1 財布の中身は15円。それが僕、田辺トオルの全財産だった。最後に食べたのは、一昨日の68円のインスタントラーメン。みそ味だった。 このまま餓死するか、それとも悪事に手を出すか? 答えは言わずと知れている。ダメダメな僕だけど、生きたい。 僕は決意して、前から用意していたメザシ帽と、大事にしてたモデルガンをふところに忍ばせて、近くのコンビニへ向かった。 思えば、どうしてこうなったのだろう……。 中学2年の秋。僕は同級生にイジメられて引きこもっていた。それを、両親は根性が足りないと言って無理やり学校に引きずっていった。その結果、僕は同級生の前に行って気を失う。それも、オシッコをもらして……。 それ以来、自分と同世代の人に会うと気を失うという、めずらしい対人恐怖症になってしまったのだ。勉強は昔からできたので一応大検は取ったが、大学へは行けなかった。だって、同世代の人に対して対人恐怖症なのだから。 そのままズルズルと引きこもって25才になったとき、ついに両親から見放され家を追い出された。そのときに持たされたのは50万。僕は、まずそのお金でプロバイダと契約を結び、必死でバイトを探した。やっと採用されたのだが、そのバイトも当たり前のようにクビになる。だって、同世代の人に対して対人恐怖症なのだから……。 そして、今財布には15円。もう餓死するか、それともコンビニ強盗するかの選択に迫られている。さいわい、通販で買ったメザシ帽がある。ロープという選択肢もあったのに、生への執着が捨てられなかった。だから、もうするしかない。コンビニ強盗を。 僕は、深夜のコンビニから道路をはさんだバスの停留所のかげで、客がいなくなるのを待った。足がガクガクする。きっと12月の寒さからなのだろう。そう自分に言い聞かせていた。 今、客が出て行って、店員だけになった。震える手でメザシ帽をかぶり、モデルガンを握りしめて、深呼吸をしてコンビニへ近づいていった。 そのときだった。 「バッカじゃないの! こんなところ襲ったって10万にもならないわ。それで前科者? わりに合わないわ。どうせなら、億ぐらいは狙いなさいよ!」 僕のうしろから、中学生くらいの少女がドヤしていた。目を見張るほどネコ目で、両手を腰に当てて小さな胸を張って、まるでジャンヌダルクのように。 僕は、あまりのことに驚いてモデルガンをアスファルトの上に落してしまった。 「ほら、強盗未遂で捕まるわよ」 なぜだか僕は、少女に手を引かれ一目散に逃げた。必死で走った。 (わけの分からぬうちに人にしたがう。日本人の悪い習性だ) そんなことを考えながらも、身体は少女にしたがっていた。そして、もうここまで来れば大丈夫というところに公園があった。人のいない夜の公園で、僕らは両手をひざについて荒い息をはいた。 「ぜーぜーぜー。なんなんだよ、お前は?」 「はっ? なに、そのくちのキキカタは?」 「なんだと!」 とそのときだった。僕の目の前に札束が突きつけられた。 「こ、これは!」 少女は勝ち誇ったように、ネコ目を細め微笑む。 「あなたに上げるわ。でも、そのかわりわたしのことをお嬢様とお呼びなさい。いいわね?」 目の前の札束と少女を交互に見る。答えはすぐに出た。 「分かりました。お嬢様!」 (180はあるこの僕が、なぜこんな小さな少女のいうことを聞かなきゃいけないんだ。でも、取りあえず餓死からは逃れた。ここは大人しくいうことを聞くのが得だ。 それにしても、なぜこんな大金を持っているんだろう? なにかヤバイ組織じゃないだろうな……) 僕はそんなことを考えていたら、無意識にメザシ帽を脱いでいた。 「へー。目出し帽を脱いだらけっこうイイ男じゃない」 「なに言ってんだ。これはメザシ帽だろう?」 「クックックックッ。なにそれ。魚のメザシ? バカね。これは目出し帽っていうのよ。意味を考えれば分かるじゃない。ほんと、学歴ウンヌンより、頭のできが悪いのね」 「でも、通販じゃメザシ帽って……」 「それは、オツムの弱いあなたたちに合わせたのよ。アハハハハ」 グウの音も出なかった。こんな少女にバカにされるなんて。 「そんなことより。おい、お前。なんなの、そのくちのキキカタは?」 そう言って少女は札束を僕から取り上げてしまった。 「ああ! すみません。お嬢様。私が悪うございました。どうか、許してください」 あわてた僕は、地面に頭をすりつけて必死で謝った。 こうしてなんの因果か、僕は中学生でネコ目のお嬢様の『手下1号』になった。 2 暖かな日差しが差し込むダイニング。私こと田辺トオルは生まれ変わって『手下1号』となり、お嬢様の朝食を用意していました。ここはお屋敷。部屋数は数えきれないほどありますが、住んでいるのはたった3人。お嬢様と執事と私だけ。なぜ、私なんぞが選ばれたのか分かりません。ですが、私はお料理は得意なので、きっとそのせいでしょう。 さて、もうそろそろお嬢様が起きる時間です。本当は私がお嬢様を起こしに行きたいのですが、それは危険だと止められました。にっくき執事に。そんなことをする分けがないのに。……ただ、ほんのちょっと思っただけです。 その執事は、年のころは30才ほどの中肉中背の美形の『男』で、ちょっとこった髪形をしています。それはなんとワンレンです。別にゲイではなくて、ただのファッションだと言うのです。あれにスカートをはけば、きっと誰もが振り返る美しい女性に見えることでしょう。私も初めて見たときはドキドキしました。ですが、今となっては目の上のタンコブなのです。 話をお嬢様にもどします。 お嬢様はパジャマをいつもの黒のワンピースに着替え、食卓に着きます。ココアにたっぷりミルクを入れて半分飲み、次にココアのバウンドケーキをおいしそうに召し上がったあとに、残りのココアを飲み干し、最後にフルーツを召し上がります。フルーツは桃缶かパイナップル缶がお好きなようで。 朝食のあとは、軽くランニングをしてシャワーを浴びます。再び黒のワンピースにソデを通し、そこからは家庭教師の授業の時間です。そう、彼女は中学校には通っていません。すでに高校の過程は終え、今は教授を家庭教師につけて学位を所得しているところなのです。こんなことが許されるなんて日本も進んだものです。――遠い目。 そして、国際ボディーガード会社の役員として、外商をしています。私のオツムとはできが違うようで、ほんとうらましい限りです。仕事の内容は私には分からないので聞かないように。 さて、私が昼間なにをしてるのかというと、格闘技と拳銃の訓練です。本当に日本なのかと思われるでしょう。しかし、国際ボディーガード会社にとっては普通のことなのです。 そうです。初め私は悪の組織に雇われたと思いました。しかし、お嬢様に、国際ボディーガード会社にスカウトされたのでした。 おかしいでしょ? ニートがボディーガード会社にスカウトされるなんて。 実は、イジメられるのが怖くて格闘技を勉強してました、ネットで。やってくうちにハマってかれこれ10年。心の中の師匠はブルース・リー! そして、私の趣味であるモデルガンも生きてきました。これは、本当に好きで、ぶっ続けで10時間も続けたこともありましたっけ。 どうやら私は集中力と身体の使い方がうまいようで、先生にもほめられるくらいなのです。もう、そろそろ仕事だと言われました。えっへん。 でも、お嬢様のお世話はやめませんけどね。 3 某年6月10日。毎日のように降り続く雨にも関わらず、10年ぶりにまっ黒に日焼けをした、私こと田辺トオルは、半年にも及ぶきびしい訓練にたえ、無事卒業した。そして、今日が初めての出動だ。黒いスーツとサングラスで気分はもう、ケビン・コスナー! けれど、日本だから拳銃は所持していない。警棒だけだ。残念……。 ボディーガード対象者は、某政治家。近頃いやがらせを受けて警戒しているようだ。私たちに頼むくらいだから、きっと政治資金がありあまっているのだろう。一体どこから入って来る金かは、我々には分かりようもないし、また知る必要もないことなのだが。 某政治家は、今ホテルのパーティー会場に来ている。もうそろそろ、スピーチが終わるころだ。私は某政治家がホテルから出てくるのを、階段下の車のそばで待っていた。すると、マスコミの群れの中から、ひとりのスリムな女が階段を上りはじめた。 「前方から、すらっとした女が近づいて行きます」 私はイヤーマイクで知らせた。緊張して背中にイヤな汗を感じる。 私は持ち場から離れて女の背後から近づき、取り押さえるタイミングを計っていた。するとなんの前触れもなく、急に女が振り向いた。 「し、執事!」 「よ、手下1号」 私は構えを解いてしまった。と、そのときだった。 いきなり、執事の右まわしげりが、私の左側頭部に飛んできた! 私はとっさにスエーしてかわし、執事の軸足の左足にけりを飛ばした! 執事は両足を空中にかわし、身体をキリモミさせ、私の首めがけて手刀を振りおろしてきた! その一瞬早く、私の警棒が執事のミケンを打ちつけた! 「それまで!」 「えっ?」 見ると部長が立っていた。私は一体なにが起こったんだと呆然としていると、倒したハズの執事がなにごともなかったように立ち上がった。 どういう分けか、部長と一緒に執事も某政治家に頭を下げている。 「いや、いいものを見せてもらったよ。訓練、はげんでくれたまえ。では」 そう言うと、某政治家は足ばやに車に乗り込んだ。私もすぐに乗ろうとしたが、それは部長に止められる。車はなにごともなかったようにホテルを離れていった。それを私はポカーンと見ていた。 車が無事出たのを確認すると、部長は私に握手を求めた。 「よくやったな。君は合格だよ。おめでとう」 つい、差し出された手にこたえ、いぶかしんでいると執事が言った。 「卒業試験だよ。合格おめでとう」 「なんで……」 「そりゃそうさ。いきなり本番はないよね、普通。それに、どこの世界に『今から襲いますよ。いいですか?』って言う奴がいるんだ?」 私は言葉が出なかった。しかしこのあと、執事は恐ろしいことを言う。 「しかし、よかったね。中東送りにならなくって。あははは」 ようするに、本番でびびってなにもできない奴はいらない。だが、訓練を受けさせてムダに危険度をアップさせてしまった。もしも、コンビニ強盗にでもなったら始末に置けないから、中東支部へ行って早いところ死んでくれというのだ。 (クビになるだけじゃなくて、死ねって……) 血も涙もないこの人たちと、これから一緒にやっていくのかと、とほうに暮れた。だが、ここでやめますとは言えない。言えば中東へ行けと言われるのは目に見えている。選択肢は一つしかないのだ。 「……よろしくお願いします」 複雑な表情の新米ボディーガードのでき上がりだ。 その日の晩。私がしょんぼりと夕食のしたくをしていると、お嬢様はネコ目を細めて声をかけてきました。 「手下1号、あなた卒業試験、合格したみたいじゃない。おめでとう」 「はあ……」 「なにションボリしているの。元気出しなさい。男の子でしょ」 「でも、もしも落ちてたら中東送りって……」 不意にお嬢様の手が私の背中をなでました。 「仕方ないでしょ。それがオキテだから。あんまり深く考えないの。楽しいことだけ考えなさい。これからは、わたしとずーっと一緒なんだから、あっ!」 お嬢様はそう言うと、まっ赤になって後ろを向いてしまいました。 (なに? これはひょっとしてフラグ?) でも、経験がない私はどうしていいか分かりません。 そうこうしているうちに、フライパンのサーモンのムニエルができました。お皿に乗せレモンをそえてでき上がりです。 このような料理は、私がニートでネットばかりしているときに、レストランのレシピをマネて作っていたんです。安くて、おいしくて、それでいてヘルシーな食材を使って。 それが、お嬢様のおくちにも合ったようで、めでたくお嬢様選任の料理人をおおせつかったのです。 3人で元気に「いただきまーす」を言いました。 「ぱく、もぐもぐ、ごっくん。うん! 今日のサーモンのムニエル、レモンのサッパリ感がたまんないわ。し・あ・わ・せ」 「お嬢様、レモンとは別に、お酢とオリーブオイルのドレッシングで味わってください。きっとお気に召すでしょう」 「どれどれ。ぱく、もぐもぐ、ごっくん。うん、おいしい! この方がまろやか」 お嬢様はネコ目をうれしそうに細めそう言いました。 お嬢様の食事風景をながめながら、ふとある疑問がわいてきて、聞いてしまいました。 「ところで、お嬢様。なぜあの日、私が強盗をする寸前でお止めになったのですか?」 お嬢様は、ホークとナイフを止めて、下を向いてしまいました。 はっ、とした私は、 「すみません。決してお嬢様をうたぐったり、非難するつもりはありません。この話は忘れてください」 お嬢様は、左手で私を制して言いました。 「いいわ、この際だから話しておくわ」 お嬢様は手をひざの上に置き、かしこまってお話しされました。 「手下1号、いや本名田辺トオル。お前は2年前の交通事故のことを覚えているか?」 「2年前? ……ああ、思い出した! そういや、そんなこともありましたっけ。いやー、あれは危機いっぱつだったなー」 「そう。わたしが事故で突っ込んでくる車に、まさに覚悟を決めたとき、あなたは我が身をかえみず、わたしを抱いて空中高く飛び上がり、助けてくれました」 「あの時、私もそばにおりました。よく、お嬢様をお救いしてくれました。あらためて、お礼を言います。田辺さん、ありがとう」 (そうか、あのときワンレンの美女がいたと記憶しているが、あれは執事さんだったのか) お嬢様の話は続きます。 「あれから、あなたを探しました。あのあと、足を引きずりながら、どこかに行ってしまいましたから。でも、すぐに見つけました。特徴的でしたので。なにせ、黄色いジャージのツナギを着ていましたから」 「いやー、あれは通販で買ったヤツでトラックスーツっていいます。その中でも、ブルース・リーモデルだから高かったんですよ。それでね、――」 私の発言は無視されました。 「調べて見ると、ニートではありませんか。わたしは落胆しました。そして、二度と会うこともないだろうと思っていました。そのときは、たまたまあの近くに用事があったからで、あんなところへ来るのは、めったにないことでしたから。 それが、1年後のあの日、通りかかったコンビニであなたを見つけました。今、まさに強盗しようと目出し帽をかぶっているところへ」 (うん? 偶然に再会って、もしやこれは運命の出会いではないのか? いや、それにても、ひどすぎる。運命の出会いのはずが、強盗しようとしていたなんて……。 やっぱり偶然の出会いでいいや。そうしとこう) お嬢様はブドウ・ジュースをひとくち飲んで話を続けました。 「これはほっては置けない。どうにかしなければ! それで、強盗団のリーダーを演じてあなたを手下としたわけです……。手下にして強盗を回避させた時点で恩返しはすみました。今は雇用関係がなり立っています。以上」 食卓テーブルは、しーんと静まり返りました。 お嬢様は、なにやら顔がいくぶん赤いようです。 私は考えていた。本当に雇用関係だけだろうか? お嬢様は、私に一度は落胆したが、それでも私のことを気にかけていてくれた。コンビニ強盗をやめさせたのも、このお屋敷で私を働かせてくれるのも、お嬢様が私を気にかけてくれていた表れだとしたら、これはもう並大抵なことではない。もしかして、お嬢様は私に恋をしているのではないのか? お嬢様に聞いてみたかったのだが、それをやってしまうと今の状態がくずれてしまって、もう一緒にいられないと言う恐怖感があった。ばくぜんではあるが……。 もう、この話はやめよう。 「お嬢様。これからもお嬢様のお世話をすることが私の喜びです。私はやっぱり手下1号がしょうに合います。これからも、どうぞよろしくお願いいたします」 「うん、手下1号、これからもよろしくな」 お嬢様はネコ目を細めうれしそうに、でもちょっとほおを染めてそう言いました。 「さて、お料理が冷めてしまいます。みなさん、いただきましょう」 こうして晩さんは続いていきました。 私は、一日が終わって自分の部屋のドアを開けた。今日は色々あって疲れた。ベッドに倒れ込み、目をつむって2年前の事故のことを思い出していた。 (なぜ、あんな大胆なことができたのだろう。とても自分がやったこととは思えない。夢だったんじゃないだろうか、そう思えてきた。そう、夢だったんだ……) いつの間にか眠ってしまった。 「誰だ!」 私のベッドの中に、もうひとりいる! 暖かい体温を感じて、急いでベッドの電気をつけようとした。しかし、私の手は柔らかくて小さな手に止めらる。 「うっ」 小さな唇が私のくちをふさいだ。 (ああ、これはきっとお嬢様だろう) お嬢様は私の耳元でささやいた。 「わたしが……、わたしが18になるまで待っててね」 そして彼女は行ってしまった。 ――一体お嬢様はなにを言ったんだ? まさか、お嬢様が18になったら私に抱かれると言うのか? ああ、なんという夢のようなことだ! きっと、そのころには手足もスラリと伸びて、胸もお尻ももっとミリョクテキになるだろう――。 私はいっとき、夢の中にひたった。 (だが、それにはあと4年あまりある。私にとってはたった4年だけれど、あの年ごろの女の子にとっては4年は長い。きっと、心変わりをしてしまうだろう。 でも、それでいいと思う。それは、子供を思う親の気持ちかも知れない。私は、子供の親になったことはないが、そう思った。ちょっと残念だけれど) そうして、私の心は欲望と優しさのハザマを行き来した。明日も朝早いのに、いつまでも寝つけなかった。 翌朝、私が食事の用意をしていると、お嬢様が起きて来ました。 「おはようございます、お嬢様」 「おはよう、手下1号。昨日のサーモンはまだあるか?」 やっぱりネコ目だけにお魚に目がありません。 「はい、ございます」 「それのムニエルを昨日のドレッシングで食べたい」 「かしこまりました。お嬢様」 どこか上気しているお嬢様はネコ目がうるんでおりました。 私は気づかない振りをして朝食のしたくを続けました。そして、朝食をとる時間もなく、早くからボディーガードに行くしたくをして「行ってきます」と言って屋敷をあとにしました。 4 初めての仕事は、いきなり1週間の期間で、それもほぼ24時間体制の勤務だった。 彼女、歌手のキャサリーンのボディーガードは、その間ずっと緊張の連続だった。特に、コンサート会場や車の移動での、ファンの攻撃がひどかった。男も女も一目見ようと、また触ろうと、さらにはなにかをもらおうと、必死で近づいてくるのだ。もう、ボディーガードの我々は傷だらけだった。こういうときに人間の本性が分かるのだと、あらためて知った。 ハデなパフォーマンスを見せつけ、やっとホテルに着いたのは、もう時計も午前0時を示すころ。キャサリーンはさすがに疲れたようだった。ソファーにドカっと腰を下ろし身体を沈めた。 「フー、疲れたわ。シャンパン持ってきて」 彼女のマネージャーがすぐさま用意する。それを一気に飲み干した。 なぜ、日本語を話しているかというと、彼女の母親が日本人だそうで、日本語がしゃべれるが、読み書きはできないそうだ。 「ところで、あのエージェントはなんて名前?」 みな、いっせいに私を見た。でも、私はだまって立ち続けた。 マネージャーがエージェントの班長に聞いた。 「あの男の名前は?」 「はい、名前は田辺トオルと申します。彼がなにか?」 「あなた、かわいいのにカゲがあっていいわね。ねえ、ステディはいるの?」 「おい、ここからはお前が直接話せ」 「はい、分かりました。班長」 私は壁際からキャサリーンの前に歩みより、くちを開いた。 「ステディはいません。結婚もしてません。おまけに童貞です。以上」 そう言って元の配置にもどろうとしたとき、キャサリーンに手を握られた。 「ここに座って。お話をしましょう」 仕方なくソファーに腰かけた。すると、彼女の手が私のひざの上に置かれた。 (き、緊張する) 私はまた、対人恐怖症がぶり返すのではないかと冷やひやした。 「さっきは、ありがとう。おかげで助かったわ」 階段でファンが投げたプレゼントをふんで転びそうになったとき、とっさに彼女を抱きかかえ下まで飛んだ。まるで、新婚さんが初夜を迎えるときに、花嫁をベッドまで抱きかかえるように。たぶん、そのことを言っているんだと思った。 「いいえ、あれはとっさのことで失礼しました。しかし、あなたを無傷で助けるには、仕方がありませんでした」 「お礼にキスしてもいい?」 (な、なんだ、このフラグは? お嬢様といい、キャサリーンといい……。もしかして、モテキが来たー! いや、調子に乗るとまた昔の対人恐怖症のニートに逆もどりだ。ここは冷静に) 「くちクサイですよ、私は」 「まあ……」 「くちクサイ男は配置にもどります。いいですか?」 彼女はしぶしぶ承知した。恨めしそうに見ていたが、私は一礼して元の位置にもどった。 (我ながら、いい断り方を思いついたもんだ。次は、ヘでもこきましょうか。 大体、ただのエージェントがあんな大物歌手とつり合う分けがない。遊ばれて捨てられるんだ。オモチャのように) だが、彼女はあきらめなかった。そのあと、すれ違いざまに紙を渡された。 I love you! Come on bed tonight. Please! (なんと大胆な! いやいや、これはきっとワナだ) いざ行ってみると、そこには笑いをこらえた同級生の顔が! そんな場面が頭に浮かんだ。私はひどいはき気と頭痛がして、心にもないことを書いて、彼女を遠ざけようとした。 Bad I am gay. I love the man very very much. I'm sorry. この紙を渡すと、彼女は悲しそうな顔をして、ベッドルームにこもってしまった。 いつまでも昔のイジメが脳裏に浮かんで私の行動を制限する。このままでは一生童貞だと、カラをなん度も破ろうとしたけれど、最初の一歩がふみ出せない。いつまで続くんだ、このジュバクは。 次の日、どうもみんなの目線が痛い。まさか、あれがみんなに知れ渡った? 私、田辺トオルは班長に呼ばれた。 「おい、お前」 「はい、なんでしょう?」 どうせ、昨日のI'm gay.のことだろう。 「お前、まさか本当にゲイだなんてことを信じる奴がいると思っているのか? もう少しうまい言いわけを考えろ。そうじゃなかったら、やってしまえ」 (いいのか? 班長がこんなこと言って。でも、いざとなったら怖い) 私は正直に答えた。 「班長。私はやっと対人恐怖症がよくなってきたばかりなんですよ。女性とそういうことはまだできません、はい」 「そうか、まあ気長にいけよ。きっとよくなるさ」 そう言われ肩をたたかれた。 (班長も情けない奴だと思っているんだろな) 私はその考えを飲み込んだ。 そのあと、私はキャサリーンには本当のことを話した。 「キャサリーンさん。昨日はすみませんでした。本当は私はロリコンかも知れないんです。中学生を好きになっているのですから。だから、あなたとはお付き合いできません。すみません」 「まあ、あなた中学生とシテるの?」 「いいえいいえ、してません! めっそうもない」 「だったらいいわ。見逃してあげる。でも彼女にフラレたらすぐ教えなさいよ。あなたの童貞をいただきに来るから。うふふふ」 いやはや肉食系はすごい。皿に乗せられ全部食べつくされるかも知れない。おいしそうに骨をしゃぶりつくす彼女を想像して、身震いがしたのだった。 そんなこんなで、任務は無事完了して帰路についた。 1週間ぶりにお屋敷に帰って来ました。玄関を開け中に入ると、なにかイヤなニオイが……。 (くんくん。なに、このニオイ?) 「お帰りなさーい。待ってたわよ」 お嬢様のネコ目の目尻が下がって普通になっています。 「どうしたんですか、このニオイは? それに、そのやつれ方は?」 ふたりはシュンとして下を向きました。 どうやら、ふたりはこの1週間の間に食べたものはカップヌードルだけ。そしてこのニオイは洗濯をしていない着物のニオイ。 「どうして…」 「あなたが来るまでママがやってくれたのよ。それをすっかり忘れていて……」 「めんぼくない……」 「執事ともあろうものが……。ところで、そのママさんは?」 執事に話を聞くとこうだ。 お嬢様たちが日本に来たときは、いつもママさんが付いて来て家事をやってくれた。だが、そこへ私が来たので、安心してアメリカのパパのところへ帰ってしまった。それをすっかり忘れて、私が仕事で一週間出かてしまったら家の中が大変なことになった。そんなときのためにメイドを雇えばいいと思うのだが、それは警備上ダメ。ということらしい。 私は、ふと疑問に思い、執事に聞いてみた。 「でも、なぜお嬢様は日本にずーっといるんですか?」 「それは、お前が英語を話せないからじゃないか」 「意味が分かりません。どうして、私が原因なんですか?」 「お前も鈍いな。それは、お嬢様がお前にホレてるからに決まっているじゃないか」 「!……」 ようするに、私が自分の身をかえりみずお嬢様を救ったことでホレられたみたいだが、それでお嬢様は私と一緒に住むためにずっと日本にいるのだ。 それで全部がつながった。そんなにホレられていたなんて、知らなかった。本当にいいんだろうか、この私で? 「頼むよ。お前はお嬢様にとってはヒーローで、手下1号で、エージェントなんだからさ。まあ、手下1号っていうのはお嬢様の召し使いってことだけど」 「そんなこと言われたって身体は一つしか……。ところで、執事さん。あなた一体?」 「私? 私は父違いの兄です」 「……お兄さん。そう呼ばせてください」 「まだ、早いよ」 「……」 話し合った結果、私の出動は最長二日間だけとなりました。そして私のいないときは作り置きか、弁当になりました。 ふたりは、なにやら弁当が気に入ったようで、明日からのお昼を楽しみにしています。アメリカは弁当という文化がないので。 そして、お待ちかねの夕食の時間です。私たちは仲良く「いただきまーす」と言いました。 執事がいきなりチキンにかぶりつきます。 「むしゃむしゃ、このこうばしく焼いた鳥さんのソティがすばらしいね。パリッパリッ!」 お嬢様は、うれしそうにネコ目を細め言う。 「ぱくぱく、あーひさしぶりのココアのバウンドケーキ。愛してるわ」 私はニコニコしてスープを飲みながら言う。 「ずーずー。どう、うまいでしょう? このスープも召し上がれ」 そう言うと執事がくちをつける。 「どれどれ、ずーずー。ああ、ユズがしみ入って身体が洗われるようだ」 お嬢様はまんめんの笑みで言いました。 「本当、これからもよろしくね」 すると、突然執事が言っちゃった。 「どう、もうおムコにもらったら?」 「……」 お嬢様と私は下を向いてだまってしまいました。ふたりして顔がまっ赤です。 「あれあれ、ふたりしてテレちゃって、かわいい!」 こうして3人は、また仲良く食卓を囲むのでした。 5 某年12月31日。もう今年も終わろうとしていた。私こと田辺トオルは某要人の警護についていた。人がごった返している中、ガードするのは中々骨のおれる作業だ。 要人がオサイセンを投げ入れ、願かけをしている。そう、ここは○○八幡宮。要人が階段を降りていくと、人々は握手を求め押し寄せてくる。まったく迷惑な話だ。誰がって? 言わずと知れた某要人がだ。 おまけに、ここぞとばかりに身体に触ってくる奴がいる。それをひとりひとり腕をねじ上げてゆくのだ。いくら、この要人が若くて美人だからってそんなことしたら、緊急タイホなのに。 やっと車にもどって来てホッとしたとき、要人が私の顔をのぞき込んで首をひねっている。 「もしかして、田辺君じゃない? 違っていたら、ごめんなさい」 ギクッ、とした。私はその呼び方に聞き覚えがあった。顔をよく見てみると、それは中学時代の同級生、有朋(ありとも)サナエだった。 「有朋さん……」 全身から血の引ける音がした。足の先まで冷たくなるのが分かる。そして視界がユラユラとゆれていた。 「田辺君? ねえ、どうしたの?」 言葉はもう聞こえなかった。しかし、手をつつみ込む温もりを感じて意識がもどってきた。 「すごい汗よ。もしかして、これはあのときの……。 ごめんね。あんなひどいことしちゃって。政治家の前に人として失格だわ」 そう言って要人、有朋サナエは涙をこぼした。 「すみません。こちらこそお騒がせして。気にしないでください。たまたま2年半ぶりに発作が起こっただけですから。今、ほかのエージェントにかわります」 だが、彼女は手を離さない。私は、振り払うことも、身動きすることもできなかった。 「ちょっと彼を借りていいかしら?」 「はい、どうぞ」 「ありがとう。ちょっとの間、ふたりだけにして」 「分かりました」 そう言ってみんな、車の外に出てしまった。 私はまだ緊張している。なんで、みんな出て行くんだよ、と声が出そうだった。 「ねえ、今ボディーガードをしているってことは、格闘技をしてるのね?」 「はい、10年やってます」 「そう。ずいぶん立派になって。身長は?」 「180ちょうどです」 「驚いたわ。大きくなって。で、大学は?」 「行ってません。中卒です。一応大検は取りましたが」 「……」 絶句していた。私の境遇がかいま見えたのだろう。有朋サナエはごめんね、ごめんね、をくり返して大粒の涙を流した。 「どうしたら許してくれる? 言って」 彼女も、あまりの影響力に恐れおののいたのだろう。 そう、彼女が私をイジメた張本人。私を、対人恐怖症におちいらせた同級生なのだ。しかし、彼女もまた心を痛めていたのだろう。こんなに肩を震わせて……。 ここで彼女は、大変なことをくちにする。 「ねえ。あなたが許してくれるなら、なんだってするわ。……あなたに抱かれてもいいわ」 (そうだ。この女を抱けたら、きっとすべてのわだかまりを払拭(ふっしょく)できる。そうしたら、もう発作で苦しむこともない。私はいちからやり直せるだろう) しかし、心のハシに引っかかっていた。お嬢様のことが。 「僕には、そう、僕には大事な人がいるんです。愛しています。誰よりも」 僕は息をゆっくりはいて続けた。 「あなたの気持ちは受取りました。その気持ちだけで十分です。ありがとうございます」 「はーフラレちゃったのかな? そりゃそうよね。あんなこと、したんだもの」 有朋サナエは涙をぬぐい無理して笑ってそう言った。 「わたしはあのころ、あなたに嫉妬していたの。どうして、たいして苦労もなく、なんでもできるのって……。 そして、あなたが学校から去ったとき、初めて知ったの。わたしはあなたを愛しているって。子供っぽいかもしれないけど、好きだからイジメちゃったのね……。 だから、あなたが学校を去ったときにわたしは……自殺未遂をしたの。死ねばよかったのにね」 「そんなこと言わないでください。あなたが死んだら、悲しむ人がたくさんいるんだから」 「ありがとう。……ねえ、キスしてもいい?」 私、田辺トオルは少々迷ったが、有朋サナエにキスしてもらうことにした。彼女が、それで気がすむならば。 ふたり、目を見つめ合った。なん年ぶりだろう。彼女とこうして見つめ合うのは。まるで中学時代にもどったようだ。 僕と彼女は、ふたり同時に目をつむった。鼻息が荒くなっていないか気になった。その直後、彼女の唇が私の唇に当たった。始め彼女は唇をなぞっていたが、やがて唇を分け入って来た。僕の舌を求めて彼女の熱い舌がうごめく。僕はたまらず欲望のままに彼女の胸をもんだ。 (やわらかい) 彼女の息が荒くなった。僕は股間を押しつけた。 (したい!) その時、車の窓をたたく音がして、はっ、と我に返る。 (私は、なにをしているんだ?) 班長が困った顔で言う。 「それくらいにしてくださいよ。あとは帰ってから、ふたりでお好きなように」 (止めてもらって助かった。もう終わりにしよう) 「それじゃ」 「行くの?」 なごり惜しそうに彼女の目が訴えている。あそこまで行って逃すなんて、くやしいと。 そして寂しそうに言った。 「それじゃ、またね」 「もう、会うこともないと思います。今日は、ありがとうございました。おかげで自分を取りもどせそうです」 すがりつく彼女の手を放し、私は車を降りた。そして、テールランプを最後まで見送った。 明日はきっと違う世界が待っているだろう。手の震えもなく、ボッキだけが心地いい夜だった。 こうして、私の対人恐怖症が治ったのでした。 思えば、この10年。いつもなにかにおびえていたようで、今は霧が晴れたような気分です。 それから、一度うちに帰りたいと思います。父と母に、今まで苦労をかけてごめんねと。 あと、副産物として、私のあそこが元気になりすぎて困っています。それに加え、お嬢様が日にひに身長も伸びてグラマーになってきて。 約束の日まで、あと3年ありますが、とても我慢できそうもありません。もう、いただいても構わないですよね? 童貞だけど……。 6 1月の東京は明け方からミゾレが降っていてイヤな気分だった。私はいつも通りにお屋敷を出た。現場着くと、班長に事務所に行くように言われた。それも、班長がついて行ってくれるという。私はなにかあると覚悟した。班長はずい時、私の斜めうしろ45度にピタリとついていた。私が逃げないように監視しているのは、明らかだった。背中を気持ち悪い汗が流れた。 事務所に着いて部長の前に立った。のどはカラカラなのに、ないツバを飲み込む。 「部長、なんでしょうか?」 「実は、お前に辞令がおりてな……、スイス支部に栄転だ」 「……」 言葉が出ない。もし、命令に逆らえば中東送りだ。だまって続きを聞いた。 「悪いな。社長からの命令だ。……身体に気をつけろよ」 語尾が涙声だ。だが、その涙声で覚悟ができた。いや、ずっと前から覚悟していた。社長が大事な娘を元ニートにくれてやる分けはない。おまけにまだ中学に通っている歳なのだ。私が親でもそうしていただろう。 色々言いたいことはあったが、それをすべて飲み込んで私は身じたくをした。心残りは、お嬢様にさよならが言えなかったことだ。 部長直々に私を送り出してくれるという。だが、裏を返せば日本屈指の格闘家が私を飛行機まで監視するということだ。逃げ道はない。 大人しく私は成田をあとにした。眠ろう。きっと明日からまた訓練の日々だろうから。 (さようなら、お嬢様。さようなら、日本) 7 スイス、チューリッヒ空港。それは緑豊かな場所にある。せまい敷地につくられた日本の空港とはえらい違いだなと思った。私は目印の雑誌を片手に、コーヒーショップで待った。監視がついていないのは、きっと私の語学力がおぼつかないので、逃げる心配がないと高をくくっているのだろう。実際、その通りなのだが……。 コーヒーがあとひとくちになったとき、背の高い男が右手を上げて近づいて来た。私は飛行機の中で覚えたカタコトのドイツ語で話しかけた。 ドイツ語「ども、おむかえうれしい。私田辺トオル。よろしコ」 「ふふふ、日本語で話せよ。まあ、肩の力抜いて気楽にやろうぜ」 その金髪の190男は、リュウチョウに日本語をあやつった。 「いやー、助かります。私は語学はニガテで。ところで、あなたのお名前は?」 「俺はラルフ・ハイケンだ。外に車を止めてる。さあ、ついて来い」 「ラジャー」 話を聞くと、なんでも昔の恋人が日本人ということで。たしかに、甘いマスクに、このすらっとした高身長。いかにも大和ナデシコが好きそうなタイプだ。 私は、ラルフの運転する車に乗って、スイス支部へ向かった。 「お前、お嬢様とできてるんだって? そのウワサは全支部へ流れてるぜ」 「め、めっそうもないハイケンさん。まだ、手は出してません」 「ラルフでいいよ。で、まだって言ってもキッスはしたんだろう? 中学生相手に、このロリコン野郎。あははは」 よかった。いい人で。 それからは、語学の習得と、拳銃の実射訓練のスケジュールを聞いた。かなりハードな内容だった。特に語学が気が重たかったが、スイス支部の会話はドイツ語ではなくて英語でいいらしい。ちょっとホッとした。 車はアウト・バーンを西へ走った。眠気まなこに夕日がまぶしかった。時差を身体で感じた。 スイス支部について、さっそく顔見せであいさつをした。仲間内で撃ち合わないようにだ。 「My name is Toru Tanabe. I came from Japan. Nice to meet you.」 ざわざわと、なにやらアヤシイ雰囲気だ。 ラルフ・ハイケンが小声で私に言った。 「おい、お前がロリコンだって言ってるぜ。中学生をヤッテルって」 私はため息をついて、はき出すように言った。 「I kissed her. But I do not have sex. I am cherry boy. OK?」 とたんに場の雰囲気がやわらかくなった。みな、眉を下げて手を差し出してくれた。 「I'm sorry.」 私はみんなと握手しハグをした。クスクスと笑う者もいたが、根はいい奴ばかりだと思った。 どうやら私の英語でも通じたらしい。ホッとした。だけど、ヒヤリングはまったくダメだが……。 翌朝、私は年配のマスターについて、語学と拳銃をやると言われた。 語学はまず、英語、それからドイツ語、そしてフランス語だ。フランス人は母国語しか、しゃべらない人が多いので注意が必要だ。そして英語のStop! Hold it. harry up. Hit the dirt.などの緊急単語が先だ。 私は頭が痛かった。語学は昔からダメなのだ。おまけに、長年のニート生活で授業を受けたことがないから、ヒヤリングが全然ダメなのだ。手元にナワがあったら首をつっていたかもしれない。 あと、拳銃だが、これは相手を殺す気で撃たなければならない。正直やりたくない。しかし、躊躇(ちゅうちょ)していては命を落とす。さもなければ、仲間が死ぬ。生き抜くためには、やらなければならないのだ。 一か月のきびしい訓練を終えた。私はなんとか合格点をもらい中東送りを回避した。 それと同時に車の免許も取らされた。スイスはどこへ行くにも車が必要なので。聞くだけのドイツ語の講座で眠り、学科では英語の問題をなんとかクリアーして、問題は実地だった。スイスの教習場にはオートマがないので、坂道発進で苦労すると言われた。私は、26才のこの年で初めて車を運転したのだが、意外に筋がよかったらしい。大きな問題もなく、ギリギリの点数だったが一回でクリアーできた。初めて見る自分の免許証にニンマリしたものだ。 ホッとしたのもつかの間。さっそく、明日の仕事を言い渡された。変に考える時間を与えない。精神を正常に保つためのこの世界の常識だ。 翌日、私はボディーガードの班に加わった。今回のボディーガード対象者は某国の大統領補佐官。移民問題で過激な発言が目立ち、人気があるがその分敵が多い。最近、襲撃されると情報が流れてきて、ボディーガードを依頼してきた。自国の警察では心もとないらしい。 エージェントは4人。カール班長、セバスチャン、ハンナ、そして私。ハンナはこの世界ではめずらしく女性隊員で黒髪だ。ショート・カットがよく似合っている。そして、どことなくお嬢様に似ている。だが、彼女はイスラエル人。日本人の私から見たら独特な雰囲気をかもし出していて、神秘的だ。悪く言えばブキミだ。 私たちは装備を点検して車に乗り込み、大統領補佐官のリムジンの前を走った。 私は車で移動中、ハンナを横目で見ながらお嬢様を思い出していた。 (今ごろ、お嬢様は泣いていないかな……。お料理やお洗濯は、ちゃんとしているかな……。いや、きっとアメリカに帰っているんだろうな。そして私のことなど忘れてしまっているだろうな。でも、その方が助かる) 私はお嬢様の幸せをひっそり願っていた。 そのとき、一発の爆弾が爆発した。幸い直撃は逃れたが、次に機関銃が連射された。私は防弾ガラスに守られて、銃穴から3発の銃弾を放った。弾は命中しゾクは倒れた。それを見て、ほかのゾクは退散していった。我々は、敵がいないことを確認してから、再び車を走らせた。 (ああ、今撃ったんだな。そして人が死んだのかも知れない) でも、私には実感がなかった。一発でも私に当たったら別だが。どうせ当たるなら頭に当たって、撃たれた実感もなく死にたいものだ、そう思った。 すると、ハンナが私のほおに触れた。 「大丈夫?」 私はいつの間にか涙を流していた。それは死に行く者へのザンゲの気持ちだろうか、それとも恐怖からの涙だろうか。 私は涙をぬぐって言った。 「ありがとう。大丈夫」 ちょっと声が震えていたが、初めての人殺だ。こんなものだろう。 ハンナは私を気づかって肩を抱き続けてくれた。 (ああ、暖かい。人間って暖かいものだな) そんな私に関係なしに、車は某国を目指してひた走っていた。目的地にまもなく到着することを道路標識が知らせた。 私は任務を終え、食事をすませてひとりバーで飲んでいた。 ここにはアパート、飲食店、バーがそろった完全に支部の人専用の施設。なんでも必要なものは全部そろえるから、できるだけここですませろよ、ということらしい。それはそうだろう。もしも酔っぱらって、部外者に警備内容をしゃべったらマズイから。 話によると女やギャンブルもOKらしい。童貞の私はちょっと心ひかれたが、結局そんな気にはなれなかった。それで、今日あったことを忘れるために、バーへ来たのだ。 ふと見ると、いつの間にかハンナが隣に座って飲んでいた。 「やあ、ハンナ。今日はありがとうね」 「ううん。初めてだもの。仕方ないわ」 「仕方ないか……。ところで、ハンナはフランス語は話せる?」 「うん、できるわよ」 「よかった。できれば教えて欲しいんだけど」 「でも、わたしのはイスラエルなまりよ。それでもいい?」 「うん、いいよ。それじゃいくよ」 仏語「初めて会ったときは、君のことがよく分からなかった」 仏語「そう? でも、わたしはあなたのこと、初めて見たときから気になっていたわ」 仏語「うれしいよ。僕も君に肩を抱いてもらって、やすらぎを感じたよ」 仏語「実はわたしもなの。ねえ、キスして」 仏語「ごめん。よく分からないよ。だって、僕童貞だもん」 「ぷっ、あははは」 「どう、うまく話せたかな?」 「うん、じょうできよ。これなら……」 私は大胆にも彼女の唇をふさいでしまった。 「ねえ、ゴム持ってる?」 私は、女を買おうかと迷ったすえに、結局使わずじまいだった半ダースのゴムを出して見せた。 「あははは、あーおかしい。……ねえ、行きましょう」 「うん」 私のアパートの部屋。ハンナが寝息を立てている。今まであんなに激しく愛し合っていたのに。きっと、疲れがたまっていたんだな。そう思うと、よりいっそう、いとおしく感じた。そっと額にキスして私も眠りについた。 8 ハンナはいつも微笑んでいた。私を見つめ微笑む。はち植えの小さな花に見入って優しく微笑む。朝日をまぶしそうに見上げ微笑む。そして私を組みしいてアヤシク微笑む。 いつの間にか、彼女の表情が私のやすらぎになり、私は安心するようになる。目をつむるといつも彼女の微笑みが浮かび上がる。それは幸せなこと。そして私だけに許された時間。 2月のある日、ポーランドへ仕事に行った帰り、私たちはアウシュビッツに立ちより、雪が吹きすさぶ森の中に足をふみ入れた。 ダウンのエリを立てて入口にじっとたたずむ彼女は、結局中へは入れなかった。私は、ただ瞳を閉じて祈る彼女の肩を抱くことしかできなかった。 「ねえトオル、ここでたくさんの同胞(どうほう)が殺されたのよ」 彼女の声は震えている。 「……ああハンナ」 「その同胞たちのために、わたしたちは生きなきゃいけないの」 「うん」 「そして子供をたくさん作るわ。ヒットラーがジタンダふんで悔しがるほどにね」 私たちは長いキスをした。彼女の目は未来への希望に満ちている。私には、彼女がまぶしく見えた。 その夜、ハンナは私にゴムを着けさせてくれなかった。もしも子供ができたら結婚して一緒に育てようと言って。私は彼女を尊重した。それがハンナの望みならば。 それから2週間後。ハンナは私に部屋のとびらを勢いよく開け飛び込んできた。 「できたの! 赤ちゃんが!」 私は声にならなかった。ハンナを強く抱きしめて、命の重さを感じて涙がにじんだ。 「そうだ。結婚式をあげよう」 「ううん。籍を入れてくれるだけで十分だよ」 「そうか……」 ハンナが二度目の結婚だってことは分かっていた。それでも、式はあげるのだと思っていたが。 「あのね。ユダヤの結婚式は、いろいろ大変なの。だから、ね」 よく分からないが彼女にしたがうことにした。べつだん、私にお金がない分けじゃない。今までもらった給料は、ほとんど使わずに今まできた。私は、そのぶんハンナと生まれてくる子のために大きな部屋を借りようと思った。 翌日、ハンナと私は入籍をすませ、その足でスイス支部に報告に行った。 「おめでとう、ハンナ。それで式はいつあげるの?」 「ありがとう。式はあげないわ」 「えー、つまんない。どうして?」 「だって、二度目だから」 「あら、そうなの? 気にすることないのに。それよりいつまでするの、仕事?」 「次の仕事で最後にします」 支部は祝杯ムードに包まれた。いつも悲しい知らせばかりの支部も、この日はみょうに浮かれていた。 翌朝、私たちはめずらしく、かけソバを食べていた。この前、日本支部から部長が送ってくれたもので、ありがたくいただいた。 具にとり肉を入れたのだが、ユダヤ教徒でもOKなのでよかった。もっとも、彼女が18でイスラエルを出てからは、食べ物にはあまりこだわりがないようだが。 そして、このソバだが、まだ私が対人恐怖症になる前の小さいころによく食べていたもので、それを愛する彼女と食べていると、ふたりで幼いころに帰ったようで、自然と顔がゆるんだ。 朝食が終わると、私たちはしっかりと暖かいかっこうをして一緒に部屋を出た。 「それじゃ、ハンナ。気をつけて」 「うん。行ってくるね」 ハンナは元気に手を振り最後の仕事でドイツへ、私は別の仕事でフランスへ向かった。 これが、ハンナと交わした最後の言葉になった……。 最悪の知らせが入ったのは19時過ぎ。一本の電話が私を凍りつかせた。私は仕事を代わってもらってかけつけた。急いで病院にかけ込むと、そこには……無残な遺体があった。機関銃で撃たれた傷だ。私はただ泣くことしかできなかった。頭の中で後悔の言葉をくり返した。 (なぜ、妊娠が分かったときに仕事をやめさせなかったのか。 なぜ、入籍したときに なぜ、今朝仕事に行くときに なぜ、 なぜ、 なぜ……) (彼女をいつも尊重していたが、単なるひと任せではなかったか。そう、あの日ゴムをしなかったことさえ) 後悔の念はいつまでも消えることはなかった。私の胸にはポッカリと穴が開いてしまった。 それからの私は生きた屍(しかばね)のように、ただ仕事をこなしていました。でも身体はどこも悪くありません。だから、気がつかなかったのです。ある日、私は銃撃戦で撃たれました。けれど、仲間に言われて初めて気づいたのです。私は患部を圧迫止血して病院に行き、そのまま長期の入院を強いられました。銃弾の傷は大したことはありませんでしたが、それよりも心の傷が深刻だと言われて。カウンセリングの先生が言うには、私は極度のストレスから来るウツだと言うのです。 そう、いつもこんなことばかり考えていましたから。 (あんなに生きたがっていた彼女は死んで、生きることにどうでもいい私が生きている。それが、許せないのだ。なぜ、神様は私を生かしているのですか? 教えてください。イエスでも、モーゼでも、マホメットでも、誰でもいいから、どうか私に教えてください……) その答えは今も帰っては来ません。そしてカウンセリングの先生も答えてはくれません。ただ、時が過ぎるのを待つしかないのです。 二か月後、私は復帰しました。首にハンナの写真をぶら下げて。そうすることにより自ら死のうとすることは避けられると、先生がペンダントにしてくれました。 いつも一緒。そのささえが私を生きながらえさせていました。 スイスに来て3年。私は支部長に呼び出されました。 「よく、がんばったな」 そう言って私は肩をたたかれました。 「日本に帰れるよ。おめでとう」 そう言われても、私にはなんの感情もありませんでした。むしろ、ハンナの匂いのするこの場所にいたいと思いました。 しかし、命令には逆らえません。私は辞令を受け取り、身じたくを始めました。 開け放たれたドアをたたいてラルフ・ハイケンが入って来ました。 「なんだ、なにも言わずに出て行くつもりか? 冷たいねえ」 「ラルフ。君にはお世話になったね。ここに来たときは君がいなかったら、私はうしろから撃ち殺されていたよ。ありがとう」 「お! 少しは生きたいって思えるようになったんだ。あははは」 「それから、入院中はすまなかったね。ろくに返事もしないで」 「気にすんなよ。……ハンナは残念だったな。でもお前が生き続けてる限り、ハンナはいる」 「ありがとう。そうさ、いつも一緒さ」 私は、胸のペンダントを握りしめました。 ラルフは空港まで送ってくれました。見送りはいいって言ったのに、わざわざ車を出してくれました。その心がありがたかった。 「それじゃ、たっしゃでな」 「たまには、遊びに来いよ。じゃあな」 そのとき、不意に涙が出ました。ラルフは「おい、よしてくれよ」と言ってハグをしてくれて、私はよけいに涙が出ました。 (さようならラルフ・ハイケン。さようなら、みんな。さようならスイス。そして、ハンナの愛した町よ。さようなら……) 9 なつかしい建物が見えてきた。 (もう3年になるのか。壁の傷も昔のままだ) 私は、それを手でなぞって、静かにドアを開けた。 「おひさしぶりです。部長」 部長は席を立って歩みより、私にがっちりと握手をした。 「よく無事に帰って来たな田辺トオル。うれしいよ!」 みんなは、海外から初めての無事帰還を、自分のことのように喜んだ。今まで行った者は、みな全員五体満足では帰って来なかったから。 それから、私はマネージャーにアパートの手配を頼み、さっそく仕事に出た。安全で簡単な仕事だった。 (もう、銃弾が行きかう場所にいないのだな) 不意に、スイスをなつかしく感じた。そう思うと自分がまだウツが治ってはいないのではないかと、疑う。同時に、危機意識の希薄さに、陶酔(とうすい)を感じる。おむかえは、まだかと。 そう、私はまだ生と死のハザマにいた。ほんのちょっとのことで、このバランスはくずれてしまうだろう。そのときは、いつも勝手に手がハンナのペンダントへ行く。これが、唯一のささえだった。 一日の仕事を終え、重い足を引きずってアパートのカギを開けようとした。だが、すでに開いていた。誰かいるのかと電灯をつけると、そこにはお嬢様が静かに座っていた。私に気づくと、無理に笑顔を作り言葉をはっした。 「手下1号。無事に帰って来たじゃない」 いくぶん大人びた顔をしていたが、ネコ目は昔のままでなつかしく感じた。だが、私の表情は変わることはなかった。 「おひさしぶりです。お嬢様」 「なぜ、屋敷に帰って来なかったの? おかげで腹ペコよ」 「……。すみません。しかし、もうお世話はできません」 「どうして? お父様が怖いから? それはゲンジュウに怒っておいたからもう大丈夫よ」 「違います。私はもうあのころとは違うのです」 私はペンダントを握りしめた。 それに気づいたお嬢様は声を荒げて言った 「なによ。いくら愛してたって、もう死んじゃったじゃないの。わたしは生きているのよ。そして誰よりも、そう、そのハンナって言う人よりも愛しているのよ」 私は、どう言っていいか分からず、だまってコーヒーメーカーのスイッチを入れた。 すると、うしろで絹ずれの音がする。振り返るとそこには、18才になったお嬢様がなにも身に着けずにいた。 「ねえ、わたしを抱きなさいよ!」 今にも泣き出しそうにネコ目をゆがませてさけんだ。 「すいみません。できません」 「そんなに、あの女のことが忘れられないの?」 「そうです。彼女に持っていかれました、心を」 「もういらないの、わたしのこと?」 「すまない……。今君を抱いたら……、彼女のことが全部なかったように今君を抱いたら、残酷だと思うんだ」 「いいの? あなた、これからもひとりでいいの?」 お嬢様の絶望的な声がひびく。 それでも私は少し微笑んで、ペンダントを握りしめ言った。 「ひとりじゃないさ。ここにもうひとりいる」 「うっ、うっ、うっ、うわーーーーーん、うわーーーーーん」 お嬢様は大声で泣いた。私は彼女の肩にオーバーをかけ、表の執事を呼んだ。執事はだまってお嬢様に服を着せ部屋を出て行った。 私は、すまない、すまないを、くちの中で繰り返した。 次の日、私は中東行きを命じられました。お嬢様かお父様か分かりませんが、いずれにしても私には同じことでした。ただ生き抜くこと、それだけが目的でした。ハンナを忘れないために。 部長は申し訳ない、申し訳ないを繰り返し、事務所にはすすり泣く者さえいました。 「こんじょうのお別れじゃないんだから。きっとまた生きて帰って来ますよ」 「……」 部長も分っています。生きて帰って来た者など、いないということを。 その日、私を空港まで連れて行ったのは、部長じゃありませんでした。入って1年目のぺーぺーです。 せめてもの情けで逃げてくれと言っているのでしょう。私はその気持ちだけ受け取りました。あとなん年、生きられるか分かりませんが、死ぬまで生きる。ただそれだけです。 みなさん。長々とおつき合いくださり、ありがとうございました。 ここからは書けません。みなさんに危険が及びますから。 それでは、みなさんお元気で。さようなら。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 10 みなさん、お元気ですか? 私、田辺トオルは……一応生きてます。 左腕をなくして無事?解放されました。 あれから5年。私はなんとか生きのび、そして左腕をなくして、ようやく国際ボディーガード会社をクビにされました。もう危険性はないと判断されたのでしょう。 しかし、多額の保険金が下りて、店を持つだけのお金を手にしました。それで喫茶店を始めたのです。小さいお店ですが、残りの人生を過ごすには十分でしょう。 そして、私には新しい家族ができました。ミケ猫のミーシャです。彼女は雨の中、箱の中で震えているのを私が保護しました。彼女は中々優秀です。私にネズミをプレゼントしてくれました。きっと、恩返しのつもりでしょう。 彼女は予防注射と食事の注意を受けて、私が大切に育てています。たぶん、20才ころまで生きることでしょう。彼女をながめて過ごす時間は、私に色々な物をおぎなってくれます。 ある日、私の店、ネコがいるカフェに執事があらわれた。 彼はしばらくだまってコーヒーを飲んでいた。私は緊張しながらミーシャにオヤツのミルクをあげた。そして、ほかの客が出て行ったとき、やっと執事はくちを開いた。 「ひさしぶりだね手下1号、いや田辺トオル。元気にしてたか? って言えないか。片腕になったんだから」 「いえいえ、これでもこの義手は中々優秀でね。ほとんどのことはできます。だから、心配には及びません」 「そうか、それはよかった……。でも、アカネはなにも話さない」 「アカネって……、まさかお嬢様が!」 「そうだよ。アカネ・ニュートン。彼女の本名だ。……アカネはあれから、なにを見ても笑わない。なにもしゃべらない。生きた人形なんだ。アカネの心はホウカイしているんだ。あんなに頭がよくって、あんなに明るかったのに……」 執事は押し出すように言った。 あのあと、そんなことになっていたなんて知らなかった。私は死んだ人間を大事にして、生きた人間をナラクの底に落として見ないようにしていたのか? なんてバカだったんだ。大バカだ! 私は執事にすがりつくように言った。 「どうすれば、どうすればいい? 教えてくれよ」 執事は、私の手を払いのけると、エリをつかみ、眉を下げて言った。 「だったら、だったら今すぐ来てくれ! お前しかいないんだ! 頼む! 頼む。頼む……」 執事は、途中で入って来た客にもはばからず涙した。精いっぱいの願いを込めて。 11 あれから私は、お嬢様がいるお屋敷に帰りました。右手には色とりどりの花束を持って。そして、義手の左手にはミケ猫のミーシャのカゴをぶら下げて。 私を見ると、お嬢様は両手を広げました。私はカゴを床に置いて、車イスのお嬢様を抱きしめました。子供のように泣きじゃくるお嬢様は、もう昔のようなタカビシャな態度は取りません。まるで、時間をさかさにしたようです。それが私にはふびんで、思わず涙がこぼれ落ちます。 かたわらで見ていた執事は 「信じられない。今までなんの感情もあらわさなかったのに」 と言いました。 それほど、お嬢様を苦しめていたんだと思うと、私の胸はギュッと痛みます。 「ごめんね、ひとりにして。これからは、ずっと一緒だよ」 私がそう言うと、お嬢様の顔は花が咲いたように、明るくなりました。それはもう、私の持ってきた花束以上に――。 私はお嬢様と9年ぶりのキスをしました。祝福するようにミーシャが「ニャーオ」と鳴き声をあげました。 ある晴れた日、私は車イスをゆっくりと押しながら庭園のバラをながめておりました。時計を見ると、もうそろそろ夕飯の時間です。 「お嬢様。今晩はなにをお作りしましょう?」 「そうね、サーモンのムニエルにお酢とオリーブオイルのドレッシングが食べたいな。それから、ココアたっぷりのバウンドケーキも忘れずにね」 あいからずお魚が大好きなネコ目のお嬢様。そして、同じくお魚が大好きなミーシャがお嬢様のひざの上で鳴き声をあげます。 「かしこまりました、お嬢様。では、私は今から作りますので車イスは執事にかわりますね」 「だ、だめ! 行っちゃいやだ!」 今にも泣き出しそうにネコ目に涙をにじませて言う。 「分かってますよ。この執事が手下1号のそばに車イスをつけますから」 執事がそう言うと、お嬢様は安心して落ち着きを取りもどします。 お嬢様は今日もごきげんだ。しかし、ちょっとでも私の姿が見えなくなると泣き出してしまう。さながら私は、彼女の母親のようだ。だから、ふたりと一匹はいつも一緒。それは、この命のつきるまで。 そんな私を見たお父上は、あんなに私を毛嫌いしていたのに、今では受け入れてくれている。でも、複雑な思いだろう。娘を人形にした男を受け入れるのは。だが、私とお父上は、お嬢様の幸せを願う点においては、いっちしている。 それでも、中卒の元ニートで片腕の私には、会社の経営はとうてい無理だった。そして、お嬢様はあの通りだ。そこで執事、河野タケルがあとをつぐべく、毎日必死で経営哲学を学んでいる。きっと彼なら、雇われるがわにとってよい経営者になるだろう。 さて、お嬢様とミケ猫のミーシャ。お腹いっぱいお魚を食べたあとは、ふたりは舟をこいで夢の世界へ。洗いものを終えた私は、ソファーで寝ているお嬢様をそっとベッドに運びます。ベッドにゆっくり降ろすと、お嬢様は眠りからさめて、私の首に抱きついてきます。 「おめざめですか。お嬢様?」 「手下1号。いつものアレして」 「分かりました」 お嬢様、アカネを優しく抱きよせ唇にキスをする。 すると、アカネはネコ目を細め、舌を私の唇のすきまに分け入らせ、足をからめ私をアカネの蜜に誘いこむ。 「ああ、うれしい。やっと帰って来たのね。もう、離さないわ。私の王子さま!」 「ただいま、もうどこへも行かないからね。アカネ、愛しているよ」 もしかして、アカネはもう正気を取りもどしているかも知れない。しかし、それを私が知ったら、またどこかへ行ってしまうと思っている。だから、私は分からない振りをする。 それでいい。誰も傷つかず、誰にも憎まれず、ただ日々を送る。それが大切なんだ。 そして、いつかアカネに子供ができたら、みんなでピクニックへ行こう。大好きな食べものをバスケットにたくさんつめ込んで。 私はアカネが赤ちゃんにお乳をやるところを、うらやましそうに見てるんだ。そして、お腹いっぱいになったらみんなでお昼寝。それが今の私たちのささやかな望みです。 それから、ペンダントは捨てていません。今も、私の首にかかっています。彼女もそれを受け入れてくれました。私の人生の一部として。 だから、私には愛している妻がふたりおります。そして、生まれる前の赤ちゃんがひとりおります。みんな私の大切な家族です。今までも、そしてこれからも……。 (終わり) 出典:あでゅー リンク:http://slib.net/a/18416/ |
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