一 一九九八年夏。 「香耶(かや)ー、香耶ーー!」 はあ、はあ、はあ、はあ。ごっくん。 僕は、うなされて目が覚めた。酷く汗をかいて、心臓はばくばくと脈を打っている。 カレンダーを見ると、一九九八年七月。 確か、今見た夢は平安時代の服装だったように思う。なぜ、そんな夢を見たのか分からない。それに、香耶なんて名前も聞いたことがない。一体、何なんだ……。 僕は、重い身体を起こして、シャワーで汗を流した。 蝉がうるさく鳴いて太陽の日差しに身体が溶けそうな頃、僕はW大学の講義室で授業を受けていた。しかし、ろくに効かないクーラーと、今朝見た夢の所為で頭がボーとしている。こんなことならサボればよかったと後悔していた。 「おーい、松浦君! 松浦順一君!」 「え?」 「何ぼんやりしてるですか」 「あ! すみません」 「教科書の三十一ページ、六行目から読んでください」 「はい。エル イスト ク、クランケ。……」 何とか訳して席に着いた。ドイツ語は苦手だ。勿論、英語だって喋れないし、聞いたって分からない。外国語は全部駄目なのだ。そんな僕が、このW大理学部に入れたのは、数学と化学の成績が他人より飛びぬけてよかったからだ。 僕の苦手な語学を助けてくれるのは、文学部在籍のお嬢様然とした平泉こよね。彼女の手厚いアドバイス付きのノートのおかげで、漸く二回生になった。と言っても、恋人と言う訳じゃない。はじめはテストの時に便乗してノートをコピーさせてもらおうとしたが、僕たちのドイツ語の教科書とはレベルも厚さも数段違う物だった。彼女は笑って教科書を見せて頂戴と言って、瞬く間に訳を仕上げたのだ。 それ以来、なぜか僕はまとわり付かれ、テストの度に彼女にお世話になって、時々バイト代が入ると飯を奢っている。本当は、彼女の方がお金持ちなのに……。 そんな訳で、四六時中一緒にいるが、彼女には一度も告白はしていない。恐れ多いから。 午後の講義も終わって、俺はいつものように学内にある喫茶店を覗くと、平泉さんは一人、分厚い小説を読みながら佇んでいた。どうせ、京極夏彦だろう。彼女は、好んで怪奇ものを読む。僕は面白おかしいものが好きで、阿佐田哲也や筒井康隆を全冊持っているのだが。 そんな彼女の服装は、夏だと言うのに、白いドレスシャツのボタンをキッチリ締め、やや大きめのタイトスカートで固めていた。化粧も決めて、かなり色っぽい。 「ふー、やっと終わったよ」 そう言って、僕はイスに腰かけた。 「ご苦労様」 平泉さんのこの言葉に、俺はいつも癒される。まるで、上司に労われるようでホットするのだ。 「どうも」 注文を取りに来たお姉さんに、俺は大好きなアイスカフェオレと目玉焼き付きの大盛ピラフを頼んだ。そして、オシボリで顔を拭くと、生き返った気がする。 「ねえ、松浦君」 そう言って、平泉さんはアイスティーを一口飲み込んだ。学内にある喫茶店の紅茶を彼女は気に入っているようで、いつも飲んでいる。ボンゴレは、いつものように俺に合わせて食べるようだ。こういう所が、僕が彼女に傾倒した要因の一つでもある。 「なーに、平泉さん?」 「この頃、ボーとしてるなって思って」 「いや、実は変な夢、見ちゃってさー」 「えー、やめてよね。怖い話は」 そう言って平泉さんは、耳をふさいだ。小説では、怖い話をよく読むくせに、なぜかこの手の話を怖がる。それは、小説では主人公が助かることが分かっているからだと言う。 「そんなんじゃないよ」 「どんな夢?」 「それが、おかしいんだよ。平安時代の服装で僕が叫んでいたんだよ。香耶ーって」 「平安時代って言ったら、『わらわの言うことを聞いてたもれ』、なんて喋っていたの?」 「そう、それ! 『その方、この竹林になぜ入って参った』とか言っちゃってさあ」 「ねえ、松浦君。その夢、文字にしちゃいなよ!」 「えーー! 面倒くさいよ。それに僕は小説を読むのは好きだけど、書いたことはないんだ。絶対に無理だよ」 「いいから書きなさい。もし、書かなかったら、もう訳はやらないよ?」 「冗談だろ?」 「本気よ」 「分かったよ。書くよ。でも、下手くそだって言うのはなしね。どうせ、下手だから」 その時、僕の頼んだメニューが来てぱく付いたが、平泉さんは静かに食べた。食べる時に、生まれが知れると言われるが、本当にそうだと思う。 彼女と別れて夕焼けに染まった帰り道を歩きながら、頭の中で文章を組み立てた。僕は、面倒くさがりで、おまけに気が短い。嫌なことは直ぐに終わらせないと気がすまない。そして、アパートへ帰ってからすぐにノートパソコンで書き上げたのが、次の文章だ。 『新・竹取物語』 昔々、竹取地方のある村に竹取の翁(おきな)が住んでいた。 ある日、竹取の翁が竹を切っていると、目の前に肌衣をまとった若い女が現れる。何という可憐さ。竹取の翁は、見とれて呆然と立ち尽くす。 その女は言った。 「その方、この竹林になぜ入って参った。わらわの安息の地を汚すもの。その方は、悪しき者か?」 甘い声と香りに平静さを失いつつも翁、女の眼を一点見つめながら答えた。 「我は、この竹林の正当な持ち主。そして、この竹は我が書物を束ねる物。また、悪しき人かと尋ねられれば、我人であるゆえ、決して善い者とは言い難いことよ」 その女は、その物言いに暫し逡巡したが、意を決したように問うた。 「では、どうすればその方は、この竹林をそっとして置いてくれのか? そちの願い事を叶えるゆえ、申してみるが良い」 何という幸運。ここぞとばかりに翁は言い放った。 「さすれば、我に世に出ても恥ずかしくない文才。そして、美しいその方が欲しい。この二つを満たさば、我この竹林より永遠に立ち去ろう」 その夜、翁の蔵に数多の書物が積まれた。そして、あの可憐な女が寝所(しんじょ)に現われた。その日から、翁は書物を読み漁り、夜なよな女の身体を貪るのである。 しかし、翁の幸せは長く続かなかった。二人が出会って三年目の夏の満月の夜、女は大勢の守護者達に迎えられ、翁の下を去っていった。 何を隠そう、その女とは清和源氏一族で源満仲の娘『源香耶(かや)』なのでした。竹取の翁、嵯峨源氏一族で『源順(したごう)』は、その女が自分の姪である事、そして有力氏族、清和源氏の娘である事を知り、保身の為に竹取物語を書くのでした。その物語の中で香耶は『かぐや姫』、その人だったのです。 その後、竹取の翁はその物語と数多の歌によって世に認められました。そして、一人の妻をめとる事なく、ひっそりとこの世を去ったのです。翁七十三才。一人の女を愛し続けた男の寂しい最後でした……。 (終わり) この文章がいきなり書けてしまった。しかも、十分も掛からずに。もしかして、僕は才能があるのかも知れないと一瞬思ったが、よく考えるとおかしい。まず、僕は昔の言葉は知らないのに、なぜそれ風の言葉が書けたのか。そして、知らない名前、源順と書いて『したごう』と言う千年も前の文学者の名前を、なぜ僕が知っていたのか。それに、いかにもありそうな名前、源香耶と言う名前を、なぜスラスラと書いたのか。さっぱり分からなかった。 もしも平泉さんが書いたなら分かるけれど、僕がこの文を書けたことが不思議でたまらかった。この頃は、自動書記だとか転生だとかは、言葉で知っていたが、まさか僕に起こるなんて、思ってもいなかったので不安で仕方なかった。 僕はなるべく考えないようにして、翌朝、大学へ印刷した紙を持って行って、平泉さんに見せた。彼女は喫茶店の椅子に座ると、注文も取らずに黙々と『新・竹取物語』を何度も読み返している。僕は、その間に、彼女のアイスティーとツナサンド、そして自分のためにペペロンチーノとアイスカフェオレを注文した。彼女はあっさり目の、僕は朝からパンチの効いたメニューを好む。 「これ、本当に松浦君が書いたの?」 「そうだよ。信じられないかも知れないけど、スラスラ書けたんだ」 「凄いなー、松浦君は。きっと、前世は源順だったんじゃない?」 「まさか。その人は、ウィキペデアによると、文学者で竹取物語を書いた人なんだ。とてもじゃないけれど、僕が逆立ちしたってそんな人の生まれ変わりじゃないって断言できる」 「どうして?」 「なぜなら、僕は漢字は苦手だ!」 「言われてみればそうよね。小学生レベルだものね」 注文の品が来て、話はそこで終わった。 だが、その後も僕の頭はこの不思議なできごとを考え続けた。そして、思い出すように、文字をしたためて行く。まるで、源順であるかのように。それに従って、少しずつ平泉さんから離れていった。彼女に、何か災いをもたらすようで、また香耶と言う夢の中の少女を好きになってしまって。 あの日から二年の歳月が流れて、僕は無事卒業式を迎えた。式は約一名競泳水着で出席した者がいたくらいで大してハプニングもなく終わり、久しぶりに平泉さんと話した。彼女は、タイトな黒のコートに、スリムなジーンズ、それに黒いブーツを着こなしていて、思わず自分のリクルート姿を見て恥ずかしくなってしまう。 「平泉さん、久しぶり」 「まさかよね」 「え?」 「松浦君が出版社に入るなんて、思いもしなかったわ」 平泉さんは、どこで聞いたのか、僕が出版社へ入ったことを知っていた。 「いや、どうも言い出しづらくて……。ごめん」 「いいのよ。私嬉しくって。出版社、頑張ってね」 「ありがとう。平泉さんも高校教師、頑張ってね」 「うん、頑張るよ」 「……」 次の言葉が出てこない。でも、今更何を言っても無駄なように思えて、僕の口からは何も言えなかった。別れの言葉しか。 「さようなら」 「さ、さようなら……」 平泉さんは、悲しそうな顔で口を押えると、正門を出て、ゆっくりと坂を下って行った。 僕は、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。そして、「バイバイ。大好きだった人」とつぶやいた。不思議と涙は出なかった。 二 二〇〇一年春。 四月になり、僕は銀座にある小さな出版社へ入社した。なぜ、理系の僕が出版社という畑違いの会社に入ったのか。それは、はじめはあの日見た夢を追って文章を書いていたが、どこの出版社でも受け入れてもらえなかった。唯一、興味を示したのが、この出版社。T書房だった。 僕が理系であるのに、文学を目指してるそのユニークさが興味を引いたと言われた。そして、ぜひ理系の頭で文系の欠点を補ってほしいと。要するに、物書きの才能はないが、分析力に期待されて拾われた形だ。だから、大っぴらには言えなくて、就職の欄も埋めていなかったのだ。 だが、なぜか平泉さんは知っていた。もしかしたら、T書房に知り合いが勤めているじゃないかと思ったが、知られたことが何か恥ずかしくて、聞きそびれてしまった。 新入社員研修を終えて、初出勤の日、僕は先輩編集者の田所さんに付いた。彼は、天地幅が狭い眼鏡を掛けて、いかにも仕事ができそうに見える。のちに、僕も真似しようと眼鏡屋へ行ってみたが、怒っているように見えて断念した。 「それじゃ松浦、行こうか」 田所さんは、なにか軽そうな包みを小脇に抱えている。 「はい。田所先輩」 「あ、先輩はなしね。田所さんって呼んで」 「はい、田所さん」 外へ出ると、小雨が降っていた。田所さんにならい、僕はジャンバーを羽織り傘を持ち、田所さんの後に付いて地下鉄に乗り込む。その電車の中で、田所さんは作家の特徴を教えてくれた。 「いいか、松浦」 「はい。田所さん」 「今から行く作家は、秋野楓。本名は田中花子。親がどうしようもなくいい加減だったそうだ」 「……同情します」 「だから、決して本名で呼ばないように」 「はい」 「それから、彼女にお菓子を買って来てと言われても、絶対に買わないこと。彼女は、直ぐに太っちゃうから」 「大変ですね」 「そうだ。彼女の太った時の写真、あるんだ。ほれ」 田所さんが名刺入れから出した写真は、頬っぺたがパンパンに太っている。そして、もう一枚の写真は、スリムで色っぽい女性が写っていた。 「信じられない……」 「だから、彼女からお菓子を買ってきてと言われたら、スルメ買ってきてね。彼女、文句言いながらもスルメを離さないから」 僕は、この時、多少なりとも秋野女史と会うことを楽しみにしていた。 銀色の地下鉄から乗り換えて、クリーム色の電車は小雨の中、終点を目指して走って行く。雲の隙間から、太陽の光が差し込んでる。いずれ、晴れることを予感させた。 T書房を出発しておおよそ一時間後、電車は終点の本川越に着いた。案の定、雨は止んで、辺りはすずやかな空気に包まれていた。僕と田所さんは、駅から歩いて、商店街外れのアパートへ入って行った。 ピンポーン。 「秋野先生。T書房の田所です」 暫く待ったが、返事はなかった。もしかして、寝ているのかもと言って田所さんは、もう一度チャイムを鳴らした。 ピンポーン。 ……。 結局、五度目のチャイムで玄関を開けてくれた。 「さっきまで書いてて、今眠った所」 秋野女史は眠たそうな目をショボつかせて、不機嫌に言った。写真の印象とは随分違くて、顔がたるんでる。まるで、洗濯機で脱水を掛けられたシャツのように。 田所さんは、部屋の中にお邪魔すると、直ぐに先生に説教を垂れた。 「秋野先生。日光に当たらないと、人間の身体は生きて行けないものだって、あれほど言ったじゃないですか。そんなんじゃ、絶対にいい小説は書けません」 確かにそうかも知れない。それに、お肌に悪いのは明白だ。でも、夜中しか活動できない人がいるのも事実。 「そんなんじゃ、Dランド、行けませんよ?」 「えっ! いやだ! 絶対行く!」 どうやら、大丈夫な人みたいだ。 「さあ、これを食べて散歩に行きますよ」 田所さんはそう言って、持って来た袋からコーンフレークの箱を出して、サラダボウルにザラザラと開けた。 「田所ちゃん。分かってるじゃない」 その後、秋野女史はコーンフレークに牛乳を掛けてモリモリ食べて、食後の運動で三十分、近所をうろついた。そして、執筆活動に入った。 その風景を一時間ほど眺めて、僕たちはそっとアパートを後にした。コーンフレークを三箱、それと・スルメ三枚を残して。 「どう? 慣れれば簡単だろ?」 「でも、直ぐに寝ちゃうんじゃ?」 「その時はその時。ダメージを受けるのは、結局自分なんだから」 「そうですよね」 「さあ松浦、次の先生の家へ行くよ」 「はい、田所さん」 僕はこの時、自分自身の人生を思った。僕は、高校、大学と自堕落に過ごした。その結果、何者にもなれず、小さな出版社で一生を過ごさなければならない。しかし、この小さな会社でも、何か僕にしかできないことがあるかも知れない。改めて、気を引きしめるのだった。 三 二〇一五年夏。 夕方の編集室は、皆忙しそうに仕事をしており、ガヤガヤガヤと活気に満ちている。その中で、俺は経営陣に見せる四半期の報告書を作成していた。飾り過ぎは良くないし、何も成果が出せないのでは無能だと思われてしまう。そして、何か目標を出さなくてはならない。でも、肝心なのは売り上げの数値だ。これは、どうしたってごまかしようがない。俺は、この四半期の報告書に頭を悩ませていた。 その時、部下の一人が俺に話しかけて来た。 「松浦編集長。電話ですよ。何か、昔の知り合いだって言ってます。どうしますか?」 「分かった。俺が出てみる。何番だ?」 「三番です」 昔と言ったら、五年ほど前に辞めた田所さんかも知れない。俺は、気を引きしめて応対しようと思った。その前に、アイスカフェオレを三口飲んで疲れていた頭をスッキリさせて、電話に出た。 「もしもし、お電話変わりました。松浦です」 「久しぶり、松浦君」 その瞬間、十四年の歳月が甦った。 「その声は、平泉さん!」 「そうよ」 そう言って、平泉こよねは昔のままの声で笑った。俺は、目に涙を浮かべ今にも泣きだしそうだ。 「急にどうしたんですか、電話してくるなんて」 「いやー、実はそのT書房で大学時代、書いてたのよ」 「本当に! 僕にはそんなこと一言も。あ! それで、僕がこの会社に就職するって知ってたんだ」 「ご名答」 「言ってくれればいいのに。水臭いなー」 「そう言わないでよ。あの頃は、とても言う気になれなかったの。デビューしたのはいいけど、全然書けなくなってジリ貧だったんだから」 「そうでしたか……。でも、電話してきたってことは、もう一度書くんでしょう?」 「残念ながら、私じゃないわ」 「え? 誰か才能を見出したと言うんじゃないでしょうね?」 「平泉こよね。土下座をしてお願いする。内の生徒を見てやってくれ」 「そんな、頭を上げてくださいよ。って見えないけど」 電話の向こうから、笑い声が聞こえた。 「あははは。で、どう?」 「分かりました。でも、皆の手前、いきなり僕が見るわけにはいかないので。それで、T書房ビルの一階にある喫茶店なら、いいですけど?」 「それでいいわ。じゃ今度の日曜日、お昼過ぎの二時に喫茶ランでいい?」 「はい、時間はいいですけど、喫茶ランはつぶれてノアになります」 「なに? ランがつぶれたって!」 「はい、十年前に」 「えー。私、あそこの紅茶、好きだったのにー」 「え? でも、学内の喫茶店が一番好きだって?」 「値段が違うわ。ランの紅茶は千円からよ」 「へー、そんなに高い紅茶なんて、僕には飲めませんよ。あ、それでノアの売りは、アイスワッフルなんですよ。これが、中々……。すみません。部下が怖い顔で睨みつけるんで、この辺で」 「悪かったわね。それじゃ、日曜の二時、喫茶ノアで」 「はい。分かりました。そじゃ、っていつか飲みましょうね? 平泉さん」 「うん。内の生徒がいい返事もらえたらね。それじゃ、松浦・編・集・長。よろしくお願いします。ふふふ」 それで、電話が切れた。部下が「なんか、いい雰囲気ですね?」と探りを入れてきたが、「俺は、その人に一生頭が上がらないよ」と言うと、編集長にも春が来たと思ったのにと残念がられた。 それにしても、彼女の姓はまだ平泉のままだ。彼女でも、相手が見つからないのかと、胸が締め付けられる思いがした。きっと、昔と変わらず、美しいままだろう。その彼女に見合う人がいないのではないかと想像してしまう。いっそ僕が、彼女を奪ったらよかったのに。そんな勇気もないくせに。 こんな意気地なしの俺が、編集長に抜擢されたのが、三年前。この三年間は、必死だった。いかに部数を増やすかと、いかに新人を発掘するかを追い求めていた。そして、最近になってようやく売り上げが上がってきて、部下の態度も喧嘩腰ではなくなった。 しかし、俺が副編集長になった四年前に、田所さんをはじめ、中堅どころはほとんど辞めてしまって、その後を追って幾人かの作家が出ていった。痛いと思う反面、ここ最近はたいして売り上げに貢献していなかったので、単に古株がいなくなったとホッとしたものだ。 だが、爆発的な売り上げは、まだ出ていない。ダブルミリオン、トリプルミリオンくらい欲しいのだが……。 だけど、そんなことばかり考えていたら、俺もいつか偏った頭になってしまうだろう。そして、この業界を追われてしまう。作品のできを、もっと大切にしなくては、いつか読者は離れて行ってしまうから。 さて、平泉こよねさんが連れてくるのは、果たして只の石ころか、それともダイヤの原石なのか楽しみだ。彼女のことだから、きっと俺を感動させてくれるに違いない。今日は火曜日だから、約束の日曜日まで、後五日間、それまでに、仕事を詰めなければ。今日からは、暫くは午前様だ。 四 ついに約束の日曜日になった。俺は、まるで恋人を待つように、そわそわして喫茶ノアにいた。時計を見ると、約束の午後二時まで二十分もある。俺は、久しぶりにワッフルが食べたくなって、夢中で食べてしまった。 その時、不意に俺に声を掛ける人がいた。 「あのー、すません」 若い女性の声に驚き、アイスワッフルを頬張りながら首を上げて声の主を見た。そこには、目鼻立ちの知的な女子高生が、一人で立っていた。日曜だと言うのに、制服を着ているあたり、優等生であろうと推察できる。そして、周りを見回しても、平泉こよねはいなかった。俺は、まさか女の子が、それも一人で来るとは思ってなくて、この状況に焦ってしまい、だらしなく口をぬぐった。 「な、何でしょう?」 「T書房の方ですよね?」 「はい、そうです」 俺は、久しぶりに緊張してしまった。指先が震えている。 「平泉こよね先生の紹介で参りました、新田涼香です」 「私はT書房の編集長をやらせてもらっている松浦順一です」 そう言って、名刺を渡そうとするが、指の間からスルリと落ちてしまった。あわてて拾って、もう一枚、名刺を差し出す。 新田さんは、その名刺を受け取り、耳に掛かった髪を左手で直しながら、見詰めている。 俺は、この時彼女を事をどこかで見たことのある顔だと思って、ついマジマジと見てしまった。だが、どこで会ったのかが思い出せない。 「あのー」 「はい、何でしょう?」 「小説を読んでくださるんですよね?」 「あ、はいはい。早速拝見しましょう」 「こちらです。題名は『転生』と言います。よろしく願いします」 新田さんはそう言って、A四の束を渡した。百五十枚ほどか。 「あ、その前に何か注文を」 「はい」 そう返事をして、新田さんはウェイトレスを呼んで、俺と同じアイスカフェオレを注文した。 それにしても、彼女はこの年齢にしては、落ち着いている。まるで、長い時を重ねたように。 そんな彼女の気持ちのよい仕草を眺めて、ページをめくった。最初は丁寧にプロットから始まっていて、全くの素人じゃない事を示していた。平泉さんの指導が入っているのだろう。そのプロットをまず、読み始めた。 「え!」 思わず、声が出てしまった。まさしくこのプロットは、俺が十七年前に書いた物と同じ内容だった。竹林で中で二人が出会ったこと。そして、愛し合ったこと。だが、二人は引き裂かれる。そして、男は一編の物語を世に出す。千年後に、再び会おうと言う願いを込めて……。 最後が俺のとは違うだけだった。もしかして、俺の文章をどこかで見て、書いたのかも知れない。そう思い、本文を急いで読んだ。だが、俺の文章よりも正確に書いてある。正しくこれは彼女の文章だ。 一方、売れるかと聞かれると、インパクトが今一つなかった。それは、平安時代の言葉だったり、揺れ動く心の描写だったりする。その二つは不可欠だろう。言い換えると、文章に花がないのだ。 俺は、読み終えると、小説のできと、俺が源順だと言う可能性を、何て言おうか考えながら、目線を上げて新田さんを見た。 「新田さん!」 彼女は泣いていた。まるで、壊れた蛇口のように大粒の涙を流して。 「やっと会えました。順(したごう)さま」 「な、何を言ってるですか?」 だが、言葉とは裏腹に、新田さんの手を握った。 いかん。これでは、いい大人が女子高生と愛し合っている図ではないか。 「順さま」 「香耶」 その瞬間、俺のすべての記憶が甦る。 私は、香耶と別れた後、悲しくて悲しくて竹取物語をしたためた。それは、当時としては画期的で庶民に親しまれた平仮名により書いた文章だったので、瞬く間に世に広まって、確固たる地位と名声を得る。しかし、それが私と香耶のことを書いたのではないかと、噂が流れる。そして、私は追われるように都を去り、一人寂しく余生を送った。 だが、私の作品は、後の世にも語り継がれ、千年後の人々にも愛される。そして、千年後に転生して、私と香耶は再び巡り合った。なんと言う奇跡か! 「千年。千年もの間、待っていたよ。お帰り、香耶」 「ただいま、順さま」 俺と新田さん、前世の名前香耶はきつく抱き合った。だが、かろうじてキスは避けた。それでも喫茶店のウェイトレスは、驚いて固まったが、久し振りに会った娘だと言ってごまかした。 それから、彼女とは近況を話し合った。それによると、温厚な両親の下でスクスクと育ったらしい。俺のように兄弟はいなくて、一人っ子だ。その所為か、愛情をたっぷり受けて、何事にも物おじしない性格となったようだ。 そして、彼女は前世のことを両親には話していない。一人で考え込んでいる時、平泉こよねに相談すると、それならば小説として書きなさいと言われたらしい。相談の内容は、好きな人ができたが、その人はどこに住んでいるのか分からない。そう言って、うまくごまかしたと言った。 でも、平泉さんは多分気づいただろう。俺が昔書いた物語とまったく同じ内容だったので。だが、平泉さんはそのことを、新田さんには隠して俺に会わせた。何を考えているのか聞いてみなければ。 新田さんと別れたあと、俺は平泉さんに電話をして、次の日曜日に会う約束をした。 五 喫茶ノアは、T書房ビルの一階にある。全面ガラス張りで、どちらからもよく見える。その窓側の席に座って教師然とした平泉さんと、実に十四年ぶりに会った。彼女は、以前よりも美しくなったような気がする。それは、化粧を覚えたからではなく、内から輝きを放つ輝石のようだ。 「久しぶりね、松浦君」 「相変らず美しいね。平泉さんは」 「あら、口が上手くなったわね」 「いや、本心だよ」 すると、平泉さんは急に怒った顔になった。 「遅いのよ。まったく」 「ごめん。でも、あの頃の俺は、自信がなくて……」 「今は?」 「……ごめん」 「そう言うと思った」 平泉さんはそう言うと、不敵な笑みを浮かべて、アイスティーを一口飲み込んだ。 「どう、香耶は? 気に入った?」 「やっぱり覚えていたか。俺が、昔書いた新・竹取物語を」 「覚えていたわよ。それで、新田さんに相談された時に、ピーンと来たのよ。彼女は、千年前の思いを持って生まれて来たことを。そして、片割れが源順、松浦順一君あなただってことを」 「そうだよな。で、なんで新田さんに話さなかったんだ?」 「だって、その方がロマンテックでしょう?」 そう言って、平泉さんは楽しそうに笑った。まるで、大好きなおもちゃで遊ぶように。俺は、呆れてそれ以上追求する気になれなかった。 だが、このことを誰かに話されたら、俺も新田さんも世間の目にさらされ、今の平穏な生活を失うだろう。うやむやには、できない。だから、俺は平泉さんに頭を下げてこう言った。 「このことは、誰にも話さないでくれないか?」 「分かってるわ。誰にも話さないから、心配しないで」 「ありがとう」 俺はホッとしてアイスカフェオレをすすった。口の中でアイスワッフルと絡み合い、いい香りがする。 「ねえ」 「ん、どうした?」 「あなたたち二人は、私を介して会っているのよ」 「そう言えば、そうだね」 「もしかして、私も千年前から転生したのかも」 「そうだとすると、一体誰の生まれ変わりなんだ?」 「さー、私はあなたたちのように、夢に見ないから」 そう言って、平泉さんは寂しそうに笑った。もし、そうなら、俺たちのために千年も待たされた平泉さんを、気の毒に思った。まさか、その所為で結婚できないとしたら……。だが、それを証明する手立てがないのも事実である。俺は、それに触れずに話を逸(そら)らした。あまりに平泉さんがかわいそうで。 「それで、まさかとは思うけど、このことを題材に小説を書かないよね?」 「何言ってるの、書くに決まっているでしょ」 「えー!」 「大丈夫。名前も地名も変えるから安心して。それに、もう新田さんには許可もらったし」 「……」 「題名は、新田さんと同じ『転生』で行くわ」 「……そうか。作家に戻るのか」 「トリプルミリオンは、狙うわよ」 「それで、どこから出すの?」 「勿論、T書房にお願いするわね」 「分かりました。平泉先生。よろしくお願いします」 そう言って、俺は深々と頭を下げた。 後日、平泉さんはプロットを提出してくれた。それは、新田さんよりも数段上の構成で、一回でオーケーを出した。後は、作品ができ上るのを待てばよい。やはり、経験者だと話が早く楽である。 そして、三か月後作品ができ上った。原稿用紙換算四百五十枚ほどの長編小説が。俺が、最初に目を通したのだが、作品の中にはウェットあり、笑いあり、考えさせられることがありと、読んでいてうなること仕切りであった。 「やっぱり凄いね、平泉さんは」 そう言うと、平泉さんは寂しそうに笑った。 「でも、面白いテーマがなければ、書けないのよ。それが、私の限界よね」 「……」 「私、これで教職に復帰するわ。さようなら」 そう言って、平泉こよねは去って行った。目標には若干足りない二百八十万部という金字塔を打ち立てて。この数字は、俺が編集長になってから初めての大ヒットだった。俺の地位が不動の物になった時でもあった。 六 新田さんはあれから、たまにスマートフォンに電話を掛けてくる程度だ。彼女の気持ちは、千年ぶりに会えて満足したという所だろうか。俺も、女子高生と付き合いたいとは思わない。ただ、会うと心が沸騰するのだが。 勿論、千年前に別れた後のことと、転生してから俺に会いに来るまでのことも、後日聞き出した。香耶は、父源満仲によって引き裂かれた後、宮中へ仕え、帝に見染められたのだが子供はできずに、やがて捨て置かれ寂しい最後を迎えた。 そして、転生したあと十七歳を迎える七月の満月の日に、前世の記憶が甦り、考え込んでいる時に平泉先生に声を掛けられ、彼女の指導の下『転生』を書いた。 つくづく、俺にも新田さんにも平泉さんが絡んでいたのだと唸った。もし、平泉さんがいなければ、きっと二人は出会っていなかっただろう。それ位の重要な役割を果たしたと言えよう。だから、彼女の小説は真に迫っていたのだ。一人納得する俺だった。 そして、クリスマスイブも近付いた頃、仕事を終え夜遅くアパートへ帰ると、新田さんから俺のスマートフォンに電話が入った。 「はい、もしもし松浦です」 「私です。新田涼香です」 「こんな遅くにどうしたの?」 「ご迷惑でしたか……」 新田さんは、不安そうな声でそう言った。俺は、あわてて否定する。 「いや、俺は全然いいんだ。それで、どんな要件で?」 「あの、私とデートしてくれませんか?」 「デート? そう言えば遠い昔にした記憶があるなー」 「平泉先生と?」 「いや、違う。彼女とはそう言う関係じゃなかった。単に、お嬢様と下僕のような関係だったよ」 「なんだか、楽しそう」 新田さんは、珍しく普通の女子高生のように笑った。多分、心底おかしいんだろう。俺は思わず、つられて笑い声になる。 「そうか? それで、いつがいい? イブはスケジュールがいっぱいで、日曜しか開けれないけど」 「もしかして、日曜も仕事しているんですか?」 「いや、俺が決断をしなければいけないことが、時々起こるんだ。だから、もし、社を離れるときは、スマートフォンは手放せないけれどね」 自分でも、そんな体制はよくないと思う。だが、中堅どころがガッポリと抜けてしまった今では、若手に判断を任せるは酷だ。それに、大ベテランでは最近の諸事情を総合的に判断できない。だから、俺がこき使われるのだが。これも、経営陣の判断で、俺を抜擢したシワ寄せなのだ。 「ご迷惑ですか?」 「いいや、たまにリフレッシュしないと、魂が淀んでしまうから」 「すみません」 「それで、どこへ行く?」 「できれば、Dランドはどうでしょうか?」 「うん。そこにしよう。あ、チケットはこっちで用意するから」 「よろしくお願いします」 「それで、次の日曜の十時に、M駅の改札で待ち合わせでいい?」 「はい」 「じゃ、日曜に」 「失礼します」 さあ、明日から早速忙しくなる。俺は、日曜の予定をすべて平日につめる段取りをした。先方には、平謝りだった。 日曜の朝は、雲がわずかしかなくて、外で遊ぶには打って付けな天候だった。ただ、放射冷却現象でかなり寒かったが。 俺は、朝八時半に家を出て、M駅へは九時半には着いた。改札を出ると果たして新田さんはすでに来ていた。彼女は、赤いニット帽に、赤いダウンコートを羽織って、白いブーツを履いていた。まるで、サンタのように。思わず、俺の顔はほころぶ。 「おはよう、新田さん」 「おはようございます、松浦さん」 そう言って新田さんは、花が咲いたように笑う。ああ、いやされる。 「はい、ワンディーパスポート」 「ありがとうございます」 「それじゃ行こうか」 「はい」 新田さんの右手は、俺の腕に掛かろうとしたが、もう少しの所で離れていった。俺は、それに気付いたが何もしなかった。二人の間合いが分からない。 ゲートを入ってからは、行先は新田さんにお任せした。俺は、只ぶっちょう面でのこのこ着いて行く。時々、肌が触れ合うが、その度に心臓がバクバクと脈打って、あわてて距離を取った。 二つ目のアトラクションが終わった時、俺は少し休憩を取ろうと言って、鉛のように思い腰をベンチに下ろして休む。 「なにか飲み物でも買ってきましょうか?」 「それじゃ、カフェオレお願い。あ、お金、はい」 千円札を、新田さんに渡した。 「ありがとうございます。直ぐ買ってきますから、動かないでね」 新田さんはそう言うと、自動販売機へ駆け足で行った。 俺は、目を閉じて暫し頭を休ませる。昨日は、遅くまで作家が捕まらなくて、入稿されたのが明け方近くだった。内にような小さな出版社では、一度でも落とすとダメージになる。とにかく、落とさないでよかった。それに加え、拷問のような新田さんとの肌の接触。本当に疲れた……。ス、スー、スー、スー……。 寒さに身震いをして目を覚ますと、ベンチの隣には新田さんが座っていた。あわてて時計を見ると、あれから二時間が過ぎている。 「ご、ごめん」 「私の方こそ、ごめんなさい。お仕事で疲れているのに、こんな寒い中連れまわしちゃって」 新田さんは、申し訳なさそうに言う。 「本当に悪かったね。疲れているのに来ちゃって。これじゃ、デートが台無しだ」 そうだ。彼女に似合うのは、こんな疲れ切った親父じゃなく、爽やかな青年だ。 「帰ろうか」 「……ええ」 新田さんをタクシーで家まで送り届けて、俺はその足で会社へ向かった。 これから、同じようなことがきっと起こるだろう。なるべく、彼女とは会わないようしよう。そして、いずれお別れを言おう。 タクシーは、首都高へ乗るとすぐに渋滞にはまってしまった。まるで、俺たち二人の前途を暗示するように。 七 二〇一六年春。 漸く冬も終わり、春のきざしが差してきた頃、新田さんは高校を卒業した。そして、その日に、大事な話があると電話を掛けて来た。俺は、例の喫茶店で待ち合わせる。思う所があったので、一足先に店へ入りカフェオレを注文する。手持ち無沙汰に雑誌をめくってみたが、頭には入ってこなかった。 電話があってから三十分後、彼女はブレザーの下にセーターを着こんだ姿で現れた。これが、最後の制服姿だろう。 「お久しぶりです。松浦さん」 「いや、久しぶり。新田さん」 やはり、面と向かうと駄目だ。彼女の細い身体を抱きしめたくなる。 「お元気そうね?」 「ええ、身体は丈夫な方ですから……」 只、寝不足なだけだ。そのことは、言わないでも分かっているだろう。 ウェイトレスが来ると、新田さんはやはり俺と同じカフェオレを注文した。それは、俺に合わせたのではなく、自然に出た言葉のように見えた。 「平泉先生は、やっぱり凄いですね。二百万部を超えるなんて。私の書いた文章じゃ、売れなかったでしょうね」 「うん。まだまだ研鑽(けんさん)が足りないと思う。これから、鍛えればきっと成功すると思うよ。それで、どうだい? 内の社のセミナー受けてみては?」 「やめておきます。打ちのめされるのが目に見えているから」 「そう。残念だ」 「それに私、イギリスへ留学が決まりましたから」 「そ、それは、おめでとう。頑張って来なさいよ」 心と裏腹なことを言ってしまった。俺は、目線を外して外の風景を見る。そこには、一本の街路樹が知らない白い花を咲かせている。俺は、あらためて思った。彼女は今から人生を切り開いて行こうとしている。その足かせになってはならない。そして、これから花を咲かすだろう彼女を、開かせる役目は俺じゃない。 「俺たち、これでお別れにしよう」 「はい……」 俺たちは、白い花びらが散る中、別れていった。彼女の未来に幸多からんこと願って、俺は出版社へ戻って黙々と今日のスケジュールを消化した。 八 二〇一九年春。 俺は、新田涼香との別れを忘れるため、毎晩遅くまで仕事をしていた。そして三年がたった頃、部下に注意することをうっかり忘れてしまった。あの作家は、うさん臭いから気を付けろよと。 「え! 何だって!」 「どうした、金田?」 目を見ると、金田は受話器を持って今にも泣きだしそうだった。俺は、生唾を飲み込んだ。 「Xさんが、盗作したって……」 「園田! すぐに書店に行って、差し止めてもらえ! 頭を下げて謝るんだぞ。後で、俺も謝りに行くから。金田は、すぐに本当に盗作をしたのか調べて!」 「すみません、僕の所為で。う、う、う」 「こら! 泣くな! 今は、確かめるの先だ!」 「はい……」 俺は、この光景を何度か見たことがある。その度に、編集長の首が飛んだ。今回も、多分そうなるだろう。それでも、俺は必死でことの収束を図った。こういう時は、一番の責任者が直接行って頭を下げるに限る。何度か頭を下げて、先方にはなんとか許してもらった。 そして、世間の非難を静めるために記者会見を開いて、ひたすら頭を下げる。俺は、その場で責任を取って辞めると言った。 記者会見が漸く終わり、机の上を整理していると、金田が泣きながら言った。 「松浦編集長。すみませんでした」 俺は、金田の肩をポンと叩いて言った。 「何言ってるんだよ。責任取るために編集長がいるんじゃないか。金田は、この事を教訓にして、いい本をたくさん作ってくれよ」 「松浦編集長!」 「それじゃ、皆。さようなら」 泣いて惜しまれる別れなんて、中々ないぞ。俺は、静かに出版社を後にした。編集長になって、七年目のことだった。 電車に揺られ暗いアパートへ帰ると、一気に寂しさが込み上げてきた。窓から見える夜桜も、どこか寂しそうに咲いている。一人でいると気が滅入るので、昔よく行った居酒屋の戸を叩いた。その居酒屋は、小さくて一人で切り盛りしている。 「いらっしゃい。あら? 松浦さん、久しぶり」 「どうも、ご無沙汰してます、女将」 「この頃見えないから心配していたわ。よかった、ご無事で」 「おかげさまで」 この飲み屋の女主人は、温和でふくよかである。だから、この店にいるだけで心が和む。俺は、一口二口、口を開き、近況を伝えた。 「それは大変だったわね、お疲れさま」 そう言って、女将は取って置きの酒をご馳走してくれた。彼女は、どこか、亡くなった母を思わせる。この前、墓参りに行ってから、もう三年がたってしまった。暇になったので、今度行こう。 母に思いを馳せてチビチビと飲んでいると、スマートフォンが鳴った。名前を見ると平泉こよねさんだった。俺は、女将に一言断り店の外で、電話に出た。 「もしもし、平泉さん?」 「あら、生きてたのね」 「その分だと、もう知ったんですね?」 「そりゃ、知り合いがニュースのトップを飾るなんて、滅多にないことだからね」 「どうでした? 俺のテレビ映りは?」 「中々りりしかったわよ」 「よかった。って、そのことを言うために、電話してきた訳じゃないでしょ?」 「そうよ。出版社の件は残念だったけど、仕方ないわ。でも、香耶さんのことは許せないわ」 「え! もう、三年も前のことを」 「彼女が留学したってT書房の人から聞いたのは、ついさっきよ。ねえ、何で手放しちゃったのよ?」 俺は、平泉さんに洗いざらい全部話した。彼女には、それだけの権利がある。新田さんと出会えたのは、平泉さんのおかげだから。 「そうかー、年齢のギャップについて行けなかったかー」 「まあ、平たく言えば、そう言うことです」 「それで、松浦君はこれからどうするの?」 「幸い、お金は入社以来、全然使ってなかったので、貯蓄はそこそこあります。だから、暫くは仕事はしないで、文章を書こうと思います」 「うん。それでいいんじゃない? あーあ、しっかし残念だわ、香耶さんのことは」 「どうもすみません、お手間を取らせたのに。でも、小説が売れたから、平泉さんとしてはいいじゃありません?」 「そうだけど、何か読者をだましたみたいで……」 「……すみません」 「まあ、いいわ。転生したって上手くいかないこともあるってことか」 「それで、この前インターネットで調べたんですけど、そう言うことって結構あるみたいですよ?」 「えー、そうなのー?」 「はい。巡り合っても男と男に生まれちゃったり、お互いに懐かしいと思ってもなにも進展しなくて別々の人生を歩んだり」 「へー、そんな物なの?」 「ええ、そうみたいですよ」 「まあ、いいわ。本当かどうか、私も調べてみるわ」 「ぜひ、調べてください。そして、本にしてくださいね?」 「うん。やってみるわ」 「はい、ぜひ」 「今度は本当に飲みに行きましょうね。それじゃ、またね」 「お電話、ありがとうございました」 電話はそれで終わった。何かエネルギーをもらったみたいで、力がみなぎってきた。そして、平泉さんにああ言った手前、俺も小説を書かなくては思った。幸い、そのための技術は、十分に身に着けているから。 俺は、翌日に近所の電気店へ出かけ、画面サイズが十五インチのノートパソコンを買って来て、小説を書き始めた。会社のデスクトップとはキーの配列が違い、はじめは戸惑ったけれど、時期慣れた。 九 二〇二〇年夏。 俺は、クーラーの効いたアパートで、日がな一日書き物に費やしている。書いてみて分かったのだが、俺は随分と上手くなっているように思う。それは、やはり編集者としての経験による所が大きい。それでも、源順の竹取物語と比べれば、まだまだだが。千年も前に、あの文章を書けたのだから、才能以外の何物でもないだろう。その才能を少しでも受け継いでいたらよかったのにと残念に思うが、神様はそんなには慈悲深くはないと言うことだ。 思えば、俺があの夢を見てから二十二年の歳月が流れてしまった。新田さんも、今年で二十二歳となる。もしかしたら、新田さんが生まれた時に夢を見たのかも知れない。そう考えると、やはり、神様はかなりの意地悪だと思う。二十歳も年を違えて甦らせたのだから。せめて、その半分の十歳位だったらよかったのに。 そんな事を考えてブツブツと独り言を言っていたら、玄関のチャイムが鳴った。 誰だろ? 落ち目の俺を訪ねてくるのは。まさか、また雑誌記者じゃないだろうなと危惧して、ドアの覗き穴からそっと外を見た。 「わっ!」 そこには、何かしら得体の知れぬお面が写っていた。俺は、びっくりして腰を抜かしてしまう。 「松浦さん?」 「え!」 その声は、新田涼香さんだった。 「源順様。香耶が参りました。ここを開けてくださいな」 俺は、あわてて鍵を開けて、新田さんをアパートへ引き入れた。 「しー。その名前では、呼ばないで。もし、それがバレたら面倒なことになるから」 「会いたかった順様。イギリスへ留学していたこの四年の間、日に日に思いは強くなって、もはや抑えることができなくなりました」 そう言って、新田さんはいきなりキスをして来た。そのキスは、かなり長かったように思う。しかし、俺はお面が気になって、それどころじゃない。 「……それで、そのお面は一体?」 「ああ、これは順様へのプレゼント。アフリカの何とかって部族の魔除けですって」 彼女は、勉強の合間に世界各地を旅して、心に忠実に生きることがいかに大切かを学んだと言った。なぜなら、この星に比べれば、人の人生はあまりにも短いから。 そして、彼女は俺を抱きしめ、再び長いキスをして来た。途中から俺も応戦する。 そうだよな。心のままに受け入れたらいいんだ。そんなことも分からずに何を考えていたんだ、俺は。今、俺の身体は喜びに震えている。この命が尽きるまで彼女を愛そう。 その時、スマートフォンがけたたましく鳴った。誰からだろうと見ると、知らな番号だった。こんな時に、迷惑なと思いつつも出てみる。 「はい。松浦ですけど?」 かなり怒った声で出てしまった。 「え! S社! し、失礼いたしました」 「はい、そうですけれど」 「え? 小説が本当に大賞を取ったんですか?」 「はい、はい。はい、はい」 「どうぞ、よろしくお願いします」 「それでは」 俺はスマートフォンを切って、呆然としてしまった。 「松浦さん? 今の電話って」 「ああ、S社から、俺の出した小説が大賞を取ったから、都合のいい日にお会いしましょうっていう電話だ」 「ええー!」 「やった! 俺は、今日から作家だぞ!」 「よかった。本当によかった。あなたの才能は、いつか認められると、香耶は信じておりました」 そう言って、新田さんはにっこり微笑んだ。まるで、約束された結末であるかのように。 俺は、再び新田さんを抱きしめた。それも、力いっぱい。新田さんを愛する自信が、身体にみなぎったからである。 平安の世に悔いを残して転生を願ったが、思いを遂げるのに千年も掛かってしまった。けれど、この結末には満足している。 神様、感謝致します。 (終わり) 出典:あでゅー リンク:http://slib.net/a/18416/ |
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