紅い唇の夜来香(いえらいしゃん) (ジャンル未設定) 7746回

2017/06/29 13:42┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:名無しの作者



 あれは、一九八二年五月。千葉県の片田舎にある工科大学の入学式をすませ授業にもどうにか慣れたころ、僕は彼女と出会った。学食の食券売り場で、その女はなかなかメニューが決まらないで、長い時間かかっていた。僕はイライラして待っていたが、思わず口に出てしまった。
「早くしろよ」
 小さい声だったが、それに反応して振り向く彼女。しかし、なぜか笑顔で聞いて来た。
「悪いね。あなた、カルボナーラとペペロンチーノ、どちらがいいか?」
 彼女は、唇がやけに紅く映っていた。フワッと優しそうな顔をして、髪はショートカットで肩口まで揃えて、柔らかい色のワンピースを上手に着こなしている姿は、上品ですこぶる美人なのだが、言葉から明らかに中国人と分かる。中国人は、僕らに評判がよくない。相手のことを考えるだとか、相手の考えを尊重するだとかしないからだ。そして、この中国人も今の言動から、そのぶるいに入る。
 だが、今はどちらの料理が美味いかと言う話だ。僕の口は、嫌悪感に反して自動的に答えていた。
「僕なら、だんぜんペペロンチーノだね。それに、カフェオレを付けるよ。あくまで僕個人の意見だけど」
「謝謝(シェイシェイ)」
「どういたしまして」
 だが、その紅い唇の中国人はカルボナーラとカフェラテの食券を買った。きっと、僕がまずい方をすすめると思ったのだろう。本当にペペロンチーノがとても美味しのだが、カルボナーラだってそこそこ美味い。だから、彼女の選択に文句は言わなかった。そして、僕はペペロンチーノとカフェオレの食券を買って、カウンターで食券と引き換えに料理を受け取って、テーブルへ着いた。
 ひと口、くちに運んで思う。やはり、この学食のペペロンチーノは絶品である。ニンニクと唐辛子がほどよく焼けて食欲をそそり、添えられたトマトとナスのマリネが清涼感を感じさせてくれる。そして、ミルクたっぷりのカフェオレが一日講義で疲労した胃に優しい(本当は、代返を頼んで、講義をサボったのだが)。僕は、これだけで一週間の内六日間は持つ。残り一日は海軍と同じ土曜日にカレーを食べることに決めている。それが、亡くなった祖父の約束だから(なぜなら、カレーは脚気に効くから)。僕は、日が沈んで薄暗くなった中庭を眺めながら、ペペロンチーノに舌づつみを打った。
「ちょっと、いいか?」
 そう言うと、先ほどの中国人が、僕の皿からひとホーク奪うと紅い口に入れた。僕は、その一瞬のできごとを、スローモーションのように目に鮮明に焼き付ける。
「ん! このペペロンチーノ、とても美味しいよ。あなた、いい人ね。私がなかなか決められなくってあなたをイラつかせたのに、本当に美味しい方をすすめてくれるなんて」
 そう言って僕の背中を叩くと、彼女は隣に席に移って来て残りのペペロンチーノを勢いよく食べている。僕は、彼女のカルボナーラを食べるしかなかった。
 そして、全部を食べ終えると名前を聞いて来た。僕が工業化学科一年の永井(ながい)だと答えると、私も同じだと言って自分の名を言った。夜来香(いえらいしゃん)と……。この名は、夜に強い香りをはなつ花を持つ植物の名前である。そして、日中戦争当時の李香蘭(り・こうらん)、日本語名山口淑子(よしこ)の歌の名前である。僕は、謎めいた出会いを感じるよりも、面倒くさい女だなと思い、少しイラっとした。
 この中国人はカフェラテを飲み終えると「謝謝」と言って、僕の手をつかみ離さない。これには、焦った。さすがに国際問題になると思って彼女に言った。
「まさか、僕のことが好きになったんじゃ?」
「対対(ドイドイ)」
 これは、うんと言う意味らしい。あんなことくらいでバカかと思ったが、一応留学生の学力は学内上位十パーセントに入っているらしいから、単に常識がズレているのかも。
「それで、まさか僕の恋人になりたいって言うんじゃねいよね?」
「対対」
 そう言って、彼女は目をうるませた。僕は、この時学食のおばさんを疑った。ペペロンチーノに媚薬を入れたのではないかと。だが、俺も食べているからそれは違う。もしかしたら、中国政府が日本人を拉致するためにくわだてた策略かとも思ったが、学内下位十パーセントの成績の僕をそんな手の込んだ方法で拉致することの意義に、はなはだ疑問を感じた。
 確かに、夜来香と名乗るものは僕好みの美人だが、もしも付き合った場合に起こるもろもろを考えると、手を出す気になれず、なによりも気の強さを考えると、すぐさま断った。だが、夜来香は悪びれもせずにニコニコして、僕のアパートまで着いて来た。仕方なく気をそらすために買ったばかりのファミコンをやって見せる。作戦は成功で、夜来香は「ハッ!」「トウ!」の奇声をあげて夢中でやっている。そして、ぶっ続けで四時間やると、コックリコックリと舟をこいで寝てしまった。彼女に毛布をそっとかけると、僕もすぐに就寝した。
 この時、やりたい盛りだったが、前述の通り、手を出した後のわずらわしさを考えると、自然になえた。そんな、とほほな十八歳の春。



 翌日、夜来香は朝の講義開始ギリギリの時間まで眠って、「アイヤー」と言って、あわてて出て行った。今から自分の下宿かアパートに戻って、顔やら、服やら、勉強道具やらを揃えると、明らかに遅刻である。しかし、彼ら中国人は高い学費を払っている者が多いらしいから、全力で講義を受けに来るだろうし、また一日ぐらいサボったって、日頃まじめに講義を受けているから体制に影響はないと思われる(実際に留学性が日本政府から奨学金をもらう割合は、二割程度である)。
 僕は、やれやれと思って朝の講義に出席して眠った。一時限目が終わりをつげるベルで目を覚まして伸びをしていると、僕は男女六人の中国人留学生たちに囲まれた。なに? この状況……。
「おい、どう言うつもりだ?」
「え? なにが?」
「知らばっくれるな。張(ちょう)のことだ」
「もしかして、夜来香と名乗っている中国人のことか?」
「……たぶん、そうだ。お前、張をどうするつもりだ?」
「どうするって? こっちが聞きたいよ。一体、どうすりゃいいんだ?」
「えっ?……」
 どうやら意思の疎通はできたようだ。僕の質問には答えないで、悪かったなと言って彼らは去って行った。仲間の心配をするなんて、ちょっと見なおした。でも、仲間がやられたら倍返しと言うのはやめて欲しい。あくまで噂話ではあるが。
 仕方なく、夜来香とのお付き合いをシミュレーションしてみた。

一・付き合わない。
二・付き合う。結婚はしない。……のちに交際問題に。
三・付き合う。結婚する。彼女が日本国籍になる。……彼女が嫌がるだろう。
四・付き合う。結婚する。僕が中国国籍になる。……カンベンを。

 どう見ても、外国人だと言うことが障害になっている。自ずと、答えは一とすぐに出た。これで、納得してくれればいいのだが。僕は、次の講義のテキストを出して一応やる気を見せた。出席名簿に名前を書いたら、すぐに抜けるつもりなのだが。
 その時、僕の肩を叩く者がいた。今までこんな風に挨拶をする友だちはいなかったから、すぐに夜来香だと分かった。僕は、やあと言って隣のイスに座らせると、文句を言われた。「なぜ、もっと早く起こさなかった?」と。だが、僕は君の保護者じゃないし、もしも起こして機嫌をそこねるかも分からない。そう言うと、夜来香はみょうに納得して、これからお互いの性格を知って行こうねと言った。
 僕は、あわててさっきの四択をあげて「君と付き合うのは不可能だ」と言った。
 だが、彼女はすぐに笑って言った。
「大丈夫だよ。三でOKね」
「えーー!」
「なに驚いているの? よろしくね、ダーリン」
 まさか、日本に住んでもよいとは、選択されるとは思わなかった。もしかして、中国は住みづらい国だと公言しているのか? 中国共産党の見栄が、はかなくも崩れた音がする。
 この後、聞いてもいないのに、本当の名前を教えてくれた。張来妃(ちょう・らいひ)と言って満州族の出らしい。僕の母は、中国大陸に一九四五年まで存在した満州国生まれであるが、その地から日本に留学してきた夜来香に、なにかいわれを感じたのは否めなかった。だが、この時は親密になることを恐れて、黙っていた。

 一九三二年。日本政府は、中国の東北部に満州国と言う国を作って、日本人およそ百万人を移住させた。その時に、馬賊(ばぞく)と言うものたちに激しい抵抗を受けるが、それを退けた。
 当時、国民党に所属して満州一帯を収めていた張学良(ちょう・がくりょう)は、日本政府と全面戦争になることを恐れて、目立った抵抗はしなかったので、その馬賊は一部の不満分子だったことは想像できる。
 それでも、一九三六年彼は国民党と敵対していた中国共産党と手をむすび、日中戦争をはじめたことはあまりにも有名だ。彼は、このことで裏切り者の汚名をかぶった。
 そして今、張を名字とするものが日本に来ている。だが、中国にはこの名は多い。きっと、単なる偶然だと思った。

 彼女の頭脳と外見は、間違いなくどんな日本人よりも素晴らしく思えた。だが、性格にははなはだ不満を隠しきれなかった。そこで、僕は付き合うにあたり二三注文を出した。

一・列ができていたら素直に並ぶ。
一・相手の立場を尊重する。
一・人が見ていない所でも、盗まない、汚さない。

 中国が共産主義なった今では、仏教も儒教も忘れられて、人々の心はすさんでいると聞く。僕は、そんな人とは付き合えないし、なによりも子供の教育に悪い。そう言って、夜来香に注文を出した。
 彼女は、それが日本人になるのに必要ならと、素直に従うと言った。断れると思っていたのに、まさかこんなに素直にいうことを聞くとは思わなかった僕は、あぜんとして彼女を見る。やはり、かなりの美人である。そして、魅力的な赤い唇に、思わずツバを飲み込む。

 だが、夜来香は僕にも注文を出してきた。ちゃんと勉強してくれと。確かに、大学に入ってからの小テストは、ぜんぶ一夜漬けで、赤点ギリギリだ。なぜかと言うと、大学模試ではかなりの偏差値まで行っていたのに、プレッシャーに負けて三次志望まで落ちてしまい、自分に失望してまったくやる気がなくなったのだ。毎日、ギターと、マージャンと、パチンコと、ビリヤードでうさを晴らしていた。やってみると、どれも奥が深くてのめり込んだが、これだけの趣味を持つことには、さすがに無理があると思っていたので、この際、趣味はギターだけにして、毎日の講義の復習をはじめることにした。
 この分だと、単位は余裕で取れるので、工業高校だけど教員免許も取ろうかと思う。第一線の研究職を絶たれた今となっては、その道が安定していて、余生を送るにはいいだろうから。

 その点、もしも中国に戻ると考えると、夜来香の前途は明るいらしい。と言うのも、中国はまだまだ後進国で、これから新しく生まれる産業も多いだろうから、研究者が不足している。だから、この大学程度だって研究職によういに着けるのだ。
 そう考えると、化学を選んだことを非常に悔やんだ。電子工学部なら、個人でも部品を買って組み立てさえすれば、どんな家電も作れる。パソコンだって。だから、一発逆転もありえる。
 だが、化学では個人で買える物が限られている。あの構造が単純なアセトンだって、引火性と劇物指定でよういには手に入らない。だから、どんなにいいアイデアを持っていても、個人ではなにもできないのだ。だから僕は、電子工学部にあこがれと、ねたみを持っている。
 だが、これも成績で進路を決めたむくいだと思ってあきらめている。

 二人でおとなしく講義を受けると、夜来香の女友だちが寂しそうにしている。この学部に中国人留学性は七名。うち四人が女性であるが、一人は現在ラブラブで隣にはいつも僕がいるので、三人で仲良くやればいいのだが、あいにく二人とも気が強いらしい。ほかの男たちは、プライドが高くって近づきづらいと聞いている。それで、気は強いが、考え方が柔軟で、優しい所もある夜来香に救いを求めたのだ。
「ねえ、彼女を連れて来ていいか?」
 むろん、返事はOKだ。僕と夜来香と女子留学生Aが、仲良く授業を受ける。だが、いつの間にか中国人留学生がみんな集まってしまった。そればかりか、僕のマージャン仲間まで集まって総勢十二人。仕方なく、自己紹介をかねて飲み会をする。中国人は、酔うとすぐ中国語になるから一気飲みの罰則をもうけた。
 それにしても、彼らは面白い。酔うと話し言葉が歌のようになるのだ。そう、『夜来香』の歌の調子のように。僕らは、この飲み会で仲良くなった。彼らは、日本語が上手くなると言って喜んだし、僕らは中国語を教えてもらった。まさしく、異文化交流。この輪が広がって世界が平和になればいいのに。しかし、いつまでたってもそれは実現しそうもないのだが。
 ともあれ、楽しい飲み会だった。

 あれは、実験が終わりレポートも書き終えて、学食へ来て一人のんびりと遅い夕食を食べている時だった。中国人男子留学生のBが、ちょっといいかと言ってきた。めずらしいこともあるものだなと、いいよと応えた。
「お前、ほんとうに来妃と付き合うのか?」
「ああ、付き合うよ。多少気が強くて、考え方が分からないこともあるけれど、あんなかわいい子はいないし、意外に素直なところもあるから」
「……そうか」
 そう言うなり、彼は行ってしまった。たぶん、来妃を好きだったのだが、言い出せずに悩んでいるうち、横から僕に取られてしまった形だろう。僕は、こういう時にいい言葉を見つけられないし、また言うべきじゃないと思い、一言聞こえないように「悪い」とだけ言った。



 紅い唇の夜来香と出会ってから、はじめての夏休みを迎えた。電話で彼女を連れて行くと言うと、北海道の母は大声を出して驚く。さらに、中国人だと言うと、心配そうな声で本当に大丈夫なのと言う。それは、僕にも分からない。だが、そんなにひどい奴じゃないとだけ伝えた。
 帰省は、旅費の安いフェリーに乗り込む。僕も夜来香もはじめての船旅なので少し緊張したが、なんら問題はなかった。二等室の五メートル四方のます席のようなところで、手足を思い切り伸ばして眠った。なかなか快適な寝心地だった。
 翌日、顔を洗って甲板に出てみると、あちこちで日向ぼっこをしている。僕らもそれにならって、サングラスをかけてデッキチェアーで肌を焼いた。大学へ戻ったら、ハワイに行ったと言おう。そう言って、二人でクスクス笑う。
 食事であるが、二人ともあまり金がないのでカップラーメンを三食すするが、それ以外は快適だった。

 朝もやけむる中、北海道東部の釧路港について船を降りると、母が驚いて目を丸くする。あまりにも美しすぎると言って。確かにそうだが、性格はかなりキツイ。まあ、うちにためることがことがないので、スッキリして分かりやすいのだが。しかし、気が強い母と夜来香は早々と意気投合したようで、僕はお飾りのように付いて行った。
 母の運転する車で、釧路駅前の和商市場と言うところに行って、カニやウニなどの魚介類をしこたま買い付けてから、レストランでちょっと重い昼食をとった。夜来香は、イクラとウニが半々に乗ったどんぶりに舌づつみを打って、なかなかご機嫌のようす。中国内陸部では、まだまだ生鮮食品の流通が乏しい。なにせ、多くの犠牲者を出した文化大革命から立ち直って、改革開放に乗り出したばかりだから。
 釧路で水揚げされた魚介類は確かに美味いのだが、僕は普通の食事をはやく食べたくて、ちょっとテンションが下り気味。それでも、空気を読んで美味しそうに食べた。

 僕の実家は、釧路から六十キロ行った平原で酪農を営んでいる。面積およそ百ヘクタール(一ヘクタールは、百メートル×百メートル)に乳牛およそ八十頭。これだけを見ると莫大な資産だと思うだろうが、一ヘクタールがおよそ四十万円で資産四千万円になるのだが、大規模化と機械化のために借金があるので経営はとても苦しいらしい。と言うのも、この辺のことは教えてくれないので、よく分からないし、怖くて聞けない。もしも、この土地が神奈川にあったなら、一千八百億円はくだらないのにと、残念に思う。
 僕は継ぐつもりはないのだが、夜来香は、実家に到着するなり牛舎でのエサやりだとか、トラクターの運転を真剣にやっている(公道でないところでね)。母に気に入られようとしていると思うが、見ている方が心臓に悪い。だから、翌日からは道東の観光へ連れて行ってもらった。
 遊覧船で行く阿寒湖のマリモ(藻が丸くなっている)。山の上に静かにたたずむ霧の摩周湖(本当にめったに晴れない)。クッシーのいる屈斜路湖(くっしゃろこ)でのキャンプ(なにかの見間違えでは?)。硫黄山のゆで卵(噴火注意!)。根室の花咲ガニ(ヤドカリ科だけど、めっちゃうまい!)。厚岸のカキ(海のミルクと言われる栄養豊富さ)。
 この中で食べるがおすすめなのが、花咲ガニと厚岸のカキ。なん日も泳いでバーベキューと砂湯を楽しめるのが、屈斜路湖。
 夜来香は、楽しんでくれたようだ。少しふっくらとしたほっぺたを見てそう思う。なんだかんだで、一か月間北海道をまんきつして中国へ帰省した。

 夜来香が帰った後、母は思う所があったのだろうか、満州時代のことをくわしく話してくれた。
「一九三二年、日本は中国東北部に満州国と言う国を作って、日本人およそ百万人を住まわせた。祖父は、開拓団へ加わって馬賊と戦い作物を作っていった。
 そんな中で、仲のよかった中国人の友だちが一人だけいた。名前は、三十年以上も前のことなので思い出せないが、私たちは片言の中国語と日本語で会話して、彼女の家にまで行って、もてなしを受けた。美味しいお茶と、口がとろけるような甘点心(かんてんしん)と言うお菓子は、今でも思い出すたびに私も満州族に生まれたかったと思うほどだ。
 そして、彼女の服装は、きらびやかな髪飾りに、身体にピッタリしたチャイナ服、そして刺しゅうのほどこされたてん足ようのクツ。とにかくみな美しかった」

 母は、そう言って遠い目をした。そんな思い出をうちに秘め、日常の酪農と言う労働をしていたのかと、母の人生をあわれに感じた。

「でも、一九四五年八月十五日、日本は負けて父はソビエトのシベリアに抑留され、母と私たち子供だけで千キロもの距離を歩いて引揚船に乗らねばならなかった。
 その途中で、日本軍の飛行場格納庫あとで弟の忠が栄養失調で死に、私たちも骨と皮だけになってもうだめかと思った時、馬賊たちが現れた。私たちが呆然としている中、彼らは食料を与えてくれた。そして、なにも言わずに消えてしまった。はじめは、混乱してなにが起こったのか分からなかったが、もしかしてあの馬賊はお友だちの知り合いではないかと思うようになった。なんの根拠もないが。
 そして、私たちはどうにか生き延びて無事日本にたどり着いた」

 その後、母はしばらくの間、なにか考えているようだったが、搾乳(さくにゅう)の時間が迫っていることに気が付くと、ようやく口を開いた。

「もしも、あのお友だちに会うようなことがあったら伝えて。私は、今も元気よ。あの時はありがとう。この御恩は一生忘れないわ。いつまでも元気でね」

 そう言うと、母は晩の搾乳に行ってしまった。僕も、ひさしぶりに手伝おうかとツナギに着がえて牛舎へ行った。



 一年の後期が始まった頃、急に夜来香がギターを習いたいと言う。僕もクラシックギターは大学へ入ってから初めて弾くので苦労していたが、僕のギターを貸して練習をさせた。まったくの初心者だったので、はじめは苦労していたが、次第にさまになってきて、僕もあせったほどだ。
 彼女の好きな曲は、リョベート作曲『アメリアの遺言』。そして、マリヤーズ作曲『カヴァティーナ』(これは、映画『ディアハンター』のテーマ曲)。二曲とも、静かで心に訴えかける曲だ。
 二人で部室にいると、先輩の斉藤恵さんが覗きに来た。彼女は、十弦であの名曲バッハの『シャコンヌ』を壮大に弾く。はじめて聞かされた時は、脳天に電気が走ったくらいだ。
 その斉藤先輩は、夜来香のギターをしばらく聞いていたが、
「どう? あなたもギター買ってみる?」
 と言った。だが、クラッシックギターは最低でも十万はくだらない。僕は、パチンコで儲けて買えたが、自費で留学している夜来香には痛い出費に違いない。だが、そんな心配をよそに現金で買うという。もしかして、資産家の娘かとも思ったが、笑ってごまかされた。
 そうして、ギターを買った夜来香はますますギターに力を入れ、ほかの部員から定期演奏会に出た方がいいと言われ、ちょっとご満悦。しかし、肝心の講義はしっかり押さえていたから、成績が下がることはなかった。
 そして、十二月の日曜日に、定期演奏会は予定通りとり行われた。当日、なぞの中国人が二人録画していたが、夜来香は知らないという。怖いので話しかけずにいたら、夜来香のしっとりとした演奏を録画し終えると、そうそうに立ち去ってホッとする。
 僕の演奏だが、れいのあがり症が出て、散々な出来だった。打ち上げで荒れていたら、夜来香が来年頑張ろうよと励ましてくれた。かなり、格好悪い酔っ払いだった。

 一年の冬休み、僕と夜来香は車の免許を取った。彼女は、どうせ日本に住むのだから当然ねと言って、張り切って日本語で講義と実習を受ける。女の子に負けるわけにはいかないと、僕も必死になって受けたので、二人とも一か月かからなかった。免許を手に入れた時は、二人とも自然に笑顔になって、写真撮影で注意を受けてしまった。

 こうして、僕たちは二人で思い出をつくり、二人で勉強をした。入った時は、どこか色あせた校舎も、今は緑につつまれた建物だと思うようになった。それでも、喧嘩してなん日も口をきかなかったこともあった。けれど、別れなかったのは、夜来香が素直な性格だというのが大きい。僕は、この大学を卒業して思うだろう。僕は、夜来香によって救われたと。



 大学生活も、あと少しになった頃、僕は教職の実習で千葉の工業高校へお世話になった(前にも言ったが、僕の所属している工業化学科では工業高校の教職しか取れないので)。だが、最近の生徒は荒れていると聞く。果たして、無事単位を取れるのかと心配した。
 行ってみると、注意事項がたくさん並べられた。その中で特に注意を引いたのは、金品を決して上げないようにだ。まるで、ヤクザの世界かと思うほど、その高校は荒れていた。
「永井先生」
「は、はい」
「お金は、昼ごはん分だけしか持ってこなかったでしょうね?」
「はい。それはもう」
 まるで、小学生の遠足のようだ。やはり、教職はあきらめた方がよかったか……。そう考えてる間に、教室のドアが開かれた。
「えー、皆静かに。今日は、実習生が来ている。皆、悪さをしないように」
 はーーい、などと言う調子っぱずれの返事が聞こえる。
「いいか、聞いて驚くなよ。彼は、偏差値四十から一年で六十にあげたんだ」
 えーー。と驚きの声が上がる。
「永井先生。火元は消化しました。あとは、存分におやりなさい」
 そう言って、本物の先生は行ってしまった。なぜ、そんなことを知っているのかと思ったが、こうして、僕はいじめらることもなく、生徒たちに質問攻めにあった。どうやって、一年で偏差値を二十も上げたのかと。僕は、その質問に正直に答えた。
「ひたすら、復習の鬼だ」と。
 どだい、はじめて習うのに予習するなんて、時間の無駄だ。テストだって解答を見てひたすら覚えるのだ。
 生徒たちに神とあがめられて、授業は始まった。皆の真剣さがビシビシと伝わってくる。僕は、気持よく教育実習をやっつけた。

 僕がなんとか実習を終了したころ、紅い唇の夜来香は、釧路市役所へ就職がきまった。夜来香は、自ら市役所へ出向き、「これからは観光です。それも、十二億人をかかえる中国人を呼び込むのです」と言ったと聞く。きっと、これからはそんな時代がくるだろうと思った。
 だが、これで二人の結婚のためには、ぜひとも僕が釧路へ就職しなければいけない。僕は、採用試験を釧路の工業高校一本にしぼった。結果は、工科大学の力だろうか、無事就職が決まった。僕は、この工業高校から偏差値六十を真剣に狙わせようと思う。

 卒研も無事すませて、工科大学の卒業式は、武道館で行われた。桜が満開で道にはピンクのじゅうたんができていた。僕らは、その上を歩いて武道館へと入って行った。夜来香と、中国人の仲間たちと、僕の悪友たちで。
 卒業生、総勢二千人。多いと思うが、満州で死んだ人は、およそ八十万人。あらためて僕らの先輩方が負った責任を重く受け止めた。もう、二度と侵略戦争は起こしてはならないと。僕の隣で、うれしそうに壇上を見ている夜来香に、そう心の中で誓った。

 母も、この卒業式には来てくれた。僕と夜来香は、おとなしく母のフィルムに収まって親孝行をした。母は、式典が終わると父の故郷へ行ってくると言って、一人福島へ行ってしまった。戦後、満州国から引き上げてお世話になった時から、実に三十七年ぶりの訪問である。きっと、涙の再開になるだろう。
 母がここまで訪問しなかったのは、遠い距離と、乳牛と言う生き物を飼っているからなのだろう。あらためて、戦後のなにもなかったところへ行って、ゼロから酪農をはじめた苦労を思い、あとを継がなかったことに後ろめたさを感じた。



 地元釧路へ戻って工業高校の教職について一年目が終わる頃。僕は、夜来香と式をあげた。衣装は、彼女の希望でウエディング・ドレス。式には、おかあさんだけでも呼ぼうと言ったが、なにか事情があるのか、来れないと言って黙ってしまった。仕方なく、僕の親戚に両親代行を頼んで、なるべく話さないようにお願いする。でも、夜来香は感情たっぷりにおとうさん、おかあさんへの感謝の気持ちを伝えていた。僕は、思わず涙が出て来てしまった。そして、何ごともなく無事結婚式は終了した。

 新婚旅行は、夜来香のたっての希望で、彼女の母親に挨拶に行く。それも、僕の母が満州から引き揚げたときと、まったく逆の道筋で。博多からフェリーに乗り大連港へ。大連から昔満鉄と言われた鉄道に乗って、奉天、長春、ハルピン、チチハルへ。
 これも、なにかの因縁か、果たして奉天の町はずれに旧日本軍の飛行場格納庫あとらしきものを発見する。もしかして、母の弟忠が埋められたことろじゃないのかと思い、あわてて夜来香の手を引いて電車を降りると、格納庫あとを探した。そして、見つけた。忠さんの墓の印は四十年もの間しっかり立っていた。さっそく、地元の警察へ行って事情を説明して、遺骨を受け取った。荷物になるので、不謹慎だけれど宅急便で母に送った。母に電話をすると、涙声でありがとうと感謝された。きっと、おじいさんの眠る墓に入れて供養してくれるだろう。
 夜来香は、よかったねと言って、僕のしたことに理解と、より一層の愛情を示してくれた。紅い唇の熱烈なキスによって。

 チチハルへ着いたのは、予定より二日遅れて。それでも、夜来香のおかあさんは大歓迎してくれた。夜来香のおかあさんの名前は張李妃(ちょう・りひ)。日本語が話せるのは、戦前に日本人と交流を持っていたからだと言う。そして、その服装は、満州族のいで立ちで、頭に豪華な髪飾り、身体のラインが見えるチャイナ服、足には刺しゅうがほどこされたてん足用のクツをはいていた。思わず窮屈そうな足を見てしまうが、慣れているのでぜんぜん痛くないそうだ。
 夜来香のおかあさんは、着くなりごちそうを出してくれた。料理の名前は分からないが、あっさりしていて食べやすいもので、二日に渡り奉天に滞在して食べたこってり系の北京料理とは違っていて、胃にも優しかった。
 料理を食べつくして、度数が高そうだが飲みやすい酒を調子に乗ってあおっていると、どうぞ末永く娘をよろしくお願いしますと、頭を下げられた。恐縮してこちらも頭をさげていると、急に胃の中から逆流してきた。あわててトイレにかけ込むと、勢いよく……。とにかく、料理は美味しかった。
 僕は、この時まだ夜来香には、母の話をしていなかった。ただ、満州国に産まれたとしか。それは、日本人が満州でしでかしたことを考えて、話さない方が無難だと思っていたからだった。だから、この時もしかして夜来香のおかあさんは母の友だちではと、なんども言いそうになったが、ぎりぎりのところで言わずにいた。 
 夜も深くなった頃、夜来香が眠りにつくと、夜来香のおかあさんはこちらにと言って僕と二人きりで話すことを希望してきた。

「私は、張学良の側室の娘で名を李妃と言う。あの頃私たち母子は、日本軍の監視下におかれ、あなたのおじいさんはその監視役だった。それで、あなたのおかあさんに私と遊ぶように言ったの」

 驚いた。やはり母と知り合いだったのかと。今まで言わなかったことをわびて、頭を下げた。こんな、偶然があるものなのだな。きっと、忠さんが導いてくれた縁だと思い、心の中で感謝した。

「いいえ、あなたは悪くないわ。きっと、私たちを傷付けないようにと思ってのことでしょうから。
 でも、あなたのおかあさんと過ごした日々は楽しかった。ときどき夢に出るほどに。あなたのおじいさんはもう亡くなったようだけど、おかあさんは元気? もう一度会いたいけれど、やめておきましょう。私の海外旅行は禁止されているし、いろいろ迷惑をかけるだろうから。でも、一言伝えてね。今でも友だちだって思っていると」

「母から言づてです。私は、今も元気よ。あの時はありがとう。この御恩は一生忘れないわ。いつまでも元気でねと。
 あの馬賊は、おかあさんがさし向けてくれたんですね?」
 その問いには応えなかった。ただ、おかあさんは僕を抱きしめて涙を流した。もはや、あの馬賊がおかあさんの意向を受けて助けに来たかは、考えるまでもなかった。
 そして、母があの時死んでいたなら、僕はこの世には生まれてこなかった。だから、おかあさんは僕の恩人でもある。あらためて、この母娘との結びつきを強く感じた。

 その後、夜来香のおかあさんは、見た目が中華料理の点心(てんしん)のような甘点心(かんてんしん)と言うお菓子と、お茶を出してくれた。これが、あなたのおかあさんの大好きだったお菓子よと言って。それは、白いかわに包まれた小さなまんじゅうだった。僕は、その美しい甘点心を食べるのが惜しくなったが、夜来香のおかあさんの顔を見てみると、感想を聞きたそうだったので、仕方なく一口食べてみた。ああ、これが母が昔食べた甘点心の味かと思うと、涙が染みてきた。確かに、母が私も満州族に生まれたかったと思うほどだ。
 帰りに甘点心のお土産をいただいた。母は、きっと涙を流して懐かしがるだろう。目に浮かぶようだ。だが、夜来香が張学良の孫であることは、どうか誰にも言わないでねと言った。だから、僕と張李妃、二人だけの秘密である。



 新婚旅行から帰って、日常を取り戻したある朝、夜来香はいなくなっていた。さようならの手紙と、結婚指輪を残して。あわてて手紙の内容を見ると、あの日僕とおかあさんの話をひそかに聞いて、ぜんぶ知ってしまったらしい。

 私には、関係のないことだと思おうとしたが、だんだん自分の中で大きくなっていって、もはや処理しきれなくなった。
 私のおじいさんと、あなたのおじいさんの関係は、監視する側と監視される側だったかも知れないが、きっとそれほど悪い関係ではなかったように思う。しかし、敵の孫同士が結婚したなんて、もしもおじいさんが知ったら、きっと悲しむ。
 おじいさんとは一度も会ったことはないけれど、私はおじいさんを、張学良を尊敬する。だって、おじいさんが動かなければ中国人同士で、いつまでも殺し合っていたでしょう。そして、中国が日本に勝つこともなかった。ねえ、そうでしょう?

 僕は、その考えに反対だったが、戦争をはやく終わらせる意味では、大きく働いたのではないかと思う。
 しかし、今の問題は来妃がどこへ行ったのかということと、果たして張学良は僕たち二人の結婚を悲しむかということだ。僕は、手紙の続きを急いで読んだ。

 だから、私はあなたと縁を切って、どこか知らない国で生きていこうと思います。離婚届は近いうちに出しますから、どうぞよろしくお願いします。こんな気の強い女を愛してくれて、今までありがとう。サヨウナラ。

 いつもの再見(さいつぇん)を使わないところを見ると、もう会わないつもりらしい。僕は、あせってあちこちに電話をした。だが、行方は分からなかった。きっと、知っていたとしても、知らないと言うのだろう。
 結局、最後にたどり着いたのは、張学良だった。彼は、政治犯として台湾当局に軟禁されている。果たして会えるのかと思ったが、僕が孫の夫だと言うと、快く会わせてくれることになった。
 夏休みを利用して台湾へ行ってみると、彼は大きなアパートに何人かの警備のものをつけて生活していた。テレビ、冷蔵庫、クーラーと何でもそろっており、一人で自由に出歩けないことを除けば、快適な暮らしに見える。
 だが、他人とまったく違うのは、近親者がいないことだ。彼の妻と子供は、一九四〇年以前にアメリカに渡ってしまったし、側室とその子供は今も中国政府に監視されていて、台湾へ行くことを許可しないのだろう。だから、国民党が移り住んできたこの台湾には、誰も身内がいないのだ。
 彼が背負った運命に同情はするが、今は夜来香の情報を知りたい。僕は、十分に言葉を選んで話をした(張学良さんは、日本軍とのやりとりで身に付けたのだろうか、日本語がとてもうまかった)。
「はじめまして、張学良さん。私は、お孫さんの夫で永井修一と言います」
「それで、いったい何の用だ?」
 八十を越えているのに、声に張りがある。まるで、現役の指揮官のようだ。僕は、声に圧倒されてさらに緊張を強いられた。
「は、はい。実は、お孫さんは出生の秘密を知って、僕の前から消えてしまったのです」
「なに? 俺の孫だと知らなかったって?」
 そう言うなり、張りのある声で笑い出してしまった。しばらく笑った後で、彼は遠くをみつめ言った。
「隠すから、よくないんだ。最初から、話していればなんのことはない。俺は、国民党を裏切った極悪人だとね」
「え! 違います。あなたはお孫さんの中では、断じて英雄です」
 その僕の言葉に、張学良は泣き出してしまった。もちろん、彼を泣かせたのは、孫の夜来香である。僕は、この時確信した。彼は、僕たちの結婚を、悲しんでなどいない。むしろ、喜んでくれるに違いないと。
「張さん。実は、僕はお子さんと友だちだった徳子の子供でなんです」
「え、なに! そうか。あの日俺が助けた徳子の子供か!」
 そう言うと、張学良はそうこうをくずして僕に抱き付いて来た。
「俺は、うれしいよ。自分の人生は後悔ばかりだったが、こんな立派な青年を生み出すことに、ひと役かっていたんだ」
 後の話は簡単だった。おじいさんは、むしろ喜んでいる。だから、はやく帰って来いと叫びたかった。
「ところで、定期演奏会はしっかり録画を見たよ。俺の孫にギターを教えてくれて、ありがとう」
 これには驚いた。しっかり孫のことは気に掛けていたんだ。わざわざ、警備の者に録画を頼んでまでも。そう、張学良は人情に厚い人だった。決して冷血な指揮官ではなかったと。

 この話は、美談として全世界に発信された。そして、遠くから電話をかけてきた夜来香が、まもなく成田に着くだろう。僕の子供をつれて。


(終わり)

出典:オリ
リンク:オリ
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