶の再会を望んだとしたら」 そうだ。知っててわたし達二人を合わせたんだ。 「それじゃ、先生に育てられて、ここまで来たわたしは?」 言ってるうちに、ふつふつと怒りが沸いてきた。 わたし、あやつられた? 「そう、瞳ちゃんは悪くない。そして、俺もね。全部こよねの意思だ」 そう言って、編集長は部屋を出て行った。「ごめんね。仕事が山積みなんだ」と言って。 平泉先生は、一体どう言うつもりだろう? 自分の教え子に、自分の別れた旦那さんを勧めて。嫌じゃないんだろうか。わたしだったら、気になってもう普通には話せない。現に今、わたしはこの後どうやって平泉先生と接すればいいのか考えあぐねている。もっとも、まだ編集長とお付き合いしている分けじゃないが。 それに加え、平泉先生はわたし達二人が転生していた事を知っていた。なのになぜ、その事をわたしに隠したの? その理由がどうしても分からなかった。わたしは、なにか得体の知れないオブラートに包まれていた様でいら立った。そして、平泉先生がわたしの知らない世界の人に思えた。 先生は何者? その疑問と怒りは、いつまでもこころに残った。 その日、家に帰ってから、わたしは妹の結花にひさびさの姉妹喧嘩をした。わたしが、いらいらしてたのが原因だった。 後でアイスを買って仲直りしようと、お風呂に逃げた。 お風呂の窓を少し開けて見ると、月は満月だった。そう。前世で誓ったあの日の月と同じように。 これが、あの時願った再会だなんて、ふざけてる。 わたしは、あの美しい月もいまいましく思えて、直ぐに窓を閉めた。 次の日、わたしは図書館で待っていた。かなりイライラして。 昨夜は眠れなかった。こんな事は飼っていた愛犬のチャッピーがお産した時以来だ。その事を思い出し、わたしは自分のお腹をさする。わたしもいつかあんな苦しい思いをして子供を産むのか。大変だと思うのだが、生まれてくる子を抱きしめてお乳を飲ます姿を想像して、わたしはちょっと幸せな気持ちになる。そんな事を考えてる暇は無いはずのだが。 その時、図書室のドアが開いた。澄まし顔で平泉こよね先生が顔を表す。わたしはズカズカと詰め寄った。 「平泉先生。なんで知ってたのに黙ってたんですか? わたしが香耶だって」 わたしが、そう言うと平泉先生は目を輝させた。 「あら、バレちゃった? 黙っててごめんね。悪気はなかったのよ。 でも、その分だと編集長と会ったのね?」 「ええ、会いました。それよりも、先生。なんで、わたしが香耶だって知っていたのに、隠していたんですか?」 平泉先生は悪びれもせず、微笑んだ。 開け放たれた窓から、野球部の練習風景を見ながら、先生は話始めた。 「あれは、大学2年の時だった。 その頃、わたしは巧くん、中根編集長と付き合っていた。もちろん、身体の関係もあったわ。 ある日、彼酷くうなされて起きたの。それは、もう汗びっしょりでね。 その時、香耶。って言ったの。 初めは名前だって分からなかったわ。その日以来、しょっちゅう寝言でその名前を言うのね。それで、わたし浮気を疑ったの。 でも、わたし見たの。新・竹取物語。その短い物語を。 ご丁寧にホーム・ページまで作っちゃって……。 わたし、びっくりしちゃった。どうみてもただの作り話では無く、嘘や妄想ではない。これは、真実の話なんだって。そう、彼が源順の生まれ変わりだって。 最初はただ驚いたわ。けれど、その後気づいたの。香耶を探してるって。わたしがいるのに、なんでこんな訳の分からない女に巧を取られ無ければいけないんだって思った。そう、わたし嫉妬した。香耶に。 そして、意地悪したくなった。それで、妊娠したって彼に嘘を付いた。 ひどい女よね。わたし……。 でも、直ぐにわたしと別れない彼も悪いのよ。 そんな訳で、わたしたちは結婚をしたの。 でも、直ぐにバレちゃって。それはそうよね。いつまで経っても大きくあらないお腹。そして、産婦人科に付き合うって巧をいろいろ理由を付けて断って。直ぐにバレちゃったわ。しょせん、女の浅知恵だったって事ね。ふふふ。 それで、離婚よ。結局10月足らずの結婚生活だったわ。その時のわたしは、巧を手に入れた喜びと、いつばれるか分からない恐怖で、躁鬱を繰り返していた。やるもんじゃないわね。こんな馬鹿げた事は。 でも彼、別れる時言ったの。ごめん、ってわたしに頭を下げて。悪いのは、わたしなのに。出来る事ならも一度、出会いからやり直したいって……。 でも、それも無駄ね。結局、香耶が現れるんだから」 わたしは、あまりに重い告白に言葉を失った。 でも、編集長は香耶の名前を呼んだのが原因で別れたと言った。 もしかしたら、平泉先生をかばった、編集長の優しい嘘なのかも知れない。きっと、そうだ。 編集長は、確かに平泉先生を愛していた。けれど、そこの割って入ったのがこのわたしだ。わたしさえ転生しなければ、前世の記憶が戻らなければ二人の愛は壊れなかった。そう思ったが、編集長の前世の記憶が大分先に、そうわたしが生まれた時に記憶が戻っていたなら、それは避けられない事だったのかも知れない。運命と言うなら、全て壊してもかまわないと言うのか。 わたしは、平泉先生に申し訳なくなって、この事を聞くのが精一杯だった。 「それなのに、別れた後なぜ編集長の近くにいたんですか? 友達として?」 平泉先生は、外に向けていた顔をこちらに向けた。そして、目を輝かせて言い放った。 「先生はね。物語の結末を見たくなったの。転生のね。 特等席だったわ。こんな身近で奇跡を見れるなんて。 どんな小説家だって、書けやしない。こんな話」 「……」 あまりの衝撃的告白に、言葉が出ない。生唾を呑み込むのがやっとだった。 ああ、この人は本物の小説家だ。今、プロットを頭に描いているに違いない。本物の転生の。 「それで、仲根さん、あなたを見た時、これは。って思ったわ。 案の上小説を勧めたら、いきなり転生! あの時は、叫びたいのを抑えるのに、ほんと苦労した」 平泉先生は嬉しそうに、そう言った。 「それじゃ、わたしは先生の手の中で踊っていたんですか?」 平泉先生は、ちょっと考えて言った。 「悪いけど……。そう言う事になるわね。 本当は、○○出版へは、わたしも付いて行きたかったのよ。でも、わたしがいたら、きっと言い出せないでしょう?」 喜々として語ってる。そして、わたしの話を聞きたくて、うずうずしてる。 この時ほど、小説家が恐ろしいと思った事は無い。他人の人生を、なんだと思っているんだ。わたしは、こうはなりたくない。いや、出来ない。 だけどわたしには、とても文句は言えない。平泉先生は、自分の人生を費やして20年近くも待っていた。編集長の相手が現れるのを。しかも、自分の愛を犠牲にして。その執念に、背筋が凍った。 そして、平泉先生をこんなにしたのは、わたしだと言う思い。その事がわたしにあの言葉を言わせたがっていた。 「先生……」 わたしは、自分で書くことをあきらめた。とてもじゃないが、平泉先生にはかなわない。事の顛末(てんまつ)を、全て話した。本当の転生を、書いて貰うために……。 「ありがとうね、仲根さん。全部話してくれて。おまけに転生を書く権利をくれて。 代わりに、お返しするわね。 あのね、経験的に言って……、わたしの関与も含めて、全て運命なのよ。 きっと、あなた達は結ばれる運命なの。 それを、忘れないでね」 最後に平泉先生は、そう言って図書館を出て行った。 その後には、静けさだけが残った。わたしは、スイッチを切って図書室を出た。平泉先生のいた場所には、得体の知れない何かが見えた。 家に帰っても、ご飯を食べても、わたしの気持はどんよりして晴れなかった。 「瞳。結花。早くフロ入っちゃいなさい」 「はーい」 「結花。先にお風呂入るわね」 「うん、お姉ちゃん。あ、湯船のふたはしておいて。お風呂、冷えちゃうから」 「分かった」 妹は、勉強の途中では、めったに中断しない。記憶が切断されるかららしい。文系のわたしには理解できないが。 わたしの場合は、トイレやお風呂に入ると頭は使い放題なので、小説の続きをどうするかなど考えるには打って付けなのだが。 急いでお風呂の用意をして、階段を下り台所を横切る。 「入るねー」 みんなはテレビを見てる。番組はあの日と同じ、『不思議な体験談』。 わたしは、見ないようにして脱衣所に入った。 身体を洗い終え湯船に入った。 「フー」 わたしは、サッパリした身体を伸ばし、天井の水滴を見つめていた。 あの水滴のように平泉先生は、わたしのこころに落ちそうで落ちないわだかまりを作った。 一体どういう事だろう。編集長とわたしの再会に、編集長の前の奥さんの平泉先生が絡んでいた。 もし、平泉先生が手出ししなければ、わたし達は出会う事も無かっただろう。けれど、平泉先生は偶然にも二人の関係者だった。その事自体、偶然ではありえない事だ。 もしかして、平泉先生は編集長とわたしをこの世で会せる運命のキーだったのではないか。そう思った。 そして、今日聞いた『わたしの関与も含めて、全て運命なのよ。きっと、あなた達は結ばれる運命なの』。この言葉を、こころの中で繰り返していた。 確かにそう思えてきて、わたしは平泉先生を憎む事は出来なかった。そして、自分を責める気持ちも薄らいできた。ただ、感謝の気持だけが残った。 わたしは、身体と同じに、少しサッパリした気持ちで湯船から上がった。 あの日、平泉先生の壮絶な独白以来、編集長とわたしの間には何も起こらず。かと言って、出版社に行く事も止めれなかった。わたしは、編集長と付き合うべきかどうか悩んでいた。いつら、前の奥さん、平泉先生のお許しが出たって、わたしは20才以上も離れた編集長とおいそれとは付き合えない。しかも、編集長の気持はどうなのかだって聞けずにいる。でも、こころのどこかで思っている。いつか、わたしたちは結ばれると。そう、平泉先生の言う事が正しかったら。 わたしは、その日も編集長と付き合う切っ掛けも無く、ずるずると出版社へ通っていた。そして、高田さんの指導を仰ぎ、新しいテーマを考えていた。そう、転生は平泉先生にお譲りしたのだから。 高田さんの言う事は、いちいちもっともな事だ。少しづつ贅肉が落ちてゆくのが分かる。こしてみると改めて思う。確かにプロの編集者だ。平泉先生の何倍も要求がきつい。次第に熱を帯びてきた。 その熱気に当てられ息が詰まる。わたしは、ちょっとめまいがした。一声断って息を抜きに個室の外へ出た。 すると、平泉先生も打ち合わせを終わったようで、はち合せた。 わたしの事を見ると、彼女は何事も無かったように話し掛けた。 「あら、仲根さん。来てたのね。ふふふ。どう? 彼とは」 どうやら、転生が出来上がったようだ。やたらハイテンション。 「なにもありませんよ。至って普通です」 「なーに? まだ、お付き合いしてないの? あんなにいい男なのに。 それとも、わたしのお古じゃいや? ふふふ」 なんで、そんなに笑い話に出来るかな……。あきれる。 でも、今の先生は吹っ切れている。世間のしがらみから。 先生の職業は、それほど規律が厳しいのだろうか。 平泉先生は、この作品で文壇にデビューを果たした。 ペンネームは『平泉こよね』。本名だ。 作品は『転生』。題名はそのままでページ数は1000枚弱……。 とてもじゃないが太刀打ちできない。やっぱり、文学部卒業はだてじゃない。平泉先生なら、きっと作品を昇華させてくれるだろう。ゆずって良かった。 「仲根さん。あなたもデビュー。頑張ってね」 スカートの裾をひるがえし、行ってしまった。もう、貫禄が出てきてる。 平泉先生は今年いっぱいで学校を辞める。小説家一本で生きてくつもらしい。きっと、彼女なら出来るだろう。応援してる。 平泉先生の事は、もう気にせずに行こう。 わたしは、トイレで毒気を抜いて便器に流した。 そして、高田(たかた)さんと打ち合わせを再開して一時間余り。 ようやく、わたしの次のテーマが決まった。 題名は『ブロンズ像―春―』。 これは、編集長の1999年以前の詩。『話し掛けてください』をイメージしてストーリーを考えた物だ。わたしが見つけて、編集長が使用を認めてくれた。 早速、プロットを書いて、高田さんと打ち合わせに入った。 橋の上に立つブロンズ像が、人間に恋して人になる話。 二人は、寂しさを埋めるために愛し合う。 しかし、ある日彼女は姿を消す。 二日後、帰って来た彼女は、独白する。 舟越氏(ブロンズ像―春―の作者)に、さよならを言われたと。 そして、二人は抱き合い、涙する。 とても美しいブロンズ像だからこそ書けたプロットだ。これ以上のプロットを書けと言われても、書く自信が無い。でも途中、話が淀んでしまうのだが……。 そして、男性は編集長をイメージして人格を作った。誠実で、優しく、いつも包んでくれる。そう、編集長はわたし思い描く、理想の男性だ。 でも、この事を言うと、なに少女の夢語ってるの? って思われるから、秘密だ。 それに、なんてと言っても、ブロンズ像の作者『舟越保武』さんをストーリーにからめた事が大きい。彼がスパイスになって、いい味をかもし出してる。会心のプロットだ……。 そんな風に、わたしは新たなテーマを打ち合わせていた。 その時、ふと思った。 編集長は、どんなタイプの女が好きなのだろう? やっぱり前の奥さん。平泉先生のような人がいいんだろうか……。気になる。 「ねえ、高田(たかた)さん。編集長って付き合っている人いるんですか?」 ストレートに聞いちゃった。ドキドキ。 「えー、瞳ちゃん。編集長に気があるの? ショック」 わたしは、あわてた。直ぐに否定して、ごまかした。 「違う、違う。そんなんじゃない。編集長はお父さん? そんな感じ。ちっともタイプじゃないよ」 そう言うと、高田さんはホッとして言った。 「ああ、よかった。編集長が相手じゃ、分が悪いからなー」 わたしは、高田さんの、それとは無しの告白を聞かなかった事にした……。 「でも、結婚してないんでしょ? 誰かと付き合ってるの?」 ドキドキ。ドキドキ。 「誰かいるって思うでしょ? あんなにいい男なのに。あれで38なんてインチキだ。 でもね、編集長はいませんよ。付き合ってる人は」 不思議だ。なにか欠点があるのかな……。そんな事、高田さんは知らないだろうけれど、一応聞いて見た。 「なんで、誰とも付き合わないんでしょうか?」 高田さんは、声をひそめて言った。 「これは、編集長の飲み仲間から聞いた話ですけど。 いいですか、誰にも言っちゃ駄目ですよ。 編集長は、なんでも誰かを待っているんだって。10年以上も」 「……」 ――ああ、胸がキュンキュンする。 涙が出た。突然、沸き出した。あわてた高田さんは、必死になってわたしの機嫌を取った。けれど、涙は止まらなかった。壊れた蛇口のように、大粒の涙が止めどなく流れた。 編集長は、わたしを待っていたんだ。16年間も。 それも、誰ともお付き合いしないで。 その誠実さに、わたしは感激した。 でも、今は現代。2016年。淫行条例がある。わたしは、ゆっくりと高校卒業を待つことにした。告白は、その時する。だって、その方がロマンティックだから。 でも……万が一、わたしがタイプじゃなくて躊躇(ちゅうちょ)したなら……。ううん! それは、無いはず。だって、こんなに可愛いんだし。でも、気が短いってクラスのみんなが言ってたのよねえ。ちょっと心配……。 そう言えば、平泉先生の言葉を思い出した。平泉先生の関与があったって、それは全て運命。きっと、わたし達は結ばれるはず。うん。大丈夫。 元気出せ。自分。ファイトー! 今年の冬、妹の結花が私立の入学試験に受かった。 わたしでは、絶対に入れないとこだが、結花は滑り止めだった。あんなに頑張ったのに、結花は三次志望まで全部落ちた。 その日から結花は小説を書き始めた。もし一次志望に落ちたらそうするつもりだったと言った。可能性は増やさないとね。妹はそう言って笑った。 「よろしく。先輩」 その日から、わたしは結花の小説の先生になった。 きっと、結花はわたしのコネを期待している。しかし、わたしはとてもそんな力は無いが。わたし自身、いつお払い箱にされるか分からない。私にできる事は、結花の書いた物を高田さんにちょっと見て貰う事くらいだ。あまり期待しないで。そう結花に言った。 あれから。わたしが初めて○○出版社におじゃまをしてから、一年が過ぎ、また暑い季節が来た。 わたしは、高校3年なのに受験勉強せずに、相変わらず小説にのめり込んでいた。妹もこのたび○○出版社にお世話になる事が決まって、一緒に○○出版社に来た。そう、わたしもうかうかしてられない。ますます気合が入った。 それと、大学だが、一応出ておこうとは思うが、推薦で行ける所でいい。でも、文学部は譲れない。絶対、行く。だって、仲間が欲しいから。その人たちと刺激し合うなんて、考えただけでもワクワクする。そして、ゆくゆくはこの世界で食べて行く。それがわたしの希望だ。 そして、わたしは近々デビューする。 『ブロンズ像―春―』。やっと、日の目を見た。わたしは、結花に今度から先生と呼ぶように言った。無視されたけどね。ふっ。 肝心の売り上げだけど、予想はたぶん売れない。きっと、今のままでは食べていくのは難しいと思う。やっぱり、大学でもっと勉強しなきゃ。言わば、デビューはこの世界の慣れて置くための練習。そうわたしは、考えている。 わたしは、個室で担当の高田さんからデビューの心得を、真剣に聞いていた。はっきり言って、編集長の事は完全に忘れていた。そう、安心していた。 急がなくたって編集長はいつでもここに居るし、誰にも取られることは無いと思っていた。 ふと、編集部内が急に騒がしくなった。高田さんが、ちょっと見てくると行ったきり戻ってこない。仕方なく、わたしも編集部へ入って行った。 「あ、瞳ちゃん。大変だよ! 編集長が」 わたしの担当、高田さんが酷く動揺している。わたしは、大変な事が起きているんだと思い、高田さんに恐るおそる聞いた。 「高田さん。一体どうしたんですか?」 「編集長が、辞めるって」 「ええ!」 いつまでも近くにいると思ってたのに。なぜ? 突然。 わたしは、涙をおさえつつ編集長に詰め寄った。 「どうして! どうして、辞めるんですか? 分けを教えて!」 いつの間にか取り乱し、わたしは編集長のシャツを両手でつかんでいた。 「瞳ちゃん。いや、もうそろそろ親父の後を継ごうと思ってね。 親父、80才近いし、もう足腰がね」 「……」 「うちは、喫茶店やってんだよ。だから、いつでも来てよ。ご馳走するから」 その言葉に安心して力が抜けた。わたしは、イスに腰かけ誰かの机に顔をうずめた。 「それで、いつまで、いるん、ですか?」 「うん。あと1月」 「場所は?」 「ああ、これね」 そう言って編集長は、ライターを差し出した。見ると、ちゃんと電話番号と住所が書いてある。 なんだ、うちからわりと近い。これなら、いつでも会える。 わたしは、ほっとして目の前にあったコーヒーを飲んだ。 「瞳ちゃん。それ、俺のだよ」 「あっ……」 わたしは、編集長のコーヒーを飲んでしまった。それを見てみんなは、しーんとなった。様子をうかがっている。わたしは、ええいっとばかりに、ぐいっ、と飲み干した。 もう、みんなにバレた。わたしが、編集長に気があると。 わたしは、覚悟を決めて言った。 「編集長」 「ん?」 「好きです!」 わたしがそう言うと、編集長はとびきりの優しい笑顔をした。 「仕方ないな。俺もだよ」 そう言って編集長は、わたしを抱きしめ、そしてキスした……。 わたしは、よし! と思い、みんなにピースサインを出した。 途端に、拍手と、歓声と、怒号と、それと泣き声が咲き乱れる。 ごめんね。高田さん……。 それから、淫行だって怒鳴った人。シケイ! よかった。嫌われていなくて……。万が一、そうだったら自殺物だったわ。 そうよ、あなたは運命には逆らえないんだから。 ありがとう。平泉こよね先生。 あ。妹が驚いてる。そりゃそうだろう。年の差22。二回り近く離れているのだから。でも、わたしは幸せ。ありったけの笑顔を振りまいた。 わたしに触発されたのか、結花が熱い視線で泣いている高田さんを見つめる。そうか、結花は高田さんがいいのね。180と173cm。うん。二人はお似合いだわ。 高田さん。妹をどうかよろしく。 これから、わたしはあなたと一緒に過ごす。 たとえ、誰かに反対されても、この気持は揺らがない。 だって、『再び、相まみえましょうぞ』と約束したから。千年前に……。 ある、晴れた日の午前。 わたしは、カフェでノートパソコンを打っていた。横には食べかけのスパゲティが。そして、ちょっと冷めたコーヒーが少しだけ残っていた。それを飲み干す。そして、立て続けて水をゴクゴク飲んだ。相当頭が熱くなっている。キーを打つ手は、もう長い時間止まっていた。 わたしは、頭を両手でかきむしって言った。 「うーん。いいセリフが出てこない」 巧が、後ろからのぞいて口を出した。 「瞳。それは、ね。地の文を……」 「あっ、言わないで! これは、わたしの作品だから。めっ!」 「おお、こわ」 巧は、そそくさと厨房へ避難した。 あれから、わたしは某大学の文学部に無事入り、小説家の道をひたすら歩んでいる。でも、この前出版した『ブロンズ像―春―』は、思った通り売れ行きが悪い。とてもじゃないが、小説家一本で食べて行くには、まだまだ掛かりそうだ。結局、平泉先生には勝てない。彼女は、天才だ。 それでも、わたしは好きなテーマを、好きなだけ、好きなペースで書いている。幸せだ。そんなわたしに、編集長はマスターとなって、毎日コーヒーを入れてくれる。なんだか、ここで小説を書くのが落ち着いて……。 「瞳」 「ん?」 「もうそろそろ、大学へ行く時間だよ」 「あ、もうこんな時間? それじゃ行ってくるね」 ノートパソコンをたたみ出口に手を掛けると、思い出した。わたしは、ふり返る。 「そうだ。今日は、早く帰ってくるから、ご飯作って待ってるからね。それじゃね。巧」 20才以上も上なのに、わたしは彼を『巧』と呼ぶ。そして、彼は『瞳』と。同棲はしてるが、結婚はまだしてない。わたしが、大学を卒業したらする。きっと、泣くだろう。だって、千年を掛けた結婚だから。 わたしは幸せだ。この世の誰より。 (終わり) 出典:オリジナル リンク:http://slib.net/a/18416/ |
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