昭和の「ダフニスとクロエ」 (オリジナルフィクション) 6221回

2018/03/31 21:48┃登録者:霧海 裕◆k5/x7OUI┃作者:霧海 裕
 昭和の「ダフニスとクロエ」 春編  

 「ダフニスとクロエ」は、2世紀末から3世紀初めにかけて古代ギリシャ語で書かれた美少年と美少女の純真な恋物語。作者はロンゴスと言われているが、生年や没年は分かっていない。
  物語の内容は、森の中で山羊に育てられていた少年ダフニス、ニンフの洞窟で羊に育てられていた少女クロエ。二人とも捨て子だった。二人ともそれぞれ山羊飼いと羊飼いの夫婦に拾われ育てられた。やがて二人は知り合い、幼い純真な愛を育んでいった。   
 この物語を世界的に有名にしたのがフランスの作曲家、モーリス・ラヴェル(一八七五〜一九三七)であった。バレエ団を率いるディアギレフの委嘱でバレエ曲「ダフニスとクロエ」を作曲し、一九一二年にパリで初演され、大成功をおさめた。のちにラヴェルはこのバレエ曲の一部を抜粋して管弦楽組曲「ダフニスとクロエ」第一組曲、第二組曲を作曲した。  この組曲は「ボレロ」「亡き王女のためのパバーヌ」「スペイン狂詩曲」と並んでラヴェルの管弦楽曲の主要なレパートリーになっている。   
「ダフニスとクロエ」にヒントを得て、昭和29(1954)年、日本に舞台を移し、伊勢湾にある神島に住む貧乏漁師の青年と網元の娘との恋物語を書いたのが、三島由紀夫の小説「潮騒」である。   
「小説 昭和の『ダフニスとクロエ』」は、昭和32(1957)年、中学3年の一年間の伊吹聡と橘かおりの、幼く不器用な青春恋愛物語である。   

[中学3年始業式]   

「さーて、行くとするか」   
 昭和32年(1957年)4月、今日は中学3年生の始業式の日である。  
 伊吹聡(いぶきさとし)は、近所の散り遅れ桜の花びらに見送られながら、家から徒歩5分くらいのA市立S中学校に向かって歩き始めた。  
 聡の家はT市の中心から南西に少し外れた住宅地で、八百屋と米屋、酒屋を営んでいる。  
 家の辺りは小さな商店街になっていて、国道沿いに西隣は自転車修理店、雑貨屋、少し飛んで貸本屋。東隣は少し飛んで散髪屋、文具屋、お好み焼き屋、風呂屋が集まっている。   
 家を出てすぐに貸本屋の息子多田真(ただまこと)と出くわした。多田は聡の一つ下で、聡の遊びグループの常連であった。さっそく6月に実のなる「しゃしゃぶ(なわしろぐみ)」のことを色々話しながら学校に向かった。  多田の親父は面白い親父で、土地や株のブローカーをしていて、いつもぼろぼろの格好で街を徘徊していたが、K銀行A支店に勤める聡の姉によ・驍ニ、親父はK銀行の上得意で、あのぼろぼろの格好で銀行に来ても、対応は常に支店長があたるそうである。貸本屋は多田の母親がやっていて、ほんの小遣い稼ぎだったのである。   
 多田の親父は聡が小学校3年生(昭和26年)の頃、仲間2〜3人と「世界宇宙経」なる新興宗教を立ち上げた。近所の子供たちをお菓子で集めて布教していた。 聡もお菓子につられて参加したが、布教の内容は覚えてなく、ただ、胸の前で手を合掌して「良いことをしましょう」と挨拶することと、教団の歌を覚えている。その歌詞は、  

 目覚めよや 目覚めよや 全人類よ万物よ 神の御心 とうへいの(?)  
 光り輝く楽土郷(らくどきょう) 平和の真理に 目覚めよや   

であった。   
 多田の親父は戦争中、過激な皇国親父だったそうで、戦後の変わり様に、近所の大人たちは親父を全然信用していなかった。 「世界宇宙経」はその後、1年持たずに解散した。   家の前は国道XX号線が走っていたが、まだ未完成の砂利道で、中学校へ向かう西

 200mのK大学に面する道路から、片側3車線の広大な未舗装の国道は途切れ、それから先は幅6mの片側に排水溝のある道に連なっていた。   
 なぜこうなったかと言うと、昭和20年7月4日、T市は米軍のB29爆撃機によって大空襲を受け、T市の80%が焦土と化した。戦後、T市は戦災復興土地区画整理事業を行なったが、西200m以後の西地域は爆撃を免れていたため、土地区画整理事業の区域から除外されたのである。そのため聡の家の前までの国道XX号線は土地区画整理事業で確保できたが、西200m以後は用地買収をしなければならず、予算難と住民の買収反対で計画はストップしてしまったのである。そのため聡の家の前の未舗装の国道XX号線は行き止まり同然で、ほとんど自動車交通はなく、聡たちの絶好の遊び場になっていたのである。  
 また、爆撃を免れた、K大学の南端から南500mのI山麓のI八幡宮までの地域は戦前の町並みが残り、幅員3〜4mぐらいの狭い道がくねくね入り組んで家がびっしり建て込んだミステリーゾーンで、聡は一度何気なく入り込んだが、すぐに道に迷い、その地域から脱出するのにえらく苦労した経験がある。それ以来聡は、その地区に入り込んだことはない。   
 K大学に沿って細い道を300mぐらい西へ行くとS中学があった。この中学校は、昭和37年(1962年)に史上最多の3553人の生徒が通ったが、聡の時代は3200人ぐらいであり日本で2番目に生徒数の多い中学校であった。日本一はどこかというと、名古屋の中学校で、生徒数は5000人だと先生が言っていた。聡の3年生の生徒数は、60人学級の20クラスで1学年1200人であった。聡が1年生の時は学校校舎の建設が間に合わず、隣接のK大学学芸学部の1階建て木造校舎を借り、他の1クラスの半分と合同で、1クラス90人で授業を受けた。   
 K大学の敷地西南端を右に曲がると左手に生徒通用入り口があり、まっすぐ行くと生徒用入り口がある。そこで上履き靴に履き替え、2年生時の教室に行った。  
 S中学校は1年ごとにクラス替えをやるので、2年生時の担任から3年生のクラス名を聞き、運動場に新しいクラスの列に集まって整列し、3年生の20人のクラス担任を紹介されるのである。   
 聡は3年7組のクラスに入ることになり、担任の先生は山村という英語の先生であった。聡は身長が167あり、列は身長順に並ぶので、7組の列の後方に並んだ。  
 誰か知っている奴はいないかなあと探すと、1年生の時に同級生で仲の良かった吉井がいた。「やあやあ」とお互い肩をたたき合い、再会を喜び合った。他に3人知っている奴がいたが、あまり付き合っていなかった連中であった。  
 吉井を含んで4〜5人で名前を名乗ったりふざけあったりしていると、聡は何か後から押される感じがした。変だなー、後には誰もいないはずだのにと振り返ると、隣の列の、これから同級生になる女生徒が5、6人、きゃあきゃあ騒いでいた。   

 聡が3年生になって激変したものがある。それは聡専用の部屋と勉強机があてがわれたことである。聡の5つ上の次兄がK商船大学に進学し、その部屋が空いたからである。それまで聡には部屋も勉強机もないので、予習、復習、試験勉強などはしたことがなく、1200人中700〜900番をうろうろする成績であった。簡単に言えば、聡は「落ちこぼれ」であった。  
 この頃、T市の高校進学率は50%ぐらいで、受験競争が激しくなり、聡の成績では公立高校進学は無理で、強いて進学しようとしたら、私立高校しかなかった。しかし、聡は無理に進学しなくてもよいと考えていた。いざとなれば親の店を継げばよいのだ。幸いなことに二人の兄は大学に進学し、店を継ぐ意志は全然なかったからである。    

 勉強部屋と机を与えられた聡は、今まで一切勉強したことがなかったのだが、せっかく部屋と机が与えられたのだから、勉強とやらをおっぱじめるかと考えた。しかし、今まで1分も勉強をしたことがなかったので、悲しいかな勉強のやり方が全く分からなかった。そこで本屋に行き、旺文社の「中学三年生」という雑誌を立ち読みすると、読者の投稿欄の「こうして成績を上げた」という経験記事があった。 それを読むと、「予習と復習をしっかりやり、必ず予習・復習ノートを用意し、そのノートに要点を書いて覚えること。そうすれば予習・先生の講義・復習と、同じ所を3回も勉強するので、たいがいのアホでも覚えられる」と書いていた。聡は「なるほど、こうやれば俺のようなアホでも覚えられるな」と心から納得した。  

[聡の家族]   

 聡の家族は12人の大家族であった。子供6人に父母、祖母とその妹、大阪の親戚のばあさんとその妹という、ばあさんが4人もいるという豪華絢爛(?)な家族であった。       
 祖母は芸者上がりで三味線が上手であった。杵屋なんとかを名乗って三味線の師匠をしていた。弟子は金持ちの上流夫人と芸者、芸者見習いであった。T市は昔から花柳界が繁盛していて、T市近郊の農家の娘で、顔が少し綺麗であれば芸者の道に進む娘が多かった。T市には日本で唯一「芸者大学」がある。  
 父は、旧制A中学を卒業し、本人は大学の電気工学に進学したかったのだが家が貧乏で進学できず、大地主で米屋を営んでいた、子供がいない叔父の養子になり、跡取り息子になった。養母が三味線の師匠である。   

 戦後、農地改革により伊吹家の全ての小作地は没収され、残された屋敷跡は戦災復興土地区画整理事業によって半分以上道路用地に消え、換地された現在地に八百屋と米屋、酒屋を営んでいる。  
 母は、土建業を営んでいる家の次女として生まれ、父と平凡な見合い結婚で現在に至っている。商売が性根に合っているらしく、まさに八百屋の女将さんにぴったりである。   長兄の一(はじめ)は聡より12才上で、K大学土木工学科大学院博士課程卒で、東京の赤羽にある建設省土木研究所に勤めている。  
 姉の比佐子はT高校を卒業し、K銀行A支店に勤め、美人だったので支店長秘書をやっている。  
 次兄の次雄(つぐお)は前に述べたようにK商船大学に進学。  
 年子の妹と4つ下の小学生の弟がいる。   

 聡は八百屋の手伝いを積極的にやっていた。両親から強制されたわけでもなかったが、春、夏、冬休みには午前中自転車で得意先に注文聞きをし、午後から注文された品物を配達した。  
 得意先で面白かったのは、N銀行A支店の社宅で、50軒あるうちの10軒が得意先であった。50軒のうち10軒がキャリア組で、2倍の広さの社宅であった。  
 聡が行く得意先は高卒か地方大学出身のノンキャリア組であった。注文聞きや配達に行くといつも奥さん方が集まって井戸端会議をやっていた。井戸端会議の最中に聡が行っても、中学生の聡には警戒せず、あけすけな話をしていた。その話を聞くのが聡の楽しみであった。話の中心は、出世できない亭主とキャリア組の悪口、子供の教育であった。ノンキャリアの亭主とキャリア組の出世の差をまざまざと見せつけられ、亭主の出世はほとんど諦めていたが、その分、子供の教育には異常に熱心であった。ある奥さんなんか  「お父さんのようになったら絶対駄目よ。良い学校に行けるよう必死に勉強しなさい!」 
と日頃から口を酸っぱくして子供に言っている、と自慢していた。  
 井戸端会議の議題がちょいちょい聡に向かってきた。  
「ところで坊や(聡のこと)あんた勉強してるの?」  
 勉強なんて1分もしたことがない聡は口ごもりながら  
 「えーと、あのー、適当にやっています」 
と答えると、  
「悪いことは言わない。しっかり勉強しなさいよ!」 
と親から1回も言われたことがない言葉を浴びせられることがちょいちょいあった。そんなときは早々に退散することにしていた。   
 八百屋の手伝いをしていて、聡は色々な実社会の勉強ができた。得意先の社宅で奥さん方の井戸端会議からは、会社では旧帝大や一橋大学、早稲田大学、慶応大学を出てなくては出世できないこと、娘や息子の縁談では必ず相手を興信所を使って調べ上げること、興信所の調査員が近所の娘や息子の調査に来たときは、日頃仲の良い人には誉めあげて、仲の悪い人についてはぼろくそに言うことが分かった。  
 また、店で売っている野菜や果物、お総菜などの全てを憶え、特に旬の野菜、例えば新ゴボウや新ショウガ、新キャベツ、新ジャガイモなどの新物が出るころには、注文聞きに出る前に母親から、  
「今日は何々の新物が入荷するからそのことをちゃんと得意先に言うこと」 
と念を押された。店を手伝う前にはそんな野菜があるのは全く知らなかった。  

[聡のクラス]   

 聡は学校に行くのが楽しみになっていた。クラスの席順は身長順に低い者から高い者へ前列から後列に順に座るので、毎週月曜日の朝礼で後に並ぶ連中と机を並べていた。   聡の仲間は、朝礼でも席順でも後に並ぶ連中7人であった。内訳は勉強ができる奴4人、できない奴3人であ・チた。聡自身は、なんせ成績が700〜900番であったため、できない奴3人に含まれると思っていたが、皆はそう思っていないことに気が付いた。  
 2年生までは予習などやっていなかったので、授業中英語や国語の朗読を当てられたとき、英語のスペルや国語の漢字が読めず、数学では問題が解けず、「読めません、解けません」が聡の口癖であった。  
 それが、部屋と机をあてがわれて予習をやり始めると、授業中当てられても、すらすら答えたり朗読ができだしたのである。聡自身びっくりしたのだが、仲間は、聡の成績が700〜900番だったとは知らなかったので、こいつは頭がよいと判定したのだろう。   
 もう一つの楽しみは、聡のクラスに橘かおりというとんでもない美少女がいたことである。背も高く、聡と同じ最後尾の列に席があった。いつも友達ときゃあきゃあ騒ぎ、男生徒はおろか女生徒の人気の的であった。そして聡が一番気に入ったのは、自分の美貌をまったく鼻にかけないことであった。1年生や2年生の時も同級に美少女がいたが、どれもつんとすまし、お高くとまっていた。  
 ただ、聡はラブレターを彼女の靴箱に入れるとか交際を申し込む気は全然なかった。何故なら聡は今まで女生徒からラブレターをもらうとか交際を求められるどころか、話しかけられたことは一度もなく、自分は女生徒には全くもてないという固い信念があり、たとえ間違って交際しても女生徒と何を話せばよいのか全然分からなかったからである。   そんなことより、男友達とわあわあ遊ぶ方がずっと楽しいと思っていた。そしてこの頃の若者の風潮として、女とちゃらちゃら話したり、ガールハントに精を出す男などは軟弱で男の風上にもおけない輩と、内心ではうらやましさもあるのだが軽蔑していた。   
 しかし、聡は彼女に対して一つだけ気にかかることがあった。それは、聡が友達と廊下で立ち話をしているとき、何か後から押される感じがして振り返ると、彼女が近づいているのである。そして彼女は聡をちらっと見てすれ違うのである。また逆に、廊下で前を歩いている彼女を追い越すとき、彼女もひょいと振り返り、「やっぱり」というような顔をするのである。今から思うと、始業式を兼ねた朝礼で、後から押される感じがしたのも多分彼女からだと思われた。   
 こんなこともあった。聡は小学5年生のころからラジオづくりに夢中になり、アマチュア無線に興味を抱いていた。  
 始業式の2、3日後、学校が終わってすぐ、聡は日本アマチュア無線連盟発行の「CQ」誌の付録、「全国アマチュア無線家住所録」を持って家から徒歩15分の所のJA×FNの家を探しに行った。あとで受信機や送信機を見学させてもらおうと思ったからである。  
 目印のアンテナが見え、角にあるその家に表札を確かめに行こうとして四つ角を出た瞬間、そのアマチュア無線家の隣のアパート玄関前でカバンを持った女子生徒二人が話し合っているのが見えた。その女生徒の一人が彼女だったのである。やばいと思ってすぐ引き返したのだが、よく考えると何もやばくないと思い直し、四つ角に出ると、彼女たちはいなかった。しかし、聡はそのころド近眼で、10mも離れれば人の顔の判別などできなかったのである。それが30m以上も離れているのになぜ彼女と判別できたのか不思議でしようがなかった。のちに彼女にこのことを話すと、彼女も憶えていて、最初は彼女をつけてきたのかと思ったそうだが、帰宅する道と反対の道から聡が来たこと、自分の部屋の窓から見ていると、聡が隣の家の表札を確かめたり、隣の家の庭に立っている二本の竹竿(アンテナのこと)をじって見ているので、変な人だなと思ったそうである。   
 当時は、こんな非科学的な話を解明するために彼女に話しても、「変な話を持ち出して私にアタックする口実にするのでしょう」と彼女に思われるのが関の山だろうから、このことは胸の奥深くにしまっておこうと、聡は決心した。  

[当時の遊び]   

 聡は小学生から中学2年生までよく遊んだ。学校から帰って夕食まで、雨が降らない限り近所の遊び仲間と遊びまくった。雨が降ると多田の貸本屋で少年画報や冒険王などの月刊漫画雑誌や山手樹一郎のチャンバラ小説や江戸川乱歩の探偵小説などを読んでいた。  遊びの中心はパッチン(メンコ)とキンキン(ビー玉)であったが、そのほか五寸釘の平たい部分を親指と人差し指で挟み、地面めがけて釘を打ち込んでゲームをする「釘刺し」や缶詰を浅く切って左手に持ち、そこにコマを回して鬼ごっこする「コマ鬼ごっこ」等もよくやった。  
 そのほか冬によくやったのが「街戦(がいせん)」、「8の字街戦」、「馬跳び」であった。  
 「街戦」と「8の字街戦」は似ているが、「街戦」は地面に雲状に二本の線を引き、内側の線に一箇所入り口を書き、二本線の間にいる奴が内側線の中に攻め入るゲームで、「8の字街戦」は地面に大きく8の字を書き、8の○の中は両足を下ろせるが、○の外ではケンケンしなければならない。二手に分かれて争い、○の中では外に押し出されれば戦力外になり、○の外ではケンケン(片足跳び)しながら倒し合い、倒された者は戦力外になる。最終的に全員戦力外になった方の負けというゲームである。  
「馬跳び」は、2人ずつじゃんけんして負けた奴と勝った奴の二手に分かれ、負けた奴がもう一度じゃんけんして順番を決め、一番勝った奴が塀や壁にもたれる。二番目の奴はその股ぐらに首を突っ込んで両手を太股にしっかり抱き込み馬になる。以下次々とその馬のケツから首を突っ込み、同じく両手を太股に抱き込み、長い馬になる。最初のじゃんけんで勝った奴もまたじゃんけんし、その馬に飛び乗る順番を決めるのである。そして順番に馬に飛び乗り、全員が馬に飛び乗っても馬が崩れなかった場合は最後に飛び乗った奴が馬になり、塀にもたれている奴が飛び乗る側になるのである。  
 これだけでは何も面白くないが、「馬跳び」の面白いところは、馬は身体を揺すって飛び乗った奴を振り落とすことができ、振り落とされた奴は即、馬になることと、飛び乗る方は一番弱そうな馬めがけて複数人が一人の馬に重なって乗り、合計の体重で馬を潰すのである。馬が潰されたらもう一回やり直しになる。ただ、重なって乗ることにはデメリットがあり、馬に揺すられると落ちやすいのである。そこの駆け引きが面白いのである。  そのほかの遊びでは、全国共通の草野球があった。ただ、聡たちがやった野球は軟式テニスのゴムボールでやっていた。なぜなら、皆貧乏でグローブが買えなかったからである。  
 そのほか山にもよく遊びに行った。山では主として木の実採りであったが、チャンバラやターザンごっこもよくやっていた。こうやって見てくると、勉強する暇など全然無かったことがよく分かる。   
 中学3年生になると、さすがに毎日遊び狂う訳にもいかなかった。近所の遊び友達と遊ぶのは土日祝日になってしまった。しかし、学校では昼休みの時間には例の7人と毎日遊んでいた。学校から道具を借りてキャッチボールやソフトボール、サッカーなどをやったが、道具を借りるのが面倒になり、もっぱら軟式テニスボールを身体にぶつけるゲームで遊んでいた。ゲームは簡単で、一つのボールを誰かに投げつけ、それを拾った奴がまた誰かに投げつけるというもので、ボールが当たってもたいして痛くなく、何時までも続けられるのである。  

 ある昼休み、例によって7人でそのゲームをやっていた。場所は校舎から便所と、反対側に職員室がでっぱっている3面囲まれた小広場であった。  
 ボールを持ったのは古川という男で、こいつは猛烈に優秀で、噂では学年一番でないかと言われている。 医者の息子で、本人も医者志望だそうだ。後に東大医学部に現役で進学した。しかし古川の風貌は秀才の風貌とはほど遠く、背が高くやせぎすで眼鏡をかけ、何かおどおどした感じの男であった。古川を一見して誰もが分かるのが、彼の手足が異常に長いことであった。  
 その長い左手にゴムボールを握って聡めがけて投げつけた。聡はあわててうずくまった。ところがボールは扁平になって浮き上がり、職員室の窓ガラスに当たり、ぱりんという小さな音で窓ガラスを突き破った。  
「しまった」と言いながら古川は職員室に向かおうとしたので、全員一緒に行こうとすると、  
「俺が投げたので俺一人で行く」 
と言って一人で職員室に行った。  
 皆心配しながら古川の帰りを待ったがなかなか帰ってこない。10分過ぎて「俺たちも行くか」と言い始めたとき古川がボールを持ってにこにこしながら帰ってきた。  
「どうだった?」  
「うん、なんともなかった。逆に誉められた」  
「えっ、どういうことだ?」   
 古川が愉快そうに言うには、 「職員室に行って壊れた窓ガラス付近に座っている先生に謝ったところ、先生は『えっ?』と言って不思議そうにした。僕が壊れた窓ガラスを指さすと、『あれっ本当だ。全然分からなかった。なにで壊したの?』と聞くので、先生の足下に転がっていたボールを拾い、『これです』と答えたところ、『なに〜、軟式テニスのふにゃふにゃボールでガラスを壊したなど聞いたことがない。本当か?』と言うので、『本当です。あそこに集まっている仲間とボール当て遊びをやっていました』『ふーん、本当のようだな。ところで君は何年生?』『3年生です』『進学するの?』『ええ』『わあー残念、僕は野球部の顧問をやっているので、君をピッチャーにスカウトしようと思ったが、3年生の進学組はクラブ活動禁止だもんな』『そうですか』『進学したら野球部に入ったらいいよ。君だったらすぐエースになれるから。さあ。もう帰っていいよ』『弁償しなくていいんですか?』『珍しい体験をさせてもらったからいいよ』。と言うわけで無罪放免になった」 
と言うのである。  
 野球部員であった仲間の一人が、
「俺、この間、古川とキャッチボールをしたことがあるが、古川の球、むちゃくちゃに早かった。野球部のエースより早かった。キャッチボールであんな早い伸びるボールは珍しい。古川、高校に入ったら野球部に入れ」
と言うと古川は
「考えとく」
と答えた。入る気は全くないようだった。  

[美少女かおりに告白される]   

 始業式の3週間くらい後、聡は椅子を教室のうしろに向け、桜庭(さくらば)と向かい合って昼休みに何をやって遊ぶかの話をしながら昼メシのラスクを食べていた。ラスクは堅い食パンにシナモンと砂糖を塗った食べ物で、聡の大好物であった。学校の売店で売っており、ラスクとコーヒー牛乳が聡の定番であった。なぜコーヒー牛乳かというと、聡は牛乳を飲むと必ず下痢をするが、コーヒー牛乳は飲んでも下痢をしないからであった。  桜庭はいつも面白い話をして人を笑わせる愉快な、勉強のよくできる奴であった。その彼が急に黙り込んで顔を赤くした。  
「どうしたんだ?」 
と聞くと、  
「あっちあっち」 
とアゴを右の方にしゃくった。  
 右を見ると川内(かわうち)がなにかわめいていた。 川内はものすごい美男子で勉強もよくでき、女生徒の憧れの的であった。しかし、聡は川内の美男子ぶるのと、何かねっとりした爬虫類的感じがあまり好きではなかった。 桜庭との話に夢中だったため、川内が何をわめいていたのか分からなかったが、よく聞くと橘かおりの悪口をわめいていた。  
「あいつの目をよく見てみろ、どろーんとしてまるでサバの目だ。そうだサバの目だ!」 
と皆に聞こえるようにわめいていた。遊び仲間連中は皆だまって下を向いて顔を赤らめていた。  
 聡は瞬間的に怒りが込み上げてきた。「これは弱いものいじめ、女いじめでないか」と思った。  
 聡は小学校6年生のとき、クラスの男生徒が女生徒をいじめ、女生徒を床に倒し、馬乗りになってびんたを喰らわせているのを、「バカヤロー、女いじめするな!」と男生徒を突き倒したことがある。それ以来、クラスの女生徒の聡を見る目が変わったのであるが、聡は何もそれに対して偉ぶるようなことはなかった。なぜなら、女いじめをやめさせるのは当たり前だと思っていたからである。  
 聡は小学生の頃から近所の遊び友達のボスであった。八百屋の家でキャラメルやあめ玉を売っていたので、それをちょいちょいかっぱらって友達に配っていた。言ってみれば「買収ボス」であった。しかし、ボスはボスなのである。ボスの重要な役目は、けんかを見守ることであった。けんかのルール(武器禁止、泣いたらやめ、鼻血を出したらやめ等)を貫徹させることと、弱いものいじめをやめさせることであった。特に女いじめは厳禁であった。  
 だから聡は、川内の女いじめをすぐやめさせようと本能的に立ち上がった。  
「川内、身体の欠陥について悪口言うのはよくない。お前はめくら、つんぼ、おし、びっこの奴に悪口をいうつもりか。それに、彼女の目はキラキラ輝いていて綺麗な目なのに、それをサバの目というのは、お前の目の方がおかしい」 
と言った。川内は一瞬顔を赤くして黙り込んだ。  
 聡は急に尿意をもよおし、教室の出入り口に向かった。
 出入り口のすぐそばにかおりの席があった。彼女は聡が近づくとぴょこんと立って深々と頭を下げ、  
「ありがとうございました」
 と言った。聡は  
「川内が言うようなことは誰も思ってないよ、気にしない気にしない」 
と言って教室の向かいにある便所に行った。 
 かおりは席に着き、親友である隣の席の渡辺美香子(わたなべみかこ)に小さい声で 「うれしい」 
と言った。美香子も小さい声で  
「かおり!チャンスチャンス。あんた、前から伊吹さんのこと気になると言っていたでしょう?これからすぐ便所の前で待って、伊吹さんが出てきたら交際を申し込みな!恩に着るなと伊吹さんが言っても、前から気になってたと正直にいいな、分かった?ほら、行った行った!」 
とかおりの背を押した。かおりはもじもじしながら便所の入り口に行った。  
 聡は、「川内に少しきつく言い過ぎたかな。あいつ執念深いから、ボール当てゲームで俺ばかりねらってくるかも知れないな」と考えながら便所を出た。すると橘かおりが聡の前にすっと現れた。  
 かおりは交際を申し込まれたのは数限りなくあったが、自分から申し込むのは始めてであったので、胸をどきどきさせながら  
「あのー、私と交際してほしいのですがー」 
と度胸を決めて言った。  
 美香子の予想通り聡は、  
「あまり恩に着るな。何回も言うが、川内の言うようなことは誰も思ってないよ」  
 かおりは美香子に教わったとおり、  
「今回のことに恩に着たのでなく、私、前から伊吹さんが気になっていたんです」 
と言った。  
 聡は「えー!」と言ってうろたえた。生まれて初めて女の子から交際を求められたのである。しかもとんでもない美少女の橘かおりから。  
 女の子には絶対もてないという確固たる自信が揺らいできた聡は、「こんな筈はない。これは絶対夢だ。夢に決まっている」と、右手で右モモをつねってみた。痛くないのである。「あーあ、やっぱり夢か」。  
 返事がないし、聡が口の中で何かぶつぶつ言いながら右手をごそごそ動かしているので、かおりは聡の右手をひょいと見た。聡は一所懸命ズボンをつねっているのである。 「伊吹さん、ズボンをつねって何をしているのですか?」  
「えっ!あ、本当だ。モモをつねってみよう。イターイ。うわー夢でないんだ!」  「うれしい!OKなのね?」  
「OKもくそもないよ。夢みたいだ。だけど、交際の申し込みは男の役目なのに、橘さんに言わせてしまってごめんなさい。なんせ僕、女の子に絶対もてないと思っていたもので」  
「何言ってるのよ。さっき川内さんから悪口言われたとき、私をかばってくれたのは伊吹さんだけだったし、それが真心のこもった交際申し込みだと私は思いました」  
「ところでさっきの川内の悪口だけど、何で急に言い出したのだろう?。橘さん、ひょっとして川内を振ったんでないの?」  
「きんこんかーん!当たりー。あの人、私の下駄箱に2回ラブレターを入れていたの。あの人、トカゲみたいな目で私をねめ回して気持ちが悪いし、ねっとりした感じが嫌いで、ラブレター読まずに学校の焼却炉に放り込んでたの」  
「やっぱりそうだったのか。だけど僕と橘さんの交際のきっかけを作ってくれたのは彼だから、感謝しなくちゃ」  
「それもそうね」  
「ところで具体的にどうやって交際する?橘さんだったら多分、交際の経験があるんだろう?」  
「残念ながら私、交際の経験は1回も無いの。申し込まれたのはいっぱいあるけど、好きでない人か全く知らない人だったので、全部断っていたの」  
「へー、そうだったの。それじゃこうしよう。僕は陰に隠れてこそこそやるのは嫌いだから、今日のきっかけを忘れないように昼食後、この便所入り口隣の廊下の窓にもたれて話をすることにしよう」  
「みんなに見えてちょっと恥ずかしいけれど、そうしましょう」 
ということになった。  

[廊下窓際デート]   

 一週間、短時間(10〜15分)の便所隣廊下窓際デートで聡は橘かおりのことがすこし分かってきた。彼女の父はN証券T支店に勤める株屋さんで、彼女は一人娘であった。彼女の趣味は、予想したとおり声楽であった。彼女は小学生の頃からNHKT放送局の少年少女合唱団に参加しているという噂があったが、本当であった。将来、オペラ歌手になるのが夢だそうだ。聡が小さい頃からピアノを習っていることを知ると、彼女は非常に喜んだ。  
「伊吹さんのピアノ伴奏で声楽を歌ってみたい」 
と目を輝かせて言った。聡はさっそく声楽のピアノ符を買おうと思った。   
 窓際デートは最初の頃、皆にじろじろ見られ、少しぎこちなかったが、日が経つにつれ皆無関心になり、スムーズに話ができるようになった。  
 川内も最初の頃はものすごい目をして2人をにらんでいたが、そのうち、にらまなくなった。しかし、昼休みのボール当てゲームは、執拗に聡ばかりめがけてボールを投げていた。まだ聡を恨み、かおりに未練があるようだった。  

 聡はかおりに  
「僕が気になっていたというのは、どういうことなの」 
と聞くと、かおりは  
「あまりに非科学的なので話すのをためらうのですが、実は伊吹さんがうしろから来るのが分かるんです。他の人にはまったく無いのですが、伊吹さんが来るときは何か押されるような感じがするんです」 
と言う。聡はびっくりした。  
「えー!実は僕も橘さんがうしろから来ると押されるような感じで橘さんが来るのが分かるんだ。不思議だなー」  
「えー!本当!なんなんでしょう。美香子なんか、『将来一緒になる、見えない赤い糸の引っ張り合いよ』なんてからかうのだけど、不思議でしょうがなかった。それが伊吹さんも同じだとはどういうことなんでしょう」 
とお互い頭をひねったが、もちろん分かる筈がなかった。   

 聡は、土日祝日以外の昼休み短時間廊下窓際デートが楽しくてしょうがなかった。最初は何を話していいのか戸惑ったが、音楽が共通の趣味だと分かると、それを突破口に色々な話ができるようになった。 かおりはざっくばらん、素直な性格で、まったく自分の美貌を誇らず、「私の顔が綺麗なのは私の努力の結果でなく、父と母のおかげ」とか 「私の顔が綺麗なことだけで交際を求めてくる男にはうんざり」と、聡もまったくそうだと思うことを言うのであった。  
 かおりはかおりで、聡の正直で優しそうな性格、「かおりを射止めたぞ、どうだすごいだろう」と言うような思い上がった気配が全然無いのが気に入った。  
 それより何より、かおりは聡の多趣味にびっくりした。音楽も西洋音楽はもとより、三味線の師匠である祖母に教わって三味線が弾けるし、箏曲や歌舞伎、民謡などの邦楽も好きだと言う。  そしてラジオ作りや天体観測、ベリカード(放送局の受信証明書)集め、スポーツは硬式野球、硬式テニスなど、かおりには始めて聞くような趣味ばかりであった。   
 やがてデートのときの話題が学校の成績の話になった。  
 口火を切ったのはかおりであった。かおりは中学1年生の頃は比較的成績が良かったのだが、2年生になってからは成績がどんどん下がり、かなり落ち込んでいた。  
「伊吹さんは学校の成績はかなり良いんでしょう?」  
「いいや、700番から900番の間をうろうろしているよ」  
「うそだー、だって授業中に先生に当てられてもすらすら答えてるじゃない」  
「ああ、それは3年生になって部屋と机があたったので予習をし始めたからだ。それまで自慢ではないが1分も勉強したことがない。橘さんは成績、良いんだろ?」  
「ううん、私は1年の最初頃は良かったんだけど、どんどん成績が下がって2年の終わりには500番から700番の間をうろうろしているの」  
「僕より成績は上だけど、それはおかしいなー。僕の第六感では橘さんは頭が良くて100番以内かなと思ってたよ。毎日勉強しているの?」  
「してることはしているんだけど・・・・」  
「多分、勉強の仕方が悪いんじゃない?」  
「どういう風に悪いの?」  
「予習や復習のときに専用のノートに要点を書きながら憶えているの?」  
「いや、教科書とノートをただ読んでいるだけよ」  
「だから頭に入らないんだ。」   
 聡は書店で読んだ「こうして成績が上がった」記事をかおりに説明した。  
「ね、こうやれば僕のような頭の悪い奴も憶えられるんだ。橘さんもこうやれば?」  「わかった。ありがとう」。
 かおりは肩の荷が下りたようにほっとし、喜んでいた。  
 翌日のデートでかおりが浮かない顔をしているので、聡は 
「どうしたの?」 
と聞くとかおりは  
「きのう学校が終わってすぐノートを買って勉強し始めたのだけど、どうやって要点を書くのかが分からないの」 
という。 
「うーん」 
と聡は答えに窮した。これは口で説明しても駄目だろう、多分かおりは女性特有のきまじめさで手抜きができないのだろうと思った。その点、聡はあまりきまじめではなく、多く憶えるのは面倒なので、どんどん余計なことは切り捨てていたからである。  
「よし分かった、要点の絞り方を僕が教えよう。しかし、どこで教えようかな。教室では先生がうるさいし。橘さんの家でどう?」  
「一寸理由があってだめなの」  
「うーん、それじゃー、僕の家でやるか」  
「伊吹さんのご両親は許可してくれるの?」  
「勉強だから大丈夫と思うけど、ただ、橘さんと2人だけだったら、桃色遊技しているのでないかと疑われるなー」  
「困ったわねー」 
「そうだ、もう一人加えれば大丈夫だ。橘さんの横に座っている渡辺さんはどうだい?」  
「うん、彼女は中学の3年間同じクラスで、大の親友なの。彼女も成績が下がって悩んでいるので誘ってみるわ」  
「彼女の成績はどれくらいなんだ?」  
「伊吹さんと同じく700番と900番の間をうろうろしているわ」  
「それはおかしいな。彼女は頭が良いはずなのに」  
「私もそう思うけど、現実は厳しいわ」  
「それじゃー、今日誘ってみてくれ」  
「分かりました」 
 授業が終わったあと、かおりは聡に 
「美香子も参加したいと言ってました」 
と報告した。  
「家に帰ったら両親の許可を得るから、許可されたら明後日から始めよう」 
と聡は言った。   

 聡は家に帰ってすぐ両親に、3人で勉強する計画を話し、許可を求めた。  
 両親は2人が女生徒であることにびっくりしていた。  
 勘のいい父親はすぐ、  
「その内の一人は聡の彼女か?」 
と聞いてきた。  
「えーと、まあそんなもんです」 
と答えると父親は、  
「でかした」 
とひとこと言って聡の計画は許可された。   

 翌日、定例の窓際デートに渡辺美香子も参加した。聡は2人に  
「両親の許可を得たので明日から勉強会を始めよう」 
と言った。かおりは  
「何を準備したらいいのかしら?」 
と言うので、聡は  
「取りあえず明日は先生の講義の復習用のノートと明後日の教科の教科書と予習用ノートを持ってきてくれ。それから、肝心なことを忘れていたけど、勉強スケジュールは、学校を終わり次第、僕の家に集まり、大体4時頃から6時ないし6時半ぐらいまでやろうと思う。どうだろうか?」  
 2人は  
「取りあえずそれでやりましょう。ところで私たち、両親の許可をもらったんだけど、伊吹さんは成績優秀な女生徒ということになっていますので、よろしくお願いします」  「僕は劣等生の男生徒だから、2人は二重のウソを言っているわけだな」  
「あははは・・・」  
 3人の劣等生の勉強会がいよいよ立ち上がった。  

[シャシャブ(ナワシログミ)採り]   
 4月下旬の日曜日、久し振りに聡は近所の遊び仲間とシャシャブ(ナワシログミ)を取りに行った。遊び仲間は、裏隣の下駄屋の息子藤本孝(ふじもとたかし)、その裏に住んでる、親父がレストランのコック長をやっている安藤隆之(あんどうたかゆき)、この二人は聡より1年上、同い年の向かいの家の坂本竜三(さかもとりゅうぞう)、彼は中学の成績はいつもトップクラスの秀才であったが・A聡といつも一緒に遊ぶ聡の親友であった。1才下は西隣の洋品店の息子で、下駄屋の藤本の従弟の藤本一郎(ふじもといちろう)と前に述べた貸本屋の多田真であった。たまに聡の4才下の弟、享(きょう)とその仲間3〜4人が加わることもあった。今日は藤本孝、安藤、坂本、多田の4人であった。  
 シャシャブが生えている場所は、聡の家の南西、歩いて10分のところにあるI八幡神社の背後のI山である。I山は標高300mぐらいの山で、I神社の背後から500mぐらいは標高50mぐらいの幅広い背が続き、そこに大量のシャシャブが生えているのである。  
 シャシャブ(ナワシログミ)は名前の通り、苗代作り(4〜5月)の時期に実が熟すのである。樹高2mぐらいの叢状の常緑広葉樹で、花は前年の12月に咲くという変わった木なのだ。だから年が明けて一番早く実のなる山の木なのである。このシャシャブを皮切りに、山の木の実は夏から秋にかけて、ムクノキ、アケビ、ヤマモモ、イチョウ、クリ、ヤドリギなどの実が次々と実る。聡たちは小さい頃から、いつ頃、どこで、何が実るかを熟知していて、毎年、実がなるのをみはからって山に入っていたのである。  
 シャシャブの実は枝からぶら下がった赤い小さなナツメ状の実で、木全体にびっしりと実る。味は木によってまちまちで、渋いのもあれば甘いものもある。聡たちは甘い実を見分ける術を小さいときから身につけていた。それは、小鳥がついばんだ跡がある実は全て甘いということであった。  少々渋い実を食べていると、年長の人から  
「渋い実を食べ過ぎるとフンづまりになるから、あまり食べ過ぎないこと」 
と注意された。こういった知恵が、一緒に遊んでいた年長者から幼年者に伝わっていったのである。   
 山の木の実だけでなく、庭木の実も聡たちはよくかっぱらって食べていた。イチジクやビワ、ザクロ、ナツメ、アンズ、キイチゴ、ユスラウメ、カキ、夏ミカンなどである。どの実も木にびっしりとなり、少々子供がかっぱらっても家の人はあまり文句は言わなかった。  
 そのほか、4、5才の幼児を池に連れて行き、幼児の胴体を縄で縛り、縄の一端を力の強い奴に持たせ、木製の洗濯タライに幼児を乗せて池に浮かべてヒシの実を採りにやらせた。体重が重くなるとタライに乗れないからである。このヒシの実を煮ると、甘くておいしく、実も大きくて格好のおやつになった。  
 池でよく釣りをやったが、釣りよりも効率が良かったのがラムネ爆弾であった。祭の夜店の照明用にアセチレンランプがあったが、そのアセチレンを発生させるカーバイトが容易に手に入った。カーバイトに水を注ぐとアセチレンガスが発生するという極めて単純な、幼稚園生でも扱えるしろものであった。そのカーバイトを金槌でたたき割って細かくし、ラムネの空き瓶に入れ、池の水を瓶の半分ぐらい入れて上下に振る。アセチレンガスが充満してきたら瓶を逆さにしてビー玉を口に移し、ビー玉が口にぴったり張りついたのを確認して、池に放り込むのである。瓶は池に沈み、しばらくすると池の底で瓶が爆発する。するとその爆発の圧力で付近にいた魚が気を失い、プカーと浮かんでくるのである。浮かんできたフナやコイ、ナマズなどを網ですくい、家に持って帰った。母が喜んでくれた。  
 それよりもっと効率的だったのが、池のそばの電柱の電線から二本の電線で電気を盗み、池に突っ込む方法であった。魚が感電して大量に浮かび上がってくるのである。この方法は子供には危険だし犯罪だったのでやらなかったが、大人がこっそりやっていた。  敗戦後の食糧難の時代、おやつはおろか主食に事欠く時代に、子供たちはこうやって飢えをしのいでいたのである。  

[落ちこぼれ3人の勉強会]   

 4月下旬、劣等生3人の勉強会がいよいよ始まった。最初の日、聡が先に家に帰り、二階の聡の部屋に大きめのちゃぶ台を一階から運び上げたり、座布団を敷いたりしていると、下から母親の  
「聡、お友達が来たよ」 
との声があった。聡は下に降り、両親に橘かおりと渡辺美香子を紹介した。  
 2人はぴょこんとおじぎをし、  
「おじゃまします」 
と挨拶した。両親は信じられない顔をしていた。あとで父親が、  
「聡、まさかあのすごく綺麗な子がお前の彼女ではないだろうな?」 
と聞くので、  
「その、まさかです」 
と答えると、  
「でかした」
 と父はまた言った。   

 二階の聡の部屋に入り、2人は珍しそうに聡の部屋を見渡した。聡の部屋は6畳の畳の間と4畳半の板の間の二間があり、板の間には勉強机と本棚が占領し、畳の間にはコンソールピアノとスピーカーボックス、アンプ、レコードプレイヤーがあった。  
 2人は  
「わあー、いいなー」 
と、うらやましがった。  
 ピアノは、聡が小学校低学年の頃、ピアノを習いたいと言ったとき、父が友人の使ってないピアノを安く譲り受けたのと、スピ−カー、アンプ、プレイヤーは上の兄貴が大学時代、友人に作っても・轤チたのが建設省の独身寮には入りきらず、処置に困り家に送ってきたものであった。  
 スピーカーはナショナルの6PW1という口径6吋半(16・)の通称ゲンコツというスピーカーをでっかいスピーカーボックスに納めたもの。アンプはプリとメインに分かれ、メインはGT管6V6プッシュプル。プレイヤーは英国製のガラードであった。   
 今日の教科の復習をやり始めると、案の定彼女たちは要点を絞ることができないことが分かった。自信がないのか、今日先生がしゃべったこと、黒板に書いていたことを復習ノートにほとんど丸移しで書こうとしていた。これでは時間がいくらあっても足りない。  
 そこで3人で何を削っていいかを相談し、削っていった。聡はばんばん削る方、かおりは未練たらしく残す方、美香子はその中間であったが、中間でも量が多いのでまた話し合い、できるだけ削った。 明日の教科の予習も話し合いながら予習ノートに書く量を削っていった。彼女たちも段々やり方が分かってきたようだった。しかし、勉強会の初日で話し合いの時間が長くかかり、予習は途中で終わりとなり、あとはそれぞれ家でやることにした。  
 勉強会を終え、家に帰る前に彼女たちから是非ピアノを弾いてほしいと頼まれたので、聡は大好きなドビッシーの「月の光」を弾いた。2人ともびっくりした顔で聞いていた。  

 そうこうする内に5月の連休になった。連休中はそれぞれ1、2年生の教科書をおさらいすることで、勉強会は休みにした。  

[潮干狩り]   

 聡は連休中、近所の仲間と潮干狩りに出かけた。これも小さい頃からの年中行事で、聡たちもなかなか忙しいのである。  
 潮干狩りができる海岸は少し遠いので、いつも自転車に乗って行っていた。5月連休付近から大潮近くになり、引き潮時には沖合遠くまで砂浜が出現し、そこでアサリやマテガイを採るのである。アサリはクマデで面白いように採れた。変わった取り方をするのがマテガイであった。マテガイは細長い扁平の貝で長さが10・ぐらい、煮付けにしたり焼いて食うとかなりおいしい貝で、聡の大好物であった。  
 取り方は、クマデや小さなスコップで広めに浅く砂を掘ると、マテガイが潜む菱形の穴がみつかる。その穴の中に少量の塩を入れると、マテガイは塩分濃度に敏感で、ひょいと飛びだしてくる。それをえいやっとつかんで慎重に引っ張り出すのである。アサリほど沢山は採れないがそれでもけっこう採れた。アサリとマテガイを持って帰ると母は非常に喜んだ。  
 引き潮は2、3時間で終わってしまい満ち潮になってくるのだが、小学生の頃は、気温が高ければ満ち潮になると聡たちはフリチンで海水浴をした。しかし、聡たちは今はもうさかりが付いてしまい、そんな恥ずかしいことはできないので、まっすぐ家に帰った。  

[土曜日デート]   

 連休が明けて勉強会が始まった。3人とも予・復習のこつが分かってきたので、時間に余裕がでてきた。復習と予習の間に休憩を入れ、お茶を飲みながらいろいろおしゃべりをするようになった。  
 かおりはオペラ歌手になるのが夢というのは前から分かっていたが、美香子は驚くなかれ、考古学者になって発掘調査をやるのが夢だという。考古学者になりたいという人間は、聡の知っている限り初めてであった。ただ、職業にするというのは別にして、聡も遺跡には興味があった。だからいつも遊びに行くS山頂上にある古墳時代の小さな石造りの墳墓やI八幡宮の土留め石壁のところに古墳時代の横穴石積み墳墓があるのを知っていて、遊びに行ったついでに何回も見に行った。  
 美香子にその墳墓や横穴石積み跡のことを聞くと、さすが考古学者志望だけあって知っていたが、まだ行ったことがないとのことであった。それでは近い内に3人で行ってみようということになった。   
 また、かおりのためにオペラのアリアや歌曲のレコードを聴いたりした。かおりは真剣に聞いていたが、聞く時間が10〜15分ぐらいなので、欲求不満のようであった。そこでかおりは、勉強会は土日は休みであったので、ちょいちょい土曜日の昼から1時間ぐらいレコードを聴かせてほしいと頼み込んできた。聡には願ったりかなったりだが、問題は両親であった。しかし、もう両親は聡とかおりは桃色遊技はしないと信用していて、かおりが1人で遊びに来ても歓待してくれた。   
 レコードを聴きながらかおりは聡に  
「伊吹さんはどんなオペラが好きなの?」 
と聞いてきたから、聡は  
「イタリアオペラはあまり好きでないけど、ドイツオペラとウィーンのオペレッタ(喜歌劇)が好きだよ」 
と答えた。  
「好きなドイツオペラとオペレッタは何なの?」  
「ドイツオペラは、ワグナーとモーツアルト。オペレッタはヨハン・シュトラウスの『こうもり』とレハールの『メリーウィドウ』だよ」  
「へー、どんな曲なの?」  
「じゃー、ワグナーは難しいからやめて、モーツアルトの歌劇『魔笛』の『復讐の炎』と、オペラではないけどモテット『踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ』の『アレルヤ』、レハールの喜歌劇『メリーウィドウ』の『唇は黙せど』を聞こう」  
 かおりはこれらの曲を聴いて、特に『復讐の炎』にはびっくりしたようであった。  「『復讐の炎』は私には絶対歌えないわ。むちゃくちゃに音程が高いし、むちゃくちゃに速い速度で、玉を転がすような歌い方なのでびっくりした。『メリーウィドウ』はポピュラーソングみたいで、私にも歌えそうです。『アレルヤ』は確か中学1年の映画教室で見た映画『オーケストラの少女』で歌われていたのを憶えています」  
「『復讐の炎』は、レコードの解説によると、コロラトゥーラの超絶技巧を駆使した難曲だそうだ。他の2曲は歌えるだろう?」  
「ええ、何とか歌えそうだけど、少年少女合唱団の歌い方とは根本的に違うようだわ」 「うん。詳しくは分からないけど音楽事典を読むと、西洋音楽の声楽は『ベルカント唱法』で歌っているそうで、日本人はそんな歌い方をしないので、特別な訓練が必要らしいよ」  
「へえー、知らなかった」  
「『メリーウィドウ』のピアノ符を手に入れたので、ピアノ伴奏で2人で歌わないか?」  
「ええ。あの歌の旋律は易しくて楽しそうだからやりましょう。だけど、歌詞がドイツ語でしょう?私、ドイツ語はちんぷんかんぷんだわ」  
「僕もドイツ語はちんぷんかんぷんだけど、レコードを聴いてドイツ語の発音を日本語のカタカナに直せば歌えるから、楽譜の下に書き込んで橘さんに渡すよ」  
「楽しみにしています」  
「ところで、橘さん、オペラ歌手になりたいのなら正式に声楽の先生に声楽を習ったらどう?」  
「うん、私もそう考えているんだけど、どんな先生に習ったらいいのかさっぱり分からないの」  
「そうだね、僕もピアノやヴァイオリンの先生だったら多少知ってるけど、声楽の先生はなー。そうだ、僕が習っているピアノの先生に聞いてみるか。先生は東京芸大の出身だから芸大出身の声楽の先生を知っているかも知れない」  
「お願いしまーす」  

[ピアノの先生]   
 土曜日の午後5時に、いつものように聡はピアノのレッスンのため山城智子先生の家に向かった。今日はピアノレッスンの他に橘かおりの声楽の先生を紹介してもらう重要な用事があった。山城先生は去年の春に芸大を卒業して故郷に帰り、母親を手伝って自宅でピアノを教えているのである。先生の父親は県立中央病院の院長先生で、母親は芸大出身のピアニスト。母子2代の芸大出身ピアニストな・フである。  
 聡は小学校2年生の頃から山城先生の母親からピアノを教えてもらっていたが、去年から娘の智子先生に教わっている。   

 ひととおりレッスンが終わって聡は、山城先生に声楽の先生のことをたずねた。  「あのー、僕の同級生で声楽を習いたくて先生をさがしている者がいるのですが、先生のお知り合いに声楽の先生がおられないでしょうか?」  
「ふーん・・・・、同級生がねー・・・・。その人、男生徒?女生徒?」  
「えーと、女生徒です」  
「ふーん・・・・、ずばり聞くけど、その女生徒、伊吹君の彼女?」  
「あのーそのーえーと、そのようです」  
「やっぱり!。伊吹君はピアノの上達も早いけど、女の子をひっかけるのも早いのね!?」  
「いやーそのー、ひっかけたわけでは・・・・」  
「まあいいわ、来週その女生徒と一緒に来なさい。私の大学の先輩が声楽を教えているので、連絡しておくから」  
「お願いします」  

[古墳巡り]   
 
 次の日の日曜日、聡は朝からおむすびを作っていた。前に渡辺美香子と約束していた古墳巡りをするためであった。近所の遊び仲間を誘い、裏の安藤、向かいの坂本、本屋の多田も同行することになった。本来なら渡辺美香子、橘かおりと3人で行けば良いのだが、山でおかしげな不良集団と遭遇したら、一応聡は空手の心得はあるのだが、多勢に無勢ではヤバイので仲間を誘ったのである。  
 仲間を誘うとき、  
「実は同級生の考古学好きの女生徒2人も一緒なんだ」 
というと、  
「その内の1人は橘かおりというとんでもない美少女で、伊吹の彼女なんだろう?」  「えー!、何で知ってるの?」  
「伊吹の母さんが近所中にいいふらしているよ。近所中、みんな知ってるよ」  
「うわー、母さんは私設放送局だからなー。まいったなー」  
「まあ、とんでもない美少女の顔を拝めるだけでも、行く価値はあるな」   

 午前10時に全員が聡の家に集合した。聡は仲間に橘かおりと渡辺美香子を紹介し、かおりと美香子に仲間を紹介した。すると坂本がニコニコ笑いながらかおりに  
「伊吹とのうわさはかねがねお聞きしています」 
とからかうと、かおりは、ぱっと顔を赤くし、聡をちらっと見た。聡は  
「ごめん、母さんが言いふらしたんだ」 
と謝ると、かおりは  
「いいの、秘密にするよりも明らかにした方が気が楽よ」  
 仲間連中はウェッという顔をした。   

 古墳巡りに出発した。歩いて10分ほどでS山の登り口に到着した
 S山は山塊の東端にあり、S山山頂から尾根沿いに西へ行くとM山が連なり、M山から北へ行くとI山がある。I山を東に下るとI八幡宮がある。今回はI山は行かず、M山からS谷川沿いに下ってI八幡宮に行く予定である。  これらの山塊はアカマツに覆われていて、一年中青々としている。ただ、アカマツはスギやヒノキと違い枝や葉の数が少なく、アカマツ林の中はスギ林やヒノキ林よりずっと明るい。だからアカマツ林の中には色々の樹木が繁茂している。S山の麓にはササダケが密生しており、このササダケは七夕や釣竿、竹鉄砲、水中銛(もり)の材料になった。上に登っていくとツバキやサクラ、モミジ、シラカシ、アラカシ、クヌギ、林床(りんしょう)にはウバメガシ、ツツジなどが生えていた。  
 登り口から緩い傾斜のS山を登っていくと、段々見晴らしが良くなり、眼下にT市全体と瀬戸内海が一望に見渡せられるようになる。聡たち遊び仲間はしょっちゅう登っているので何の感慨もないが、女生徒2人は初めて登ったようで、「わあー!」と声をあげて見入っていた。  
 30分ほど登って山頂に着いた。山頂に1基墳墓があるのは、聡たちも知っていた。しかし、美香子がいうには、この山塊には無数の墳墓があり、S山にも多数の墳墓があるそうである。しかし、取りあえず聡たちも知っている墳墓に行った。そこは頂上から南に少し下がった所にあった。ただ単に巨石を積んだ物であったが、美香子はすぐ持参したスケッチブックに全体の形を書き込み、また石一つ一つを書き、その長さや幅、高さを聡とかおりがテープで測り、その数字を書き込んでいた。遊び仲間達は 
「うわー、すごいな、本物の考古学者みたいだ!」
 と感嘆し、 
「そういうふうにスケッチブックに書き込んでどうするんだ?」 
と質問した。美香子は  
「どうするということは無いのですが、将来発掘調査をするときの練習をしているのです」
 と答えた。  
 その墳墓の周りを調べてみると、3基の墳墓が見つかった。美香子がこの墳墓群の説明をはじめた。  
「通常の墳墓は石で積んだ玄室に土をかぶせ、横穴で玄室までの通路を作ります。その代表が前方後円墳です。このS山にある土をかぶせてない石積墳は日本では極めて珍しい墳墓と言われています」  
「へー、俺たち良くここに来て遊んでいたが、これはてっきり縄文人の住居だと思っていた。お墓だったんだ。渡辺さん、すごいなー」  
「いやいや、ただ単なる受け売りです」   

 S山の頂上から右に折れて西に向かい、山を下っていった。頂上から少し下った所にスズメバチの巣があった。この場所を通過するときには聡たちはいつも細心の注意をした。今回もスズメバチの巣が目視できたので、いったんそこで止まり、年長の安藤が彼女たちに説明を始めた。  
「スズメバチの巣に近づくと、スズメバチが巣から出てブーンと大きな羽音で巣の周りを飛び始める。これは巣に近づいた者にこれ以上近づくなという警告です。この音が聞こえたらすぐ巣から遠ざからなければなりません。うっかり近づくと、カチカチという音を出し始めます。これは攻撃するぞという音です。これが聞こえたら全速力で逃げなければなりません。今回は少し遠い所に巣があるので、多分大丈夫と思いますが、万一に備えて十分注意して歩いて下さい」  
 皆、横目でスズメバチの巣を見ながらいつでも走って逃げられる体勢で下っていった。   

 20分ぐらい下ると馬の背に出た。ここからまた西のM山に向かい、上りになった。40分ぐらいえんやこらと登るとM山の頂上に着いた。   
 M山の頂上は広い高原状になっていて、そこでは古くから果樹園や羊牧場、養蜂、畑作などが営まれている。果樹園は主にカキ、モモ、ミカン、クリ、ヤマモモなどで、聡が小学生のとき同級生がここの農家の息子で、小学時代は同級生達とよくここに遊びに来た。   
 少し見晴らしのいい所で皆、弁当を広げた。弁当を食ったあと、あちこち墳墓をさがしたが、1基も見つけることができなかった。そこで、小学同窓生の家に行き、墳墓のことを聞きに行ったが、本人も家族もいなかった。家の横に肉桂(ニッケイ、ニッキ、シナモン)の巨木があり、ナイフで中皮を削りだし、それをしゃぶりながらM山を下っていった。   

 下山路は、S谷川沿いにI八幡宮の横に下りる道であった。途中に小さな滝があり、そこに修験道場があった。ただ、滝は梅雨と台風シーズン以外は水が涸れて滝にならないという、情けない修験道場であった。  
 道を下るにつれてS谷川は深く険しくなり、崖の途中に生える灌木にアケビの蔓が巻き付いて、秋になると甘い実をつけた。その頃を見計らって荒縄を持って仲間とアケビの実を取りに行った。取りに行く奴の胴体を荒縄で縛り、上に残る2人でその縄を持ち、取る奴は慎重に下りてアケビの実を取るのである。こうしなければ落下したら命を失う危険があるので、他の奴に先に取られることはあまりなかった。アケビの実は熟すると皮がぱっくりと割れ、中の真っ白な実を食べると、猛烈に甘くおいしかった。   
 中間ぐらいまで下がると道の左に墓場が現れ、その墓場のど真ん中に養老院があった。子供心にもひどい場所に養老院があるなと心を痛めた。その墓場の向こうの尾根が、聡たちがシャシャブを取りに行くI山の尾根であった。   
 しばらく下がるとI八幡宮に到着した。正面の広い石段を上り、本殿に向かって右の、北入口に向かう石敷きの道を下ると、左の土留め石積み擁壁の途中に穴が開いており、そこが横穴墳墓であった。小さい穴なので体は入らず、覗き込むだけであったが、S山で見た玄室にそっくりであった。違うのはS山のは天井石が地面に落ちていたが、ここではちゃんと壁石の上に載っており、しっかり土を支えていた。  
 ふたたび美香子の解説が始まった。  
「この墳墓はI山の山肌を削って作られたもので、削ったあと石を組んで土を被せたものです。普通は前方後円墳のように通路を作るのですが、ここは通路を作らず、玄室がもろ見えになっています」  
「すごいなー」  
「受け売りです」  

 愉快な墳墓巡りは終了した。  

[声楽の先生]   

 土曜日にかおりと一緒に山城先生の所へ行った。30分、聡のピアノレッスンをやったあと、山城先生が口を開いた。  
「伊吹君、あなたはなんて幸せ者なんでしょう。こんな綺麗な子、私見たことがないわ。それに声楽を学びたいなんて、伊吹君には願ったりかなったりでしょう?伊吹君、どうやって彼女を恋人にしたの?相当苦労したんでしょう?」  
 かおりの名誉のため、聡は腹をくくった。  
「ええ、ものすごく苦労しました。男生徒皆ライバルでしたので、通常の方法では駄目だろうと思い、手始めに毎日ラブレターを彼女の靴箱に入れたり、登校時、生徒通用門で彼女を待ち、彼女のカバンを毎日教室まで捧げ持って運びました。そして、日曜日と休日の前の晩には、ギターを抱えて彼女の部屋の窓の下でシューベルトのセレナードを歌いました」  
 かおりはぷっと吹き出して、  
「先生、伊吹さんの言うことは全部ウソです。だって、交際を申し込んだのは私ですから」  
 「あらー、そうだったの。伊吹君は以外と女生徒にもてるのね」  
 「そうなんです。伊吹さんは、自分は女生徒に全然もてないと勝手に決めつけていましたが、伊吹さんに好意を持つ女生徒は大勢いました」  
「へー、橘さんは伊吹君のどんな所に好意を持ったの?」  
「はい、伊吹さんは秀才らしいのにまったく秀才振らなかったことと、私達女生徒は暇さえあれば男生徒のうわさ話をするのですが、伊吹さんの多趣味、特にピアノを習ってるらしいことが一番話題になりました。だけど、ピアノを習っていることなんかおくびにも出さず、いつものほほんとして優しそうでした。それにもかかわらず、空手を習っていたらしく、いざとなったら喧嘩も強いという、もっぱらのうわさでした。交際し始めて伊吹さんに聞くと、うわさは本当でした」  
「そうなのよ。実は去年、伊吹君が手の怪我で1ヶ月ピアノの練習を休んだことがあるの。何故手を怪我したのか聞くと、空手の練習試合で怪我をしたと言うの。あなた、考えてもみなさい、ピアノと空手は両立するはずはないでしょう?だから私は伊吹君にピアノか空手、どっちか1つに決めなさいと言ったら、伊吹君は空手をあきらめてピアノにしたのよ」  
「へー、そんなことがあったんですか」  
「ところで橘さん、交際を申し込むきっかけは何だったの?」  
 かおりは聡に、言っていい?と目で合図をした。聡はこっくりとうなずいた。  
「つい1ヶ月ぐらい前、同級生の男生徒からラブレターをもらったのですが、嫌いな人だったので無視していたところ、その男生徒がある日、いきなりみんなの前で私の目はサバの目だと大きな声で悪口を言い始めたのです。そのとき伊吹さんが、私の目は綺麗な目なのに、それをサバの目というのはお前の目がおかしい、と私をかばってくれたのです。 それですぐ、交際を申し込みました」  
「伊吹君、あんたは偉い!男の中の男だ!橘さん、嬉しかったでしょう?」  
「はい、涙が出るほど嬉しかったです」  
「本当にあなた達は素敵なカップルね。さあ、これから私の先輩のところへ行きましょう」  

 三人揃って山城先生の家を出た。聡は、  
「それでは僕はここで失礼します」 
と言うと、先生が  
「伊吹君、あなた何を言ってるのよ。おっかない先生2人の中に可愛い恋人を1人で放りこんでいいの?あなたも来なさい!」   
 山城先生の家から10分歩いて先生の2年先輩の岸本貴子先生の家に着いた。  
 「先輩、二人を連れてきました」  
「智子、いらっしゃい。この人達がうわさのカップルね」  
「声楽を習いたい女生徒が橘かおりさんです。そして橘さんの彼氏が私の弟子の伊吹聡君です」  
「智子が最も有望な弟子と言っていたのが伊吹君だわね。橘さんはどうなんでしょうね。さっそく橘さんの声を聞いてみましょう。こっちにいらっしゃい」  
 岸本先生はピアノの前に座り、  
「私の弾く和音にあわせてドミソドソ・~ドをアーの声で歌って頂戴。できるだけ大きな声で」  
 かおりは大きな声でアーアーアーと歌い始めた。聡はその声のでかさにびっくりした。聡と話をするときは鈴を鳴らすようなきれいな小さい声だったからである。しばらく歌ったあと、  
「はい、いいわよ。橘さんも伊吹君と同じくかなり有望ね。声楽は楽器演奏と同じく大きな声を出せなくては駄目なの。大きな声を出せなかったら、まず大きな声を出すことから始めなければならないからよ。橘さんはそれをしなくていいので、非常に有望ね。それと橘さんは大きな声を出しても声が壊れないのが非常にいいわ。智子、ピアノでも同じでしょう?」  
「ええ、そうね。指や腕の力が強くなければ大成しないわね。力の強い人が弱く弾くのは簡単なの、だけど力の弱い人が強く弾くことは大変なのよ。だから強く弾く訓練が必要なの。その点、伊吹君は空手で鍛えていたから特別に力を強くする練習は省けたものね」  「そうでしょう?さあ、橘さん、練習のスケジュールと教則本、月謝などお話ししたいからあっちの机の所でお話ししましょう」    
 岸本先生とゆかりが話し合ってる間、聡は山城先生と話し合った。  
「伊吹君、良かったね。橘さんが有望と先輩も保証してくれたから伊吹君も嬉しいでしょう?」  
「はい。だけど橘さんの声のでかさにはびっくりしました。日頃は小さなきれいな声だったもので」  
「それが音楽よ。日頃からあんな大きな声で伊吹君と話していたら、伊吹君の百年の恋もいっぺんで冷めてしまうでしょ?」  
「そうですね。いつも怒られてるみたいですからね」  
「さあーこれで二人の恋もますます燃え上がるわね」  
聡はぼりぼり頭を掻いた。   
「さあー手続きは総て終了。二人とも帰っていいわよ」
 と岸本先生が言った。山城先生は  
「私は先輩と少し話があるから残るので、二人で帰ってね。今日、橘さんから聞いた素敵な話を先輩と紅茶を飲みながら報告するつもりよ」  
「素敵なカップルね。ところで智子、私二人を今日初めて見たのだけど、ピンときたの。それはね、このカップル、ラベル作曲の『ダフニスとクロエ』の美少年と美少女の恋物語のイメージにぴったりじゃない?」  
「そういえばそうね。今は幼い純真な愛を育てているところね。あなた達、『ダフニスとクロエ』は色々な逆境にあっても愛を育んで、成人してその愛が結ばれる物語よ。あなた達もきっと結ばれるから」  
「私達も少しは焦らなくては駄目ね。それでは橘さん、来週の土曜日から始めましょう」  
 聡とかおりは  
「ありがとうございました」 
とお礼を言って、ほうほうのていで退散した。  

[中間テスト]   

 5月下旬に行われる1学期の中間テストが2週間後に迫ってきた。聡たち劣等生の学習会は6時半まで延長し、予復習を1時間半、テスト対策を1時間半やり、土日も午後から3時間やることにした。テスト対策は、新たにテスト用のノートを揃え、3人で話し合って各教科(9科目、英、数、国、理、社、音楽、体育、美術、職業家庭)の予想問題を作り、それをノートに書いて徹底的に憶えることであった。家に帰ってからは4月からの授業ノートと復習ノートを何回も読み返し、新たにこれは問題に出そうだと思えば、翌日の学習会で3人話し合い、予想問題に加えた。数学は教科書を勉強しただけでは不安なので、問題集を買い、応用問題を3人で憶えた。   
 いよいよ試験日になった。試験は木、金、土の3日間あり、午前中3科目の試験で、午後は休みであった。かおりと美香子は弁当を持ち、試験が終わったら弁当を聡の家で食べ、翌日の試験科目の予想問題を徹底的に憶えた。 一日目の試験が終わって聡の家に集まったとき、3人が期せずして言ったことが、 
「答を全部書けた。こんなことは今までなかった」 
であった。特に数学の答を全部書けたことに皆感激し、 
「答え全部正解だったらいいなー」 
「いやー、そんなにうまくことは運ばないわ」
 などと言い合ったが、何となく皆自信が湧いてくるのが分かった。  

 土曜日の最後の科目が終わったあと、担任の先生が  
「来週土曜日の昼からPTAをやるが、最初の高校進学指導なので、必ず出席するように親に伝えること」
 と生徒に伝えた。   

 月曜日から各科目の授業が始まると、試験の答案用紙が点と○×を赤字で書いて生徒に返された。最初に返されたのは数学の答案用紙であった。女生徒から返し始めたのだが、かおりは名前を呼ばれて答案用紙をもらいにいったのだが、数学の先生と一悶着があった。かおりは  
 「この答案用紙は私のではありません」 
と言ったのに対して先生は  
「名前を確認しろ。お前のだろう?」  
「うわー本当だ。信じられない」  
「橘、よく頑張った」 
というやりとりであった。  

 数学の時間が終わると、かおりと美香子が廊下に出て、聡を手招きした。どうしたのかなと思い、 廊下に出て聡は  
「どうしたの?」 
と聞くと、二人は涙目になって  
「私、数学で100点取っちゃった」 
とかおり
「私、92点」 
と美香子、  
「俺、95点だった」  
 3人同時に  
「こんなの考えられない」 
と言った。  
「伊吹さん、伊吹さんに誘われなかったらこんな結果は出せなかったわ。本当にありがとう」
 と二人は心から感謝した。  
 聡は  
「いやいや、劣等生でも3人で頭を搾れば文殊の知恵になるんだ」 
と答えた。  
 3人ともほんの一部の教科を除き、90点代の成績であった。  

[進学相談PTA]   

 土曜日の午後、聡の母はPTAに行った。聡は成績が1200人中何番になったのか楽しみであった。2時間ぐらい経って母親はびっくりした顔で帰ってきた。聡に会うやいなや 「聡、お前1200人中40番代で、このまま行けばT高校合格間違いないと先生が言っていたよ。私は、伊吹聡の母ですが人違いでないですかと先生に言うと、お母さん、自分の息子を信頼しなさいと怒られたよ。ただ先生は、2年生最後の成績が900番代だった子が3年生の最初の試験で40番代になったのはS中始まって以来のことですと言っていたよ」    かおりも母から聡の母と同じようなことを言われていた。かおりも40番代であった。かおりの母は  
「何百40番代ですか?540番代でしょうか?640番代でしょうか?」 
と、先生に聞いたと言う。先生は  
「ただの40番代です」 
と答え、かおりの母はびっくり仰天したそうだ。  

 かおりは母に  
「母さん、今年の2月には心配かけて本当に済みませんでした。成績が下がってやけを起こしていたんです」 
と涙をこぼしながら謝った。  
「良かったね。私も本当に嬉しいよ」 
と母は言った。  

 そんなとき、美香子が慌ただしくかおりの家に飛び込んできた。  
「かおり、私40番代の成績だったの、かおりは何番だったの?」  
 かおりは涙をぬぐいながら  
「私も40番代だったの」  
「良かったねー。今年の2月の事を考えると天国と地獄ね」 
と言いながら突然、かおりを抱きしめて泣き始めた。かおりも美香子を抱きしめて思い切り泣いた。  
「おっと、こんなことしていられない。今から伊吹さんとこへ行ってお礼しましょう」 と美香子は気持ちを切り替えて言った。  
「そうしましょう」  
 二人は急いで聡の家に向かった。   

 聡の家では母が普段着に着かえて店で、近所の小母さん3人に聡の成績が40番代、T高校合格間違いなしと先生から言われたことを自慢していた。そんなとき、かおりと美香子が血相を変えて店に入ってきた。店の机に座って帳面書きをしていた聡の父親に2人は 「2人・ニも成績が40番代になり、このまま行けばT高校合格間違いなしと先生に言われました。聡さんのおかげです。本当にありがとうございました」 
と言い、深々と頭を下げると、父親は  
「もともと2人とも頭が良かったんだ。聡のおかげではないよ。聡は2階にいるから上がっていきな。おーい、聡、橘さんと渡辺さんが来たぞ」 
 かおりと美香子は2階に上がって行った。  
 父親は3人の小母さんと話していた母親に 
「あの2人、成績が聡と同じ40番代に上がったようだ。あんだけ3人が必死になって勉強しているのに成果が現れなかったらかわいそうで、それに娘さん2人の親御さんにも申し訳ないし、どうしょうと思っていた。本当に良かった」 
と言い、心からホッとしていた。  
 3人の小母さんは、  
「聡君達、すごいわねえ。それにしても聡君の彼女、本当に綺麗だわねえ」   

 2人が2階に上がると聡はのんびりピアノを弾いていた。2人は  
「わあー、素敵な曲。なんていう曲なの?」  
「うん、僕の大好きなラベル作曲の『亡き王女のためのパヴァーヌ』だよ。ところで、今度の試験の結果はどうだった?」  
 2人は正座して  
「2人とも40番代に成績が急上昇しました。これは全て伊吹さんのおかげです」 
と言って畳に両手をついて額を畳にこすりつけた。  
「何いってるんだ、元々2人とも頭が良かったからだよ」  
「伊吹さんのお父さんも同じことを言ってたけど、頭が良かったとしても、伊吹さんの勉強法がなかったらこんな結果にはならないわ」  
「僕の勉強法でやっても、頭が悪ければこうはならないよ」  
「いやー、そんなことないわ」  
「わかったわかった、それじゃーお互い譲歩して、頭がよい50%、勉強法がよい50%にしよう」  
「わかったわ。伊吹さんは何番だったの?」  
「僕も40番代だったよ」  
「あまり嬉しそうにしてないわね」  
「うーん、今まで900番代だったから、40番代ってあまりぴんとこないんだ」  
「そうなの?、私達2人は今年の2月に較べて天国と地獄なので、2人で抱き合って泣いていたのよ。ねえ美香子!」  
「そうよ、今思い出しても涙が出て来るわ。そうだ、かおり、2月に起こったことを彼氏である伊吹さんに包み隠さず話した方がいいよ」  
「分かったわ」 
とゆかりは座り直した。   

「わたしと美香子は1年、2年と同級生で親友だったの。1年の前半までは2人とも成績は100番くらいだったのに後半から成績がどんどん落ちだしたの。2年になってからは・A前にも話したとおり私は700番代、美香子は900番代まで落ちてしまったの。それで2人はヤケを起こして、2月のある晩、それまでしつこく誘われていた不良の家に遊びに行ったの。その家には10人以上の不良男女が集まって酒やタバコを飲んでいたの。私達にも勧められたのでタバコを飲んだところ、頭がくらくらして吐き気がしてきたのでトイレで吐こうと2人でトイレに向かったんだけど、途中にある部屋で男女ペアー3組が抱き合ってキスしたりオッパイすったりしていたの。私達はびっくりしてすぐ家に逃げ帰ったのだけど、それから2週間ぐらい不良が夜、私の家にしつこく誘いに来たの。誘いを断っていたのだけど、たまたま勤め帰りの父さんと鉢合わせて、父さんに怒鳴られて、もう不良は来なくなったんだけど、それから私の家庭はすっかり暗くなってしまったの。美香子と会っても『私達度胸がなくて不良にもなれないのね』と落ち込む一方の地獄だったの。今からつい3ヶ月前のことなのよ。それが3年生になって伊吹さんとお付き合いしてもらって、今、天国を味わってるのよ」  
「へー、すごい経験をしたんだなー。だけど僕は2人の気持ちは良く分からないな。だって僕の成績は一貫して900番代で上がりも下がりもあまりしなくて、一度700番代に上がったけど、それがどーした、という気持ちだったよ。それに、たとえ高校に行けなくても、店を継げばいいやと思っていたので、落ち込むこともなかったな。ただ辛かったのは、先生に無視されていたことかな」  
「そうなの、だから伊吹さんはのほほんとしていたのね」  
「そうだね、2人みたいに下手に成績が良いときなど一度もなかったからね。それにペーパーテストだけで全人格を評価するような最近の考え方は全然おかしいと思っている。幸いなことに僕らは成績最悪と成績優秀を経験したから、勉強の出来ない人達をバカにするのは止めようよ」  
「分かったわ」  
「ところで伊吹は男生徒だって両親に話した方がいいよ。うちの私設放送局はどこまで拡がるか予想もつかないからね。成績が上がったから話すチャンスだと思うよ」  
「分かりました。両親に話します」  

[かおりの両親]   

 かおりは家に帰ると、謝罪と相談をかねて母親と話し合った。  
「母さん、実は成績優秀な女生徒の伊吹さんに勉強を教わっていると言ったんだけど、あれはウソで、本当は成績劣等の男生徒だったの。私より成績は悪かったのだけど、3年生になって効果的な勉強の仕方を発見して、それを私と美香子に教えてくれて、3人で毎日、伊吹さんの家で勉強会をやっていたの。ウソを言ってご免なさい」 
と謝った。母は  
「まあ、そうだったの。ところで伊吹さんはかおりより成績が悪かったそうだけど、今度の試験では成績はどうだったの?」  
「うん、私達と同じ40番代だったの。伊吹さんは2年生まで自分の部屋と机がなくて、勉強は1分もやったことがない、と威張っていたわ。それが、すぐ上のお兄さんが大学に進学し、3年生になって部屋と机ができて勉強するようになったそうよ」  
「それじゃー、もともと伊吹さんは頭が良かったんだ」  
「私もそう思うわ。伊吹さんのお父さんは旧制T中学卒業で、上の兄さんは旧帝大のK大学工学部を卒業して建設省に勤めているし、下の兄さんはK商船大学に進学し、姉さんはT高校を卒業して大手K銀行T支店に勤めているの」  
「頭がいいの当たり前ね」  
「ところで母さん、秘密にしていたのだけど、私からお願いして伊吹さんと交際してもらってるの」 
と、今までの聡とのいきさつと、廊下窓際デートから勉強会デートに至ったことを全て母親に話した。  
「それで母さん、伊吹さんが男生徒で、これからも学習会を続けていきたいことと、伊吹さんとの交際を許して欲しいことを父さんにお願いしてもいいかしら?」  
「学習会を続けていきたいことはお願いしてもいいけど、交際していることは当分伏せておいた方がいいと思うわ。そのうち父さんには私からそれとなく匂わせておくから」  「うわー、母さんありがとう。母さんは許してくれるのね?」  
「もちろんよ。かおりを昔のよい子に戻してくれたし、成績を劇的に上げてくれたんだもの、私からお願いしたいくらいだわ。ところで、伊吹さんてどんな子?」  
「のんびりして、のほほんとして、優しい人なの」  
「かおり、本当に良かったね。ところで今日、PTAが終わって父さんに電話をかけて、今日、すごく良いことがあったから会社を早めに終えて夕食を一緒に食べましょうと伝えたから、夕食の時に父さんに話しましょう」  
「わかりました」  
「そろそろ父さんが帰ってくるころだから、私は夕飯の支度をするので、かおりは酒屋さんに行って中ビール2本買ってきて」  
「はーい」  
 かおりが冷えたビールを買って家に帰ると、丁度父親が家に帰ってきた。   
「さあさあ、丁度すき焼きもできたのでみんな食卓に来てちょうだい」  
「うわー、今日はどうしたんだ!牛肉・カゃないか!それにビールが2本も!」  浴衣に 着替えた父親は喜びの声をあげた。  
「今日はかおりに、とってもいいことがあったの。さあ、かおりに乾杯しましょう」   母親は父親のコップにビールをつぎ、自分のコップにもついだ。かおりは自分のコップにジュースをついだ。  
「かおり、おめでとう!乾杯!」  
 3人、コップをカチンとつき合わせて一気にぐーっと飲み干した。  
「ところで、かおりにどんないいことがあったんだ?」  
 ビールをコップについでもらいながら父親が言った。  
「今日、かおりのPTAがあって、かおりの成績が劇的に上がり40番代になって、先生からT高校合格間違いないと言われたのよ」  
 ビールを飲んでいた父親は、途端にむせてブーとビールを吐きだした。  
「ごめんごめん。かおり、本当に良かったな。最近、必死になって勉強しているのは知っていたが、こんなに早く成果が出るとは思っていなかった。良かった良かった」  
 かおりは、この時とばかり父親に詫びをいれた。  
「父さん、不良とつき合って父さんに心配かけてすみませんでした。成績がどんどん下がってヤケを起こしてたんです。だけど度胸がなくて、不良とつき合うのが恐ろしくなってすぐに止めたんだけど、その後、どうしていいか分からなかったの。本当にすみませんでした」  
「父さんも多分そうだろうと思っていたが、父さんにはどうしていいか分からなかったんだ」  
「もうひとつ、父さんに謝らなくてはいけないの。勉強会の許可を得る時、伊吹さんという成績優秀な女生徒に勉強を教わると言ったんだけど、実はウソで、伊吹さんは成績劣等の男生徒だったの。不良の一件があったので、たとえ勉強会でも男生徒の家でやることを父さんは許可してくれないと思い、ウソを言ったの。すみませんでした」  
「渡辺美香子さんと3人で伊吹君の家で勉強していたのかい?」  
「はい。それで、これからも伊吹さんの家で勉強したいのだけど、いいでしょうか?」 「いいも悪いも、かおりを元のよい子に戻してくれたどころか、成績も劇的に上げてくれたのに、なんで止めさせるんだ?逆に伊吹君から断ってきたら俺から頼みに行くよ、なあ母さん」  
「私も一緒に頼みに行くわ」  
「ところでかおり、伊吹君の家で毎日勉強しているということは、伊吹君のご両親とも毎日会っているんだな?」  
「ええ、ご両親は私たちをすごくかわいがってくれるのよ。娘が二人増えたと喜んでいるの」  
「それは不公平だな」  
「えっ、不公平?」  
「伊吹君のご両親は二人と毎日会っているのに、こちらの両親は伊吹君に全然会ってないんだよ。そうだ、7月4日のかおりの誕生日に伊吹君と渡辺さんを招いて誕生会をやったらどうだろう?」  
「わー、うれしい!」  
「俺もかおりのお陰で普段はビール1本なのに、今日は2本も飲めた。うれしいな!」 「もっと飲みたい?」  
「うん」  
「今日は我が家にとって今までで最高の日だから、もう2本買ってこようか?」  
「最高にうれしいね。たのむ」  
「かおり、すまないけでまたビール2本買ってきて」  
「はーい」  
 かおりは、父から3人の勉強会をこころよく許可してくれたのが嬉しくてたまらなかった。すぐ酒屋にビールを買いに行った。   

「ところで母さん、俺の直感だけど、伊吹君はかおりの彼氏でないのか?」  
「あらまあ、わかったの?」  
「そりゃーそうだよ。伊吹君の話をするときのかおりの顔を見ていると誰でも分かるよ。母さんは前から知っていたの?」  
「いや、今日初めてかおりから聞いたわ」 
 「伊吹君はどんな子だと言っていた?」  
「のんびり、のほほん、優しい子だと言っていたわ」  
「誕生会で会うの楽しみだな」

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