生きる (エロくない体験談) 6311回

2017/08/18 11:32┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:名無しの作者
20170810-生きる 32P1.0万文字

戦中戦後を必死で生きてきた「俺」。その人生をつづります。本人が書いて欲しそうなので書きました。かなり脚色していますので、信じないように。それから、話し言葉は広島弁に脳内変換して読んでください。





 気がつくと、いつもひもじかった。三歳の俺は母に手を引かれいつもこの長い坂を登っていたように思う。しかし、この坂を登り切れば美味しいお菓子や料理が腹いっぱい食べられる。そのことは、幼い俺にもわかっていた。疲れて母を見上げると、とても辛そうだった。俺は心配になって手を強く握る。すると、母は大きなお腹をさすって笑いかけた。
 幼かった俺が歩いてやっと行けるところに親戚の家はあった。どういう親戚かはわからないが、たぶん母の兄弟だと思う。その家は立派な洋館で、きれいなバラがいつもプランターいっぱいにあふれていた。そして、その親戚のおばさんは高そうな洋服を着て、きれいに化粧をして、いつもやさしくほほ笑んでいた。
 だから、俺はこの人の子供になりたかった。そう話すと母は悲しそうに涙をためた。俺は、ごめんよ、ごめんよ。もう、わがまま言わないから泣かないでって言った記憶がある。

 一九二九年三月一日、広島県呉市神原町の繁華街に俺は生まれた。兄弟は上から姉、兄、姉、そして俺。みんな三つちがいで、一番上の姉とは九つちがった。
 俺がもの心がつく前の二歳のときに、父は海軍の造船工場で高いところから落ちて死んだ。昔はお花や水引のお師匠さんをやっていたそうだが、造船工場に勤めたのは収入や戦時中の人の目もあったのだろう、慣れない仕事で疲れていたのかもしれない。父の死後、わずかな遺族年金をたよりに家族六人がなんとか食いつないでいた。
 そのころ、母のお腹には赤ちゃんが宿っていた。この赤ちゃんはのちに三歳ちがいの弟になるのだが、彼は父の顔は遺影でしか見られない。そういう俺も父との思い出がないのだが。その重たいお腹をかかえ母は親戚たちに援助を求めたのだろう。昔は父の手伝いをしていたが、造船所に勤めるころは、子供を四人もかかえてすっかり専業主婦になっていた母。父が亡くなった今となっては、手に職を持っていなかったことが悔やまれる。
 さらに悪いことに母は弟を産むと寝込むことが多くなり、やがて結核をわずらった。そのころはまだ有効な治療薬はなく絶望的な気持ちで診断を聞いただろう。結核の治療薬ストレプトマイシンが開発されるのが一九四四年のことだから。母は子供たちへの感染を恐れて、さらには安静を必要としたため、俺たち子供を親戚の家にあずけた。俺が小学校一年(当時は尋常小学校)のころである。



 一九三五年、小学一年の秋。俺たち兄弟は親戚の家に一人一人ばらばらにあずけられた。本当は兄弟五人一緒なのがいいのだが、そんなにたくさん他人の子供をあずかってもらうには無理がある。三歳、六歳、九歳、十二歳の子供は皆違う親戚の家へと、そして十五歳の長姉はすでに働きに出ていた。俺たちは心細くって去ってゆく兄弟たちをいつまでも目で追った。ところで長女の仕事というのがちょっと変わっている。当時では珍しくビリヤード場で働いていたと聞く。見に行ったことはないが当時の俺には外国人のように思えた。
 最初に俺があずけられた家は母方の兄、伯父さんの家。その家は女の子が三人いて、男兄弟がいなかった。少し年上の女の子たちは初めて見る従弟に興味を示して俺をいじってきた。おちんちんはついているのかとか言われてパンツを脱がされたり、女の子の服を着せたり。とにかく俺はいいオモチャだった。だが、俺はこの家ではじめて腹いっぱいにごはんを食べた。とても幸せだった。
 意外に住みごこちがよかった家だが、二年を待たずに違う家に移された。たぶん女の子のいたずらがバレたのだろう。次の家は叔母さんたちは優しかったが、二人の従姉弟たちが意地悪だった。俺のふで箱や弁当箱をどこかに隠して叔母さんの心象を悪くした。俺はその家では従姉弟たちの居場所を犯す侵略者に見えたのだろう。そのことはすぐに叔母さんたちの知るところになり、まもなく俺は違う家に移される。
 他の家も似たようなもので、俺はいじめられた。中には、叔母さんに意地悪されることもあった。おかげでその頃の俺の太ももはいつも赤く腫れあがっていた。

 一九四〇年。小学校五年の時に父方の祖父の家に厄介になった。すでに隠居を決め込んだ祖父は俺にはあまり興味を示さなかった。今思えばお嫁さんの手前、かわいがっているようには見せなかったのだろう。時々こっそりとお菓子をくれて、食べている間の俺を見る目に確かに愛情を感じたから。この家には小学校を卒業するまでいたが、俺はわりあい平穏なときを送った。それでも、いつもひもじかった。俺は近所の映画館で映画を盗み見て空腹をまぎわらせていた。
 ある日、映画館の館長にアルバイトをしないかと聞かれた。映画館の間でフィルムの交換をするのだが、その運び屋をやってみないかと言うことだ。よく聞いてみると映画館はぜんぶ自分が知っているところで、走っていけるところだった。それに足にはいささか自信があったので、即座にできると答えた。次の日の学校が終わった時間から、俺のアルバイトがはじまった。
 今思えばわずかな駄賃でアルバイトをしてた。きっと、安くすまそうと思って俺をこきつかったのだろうが、それでも小学生の俺には大金だった。そのお金でお菓子やまんじゅうなどを買って空腹を満たした。
 そのうち、俺は映写機をあつかうことになる。見よう見まねでフィルムをセットして回すだけで、館長にとてもほめられた記憶がある。好きな映画もどうどうと見れて幸せだった。あのころ小学生でフィルムを回していたのは俺ぐらいだったろう。
 そして一番記憶に残っているのは、少し重たくなったアルバイト代ではじめて食堂でカレーライスを食べたことだ。とてもうまかった。

 小学校もあとわずかで卒業となるとき、先生は俺に新聞配達をやってみないかとたずねてきた。中学校(当時は国民学校高等科)に行きながら稼げるし、他人の家できゅうくつに生活する必要もない。そう言って俺にすすめた。
 このとき、俺ははじめて母を探して、最初に俺がお世話になった母のお兄さんを訪ねた。聞いてみると彼は知っていた。母は広島の診療所にいると。
 後日、広島の山奥にある日当たりのよい診療所へ入って行くと、母はベッドでまるまって寝ていた。俺が声をかけると、どちら様でしょうと言って寝巻の袖で口をおおった。壮太だと答えると、とたんに涙を流して、ごめんね、ごめんねと言う。このとおり、俺は元気に生きてるとおどけて言うと、親はいなくても子は育つと言うものねと言って母は泣き笑いした。
 かあさん。俺には欠けているものがある。それは親の愛情だ。だから俺はいつも自分に自信を持てずにどこかおどおどしている。それを補えるのはかあさん。あなただけだ。
 俺はそのことを先生に聞いた。だから自分のために母と一緒に住もうと決めたのだ。悪いが弟にはゆずれない。そして兄は、建築会社の寮に入っているので、この役は俺のものだ。
 それから小学校を卒業した俺は、先生のつてで呉市東畑町にある日当たりのよい一軒家を格安で借りて、母と一緒に住みはじめた。結核菌は紫外線に弱いと聞いたので、日当たりのよい家を世話してもらった。また、感染を恐れる人がいるようだが、患者のセキやタンに気をつければ感染しないと医者に教えられた。俺と母は、新聞配達の給料と、わずかばかりの遺族年金で暮らしはじめた。一九四二年四月。中学一年の春のことである。

 ところで、映画館のアルバイトは残念ながらやめた。場所も遠いし夕刊も配れないから。最後に日、事情を話してやめると言うと、館長は俺に餞別(せんべつ)をくれた。家に帰って開けてみると、なんと五十銭札が十枚も入ってた。今のお金で四万円近くはする。
 このときはじめて人のありがたみを知った。小学校の先生と映画館の館長にはたいへんお世話になった。この場を借りて言いたい。ありがとうと。



 一九四二年。おだやかな日が続いた。新聞によると日本はアメリカを破竹の勢いで敵を撃破していると言う。まだ十三歳の自分には他人事のように思えた。俺は朝夕と新聞を配り、昼間は中学校へ行って、夜には母の作ったごはんを美味しくただいた。本当に幸せだった。
 しかし、母のかげんが思わしくなくて、間もなく俺が料理を作るようになる。味は母が見てくれるので安心だが、母は少し食べただけでもうお腹いっぱいだと言う。もしかして、俺にたくさん食べさせようとしているのかもしれない。母こそ栄養をつけなくてはいけないのに。

 一九四四年。俺は十五歳で中学を卒業すると小さなドリル工場に勤めた(当時の中学校は二年制)。軍事用の部品をけずったりする仕事だ。俺はこのときはじめて正社員で給料をもらって働いた。その給料で闇市から食料を買ってきて、母に食べてもらった。俺は会社の食堂でたらふくて食べていると嘘をついて。
 今朝、新聞に結核の特効薬ストレプトマイシンが開発されたと載っていた。しかし、この物資の不足している時代では、いつ手に入るのかわからない。非常に悔しい。母はそれでも希望がわいたと言って少し元気になった。もしも、医者に薬が降りてきたら、まっさきに治療してもらおう。

 一九四五年三月。日本は優勢だと新聞は知らせていたが、ついにここ呉も空襲にみまわれた。このときから、たびたび軍事工場が被害にあったが、あの日だけは違った。
 一九四五年七月一日。夜空は雲一つなく、満月がまぶしいほど地上を明るく照らしていた。俺はそれをしばらくながめて、眠りについた。
 どれくらいたったときだろうか、どこからともなくヒューと音がして、次の瞬間破裂音がして振動と爆風が襲った。俺はあわてて起き上がると母を起こして急いで外へ出た。そのとたん、次々と降りそそぐ焼夷弾(しょういだん)に足がすくんだ。だが、ここにいてはいずれやられると思い、勇気を振りしぼって母の手を取り走り出した。
 必死で走って無事防空壕へたどり着くことができてほっと安心したのだが、残念ながら一人分の余裕しかなかった。とっさに、大丈夫。俺は死なないからと母に言って、一人で裏山に向かって走り出した。うしろから母の叫び声がしたが、俺は立ちどまらなかった。
 無我夢中で走った末に、なんとか生きて裏山にたどり着いた俺は、振り返って背筋が凍った。あたり一面火の海。まさにその言葉が当てはまった。だが、母はちゃんと防空壕の中にいる。絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせて震える膝を手で必死に抑えた。それからも、焼夷弾はまるで雨のようにひっきりなしに降りそそいだ。

 ほんとうに長かった。七月二日の明け方にようやく空襲は終わった。俺は喉も乾ききっていたのに、全力で母のいる防空壕に走った。心臓は今にも爆発するように激しく鼓動を繰り返していた。だが、俺の足は走ることをやめなかった。
 変わり果てた街並みに防空壕がどこなのか探し回った。そしてもう日が明けてからだいぶたったころ、防空壕を見つけた。急いでかけ寄ると中はからだった。俺はほっとして防空壕を出たが、人に呼びとめられる。君、防空壕は皆全滅だよ。遺体は小学校のグランドで荼毘(だび)に伏されるから、行って遺体の確認をしなさい。こう言われた。
 俺は嗚咽(おえつ)しながら小学校への道を歩いた。俺が殺したんだ。俺が母をここへ置き去りにしないで一緒に逃げればきっと母は死なずにすんだ。きっとそうだ。俺が殺したんだ。――その後悔は今でもある。たとえ母と一緒に死んでもそれは幸せなことだと思った。
 小学校へ着いて母を確認した。焼夷弾で蒸し焼きにされたのだろう。遺体は損傷が少なくきれいなものだったが、死に顔は苦しみにゆがんでいた。
 呆然として火葬を待っていると、ドリル工場の人が来て、俺になぐさめの言葉をかけて棺桶を用意してくれた。どうせまとめて燃やされて誰の骨かわからなくなるのに。だが、その言葉を飲み込んで素直に好意を受けた。
 母はたくさんの遺体と一緒に燃やされた。火柱が黒い煙をはき、夏の空に舞い上がっていった。俺は手を合わせて母を見送った。
 後日、母の遺骨は父のお墓に入れた。しかし、誰の骨であったかはわかりようがない。
 のちに兄弟たちと会うのだが、皆俺を責めた。どうしてそんな危険な防空壕に母を置き去りしたのか。その問いには答えていない。ただ黙って非難を受けた。

 一九四五年八月五日、日曜日。俺は母の死を引きずって落ち込んでいたので、友だちが気分転換にと広島へ連れ出してくれた。広島の駅を降りると、空からビラが舞い落ちてきた。拾って読んでみると、どうやらそれはアメリカ軍が配っているもので、すぐに広島より撤退せよと言う内容だった。俺は背筋が寒くなり空を見上げた。ところどころに雲があるだけの真夏の空だった。おい、なにやってんだ。いくぞ。と友だちが俺の背中を押して駅から町中へ繰り出した。
 なにをして遊んだのかよく覚えていない。その日は一日中、サイレンの音にビクビクしていたから。そして翌日、あの悲劇が起こる。
 一九四五年八月六日、月曜日の八時十五分。広島原爆だ。俺は、呉の住居あとに建てたバラックで、もくもくと天に登る雲を呆然と見ていた。そして、力なくつぶやいた。アメリカは一体なにを考えているんだ。日本人を皆殺しにするつもりなのか。そんなに日本人が憎いのか。もうやめてくれよ。お願いだ。お願いだ。
 俺は、あの雲を決して忘れない。

 そのあと、俺は助けには行かなかった。いち早く行ったものが、水をあげると皆安心したのか死んでしまうから無駄だと言って。そして、爆弾が落ちた直後に行ったものは、黒い雨に降られて体調をくずし、病院に運ばれたと聞く。
 まったく、アメリカはとんでもないものを作ってしまった。もしかして、俺たちを同じ人間だは思っていないではないかと疑ってしまう。そう言う俺たちもアメリカ人を鬼畜米英と言っているのだが。



 一九四五年八月十五日。俺は街頭ラジオで玉音放送を聞いた。なにを言っているかわからなかったが、隣の人に聞いたところによると、日本は戦争に負けたと言うのだ。そのとき、怒りがわき起こった。絶対日本は負けないと言ってたじゃないか。それを信じて俺たちは耐えてきたのに、今更負けたとはなんだ。かあさんを返してくれ。
 その言葉は言わずに心の中にしまった。言ったところで、母は帰ってこないのだから。その日の内にドリル工場へ行って退職の判を押した。

 それから俺は兄に仕事の相談をするためにたずねた。兄は、呉の小さな建築会社で大工として働いていた。兄は俺が仕事を探してると言うと、そくざに答えた。だったら内で働かないか。なにせ空襲で焼け野が原になって復興には大工の数が圧倒的にたりないと。こうして十六歳の俺は、大工の見習いになった。
 大工の朝は早い。慣れない寮で早朝にたたき起こされて、飯を急いで食って、手早く支度を整えたら、すぐに作業に取りかかる。はじめはひたすら清掃や運搬などの雑務。そしてしばらくしてから、道具の手入れをやらせてもらえるのだ。家を建てるまで修行するには、十年は必要とされていた。当時十六歳の俺が二十六歳までかかる。それでも行くところがないから雇ってもらった。
 一生懸命に働きはじめた俺だが、毎日のようにやらされる重たい建築資材の運搬にすぐに根をあげた。なにせ百六十センチにも満たない痩せの小男だったので、数か月で大工をあきらめて船に乗ることになる。

 運よく知り合いの紹介で漁船に乗った俺は、心おどっていた。対馬の漁場から肥えたサバを買って、九州の市場へ運んで売りさばく仕事だ。泳ぎには自信があるし、船に乗ってあちこちの港へ行けるのだ。どうしたって笑顔になる。
 だが、出向してすぐに甘い考えだと気づく。俺は船酔いをして、ゲーゲーと吐いた。瀬戸内海でも吐いたが、関門海峡を出ても吐き続けた。これも船に乗ったことがなかったからだと思う。
 しかし対馬に近づくとしだいに収まってきた。船長が笑いながら言った。お、だいぶ船酔いにも慣れたか? よし、じゃ仕事してもらおうかと。俺は調理場へ連れていかれて、なにか作ってみろと言われた。俺は料理には自信があった。なにせ十三で母と住むようになってはじめは母が料理を作っていたが、病気が思わしくなくて俺が作った。味は母が見てくれたので母ゆずりの味である。
 まず俺は簡単なカレーライスを作った。当時のルーはトロミがなかったので、ゆでたイモをつぶしてまぜた。そしてかくし味にミルクとしょう油を少々まぜた。船長がそのカレーを食べたときの驚きに満ちた顔は今でも忘れられない。こうして、俺は漁船の料理当番となった。

 普段の漁船の仕事は割り合い楽だった。漁場に行ってサバをクレーンでつるして、船底の氷の中に入れる作業だが、俺たちはクレーンを手で誘導して船底の穴に落としたり、こぼれた魚を船底に投げ入れたりした。
 それ以外はひまを持てあましてデッキをブラシで掃除したりしていたが、料理を任された俺は毎日を充実して過ごすことができた。人のために料理を作ることが、こんなに幸せなことだとは、十六年間生きてきてはじめて知った。それまでは、病気の母のために料理を作っていたが、満足に食べてくれなかったのでわからなかった。この仕事もありかなと漠然と思った。

 そして、船が九州の市場が近づくと、とたんに忙しくなった。市場に着く直前に、急いでサバを箱詰めにして細かい氷をつめる作業をした。そうすると、市場に着くとすぐさま、生きのいいサバがセリにかけられるのだ。
 その市場だが、一番高値で買ってくれるところを選んだ。それは、福岡県小倉、福岡県戸畑、佐賀県呼子(よぶこ)、長崎県若松、長崎県佐世保など、いろんな港へサバを卸した。
 ひと仕事おえると、俺たちは他の漁師と同じように陸に上がって有り金を使い果たした。明日には海で死んでしまうかもしれないので、この世にお金を残さないためだ。港々に女を作り、なんてことはできなかったが、それなりに楽しんだ。

 一九五〇年。日本近海の漁獲高が大きく減っているときだった。困った俺たちは大きな声では言えないことをした。O県では材木が不足しているという話を聞いたので、船底にかくして運搬し高値で売ったのだ。ずいぶん儲かったが、一度A国の巡視艇に追われて小笠原諸島の南鳥島近くまで逃げたことがある。当時では高性能な日本製のディーゼルエンジンを積んでいたから逃げおおせたのだろう。日本の技術力はやっぱり素晴らしい。
 しかし、安心したのもつかのま。エンジンが突然止まってしまいなん日も漂流してしまう。皆で必死でエンジンを直してどうにか掛ったのだが、もしあのまま漂流していたら船の上で皆干(ひ)からびていただろう。

 おもしろおかしく月日をかさねて、一九五二年の春。O県に材木をおろして帰って来るときだった。その日は朝から大しけで、俺はひさしぶりに気持ち悪くなって甲板にあがってゲーゲーと吐いてた。そのとき、船が大きく傾いて、俺は海に落ちてしまった。無我夢中でもがいて海の上にようやく顔を出したら、そこは船の反対側だった。どうやら一度海に深く沈んで、その間に船の下をくぐったらしい。操舵室で見ていた船長が投げたロープをつかんで、なんとか甲板に這い上がる。よかったとほっとした顔の船長にお礼を言って、俺は恐怖と寒さでガタガタ震える身体で船員室へ入った。とっくに吐き気はおさまっていた。
 俺は毛布で身体を温めながら思った。もしも、落ちる場所が船の反対側だったら沖に潮に流されて、大しけの中、きっと見つかりはしなかっただろう。俺は運がよかったんだ。そして、この幸運が続く保証はない。船を降りよう。そう決意した。

 俺は九州の港へ着くと、皆にお別れを言った。七年間も俺を雇ってくれてありがとう。船長たちのことは、きっと忘れないよ。さようならと。
 泣くものはさすがにいなかったが、皆しんみりしてしまった。船長が声を上げる。餞別だ。取っておきなと。渡された封筒には、今まで見たことがないくらいの大金が入っていた。仲間は口々によかったな。それでなにか商売でも始めろよと言う。うんと言って涙を流した。
 だが、バカな俺はそのお金を一年間も遊んで使い果たしてしまう。由布院の温泉街で。



 一九五二年。あの由布院での散財の日々が忘れられない。俺は毎日のように芸者をあげて遊んだ。まったくバカだった。せっかく、船長がくれた餞別なのに、一か月あまりで半分になってしまった。反省した俺はその旅館で働きはじめる。
 由布院の温泉旅館でやった仕事は料理人の見習いで、魚に詳しかった俺はすぐに仕入れを任される。それからは、毎日が充実していた。俺は少しずつ料理を覚えていった。その中でも、出汁の取り方は想像を超えていた。澄んで風味のある出汁を取るには、昆布でもかつお節でも煮立てたら台無しだ。昆布は、中火で丁寧に時間をかけてうま味を引き出す。そしてかつお節は、一度お湯を煮立ててから火を止め、二分程度かつお節をひたす。俺はこの出汁のとりことなった。そして、魚のさばき方にはいささか自信があった。俺は次第に板場を任せられていった。
 その料理人の仕事が一年にもなろうとしたとき、静乃に出会った。お客に挨拶をしに行った帰りに、はちあわせてしまったのだ。俺は、あまりの美しさに目をそらせなかった。静乃は、あらいやだと言って顔を赤らめた。
 ここで言っておくが、俺は身体が小さいのだが、母ゆずりの顔にはいささかの自信がある。きっと、静乃もこのとき俺に惚れたのだろう。
 ひかえめな彼女はおよそ普通の芸者とは違っていた。俺は静乃と知り合ってからは、ほかの芸子さんは皆カボチャのように思えた。ほどなく親しくなった俺は静乃を水揚げして一緒になる決意をする。静乃もそれを望んでいた。
 その決断の日、俺は静乃の手を引いて置屋のおかみさんのところへ行く。そして、頭を下げて口上を述べ、有り金を差しだした。おかみさんは心得たもので、ようござんす。差し上げましょうと言った。これで静乃は自由だ。さあ、二人仲良く生きて行こう。そう思っていた。
 しかし、世の中はそんなに甘くなかった。静乃は結核にかかっていたのだ。当時は治療薬ストレプトマイシンが開発され、結核は死の病気ではなくなったが、完治するまでは長い年月、高価な薬を飲み続けなければならない。完治まで一年かからなくなるには、一九六一年まで待たなくてはならないのだ。お金を芸者遊びや水揚げに使ってしまった俺には、とうてい工面できるのもではなかった。泣く泣く元いた置屋に静乃をあずけた。
 別れるとき静乃は言った。こんな私を愛してくれてありがとう。壮太さんは健康な人と一緒になって幸せになってね。きっとよと。
 六十年以上たった今でも目をつぶると静乃が浮かぶ。悪いがのちに俺の嫁さんなる徳子よりも愛していた。ああ、もう一度会いたい。きっと今でも元気でおだやかに笑いかけてくれる。その夢を今も見ている。



 一九五三年の夏。俺は心に静乃を引きずって広島へ帰った。兄に会いに行くと、驚いた。いつの間にか結婚していて、おまけに子供までいたのだ。おめでとうと言うと、よせやい。照れるじゃないかと言って、俺の背中をバンバンたたいた。
 俺が痛がるとゲラゲラ笑い、ところで、いいところへ来た。これから北海道へ渡るぞと言った。なんでも、今北海道へ行けばただで土地が手に入るのだと言う。兄家族と俺と弟の三人は、すぐに旅立ちの用意をした。と言っても、俺の手にはわずかばかりの風呂敷につつんだ衣類しかなかったのだが。
 広島から東京、そして北海道へ。俺たちの旅ははじめは希望に満ちていた。だが、北海道へ近づくにつれて次第に夜冷えする空気に身体を固くした。そして、まる三日かかってたどりついた土地、北海道東部の西春別というところは、夏だというのに暗い雲が低くおおって、霧が深く立ち込める寒冷地だった。今なら、北の海からくる冷たい親潮と、南の海からくる暖かい黒潮が、釧路沖で出会って深い霧を産むのだとわかる。だが、当時はそんな知識もなく、またインターネットもなかった。だまされた。そう思ったのも無理はない。
 俺たち兄弟は、途方にくれた。こんな土地で無事作物が育つわけはない。引き返そうと。だが、来るときの旅費でおおかた有り金を使ってしまって、帰るお金がない。そして役場の人に話を聞くと、ここに入植すればまとまった支度金が出ると言うのだ。俺たち兄弟は迷ったが、結局その支度金をいただいてしまう。その間に兄の嫁さんなんて、泣き疲れて寝てしまった。
 今にして思えば、戦後外地からの引揚者で日本国内は人口過密状態で、食べるものは少ないし、働き口もない、そして治安がいちじるしく悪かった。そこで、日本政府は口減らし、さらには未開の土地をなんとか開拓してもらいたくて、北海道の僻地に人を誘い込んだのだ。もしかしたら、そこで餓死してもよいとさえ思っていたのだろう。
 俺たち兄弟は、未開の土地を選んで、そこに支度金の中から少なくない金を払って家を建て、住みはじめた。明日からなにをして生活しようかと悩みながら。

 俺たち兄弟は、結局開拓をあきらめた。もともと町暮らしの俺たちでは、どうやって開拓したらよいのかわからなかった。土地をほったらかしにして兄は大工をやったし、俺も見よう見まねで同じく大工をやった。
 だが、不器用な末っ子の弟はどうにもならなかった。仕方なく開拓のまねごとをはじめる。他人の開墾の仕方を見て覚えたり、作物の作り方をまねたり、いろいろしてたようだが、思わしくなかった。自暴自棄になり飲んだくれた。
 一方、俺のほうも大工の仕事に苦戦していた。どうしたって、身体の小ささが足を引っ張る。俺は腰を痛め、働けない日が多くなっていった。

 一九五七年。この年、転機が訪れる。俺が二十八歳のときに、どこで見染めたのか俺に縁談話が舞い込んだ。なんでも、満州の引揚者の娘だと言う。そして、幸運なことに農家の娘だ。
 あってみると驚いた。湯布院でお別れした静乃にうりふたつではないか。思わず俺は、静乃と言った。だが、先方はあら、誰のことでしょう? と言い放った。そう、彼女は静乃とはまったく違う気の強い女だった。俺は、あはははと笑ってごまかすと、壮太です。よろしくと言って握手を求めた。彼女は、徳子です。よろしくねと言って顔を赤らめた。

 農家の娘を嫁にもらった俺は、嫁の指導の元、炭焼きをしながら開墾をして、ソバ、ナタネ、ビートなどさまざまな作物を作ったが、最終的に酪農を選んで成功した。正直、もしも徳子と出会えなかったらこの成功はなかっただろう。だから、嫁にはとても感謝している。ありがとう、徳子。

 そして今、俺と兄は八十八歳と九十四歳になるが元気に生きている。その生命力は研究にあたいすると誰かが言った。それはきっと、父と母が俺たちの分まで長生きしろと言っているのだろう。だから、命の続く限り俺たち兄弟は、生きる。

二〇一七年 壮太ここに記す。

(終わり)

出典:あでゅー
リンク:http://slib.net/a/18416/
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