満州国に生まれて (ジャンル未設定) 7075回

2017/05/01 19:34┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:名無しの作者
 これからお話しすることは、六十年も前のことなどで、私の記憶が怪しいかも知れません。また、ところどころ母から聞いた話や、私が調べて知ったことで内容を補っていることを、あらかじめお断りします。



 父、清二が生まれたのは明治の終わりの一九〇〇年頃だった。その頃、中国はイギリス、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカなどの列強諸国によって侵略されていた。
 一八九五年、日清戦争に勝った我が国も、中国侵略に乗り出す。しかし、列強諸国によってはばまれた日本は、ロシアと決定的な対立をして一九〇四年、日露戦争が始まった。
 激しい戦闘の末、多大な犠牲者を出して、日露戦争にどうにか勝った我が国は、さらに中国侵略を深めていった。一九〇五年のことだった。

 そんな時代の中で育った父は、小さい頃から力自慢で、福島県二本松市の相撲大会などで頭角を現した。小規模な地主だった両親も、父の後押しをして、賞品の米や味噌をありがたく頂いた。
 そして、十八歳を迎えた頃、相撲部屋にスカウトされて意気揚々と上京する。だが、はじめの頃は技がなくて、力の弱い者にも簡単に負けた。しかし、父はくさることなく技を身に付け、しだいに勝ち星が上がっていった。そして、もう少しで十両になろうとしたとき、部屋のお嬢さまとの縁談が持ち上がった。

 だが、この時田舎から手紙が来る。内容は、兄の病気が思わしくないので、帰って来て家をついで欲しいと言うものだった。親方には引き止められたが、家の存続の危機に父は家をつぐことを選択した。
 父は農業に向いていていたのだろう、農作物は豊かになり明治維新以来の収穫をほこった。こうして五年がたつ頃、父の兄が病気を克服し、父は所在を失う。もう、二十七歳になっていて相撲の道へ戻るには身体が着いてこず、かといって農業のほかになにも手に職を持ってはおらず、また商売をやる才能もなかった。

 途方に暮れていると、一九三二年、新聞に出ていた。大陸『満州国』に開拓に行く有志を募集! と。これは、日本が一九二九年にはじまった世界恐慌で苦しんでた中、中国に活路を見出すために軍部がくわだてた暴挙だった。無知な父がそれに飛びついたのは仕方ないことだったのかも知れない。そして、親や兄も止めることはなかった。
 父は、軍事訓練と農業研修などを受けると、満州国へと旅立った。

 ここで、『部屋のお嬢さんとの縁談が持ち上がった』と言う下りだが、私の記憶が不確かであるので、疑わしい。けれど、父は晩年になって私と東京に遊びに行った折には、ある四股名(しこな)の元力士と会って来ると言っていたので、まったく弱かったとも思えないのだが。



 私は、満州国に生まれた。名前を徳子と言う。一九三七年九月九日に満州国黒龍江省(こくりゅうこうしょう)チチハルで農家をしていた父清二と母キヨとの間に、四つ違いの兄、誠太郎の妹として生を受けた。
 満州国とは、日本人が満州民族およびモンゴル民族の土地を奪って、旧清国の最後の皇帝アイシンカグラ・フギを傀儡政権に立てて、一九三二年から一九四五年までの十四年間存在していた国である。
 人口は、日本のおよそ倍の面積に対して、一九四二年の段階で四千四百万人。その構成は、日本人はわずか五パーセントの二百二十万人で、残りの九十五パーセントは、満州人、蒙古人、漢人などであった。
 また、日本人と言ってもあのころは韓国人を入れた数なので、それを除くとたった二パーセント強の百万人。さらにそのうちの開拓移民団はその半部以下の三十万人だったので、潜在的に危うい状態だった。
 それでも、百万人はとてつもない数で、それが短期間に日本から中国に動いたのだからすごいとしか言えない。

 そんなことは分かるはずもない幼い私は、満州国のど真ん中をオカッパ頭で元気に駆けまわっていた。私がもの心ついたのは、四歳になった頃だったように思う。気がつくと、四つ離れた兄、誠太郎の後を必死で追いかけていた。
「おい、徳子。俺の後に着いて来るなよ」
 そうは言ってもこちらは必死である。もしも、兄とはぐれたら周りには、漢族やら満州族やらがたくさんに居たから、怖くて仕方がない。
 家は、一階建てだが、壁は分厚い木の板を土で固めた土壁でてきていて、屋根は固いコウリャン(モロコシ)ぶきの屋根だったので安心だったが、それでも私はたった一人で家にいることが不安で仕方なかった。

「待ってー、兄貴ー!」
 私は、なぜか兄の誠太郎のことを、兄貴と呼んでいた。父と母はそうは言っていなかったので、なぜそう呼んでいたのか、兄が亡くなって二十数年たつ今となっては、確かめようがない。
 だが、これだけは言える。兄は幼い頃から身体が大きくて、なにごとにも率先して挑戦すると言う度胸があった。それは、高い所から飛び降りることだったり、大人に混じって切っ先の鋭いカマを使って農作業をしたり、ニワトリの首をしめあげてさばいたり、トウモロコシからドンと言う装置を使ってポップコーンを作ったり、とにかく兄は度胸があった。
 だから、私は「兄貴」そう言って、常に兄の後を追った。

 だが、そんな兄にも苦手なものがあった。それは、父の礼儀作法のうるささだった。食事中に兄がボロボロこぼしながら食べていると、
「なんだ、その食べ方は!」
 そう言うなり父のゲンコツがさく裂して、兄は涙目になるのだ。このように、とにかく父は礼儀作法にうるさかった。母の話では、相撲部屋のお嬢さまの影響だと言うが、この話はあまり話したがらなかったので、一度きりしか聞いていない。

 一方の私は、中国人を怖がっていたが、なぜか中国人の女友だちができた。それはきっと、兄がなにか注目されることをしたからだろうと思う。
 その中国人とは満州族で、先の中国を支配していた清国から、満州族の故郷へ逃れて来た人たちだった。私たちは、仲良くなって身振り手振りで意思を伝えて遊んでいたが、ある日家に招かれた。
 友だちのおかあさんは、私にお茶とお菓子を出して歓迎してくれた。そのお菓子とは小さい形に整えられていて、一口食べてみるとそのおいしいことと言ったら、それはもう私も満州族に生まれかったと思うほどだ。後に甘点心(かんてんしん)と言うのだと知るが、形は中華料理の点心のようで、具は上品にあまいお菓子でできていたものが多かった。中でも私は、白ゴマをまぶして薄皮につつまれた団子が大好きである。
 それをペロリと平らげてから、足の甲を小さく折りたたむ纏足(てんそく)用のクツを見せてもらったり、志那服(日本名チャイナドレス、満州族の間では旗袍(ちーぱお)と言うらしい)を見せてもらったり、頭の上で輪を作る髪飾りを見せてもらったりと、とにかく皆上品で美しかった。
 しかし、私はなにも見せるものはなくて困っていたら、私のスカートやブラウスに興味を示したので、それじゃと言うことでお互いに脱いで着せ替えっこをした。私たちはニコニコして、その姿を友だちの親に見せたが、親は困った顔をしていた。今にして思えば、私の前で怒ることもできずにいたのだろう。だが、そんなことは気づかずに、私たちはしょっちゅうそんな遊びをした。
 その子の名前を思い出そうとしたのだが、ついに思い出せなかった。なにせ、もう六十年も前のことだから。でも、会いたいとは思わない。彼女も、他の人と同じように、日本が敗戦したと知ると、態度をひるがえしてしまうと思うからだ。

 あの頃、私たちが住んでいた土地は、満州族たちから奪ったものだが、彼らは馬賊と言う抗日団体を組織して、私たち日本人を襲った。それでも、馬賊は徐々に抵抗を弱め、私の生まれた頃にはほとんどなくなった。
 だが、母は時々私たちをしかった。「夜中に口笛を吹くんじゃない。馬賊が来るよ」と言って。

 そうして奪った土地は開拓団に分配され、父の所有した面積はおよそ二十ヘクタール。そこでは、主に大豆、コウリャン、アワなどを作っていた。
 大豆は、三十度以下の比較的涼しい気候を好み、降雨量が適度にあるところに生息する。これは主食はならないが、枝豆、納豆、豆腐、味噌、醤油など、様々な製品に使われるので高値で売れる作物だった。しかし、この作物は連作が生育不良などの障害を引き起こすので、二年くらいはなにか他の作物を作らなくてはいけないと言う難点があった。
 そこで大豆の間に作られたのが、中国名コウリャン、日本名モロコシ、アフリカ名ソルガムと言うイネ科の作物。これは、温暖で降雨量が少ない所に適し、元々アフリカのサバンナなどが原産地で、茎は固く三メートルにもなって前述のように屋根などにも使われていた。食べ方は、日本や中国では粥(かゆ)のようして食べていたが、アフリカなどでは粉にひいた後に練ってペースト状にして食されているようだ。私はと言うと、やはり粥にして食べていたが、米よりもちょっと固いが癖のない味で、今の時代の健康食と考えると中々おつな味である。
 アワもイネ科の作物で、温暖で降雨量の少ない所に適している。そして、二〜三か月で育つことから中国では昔から米よりもアワを主食としていた。食べ方は、コウリャンと同じく粥などであったが、味はあまりおいしものではなかった。

 今でも時々夢に見る。広大な土地に豊かに実る作物を。



 あれは、大陸に冬が迫りくる底冷えのする日だった。村の農民が、三メートルにもおよぶ巨大なトラに襲われたのだ。それは痛々しい遺体で、トラは捕獲した死体を木の上に隠してゆうゆうと食べた。
 まず、柔らかいお腹を食い破り、内臓をペロリと食べた。次に、よく筋肉の付いた足と腕を骨までしゃぶりつくすように食べた。そして、頭をガリガリと食い破り柔らかい脳みそをひと飲みしたのだ。残ったのは、骨だけと言うありさまだった。

 それを聞きつけた兄は、密かにトラ退治をもくろんでいた。兄は決して一人でトラ退治に行かないように父からきつく言われていたが、そんなことは聞く耳を持っていない。父が村の集会に行った日に、兄はゲートルを足に巻いて、肩には大きなライフルをかついで、勇ましくトラ退治に出発した。私は、ひそかに後を追った。
 収穫を終えた畑はさえぎる物がなくて、トラがいないことはすぐに分かった。兄は、それからヤブの中に分け入って、ライフルの銃床(じゅうしょう)でイバラを蹴散らし進んで行った。
 突然、目の前が開け、大きな木の上にトラを見つけた。兄はその場に立ち止まり、そーっと身をひそめる。私は怖くなって兄のオーバーをつかんで震えた。ビックリした兄は、すぐに困り果てた顔をする。
「おい、なんで着いて来た?」
 兄は、声をひそめて、そう言った。
「だって……」
 それは、好奇心からだっただろう。それに、兄の後を付いて行けば安全だってことが、それまでの様々な経験から、知っていた。だから、私はどこまでも兄に着いて行ったのだ。
 だが、兄にとっては、この緊迫した場面で妹の心配をしなければならないことに、激しく動揺しただろう。失敗は自分の命だけでなく、妹の命まで奪うのだ。それでも、こうなったらもうやるしかない。そう兄は思ったに違いない。
 今にして考えると、いらぬ責任を負わせてしまって申し訳ないことをしたと思う。

 覚悟決めたように、兄は腹ばいのなってライフルかまえ、目をこらしトラに標準を合わせた。静かに長い息を繰り返し、息をピタリと止めた。次の瞬間、引き金は引かれ、らせん状の銃口から銃弾が弾き出された。そして、トラの頭に到達すると、銃弾は頭がい骨に穴を開け、脳みそをメチャクチャに破壊する、……はずだった。だが、トラは一度目を閉じただけで、倒れはしなかった。
 続けて二発目を腹部に、そして再び頭部に命中させるが、トラはびくともしない。きっと、分厚い皮膚と頭がい骨が銃弾をはねのけているのだ。そして、トラは静かにこちらに向かってくる。
 私は、怖くて動けなかった。そう、この時点で腰を抜かして、涙をポロポロこぼし、オシッコをもらしていた。私の命は今消えるのだ。それも、あの村人の遺体と同じように、首に食いつかれて息の根を止められ、その後じっくりと内臓から食われるのだ。私は、父と母に別れを言った。
 その瞬間、突然兄が大声を出して泣き出した。ああ、兄もあきらめて泣き出したのかと、私は兄の手を握って運命を共にしようと決めた。おーい、おいおい。おーい、おいおい。
 それを聞いたトラは勝ちを確信したのか、口を大きく開けて一声、ガオー! と吠えた。
 その時、兄はいち早くライフルをかまえ、開いたトラの口に一発の銃弾を放った。
 ズドーン!
 その銃声のあとに、トラは足元からくずれ落ち、静かに倒れた。その姿を見守っていた私たちは、お互いの顔を見つめ合って、抱き合った。私は、兄の胸で頭をなでられて、涙をボロボロこぼし、鼻水を垂らして、大声でおいおい泣いたのである。
 本当に、この時のことは、今でも思い出すたびに、背筋が凍る。二度と経験したくはない思い出である。

 次の日、兄は父をともなって、荷馬車でトラの遺体を回収しに行った。しかし、トラのにおいをかぐと馬が腰を抜かして回収できずに、結局村人十人ばかりの人の手を借りねばならなかった。その十人は皆、率先してただで手伝ってくれたのだが、それは人食いトラを退治してくれた感謝の気持ちからだっただろう。
 その後、村の人たちにトラのバーべーキューを振る舞ったのだが、腸は誰も食べるものがいなかったことは、当然のことだったろう。

 兄は、この時十一歳になったばかりだったが、父はこれ以降一人前として扱った。



 一九四五年になって日本本土の戦局は厳しいものになったが、私たちの暮らしはいたって平穏だった。だが、日本への食料の輸出が義務付けられて、その厳しさは伝わって来ていた。
 そして、ついに父たち開拓団の男たち全員にも召集がかかった。私たちは涙でお別れをした。その時の父の言葉が、なにかあったら俺の実家に行きなさい。きっと、よくしてくれるからだった。父は、この時敗戦するのだと思っていたのだろう。あの豊かな国アメリカと戦争を始めてしまったのだから。そして、まもなく日本は全面降伏する。一九四五年八月十五日のことだった。
 それまで人のよかった中国人たちが、急に態度をひるがえして言うことを聞かないどころか、誰かが石をぶつけられたと聞いた。そして、彼らは日本人は出て行け言って私たちの家に迫って来て、いつ押し入ってもおかしくない状態だった。兄がライフルで武装していたから、どうにか襲われることはなかったが、異国で敗戦するということが、いかに恐ろしいものかを、この時はじめて知った。
 このままでは、命の保証もままならないと感じた私たちは、集団で防衛するために、一か所に集まった。

 父は、終戦になっても帰って来ることはなかった。きっと、ソビエト軍の捕虜となったのだろうと聞かされ、母はその場に泣き崩れた。うわさに聞く極寒の地シベリアに抑留されると思ったのだろう。その時から私は、戦争を、とくに侵略戦争を憎んだ。いまさら、憎んでも遅いのに。

 けれど、そんな時にも兄、誠太郎はひるまなかった。父は必ず生きて帰ってくると言って私たちを勇気づけ、日本に帰ることをいち早く決断した。異国で産まれて、まだ見ぬ祖国、日本を目指そうと。
 だが、日本政府はなかなか引揚船を用意してはくれなかった。その間、ソ連軍が満州国に押し入って、とても危なくて外を歩くことはできなかったし、私たち日本人は中国人のば声と、暴力におびえる毎日だった。そして、なによりも食料が足りなかった。畑の作物は、とても危なくて刈り取る事はできなかったし、当然春になっても作付けはできないだろう。このままでは、全員飢え死にしてしまうとあせっていた。
 ところが、一九四六年三月に突然ソ連軍が撤退し、五月には日本政府がようやく引き揚げに乗り出して、引揚船を出してくれた。
 母と兄と私と幼い弟は全員で、春の終わりに冬用の防寒具をあるだけ重ね着して、母と私は髪をバッサリと切って男物の服を着込んで襲われないようにして、各自リュックサックにできるだけの食料をつめて、逃避行の準備をした。

 私たちはライフルをかまえた兄を先頭に、生還のための行列に加わって、必死の行軍が始まった。年寄の男たちと、男の格好をした女たちと、それに子供たちの、ひどく弱々しい行軍だったろう。
 この時、信じられないが汽車には乗らずに徒歩で行った。私たちが、もし乗ったら袋叩きに合うのは目に見えていたから。
 そして、韓国を経由しては危ないということで、大連(だいれん)まで行って船に乗るように言われた。チチハルから大連までの距離およそ千キロ。途方もない距離だった。その時は、距離が伏されたが、もしも知っていたなら、きっと私は歩くことを放棄しただろう。
 脱出経路は、チチハル、ハルピン、長春、奉天、大連の全行程に渡って、行軍は夜行われた。そして、夜明けになったら人に発見されない場所を見つけて、見張りをつけて、昼間寝るのだ。
 朝寝る前には固い干し肉や、コウリャンの粉に水を含ませて少しずつ食べた。それでも、食料が足りなくなったが、農家に行って物々交換をする分けにはいかず、仕方なく兄が命の危険をかえりみず農家から盗んだ。実際、それで帰って来なかったものも多かった。
 私は、途中で足が痛くなったが、歩くことは止められなかった。止めれば、そこで餓死。運がよければ、心ある中国人にひろわれて、育てられただろう。今の時代になって戦争孤児をよくテレビのニュースで聞くが、そう言ったものたちは、そんな行軍について行かれなかったのかも知れない。

 一日約三十キロ、日数およそ一か月かけて千キロを歩き、大連までの距離もあとわずかになった頃、三歳の弟、忠が栄養失調で亡くなった。母がおぶって、朝に旧日本軍の飛行場跡で野宿しようとして背中から降ろしたときには、もう亡くなっていた。母は、気がふれたようにいつまでも忠をゆり起こそうとしていた。だが、兄がそれを止めさせ、飛行場の格納庫の下の土を板切れで掘り返して、忠の亡きがらを埋めた。
 兄と私は、痩せてガリガリな手を合わせながら思っていた。明日は我が身だと。その日は、連日の行軍で疲れていたが、中々寝つけなかった。

 今も弟の忠は、中国の大地に眠っている。戦後、私にはそこまで行く勇気はなかったし、どこなのかよく覚えていないので。
 その事を思うと胸が痛む。忠と一番長い時間を過ごしたのは、私だったから。母が、農作業をする間、おんぶをしてあやし、下の世話をした。そして、一番早く覚えた言葉が、おねえたんだった。おしめが取れたら、私が兄のあとを追ったように、今度は忠が私のあとを追った。だから、四六時中一緒にいたし、よくしゃべり、よく遊んだ。そんな忠を亡くしたのだ。
 だが、私はついに泣けなかった。その時は、私も同じように死ぬのだと思っていたから。そんなギリギリの状態だった。



 弟の死のあと、私たちはようやく大連に到着した。春の終わりから夏にかけて防寒具をできるだけ着込んで、一か月の間一日も休まず千キロもの距離を夜歩き続けて、かなり臭くて汚かっただろう。だが、そんなことを気にする余裕はなく、とにかく食べることと、眠ることに必死だった。
 引揚船には、数日で乗れた。やっと、日本へ帰れるとマットのしいている客室でホッとしていると、船内にロシア兵が乗り込んで来て、若い女性は皆どこかに連れていかれた。幼い私にも、これがどういうことなのか、おおよその見当はついた。
 放心状態で返って来て、突然泣き崩れる者、正気を失った者を見てあらためて思った。これが、異国で敗戦するということなのだと。幼心に、深くきざまれた教訓だった。

 私たちを乗せた船は、大連をあとにして一路博多港へ向かった。船の客室は、むせび泣く若い女性の声と、病気の子供や老人たちの咳に苦しむ声だけだった。その中で、兄と私はひたすら寝たふりをした。甲板(かんぱん)にはあがることは、禁じられていたから。
 その中で、若い女性が死んだ。ある日、目覚めることなく静かに逝った。きっと、結核かなにかをわずらっていたのだろう。襟には、血の跡が付いていたから。船内にそのまま置いておくには、どうしても不衛生になるからと言って、泣いて止める母親を残して、亡きがらは海に沈められた。
 それ以降、栄養失調、結核の人たちが、次々と死んだ。私たちはその中で、どうにか生き延びていた。

 一九四七年四月を迎える頃。船は、本来なら一か月で着く所を各地で止められたため、大連から半年以上もかかって、ようやく博多に着いた。
 開拓移民団三十万人のうち生きて帰って来たものは、たった十万人だけだった。他のものは、途中で襲われたり、シベリア抑留者となって病死したりして、無事帰って来たものは少なかった。私が生きて日本に帰ってきたことは、その三分の一の確率だった。
 はじめて迎える日本の春は、桜はもうだいぶ散っていたが、樹々のざわめきに心が穏やかになった。そして、石をぶつけられていじめられることもないし、命を落とすようなこともないし、ここにいても誰もなにも言わない。それが本当に心地よかった。それが、日本の地に足を降ろして、最初に思ったことだった。

 私たちは、それからすぐに自由に歩けたわけではなかった。まず、検疫(けんえき)を受けなければいけないと言われ、施設の中で順番を待たされた。検疫の内容は、伝染病は持っていないか、妊娠はされられていないかなどの検査を受け、それがすむとDDTという殺虫剤の白い粉を頭からかけられて害虫駆除をされた。今の時代ならばDDTは人体に悪影響が及ぼすかも知れないといって使われないのだが、その時はそんなことは知らなかった。ただ、肺に入らないように必死で口を手で押さえていたのを覚えている。とても、不快だった。
 しかし、検疫所に留め置かれた間、食事が出されよろこんだのも事実である。実に、約一年ぶりのちゃんとした食事だった。白いごはん、みそ汁、焼き魚、漬け物。とても、おいしかった。

 ようやく検疫も終わると、私たちは旅費も配布されて、よろこんで博多駅で汽車に乗り、父と母の故郷、福島へ向かった。
 途中の風景は覚えていない。ひどく疲れていたのと、栄養失調でフラフラだったので。だから、博多から福島までどいう経路で帰ったのかは、思い出そうにもはじめから分かっていない。
 だが、窓の外から時々眺める風景は大きな都市は空襲で焼けて、まだ復興してはいなかったように思う。



 私たちは、まる一日汽車に乗ってようやく福島県二本松市へ到着した。母は、途端に元気になり先頭を歩いて、父の実家までの道中、あれは安達太良山(あだたらやま)ね、これは阿武隈川(あぶくまがわ)ね、などと説明してくれた。そう、ここは高村光太郎の『智恵子抄』の舞台なのだ。
 そうは言っても、この時はそんな知識はなく、ただ腹いっぱいに食べたいと言う思いしかなかったので、母は私たちの反応にひどくがっかりしたようだった。
 私たちが帰った所は、父の実家。父の言う通り、父の両親や兄たちは私たちを歓迎してくれた。着くなり、よく帰って来たねと言って涙を流し、腹いっぱいの食事と、ひさしぶりのフロと、そしてきれいな布団を用意してくれた。私たちは、それを有難くいただいたが、いつまでもお世話になりっぱなしでは申し訳ないと言って、次の日から自分たちの食いぶちを稼いだ。
 この年、農地改革が行われ、それまでの地主としての権利を失って、父の実家は小さい農地を必死で守っていかなければならなかった。だから、両親たちも苦しかったのだ。それなのに、無理をして私たちに、よくしてくれたのだ。その気持ちが有難かった。

 次の日から母は、野良仕事の手伝い、ぬい物を主な仕事とした。兄も、野良仕事の手伝いなどをして、私たちにごはんを食べさせてくれた。私は、この時まだ小学生だったので、近所の子供の子守などをして、小銭を頂いた。
 あの頃、きれいで優しかった従姉のおねえさんは、私に時々おにぎりや、お菓子をこっそりくれた。私も大人になったら、おねえさんのようにきれいになりたいと思っていた。だが、残念ながら私の願望は、果たされなかった。私は、それから約十年後、たくましくなって農家に嫁いだから。
 この間、息子が大学に入った折、実に三十数年ぶりで従姉のおねえさんに会いに福島に立ち寄ったのだが、私の感謝の言葉におねえさんは涙した。北海道で、よく頑張ったねと。

 父が、ソ連から帰ったのは私の記憶では、一九五〇年の秋だったと思う。まさか本当に生きて帰ってくると思っていなかった私は、父の足元を穴が開くほど見た。そんな私を抱き上げ、涙する父をはじめて見た。やはり、人の親なのだとあらためて父を見直した。
 母は、忠を失ったことを父に言ってわびた。その時、父は一瞬言葉を失ったが、母の肩を抱いて、すまん、苦労させたな、と言った。私たち四人は抱き合って涙した。私は、この時はじめて忠を思って泣いた。忠が死んでから、実に四年がたっていた。
 それから父は、帰された理由を話したのだが、栄養失調になって帰されたと言った。シベリアに送られて大変だったと思うが、そんなことはなく、手先が器用だったので、主に大工仕事のまねごとをさせられて、そんなには苦労しなかったらしい。これは、あくまで本人の言葉であるが、私たちにつらかったなどと言う人ではなかったので、作り話とも考えられる。

 それで、父がこの福島でなんの仕事をするのかと見ていたら、市役所に行ってすぐに北海道行きを決めてきた。父は、手付かずの土地がただで手に入るし、おまけに旅費も出してくれると言うことを聞いて、即決したらしい。
 確かに、ここにいても十分な食料を口にするのは難しいだろうし、四十を超えて今から住み慣れない町で暮らして行く自信はなかったのだと思う。だが、私はそんな寒い所は嫌だったし、なによりも熊が怖かった。それは、母も兄も同じ思いだったに違いないが、言った所で父の決断はゆらぐことはなかった。その日のうちに荷造りを始めた父だった。



 旅立ちの日、父は両親とお兄さんたちに別れを告げると、お気に入りのゲートルを巻いて、さあ、これから北海道へ行くぞと言って、私たちの先頭を勇ましく歩き始めた。私たちは皆、下を向いてリュックをかつぎ、父の後について行った。
 夕方、二本松の駅で汽車に乗って、父母の故郷福島を後にした。辺りはすぐに真っ暗になり、景色を見ることはできなかった。私たちは、その夜汽車の中で、アワのおにぎりを食べた。粒が固くておいしくはなかったが、とても米を買うお金がなかったので仕方なかったのだけれど、家族旅行だと思えば味も変わるものだ。父が帰って来て、母がいて、兄がいて、弟の忠は残念ながらいないが、家族の初めての旅行だ。私は妙にはしゃいで遅くまで起きていたが、いつの間にか眠ってしまった。
 翌日、母にゆり起こされた。窓の外を見ると、どうやら青森駅に着いたようだ。私はあわててリュックを背負った。これから連絡船に乗るのだと聞かされ、私は引揚船の悪夢を思い出して、身体が硬直してしまった。それを感づいた兄が、大丈夫だ、もう人が死ぬことはないからと言う言葉に、ようやく身体に自由が戻って汽車を降りた。まだ十月だと言うのに、外は思いのほか寒かった。私は立ち止まりオーバーを着て連絡船に乗った。
 船の中は引揚船と同じように、客室が高さ三十センチほどのおよそ五メートル四方のマットがしいてある床で、その上で私たちは寝転んだ。途中、波がかなり高くて酔ってしまったが、ずっと寝たままだったのでつらくはなかった。父も寝転んで、母から満州国からの引き揚げる時の話を、うんうん言いながら、時には涙ぐみながら聞いていた。

 北海道に着いてからが本当に長かった。函館から目的地の西春別(にししゅんべつ)という所へついたのは、乗り換えを繰り返したのもあるが、実に丸二日かかってしまった。朝もやけむる中、そこからナラの森林を二十キロばかり歩いた所が、私たちの安住の地。
 父は、着くとまず最初に掘っ立て小屋を建てはじめた。ナタとノコギリとスコップを借りると、作業をすぐに開始した。立木を外側に残して、その間を伐採した木の枝でつなぎ、壁の外側を土で固めて、屋根にも枝を何層も重ねれば、もう立派な家のできあがり。囲炉裏は石で固め、風呂は五右衛門ブロを格安で手に入れてきた。私はこんな家をすぐに建てる父を尊敬した。
 翌日から、父の金稼ぎが始まった。ここら一帯の大きな木は、山火事などで細い木しかないので、木材として売るには小さすぎた。そこで、細いブナの木を切って、炭焼きを始めたのだ。炭焼きガマは近くの粘土を焼いて作った。
 どこでそんな知識を学んだのか聞いてみたが父いわく、なにごとも試しにやってみれだった。

 まわりの入植者が手こずる中、父はちゃくちゃくと利益を上げていった。まず、炭焼き。そして、大きな家を建て。馬で木の根を掘り出して開墾。それと並行していろいろな農作物作りをして、ソバが育つことを分かった。だが、そのソバもわずかしか採れない日照時間の短い気候。このままでは、利益が頭打ちなのは目に見えていた。
 途方に暮れていると、牛や馬の売買をなりわいとする馬喰(ばくろう)が町に子牛を売りに来た。行ってみると、肌つやのいいジャージという品種のメス牛がおいしそうに草を食べていた。父は、一目で気に入ったそうだ。コツコツためた中から大枚をはたいて、家に子牛をつれきた。その日から、父の勝負が始まった。
 家の一角を牛小屋に改造して、それまで作物を作っていた農地を一部、牧草畑に変えていった。そして、冬の間も草が食べれるように乾燥した草をためる所を作った。子牛はすくすくと成長して、約一年で親牛になり種付けをしたが、首尾よく受精した。そして、約九カ月後子牛を生んだ。その子牛のために親牛は乳を出す。それは、約十カ月の間続く。同時に、生まれたメスの子牛は成長して、やがて子牛を産んで乳を出す。オスなら、馬喰が高値で買ってくれる。
 こうして、毎日朝と晩、乳をしぼって町へ出荷した。それは、仲買が高値で買ってくれた。結果、酪農が軌道に乗った。牛乳は、毎日のように人々にゴクゴク飲まれ、米の次によく好まれた。人々の栄養が不足している中、国が牛乳を奨励してくれたのがきいたようだ。それを見ていたまわりの人たちも、皆酪農を始めた。そして、私たちの村の主力産業となった。
 ……と言う話だ。どこまで信じていいか分からないが、とにかく私たちの村ではじめて牛を飼ったのは事実だ。そして、酪農は今も続いている。清二から子の誠太郎へ、そして孫へと。

 そのほか、父は家族のためにニワトリとブタを飼った。だから、私たちはひもじい思いをしたことがなく、元気に成長していった。本当に、父の娘であってよかったと思っている。



 父は、晩年、酪農を子の誠太郎にゆずって、満州時代の仲間のために保険の仕事をしていた。そして、多くの孫たちに見送られて七十二歳でこの世を去った。
 四十歳で満州の異国の地を追われ、四十五歳までシベリアの過酷な労働に耐え、五十歳にして未開の地北海道で成功した父。私は、父の不屈の開拓精神をほめてあげたい。よくやったと。

 一方の私は、大人になり近くの酪農家に嫁ぎ、四人の子供をさずかった。だが、なにを思ったのか皆大学へやってしまって、誰もあとをつぐものがいなくて酪農をたたんでしまった。残念ではあるが、子供の生き方を尊重した結果であるので、仕方ないと思っている。
 そして、私は今年で六九歳になるが、この人生を振り返ってみて不幸だったとは思わない。波乱万丈ではあるが、それなりに充実した人生を送れたと満足している。
 最後に、満州から引き揚げる途中で亡くなった忠にわびたい。一人でさびしい思いをさせてごめんね。おねえちゃんが、今会いに行くから待っていてねと。

二〇〇七年 徳子ここに記す。

出典:オリジナル
リンク:オリジナル
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