昭和の「ダフニスとクロエ」 秋編 (オリジナルフィクション) 2557回

2018/04/05 12:42┃登録者:霧海 裕◆k5/x7OUI┃作者:霧海 裕
 昭和の「ダフニスとクロエ」 秋編

[9月の花]

 聡の生涯最高の夏休みが終わり、2学期に入った。
 9月に入ると、一番強烈な印象を受けるのはキンモクセイの香りである。
 キンモクセイは常緑広葉樹の小木(樹高3mぐらい)で、9月に小さいオレンジ色の花を無数に付け、強力な芳香を放つ。花の香りが強烈な木は、例えばジンチョウゲ(沈丁花)、クチナシ、ニセアカシア、ライラック、ハシドイなどがあるが、キンモクセイは段違いに強力な芳香を放つ。「その匂い、一里四方に漂う」と昔から言われているが、「一里四方」は極端としても、確実に100m四方に芳香を放っている。
 キンモクセイは主に庭木に使われる。円柱状の単独植か高生垣に使われるが、匂いが強烈なので高生垣にするにはかなり広い庭が必要になってくる。簡単に言えば、金持ちの広い庭の高生垣に使われる。
 聡の近所の家に、玄関横に円柱状のキンモクセイ1本が植えられていた。また、聡の店の、郊外にあるお得意さんの隣の大邸宅に、キンモクセイの高生垣が植えられていた。9月になると毎日、それぞれのキンモクセイが強力な芳香を放っていた。特に強力なのはやはり何十本も植えられた高生垣であった。隣近所の人でキンモクセイの匂いが嫌いな人は、地獄の日々をおくったことであろう。
 聡はキンモクセイの匂いが大好きだったので、店の用事がない時でも自転車に乗って、その大邸宅に匂いを嗅ぐために行った。
 美香子はキンモクセイの匂いが聡と同じく大好きであったが、かおりはどちらかといえば好きという程度で、詳しく聞くとキンモクセイ近くの強烈な匂いはあまり好きでないが、遠くからそこはかとなく匂ってくるキンモクセイの香りは大好きだそうだ。聡がかおりに
 「橘さんの嗅覚がそんなに鋭敏で繊細とは思えないな」
とからかうと、かおりは
 「わたしの嗅覚は、伊吹さんや美香子のような鈍感で野蛮な嗅覚なんかではありません」
と言い返された。

 9月を代表する草花は、問題なくヒガンバナ(彼岸花、別名マンジュシャゲ・曼珠沙華)であろう。秋のお彼岸頃に道の傍らや原っぱ、土手、畦道などに群生してその華麗な姿を現す。この花はほかの花と違い、9月になるといきなり花茎(40〜60僉砲世韻土中からにょきにょき生えてきて、茎の先っぽに華麗な花が開き、花が枯れた後、晩秋に葉が生えてきて春先に葉は枯れてしまう。
花は一本の茎の先端に4〜6個咲き、花色は赤、花弁は細長く、大きくそり曲がって咲く。子供達はこの花を「パーマ」と呼んでいた。
 この花は群生して咲くし、色・形も派手なため見る人の評価も二分され、好きな人は「華麗で鮮やか」と評価し、嫌いな人は「派手で毒々しい」と言う。文字通り、この花の全草に毒が含まれていて、親や学校の先生から「絶対にこの花を折って茎を口にくわえないこと」と厳重に注意されていた。嫌いな原因もこのことがあるのかも知れない。
 かおりと美香子は「大っ嫌い!!」。聡は「大好き!!」。にらみ合った。

 秋に咲く花は数多くあるが、聡にとって一番印象深いのが、このキンモクセイとヒガンバナであった。

[庭になる果実]

 秋という季節は果物の本番の季節である。ナシやカキ、モモ、ブドウ、リンゴ、ミカンなどが果物屋の店頭に並びだす。これらの果物は、聡の小学生の同級生で、M山で果樹園をやっている奴の所に遊びに行き、キズモノや取り損ないの果物を腹一杯食べていた。

 果物屋の店頭に並んでいない果物もあった。それが、ビワ、イチジク(無花果)、ザクロが代表する庭になる果物であった。
 これらの果実は、大きくて立派な奴はたまに店頭に並ぶが、普通は庭になってる果実を採って食べるのである。
 イチジクは2種類あって、身が大きく、身の皮も厚いのが普通のイチジクで、身が少し小さく、皮が薄いのが西洋イチジクである。甘さは西洋イチジクの方が甘く、皮も薄いので皮をむかないで食べることができた。イチジクは生食もするが、主にジャムにしていた。
 ビワも生食していたが、瓶につめて「ビワのシロップ漬け」として店で売っていた。

 この3種類の果実のほか、聡の近所にはアンズ(杏)とナツメ(棗)の木を植えている家があった。
 アンズの実は黄色く熟してもあまり甘くなく、聡は好きでなかった。しかし、聡の姉が言うには、アンズは英語で「アプリコット」と言い、「アプリコット・ジャム」はおいしくて、かなり高価だと教えてくれたが、聡は作るのが面倒なので、興味がなかった。
 ナツメの実は熟すと赤黒くなり、見た目はうまそうだが、食ってみるとあまりうまくなかった。この実も砂糖漬けや甘露煮で食され、聡はそれが面倒なので採らなかった。
 ちなみに、茶道の重要な道具で、抹茶を入れる器を棗(ナツメ)と言うが、これはその形がナツメの実に似ているところから付けられた名前である。

 これらの庭の果実を聡や近所の悪ガキたちは、小学校時代には家人の了解なしに採っていた。いわゆるかっぱらっていた。家人に了解を取り付ける方が悪だと粋がっていた。しかし、不思議なことにかっぱらいを家人に見つかっても家人は「こらー」といったり、追っかけてこなかった。
 中学生になると、かっぱらいなどガキのやることだと、家人の了解を得て採っていた。気持ちよく採らしてくれた。
 聡はかおりや美香子分も採り、2人におすそ分けしたらすごく喜ばれた。そりゃあそうだろう、女の子のかっぱらいなど見たことがないからである。

[不良どもをやっつけた話]

 2学期が始まり、聡とかおり、美香子の元落ちこぼれ3人組は繁華街のM書店に問題集を買いに行った。夏休みの勉強会で、中学1年と2年の教科書を徹底的に復習し、その応用として中学1年と2年の問題集を2学期の学習会の重点課題として勉強しようということになった。それで、各9科目の2年分18冊の問題集のうち、3出版会社のものを各々1人1出版会社の問題集18冊を買い、3人で持ち回りして勉強しようということになった。択一の場合、鉛筆で薄く丸をし、終わったら消しゴムで消すというルールも作った。

 M書店はT市一の繁華街、M亀町通りにあった。T市一の大型書店で、近郊に何カ所かの支店があった。
 繁華街はT市の中心をT町、H町、M新町、M亀町を貫通し、南北2劼砲錣燭蝓▲◆璽院璽匹かかった歩行者天国であった。その中で一番繁盛していたのがM亀町の通りであった。いつも買い物客でごった返していた。

 聡とかおり、美香子の3人は聡の家から歩いてM書店に向かった。M書店に20分歩いて着いた。
 3人であーでもない、こーでもないと、わいわい言いながらそれぞれ違う出版社の問題集を買い、帰途についた。

 繁華街を南に少し行き、右の小道を曲がって食堂の勝手口付近に来た途端、後ろから声がかかった。
 「おい!ちょっと待て!!」
 後ろを振り返ると3人の高校生が立っていた。多分、M書店からつけてきたのだろう。
 「何ですか?」
と、かおりや美香子を背中にかばいながら聡は用心深くその高校生を見渡し、答えた。
 3人いた。後ろで偉そうにしているのがリーダーらしく、前にいる手先らしい2人がすごんできた。
 「オマエ、女の子2人とちゃらちゃらして目障りなんだよ!」
 「オマエ、S中か?中坊のくせに生意気なんだよ!!」

 聡はすぐ理解した。ああ、こいつら美少女かおりを連れ歩いている聡を妬んでいるのだ。そしてかおりの前でぼこぼこにして、聡に恥をかかせようとしているのだ。単なる金の恐喝ではない。

 聡は覚悟した。
 「それがどうしたんですか?」
 「なにー!オマエ、やるのかー?」
 「おい、やっちまおうぜ!」
 手先の2人がいきり立った。
 聡は静かに構え、
 「僕はあまり喧嘩は好まないですが、かかってくる人には立ち向かうしかない。あらかじめ断っておきますが、僕は空手の有段者です」
と言うと
 「何を意気がってんのよー!このヤロー!!」
と、右手で聡に殴りかかった。後ろでかおりと美香子が「キャー」と言った。

 聡は左手で殴りかかる手下の右手をつかみ、ぐっと引いた。
 おっとっとと左に向き、つんのめる手下1の金多摩を聡は右足の甲で優しく撫で上げた。

 空手では急所攻めは厳禁であったが、喧嘩では急速に戦意を失い、ケンカを早く終わらせることができるのが急所攻めであるのを、聡は知っていた。

 手下1は「ウッ」とも「グッ」とも聞こえる声を上げてずるずると道路にうずくまり、両手で金多摩を覆い、エビ状になって寝転がった。

 リーダーは「エッ」という顔をして身体を左にひねり、逃げようとした。そのリーダーに聡はまた、右足でリーダーの金多摩を優しく撫で上げてやった。

 エビ状になった2人を見て、手下2は逃げようとした。聡は
 「えーと、2人を置いて逃げるんですか?すぐ金多摩を手当てしなければ金多摩がソフトボール大になって1、2週間歩けませんよ」
と言うと、手下2は
 「どうしたら良いんでしょうか?」
と、丁寧に聞いてきたので、聡は
 「金多摩に水をどっさり掛けて下さい。この食堂の勝手口から入り、水とバケツを借りて下さい」
と教えると、勝手口の中から女将さんらしい人が出てきた。

 「あーあ、またあんたらかい。ほんとにしょーもないね。ほら、バケツ!勝手に水汲んでかけてやりな!!」
と手下2にバケツを渡し、聡に話しかけてきた。
 「しかし、あんたの腕前、すごいねー。5秒もかからなかったねー。こいつらしょっちゅうこの小道に獲物を連れ込んでかつあげやってんのさ。見かけたら止めに行くんだけど、店を見ながらなんで、そうは止められなかったんだよ。今日はたまたま店からお勝手に来たら、君の大立ち回りを見物出来て胸がすかっとしたよ。いやいや大したもんだ」

 そうこうしているうちに手下2がバケツにたっぷり水を汲み、脇に置いてリーダ−と手下2のズボンを脱がせ始めた。それを見た小母さんが
 「君、2人の汚い金多摩をあの可愛い女の子2人に見せない方が好いよ。強力なトラウマになっちゃうから」
 聡はあわてて2人と一緒にその場を離れた。

 2人ともああいう修羅場は初めてらしく、しばらくあっけにとられていたが、かおりが
 「伊吹君、あんなに強ければ怖いモノなしね。今まで恐ろしくて言えなかったんだけど、これからは3人でデパートやレコード店、お好み屋なんかに行こうよ!!」
と言い出した。聡は
 「俺、あまりケンカは好きでないんだ。相手、かなり痛いからね、かわいそうなんだ」
 「ワッ!やっぱり伊吹君、優しいのね!!」

  その後、2人に押し切られてデパートやお好み焼き屋などに一緒に行ったが、2度と絡まれることはなかった。
 後でリーダーを知ってる奴に聞いたのだが、あのリーダーは結構顔役で、手下も多く、その手下に聡達に絡んだらダメだという通達を出したらしい。
 「何人束になっても勝てない。死にたい奴だけ行け」
と。

[マッタケ狩り]

 9月中旬の日曜日、聡はかおり、美香子を誘って近所の例の遊び友達と一緒にマッタケ狩りに出かけた。これは年中行事で、小学校低学年時から次兄に引っ付いて行くことから始まった。
 小学校時代は沢山マッタケが採れていたが、中学校に入る頃から収穫量は段々少なくなってきた。少ないといっても家で食べる分には充分の量が採れた。だから、このころのマッタケの価格は非常に安く、庶民でも日常食えることができた。
 それなのになぜマッタケ狩りに行くかというと、マッタケの香りが店で売っているマッタケとは段違いに良いからである。店で売るマッタケは収穫して市場(いちば)に出し、仲買を通しているうちに1、2日経過して、香りが激減してしまう。
 マッタケ狩りして採ってきたマッタケは、大体その日の夜にはマッタケご飯、土瓶蒸し、焼きマッタケ、お吸い物にして食べるから、その香りを充分堪能できるからである。
 ちなみに、聡の一番好きなマッタケ料理(料理といえるかどうか分からないが)は、マッタケを縦に薄く切り、炭火で焼いて酢醤油で食べる焼きマッタケであった。酒好きの、近所で薪炭屋を営んでいる叔父は、
 「これをつまみに一杯やるのが人生の至福!」
と常々言っていた。
 この叔父の店にちょいちょい聡は手伝いにやらされた。杉や檜の製材端材を針金でしばったり、長いまま届いた木炭を、金挽き鋸で適当な長さに切って炭俵に詰める仕事をやらされた。

 マッタケの収穫量が少なくなってきた原因はエネルギー革命であった。
 
 聡が小学校時代の家庭の燃料は薪(マキ)と木炭と練炭であった。竈(かまど)に薪をくべて釜でご飯を炊き、七輪(しちりん)に木炭や練炭を使っておかずを作っていた。
 聡も、よく火吹き竹で竈の中の薪にぷーぷーと息を吹きかけ、薪を勢いよく燃え上がらせる手伝いをやらされていた。
 竈に残った薪の燃えかすを、陶器でできた消し壺にいれて消し炭を作り、それを木炭や練炭の着火に使っていた。

 竈でご飯を炊くとき、聡の家では「始めちょろちょろ、中ぱっぱ」の中ぱっぱのとき、燃料に山から採取してきた枯れ松葉を使っていた。枯れ松葉は火持ちは極端に悪く、次々くべなくてはならないが、ヤニを含んでいるので火力が猛烈に強かった。
 祖母が言うには「松葉で炊いたご飯は格段においしい」らしい。

 聡の家には婆さんが4人いると以前述べたが、4人の婆さんのうち、芸者上がりで三味線の師匠をしていた婆さんの妹の富(トミ)婆さんが松葉かきに行っていた。
 聡が小学校6年のとき、春日八郎が歌う歌謡曲「お富さん」が大流行していた。それ以来、聡も富ばあさんを「お富さん」と呼んでいた。
 三味線師匠の婆さんは、さすがに芸者上がりだけあって、背筋をピンと伸ばし、長火鉢の横に座ってキセルで刻みタバコをすぱーっと吸う、美人で粋な婆さんであった。
 その婆さんの妹である富婆さんも、姉の華やかな顔と違い、清楚な雰囲気がある美人であった。しかし、富婆さんは若いときに重度のリュウマチを患い、結婚をあきらめ、経済力のある姉を頼り、芸者から正妻に引いてくれた伊吹家に姉と一緒に来たのであった。
 遠慮があるのか、富婆さんは粗末な着物を着て家事や店を一所懸命に手伝っていた。家が八百屋であったため、母は店をやっていたため、皆の食事を作るのは富婆さんであった。

 その富婆さんは近所の仲の良い婆さんたちと一ヶ月に一回ぐらい、松葉かきに行っていたのである。
 出かけるときは、がんじき(T市方言。竹製大型熊手のこと)を持ち背負子を担ぎ、自分の背丈の倍ぐらいの袋に詰めた枯れ松葉を担いで帰ってくる。聡は一度、袋を降ろすのを手伝ったことがあったが、思ったより軽かった。
 松葉かきや枯れ枝拾い、枯れ枝の切り取り、立ち枯れ木の切り倒しなどは、それこそ千年以上前から庶民が行い、山を守ってきたのである。燃料だけでなく、肥料や炭焼き等のため公有林はおろか民有林にまで庶民が出入りでき、それを近代では「入会権(いりあいけん)」として保護していた。

 9月になると松葉かきのついでにマッタケやハッタケ(正式名はハツタケ)、ショウロ(松露)をたくさん採ってきていた。
 ハッタケはシイタケより少し大きめで、傘の裏の襞(ひだ)部分が緑青(ろくしょう)のように青くなるので、誰にでもハッタケを見分けられた。
 ハッタケは味はたいしたことがないが、ものすごく良いダシがとれた。味噌汁や吸い物の最高の具であった。そして煮付けにもよく使われていた。聡は煮付けが大好きであった。
 ショウロは卵形で親指の先ぐらいの大きさで、マッタケに似たさわやかな香りの非常に美味のきのこで、主に吸い物の具に使われるが、煮付けで食されることもあった。

 マッタケ、ハッタケ、ショウロはアカマツ、クロマツなど二針葉マツ類の樹下に発生し、これらの樹木の生きた細根に外生菌根を形成して生活するのである。したがってシイタケやナメコ、マッシュルームのように人工栽培は難しいのである。

 このことから、家庭燃料のエネルギー革命によって、これらのキノコの出荷量が激減してしまったのである。

 それまで山で集めた松葉や枯れ枝を竈で燃やしてご飯を炊いていたが、燃料が石油やプロパンガスに転換し始めると、台所の竈が放逐され始めた。
 そうなると一般市民が山に登って竈用に集めていた松葉や枯れ枝が放置され、それが林床に20僂30僂砲眤論僂兄呂瓩襦するとキノコから放出された胞子が林床に落ちて菌糸を延ばしても、松の生きた細根に届かなくなってしまう。このことがマッタケやハッタケ、ショウロの出荷量激減の原因であった。
 すぐ後に「電気釜」が現れると、竈は台所から完全に消えてなくなり、国内産マッタケは1本1万円以上になり、山を管理する庶民も消えてなくなり、そして山は荒れ果てたのである。

 いってみれば、聡がかおり達とマッタケ狩りに行った頃は「森林文明」から「石油文明」へのパラダイムの大転回の時代だったのである。


 聡やかおり、美香子がマッタケ狩りに行こうとした頃は、数は少なくなったが、まだ家庭用には十分の量が採れていた。富婆さんもたくさん採ってきていた。

 聡たちと近所の遊び友達は、聡の家に集合し、弁当と竹籠を持って朝9時に出発した。
 目指すは前に行ったM山の中腹であった。聡が小さい頃、次兄に引っ付いてマッタケ狩りをしていたので、場所を覚えていた。
 しかし、そこではマッタケとハッタケしか採れず、ショウロはまったく採れなかった。富婆さんにいくら聞いても絶対に教えてくれなかった。俗に言う、
 「マッタケの生え場所は親にも言うな」
であった。

 目指す場所に到着すると、皆バラバラになって行動することになった。ただ、10分か15分ごとに聡が
 「オーイ」と声をかけて皆に聡の位置を知らせることにした。

 聡は、始めてマッタケ狩りをするかおりと美香子を引き連れて3人でマッタケ狩りをすることになった。
 「さあ、行くぞ!」
と2人に声をかけて、少し傾斜の急な場所を登り始める。やはり、平らな所は松葉が厚く積もりマッタケはありそうになかった。傾斜の急な所は雨で松葉が流されるのか、あまり堆積されていない。
 2人に、目を凝らせてマッタケを探せと声をかけようと振り返ると、2人の様子がどうもおかしい。

 美香子が肘でかおりの身体をつっついている。かおりは顔を赤くしてもじもじしている。
 「かおり、あんた何やってるのよ!」
と小声でかおりを叱っている。
 かおりは決心したのか
 「伊吹さん。あのー、急勾配で登りづらいので手をつないでもらえませんか?」
 「あっ、ごめんごめん。はいどうぞ」
 手をつないで聡は
 「傾斜地にマッタケが生えているので、2人とも目を凝らして探しな」

 最初に聡がマッタケを見つけたが、かおりにマッタケを指差し
 「ほら、あの当たりにマッタケが生えているよ!」
と言うと
 「あっ、あった!」
とかおりはマッタケを見つけ、手を離してマッタケを採った。
 傘が広がった大きめのマッタケであった。それを腰につけた、底にシダの葉を敷き詰めた竹籠に大事に納めた。

 「あっ、そうそう。2人に言うの忘れていたが、採るマッタケはなるべく傘が開いているマッタケを採るように。傘が開いてないマッタケの方が香りが良く美味しいのだが、胞子をばらまいてないので、なるべく採らないように」
と言うと2人は
 「へー。収穫量を維持するために、そういう掟があるの。知らなかった」
と感心していた。
 「いや、兄貴からの受け売りです」
と言うと2人は
 「あはははは・・・」
と笑った。
 
 その傾斜地で4本ぐらいマッタケを採り、平坦な所にきたが、かおりはまた聡の手を握ってきた。
 その後、マッタケを採るとき以外、聡とかおりは手をつなぎっぱなしであった。後ろで美香子はニコニコ笑っていた。

 2時間ほどでそれぞれマッタケを10本と、同じぐらいハッタケも採って、大きめの竹籠も一杯になったので、マッタケ狩りを止めることにした。
 「おーい、もうそろそろ止めるぞー」
と声をかけると
 「わかったー」
と皆それぞれ集まってきた。
 遊び仲間はマッタケ狩りのベテランであったため、それぞれマッタケを20本以上採っていた。

 松林が開いた日当たりの良い場所で皆、弁当を広げた。
 弁当を食った後、これからどうするという話になり、すぐ家に帰るのは天気がいいのにもったいないということで、I神社に行くことになった。I神社のギンナンとムクノキの実の実り具合を見に行こうということだ。

 I神社に行くには山を下りて直接行けば近いのだが、まだ行ったことのない道を通って行こうということで、少々回り道になるが、山を少し下って山裾付近にある、裾をぐるっと回って前に行ったM山からI神社に下る、S谷川沿いの道に合流する、自動車がすれ違いができるぐらい幅員の広い山道を通って行くことにした。

 皆と平坦な砂利敷きの山道を歩いていたが、自然に遊び仲間4人と聡たち3人のグループに分かれ、聡たちは仲間グループより少し遅れて歩いていた。
 するとかおりが聡の手を握ってきた。

 聡はかおりの大胆さにびっくりして、かおりの顔を見た。
 かおりは聡をちらっと見て、ニコっと微笑み、視線を前に戻し、何事もなく歩いている。

 聡も視線を前に戻し、何事もないことなく、胸をどきどきさせながら歩きながら、考えた。

 『これはどういうことだ!。かおりは前と違って顔を真っ赤にしていない。それどころか、ちょっぴり自信を持って、ほのかに微笑んで幸せそうに歩いている・・・・』

 前を歩いている仲間が、聡とかおりが手をつないで歩いているのに気がついた。
 皆一斉に
 「いいぞいいぞ!!。ひゅーひゅー!!」
と歓声を上げたり、口笛を吹いて二人をからかった。

 聡はあわてて手を離そうとしたが、かおりは手をぐっと強く握り、離してくれなかった。

 かおりは仲間のからかいに全く動ぜず、聡の顔をちらっと見ただけで、淡々と歩いていく。

 聡は
 『うーーん。これはやばいことになった。かおりは覚悟を決めたようだ。
 それに較べて俺はなんて情けない男だろう。本来は俺から手をつなぎに行かなければならないのに。
 かおり、すまん!。これからはなんとしても俺から行動を起こすから、許してくれ・・・・』

 何気なく後ろを振り返ると、美香子が満面の笑みを浮かべて歩いていた。

 『うーーん。かおりと美香子二人で何かはかりごとがあったな!?』


[ギターと「メリー・ウィドウ」]

 9月下旬の日曜日に聡のピアノ伴奏で、かおりの歌を聡の姉に披露することになった。
 姉は前から聡とかおりが、レハールの「メリー・ウィドウ」を練習していることを聞いていたのだが、実は姉は強烈な「メリー・ウィドウ」ファンで、全曲盤のLPレコードを購入しており、聡達もそのレコードを参考に練習していた。
 下手だから駄目だと聡達は披露を断っていたのだが、お世話になりっぱなしの姉のたっての希望なので、渋々承諾した。

 聡とかおりは、日曜日の午後はたいていどちらかの家でデートしており、お披露目会はピアノのある聡の家ですることになった。通常は午後1時頃から3時過ぎまでであったが、当日、姉に用事があり、お披露目は3時からになった。
 「メリー・ウィドウ」の中でかおりが歌うのは「唇は黙せど」と「私は貞淑な妻」の2曲で、まあせいぜい10分ぐらいなので、通常どおりかおりは1時過ぎに来ることになった。
 4時前には終了すると思っていたが、姉のハプニング説教で6時過ぎになってしまった・・・・

 1時過ぎにかおりは予定どおり、お土産の洋生を持って聡の家にやってきた。
 発声練習の後、さっそく「メリー・ウィドウ」の練習に取りかかった。この二つの曲は女声と男声の二重唱で、普段、聡はオーケストラ・ピアノを弾きながら小さな声で歌っていたのだが、今回は大きな声で歌わなければならなかった。しかし、かおりの声量に圧倒されてしまい、どんなに頑張っても二重唱にはならなかった。
 「音程とリズムがしっかりしていれば、まあいいか・・・」と、聡はかおりと張り合うのは諦めた。

 練習の後、姉のレコード、エリザベート・シュワルツコップ版「メリー・ウィドウ」全曲の中から「唇は黙せど」と「私は貞淑な妻」をしっかり聞き、ドイツ語の発音をチェックした。
 3時まで時間が相当あるので、同じ喜歌劇でヨハン・シュトラウスの「こうもり」全曲盤があったので、それを聞くかと聡はかおりに聞いた。するとかおりは意外な希望を言ってきた。

 「伊吹さんのギターを聞きたい!」
であった。聡はピアノ曲は時々、三味線は1回だけかおりに聞かせていたが、そういえばギターは1回も聞かせたことがないのに気づいた。かおりとの廊下デートでギターが弾けることを言った覚えがあるので、かおりはそれを覚えていたようだ。

 聡は
 「うーん、まだ練習中で下手だけど、それでもいいか?」
 とかおりに聞くと、かおりは
 「『禁じられた遊び』を絶対聞きたい!!」
と目を輝かしながら言った。

 「禁じられた遊び」は1952年に上映されたフランス映画で、その主題歌「愛のロマンス」とともに全世界で大ヒットし、聡の時代にもナルシソ・イエペスやカルロス・モントヤ、アンドレス・セゴビアが弾く「愛のロマンス」は絶大な人気を誇っていた。この曲を弾きたいためにクラシック・ギターを始める人は大勢いた。何を隠そう聡も、この曲を弾いて女の子にもてようという不純な動機でギターを始めたのであった。

 「それじゃー、ついでだから今、僕の弾ける曲と練習中の曲を弾くけどいいかい?」
 「いいわ。ただ私、ギター曲は『禁じられた遊び』しか知らないんだけど・・・」
 「たいていの人はそうだよ。だけどそのほかの曲は橘さんもどこかで聴いたことがあるはずだよ」
 「へえー、そうなの。楽しみだわ」

 「まず最初に、ソルの『月光』を弾くよ。この曲は初心者は絶対に練習をしなければならい曲なんだよ」
 聡は静かにソルの「月光」を弾き始めた。かおりはすぐにこの曲に引き込まれていった。
 この曲は、右手の薬指で旋律を弾き、親指、中指、人差し指で伴奏を弾くという、ギター演奏の基本を習得する曲なのである。初心者でも弾ける易しい曲なのだが、優雅でロマンチックな、静かな旋律で絶大な人気があった曲である。ドラマやCMのBGMにもしょっちゅう使われていて、曲名を知らなくても旋律は良く知られていた。

 「さあー次は橘さんお待ちかねの『禁じられた遊び』を弾くよ。ところで、この曲の本当の曲名は『愛のロマンス』と言うんだよ。『禁じられた遊び』というフランス映画で流れていた曲なので、日本では『禁じられた遊び』という曲名になったんだ。
 ところで、この映画に面白いエピソードがあるんだ。何かというと、『禁じられた遊び』という映画を制作した映画会社が貧乏で、BGMを挿入するためのオーケストラや指揮者を雇う金がなく、苦肉の策としてスペインのギターリスト、ナルシソ・イエペスを雇って、映画全編にイエペス一人がギターで弾くスペイン民謡で押し通したんだ。それがこの曲と映画の質の高さと相まって、世界中で映画も曲も大ヒットしたんだ。
 現に、橘さんや橘さんの友達もこの曲を知っているだろう?
 『ヒョウタンから駒』の典型だな」

 聡はイエペス版で「愛のロマンス」を弾き始めた。
 まず、厳かで哀愁を込めた前奏から始まり、超有名な短調の主題、スペイン民謡2曲の中間部、第1主題が長調に転調した第2主題、第1主題に返って終わる。

 「すごーい!!」
 拍手をしながら、かおりは感極まっていた。
 「生の演奏は、ラジオやレコードと全然違う。それに伊吹さんの演奏も最高だった!!」

 聡は照れながら
 「まあまあ押さえて押さえて。
 『月光』と『愛のロマンス』には共通でギター演奏の基本があるんだよ。
 それは何かというと、ギター奏法基本中の基本である『アポヤンド奏法』と『アルアレイ奏法』というのがあるんだ。この奏法を厳格に守らなければ、この曲をぶち壊してしまうんだ」
 
 と言ってギターを弾きながらかおりに説明した。

 「『アルアレイ奏法』は、通常の奏法で、弦を弾いたあとの指が弦の上に行き、他の弦に触らない。この奏法は主に伴奏の旋律を弾く奏法で、弾いた音があまり前面に出ない奏法なんだ。
 それに対して『アポヤンド奏法』は、弦を弾いた指がそのまま隣の弦に当てるように弾く奏法で、この奏法で弾いた旋律は力強く、前面に出てくるので、主旋律を弾く奏法なんだ。
 試しに『月光』と『愛のロマンス』を『アルアレイ奏法』だけで弾いてみると・・・」
と言って、曲を弾くと、かおりは
 「本当だ。旋律が全然浮かんでこない」
 「それでは旋律と親指で弾く最低音を『アポヤンド奏法』で弾くと・・・」
 「うわー、旋律がくっきり浮かぶし、低音もしっかり曲を支えて立体的に聞こえるわ!『アルア何とか奏法』だけとは全然違う!!」
 「さすが声楽をやるだけあって、橘さんは耳が良いからすぐ分かるんだなあ」

 「さあ、今度は全く別の奏法の曲をやるよ」

 聡はおもむろにタルレガの「アルハンブラの思い出」を演奏し始めた。かおりはうっとりした表情で聞き入っていた。

 「どう、全然違う奏法だろ?これは『トレモロ奏法』といって、主旋律を同じ弦で薬指、中指、人差し指の順番で弾き、伴奏は親指だけが受け持つ。弾き方は、親指、薬指、中指、人差し指の順番で高速で弾くんだ。トトトト、トトトトという具合にね。これはかなり難しくて、4本の指で弾く音のテンポ、強さがバラバラにならないように弾かなければならない。僕はまだやっと弾ける状態なので、まだテンポや強さがバラバラなんだ」
 「だけど、この曲は有名な曲で、私も知っているわ。聞いていてうっとりするわ」
 「はいはい、曲が素晴らしいんだね」
 「何言ってんのよ。伊吹さんの腕前が素晴らしいからうっとり聞けるのよ!」
 「お褒めのお言葉、ありがたく頂戴します」
 「うふふ・・・」

 「さあ、これから弾く曲は練習に取りかかったばかりの曲で、ほんのさわりだけ弾くよ。今までの曲とは桁違いに難しい曲で、非常にテンポの速い曲だけど僕の今の腕ではとっても弾けないので、遅めのテンポで弾くからね」

 聡は静かにギターを構え、アルベニスの「アストゥリアス(伝説)」を弾き始めた。

 ホ短調(Em) ラミファレミド、ラミファレミド・・・
 親指で弾くこの旋律の合間を埋めるように、人差し指と中指を交互に使って別の弦のミを入れてゆく。だから

 ラミミミファミレミミミドミ、ラミミミファミレミミミドミ・・・
となる。
 最初は静かに、だんだんクレッシェンドしてゆき、合間に入る音も複雑になってくる。
 まるで地の底から旋律が沸き上がってくるようである。

 聡が弾けるのは、この主題の提示部だけで、後、主題の展開を経て、がらっと雰囲気が違う中間部になる。
 まるで年取った巫女が伝説を語るような世界が広がり、再び冒頭の地から沸き上がる旋律が復活し終わる。まことになんともはや、聡にとって難曲中の難曲であった。

 しかし、聡の弾く冒頭の部分で、かおりは涙ぐんでいた。

 かおりは
 「すごーい!! 身体ごとぐんぐん引き込まれて行く。凄い曲だわ。
 ねえ、伊吹さん、早くこの曲全曲をマスターして!!」
 「うーーん、この曲、猛烈に難しいからなあ。橘さんでも『アルハンブラ・・・』や『愛のロマンス』とは桁違いの曲だと分かるだろう!? 自信がないなあ」
 「お願い!! 私のためにも頑張って!!」
 聡は一番の弱みをつかれて、
 「うん、一生懸命頑張ってみる」
と言わざるを得なかった。

 「さあ、最後に、これも冒頭の旋律しか弾けないけど、素晴らしい曲なんだ。多分、マスターするのに数年かかるかも知れないし、マスターできないかも知れない。曲は、スペインの盲目の作曲家、ロドリーゴの『アランフェス協奏曲』第2楽章だ」

 ゆっくりギターのロ短調(Bm)のアルぺジオにのせて、オーボエが奏でる哀愁たっぷりの主題を聡は『ラララー・・・』とハミングで歌った。

 ミレミーーミファソーラソファーミレミー・・・

 続いて、同じ旋律を、ギターで修飾音をいっぱい使って繰りかえす。
 そして4度上がった同じようなオーボエの旋律をハミング。

 ラソラーーララシドーレドシーソファソー・・・

 ギターで同じ旋律を目一杯装飾音を使って弾く・・・

 かおりは涙をぽろぽろ出して聴いていた。
 
 「うわーー、もうなんて言っていいか、天国にいるみたい!! 伊吹さん、この曲も絶対マスターして!?」
 「いやー、この曲は無理だ。この曲をマスターできたらプロになれるよ。それにこの曲はオーケストラとの協奏曲だから、オーケストラと一緒に演奏しないとならないんだよ」
 「そうか。残念。レコードを聴いてる時、伊吹さんがオーケストラと演奏しているのを想像して楽しむわ。
 だけど、楽器を演奏できるって素晴らしいわね。伊吹さんなんてピアノは最高だし、三味線にこのギター。本当に羨ましいわ」
 「何言ってるのよー。楽器の中で最高なのは人間の声なんだよ! 楽器を演奏している人は皆、声楽家にコンプレックスを持っているんだ。人間の感情を100%表すことができるのは声楽なんだ。
 だから、橘さんも自信を持って声楽に邁進して下さい」
 「ありがとー。頑張りまーす!!」

 3時まで少し時間があったので、かおりの希望で聡はピアノを弾くことになった。
 ショパンの「夜想曲20番・遺作」を弾いた。
 かおりは幸せそうな顔をして聴いていた。

そうこうするうちに、
「ただいまー」
 聡の姉が帰ってきた。
 「ショパンのノクターンを弾いていたけど、どうしたの?」
 「うん。橘さんが、3時に近づくと胸がドキドキしてくるというので、ノクターンを聴いてもらってドキドキを鎮めてもらおうと、ピアノを弾いたんだよ」
 「まあまあ、私のためにすみませんね。私は素人の音楽愛好家にすぎないから、あまり緊張しないようにね」
 「ええ。だけど、聡さんからはお姉さんのこと、相当のオペラ気違いと聞いていますので」
 「そんなことないわよ。人より多少オペラが好き程度だから」
 「さあさあ、それでは橘かおりさんの、オペレッタ『メリー・ウィドウ』コンサートを始めるよ。まず最初に『私は貞淑な妻』をやるよ」
 「メリー・ウィドウ」は英語読みで、ドイツ語の原題は「Die Lustige Witwe  ディ ルスティゲ ヴィトヴェ」といい、日本語では「陽気な未亡人」と訳されている。
 この「私は貞淑な妻」は、準主役の独身青年貴族カミーユと若い貴族夫人ヴァランシエンヌの不倫話という他愛ない曲であるが、軽妙で洒脱、粋な旋律で、聡も聡の姉も大好きな曲である。
 この曲は台詞の後、前奏無しでいきなり弱起で始まるので、聡はCの分散和音を3拍、ピアノで弾いて曲に入った。
 聡のオーケストラ・ピアノの伴奏に乗って

 かおり「Ich bin eine anstand'ge Frau イッヒ ビン アイネ アンステッディゲ フラウ(私は貞淑な妻) Und nehm's mit der Ehe genau. ウン ネームス ミッ デル エー ゲナウ(結婚を厳粛に考えています)・・・・
 Gib acht,gib acht !  Mein Freund, gib acht !  ギブ アフ ギブ アフ マイン フロイン ギブ アフ(気を付けて、友よ気を付けて) Und spiele mit dem Feuer nicht. ウン シュピーレ ミッ デム フォイエル ニヒ(火遊びはしますまい)・・・・」

 聡「Sie sind eine anstand'geFrau,  ジー ジン アイネ アンステッディゲ フラウ
(貴女は貞淑な人妻) Das weiss ich ja leider genau. ダス ヴァイス イッヒ ヤー ライダー ゲナウ(私もそれを知っている)・・・・」

 かおり・聡「Gib acht, gib acht!Mein Freund, gib acht !・・・・」

 かおりと聡の二重唱で「気を付けて、気を付けて・・・・」を歌ってこの曲は終わった。
 姉は「すごーい!!上手上手!!」と拍手して喜んでくれた。
 
 次の曲は「唇は黙せど」である。
 この曲は「メリー・ウィドウ」の最後の大団円に主役のハンナとダニロビッチの二重唱で歌われる愛の歌である。「レハールのワルツ」という別名で有名な曲である。

 聡「Lippen schweigen, 's flustern Geigen, Hab' mich lieb!  リーペン シュバイゲン フゥルースター ガイゲン ハブ ミッヒ リーブ(唇は黙し、ヴァイオリンは囁く。『私を愛して』と。)・・・・」

 かおり「Jeder Druck der Hande  イェーダー ドゥリュック デル ハンデ(握られた手は) Deutlich mir's beschrieb. ドイトリッヒ ミース ベシュリーブ(はっきりと告げる)・・・・」

 かおりはこの歌を歌う時、大胆な行動を取った。「私は貞淑な妻」を歌う時にはドイツ語を日本語読みにした歌詞を書いた譜面を見ながら姉の方を見据えて歌っていたが、「唇は黙せど」のときは譜面を見ず、ピアノ伴奏をしている聡の目をじっと見つめて歌い始めたのである。
 聡は、最初はビックリしたが、負けてはならじと微笑みながらかおりの視線に自分の視線を絡ませ、ピアノを弾き、歌った。

 「わあああああ、すごいすごい!!やっぱり生は最高!!かおりさん、すごいね!!」
 姉は大喜びであった。

 「かおりさんは、もう完全に素人の域を脱してるね。ベルカント唱法だし、音程もしっかりして、安心して聞いておれるわ」
 「有り難うございます。オペラ通のお姉さまに誉めてもらって、すごく嬉しいです!」
 「まあ、これからのことだけど、中学3年生には『私は貞淑な妻』を歌うのは無理ね。不義密通の女の心なんか、かおりさんには全然わからないでしょう?不義密通てわかる?」
 「全然わかりません」
 「そうでしょう?かおりさんの声に妖艶でなまめかしさが全然ないものね、当たり前だけど。かおりさんが大人になっていけば、表現できると思うよ」
 「わかりました。有り難うございます」

 「『唇は黙せど』はすごくよかったね。本当に恋が成就した喜びがひしひしと感じられた。ただ、少し難をいうと、この喜歌劇『メリー・ウィドウ』の主役、ハンナとダニロは若い頃、相思相愛だったんだけど結ばれず、ハンナは老貴族と結婚するも、すぐ老貴族が死亡して莫大な遺産を相続してダニロの前に現れるという、大人の意地っ張り同士の恋が成就する物語なんだけど、かおりさんの歌は初恋の人と恋が成就する喜びというふうに聞こえるね。これもしょうがないことだけど」
 「はい、大人になるよう、しっかり勉強します」
 「大人になる勉強ってどんな勉強?」
 「わかりません」
 「あはははは・・・・・」

 「お姉さんはどんなオペラが好きなんですか?」
 「私はこういう喜歌劇も大好きなんだけど、ヴェルディやプッチーニー、ロッシーニーなどのイタリアオペラやモーツアルト、ワーグナーなどのドイツオペラも大好きだよ」
 「歌手では誰が好きなんですか?」
 「そうね、色々いるけど、やっぱり女性ではジュリエッタ・シミオナートやレナータ・ティバルディ。男性は何といってもマリオ・デル・モナコね。彼のヴェルディの『オテロ』なんか最高ね」

 「ところでかおりさん、先ほどはごちそうさま!。聡をじっと見つめながらの『唇は黙せど』は聞いてる私も胸キュンになったわ。
 そこで率直に聞くけど、あなた達はどこまでいってるの?男は嘘をつくから、かおりさんが答えて!?」
 「『どこまで』って・・・・??」
 「簡単に言うと、A・手を握る、B・キスする、C・胸に触る、D・セックスする。以上四つの答えから一つを選んでください」
 かおりは真っ赤になりながら
 「・・・・Aです・・・・」
 「やっぱりね。聡が奥手であるのは知っていたけど、かおりさんも奥手なのね。安心した。あなた達はこれから高校や大学に進学する、人生で一番大事な時期になるから、しょーもない恋愛ゴッコやセックスに嵌っては人生が狂ってしまう。できたら今のままで過ごして、大人になったら必ず結婚するんだよ。わかった?」
聡・かおり「わかりました・・・・」

[中学最後の運動会]

 10月の第一日曜日、今日は朝から晴れ渡り、絶好の運動会日和であった。聡やかおりにとって中学最後の運動会になる。
 2学期が始まった9月から、体育の時間は運動会に向けた練習に明け暮れた。1年や2年のときは男女徒競走やリレー、女子のマスゲームだったが、3年生は男子が器械体操というか組み体操というか、人間ピラミッドや人間ブリッジを作るゲーム、それと棒倒し。女子は壮大な花模様のマスゲームと校章の人文字を作るゲームであった。
 前日から先生や体育クラブの連中が石灰でラインを引いたり飾り付けをやっていた。一般生徒は授業が終わってから自分のイスを運動場の所定の位置に運び、父兄用のイスも生徒のイスの後ろに並べた。
 
 運動会当日、聡の父兄は誰も来なかったが、かおりのところは母親が来ていた。美香子のところには、面白いことに母と母の実家の祖父と本家の叔父さんと従兄が来ていた。後で聡が聞いたところによると、美香子一族は代々T市郊外に住む富裕農家で、一族郎党数は多いが、今までT高校に進学した奴は一人もいなく、美香子が進学間違いないということを聞き、本家に住む祖父が非常に喜び、美香子の最後の運動会の応援に来たそうである。美香子はすごく恥ずかしがっていたけれど。

 昼の昼食にはかおりの母に呼ばれ、一緒に昼食を食べた。押し寿司と巻き寿司を聡の分まで作ってくれていた。巻き寿司は聡の大好物であるアナゴの蒲焼きがたっぷり入り、かんぴょうと椎茸の甘煮、ほうれん草の入ったものであった。

 運動会もいよいよ終盤を迎え、まず3年男生徒による組み体操が始まった。5人が組になり真ん中の一人を中心にしてあとの4人が笛の合図で一斉に腕を組んで横に扇が広がるようになる「扇組み体操」や3人が四つんばいになり、上に2人、その上に1人が乗る「人間ピラミッド」、一番下に5人、次に4人、3人、2人、1人という「大型人間ピラミッド」。聡は体格が良かったために人間ピラミッドはいつも最下段で、特に大型の場合は非常に負荷が大きく、最後に笛の合図で一斉に手を伸ばしてピラミッドを崩すときはいつも「ギャッ」と叫んでいた。最後は人間ブリッジ(聡はいつも大型人間ピラミッドをやっていたので、ブリッジの作り方はわからなかった)と大型人間ピラミッド、人間ピラミッド、扇組みを配した壮大な組み体操で終わった。盛大な拍手をもらった。

 3年女生徒のマスゲームは大小様々の花模様を作り、それがくるくる回ったり、でっかい花になったり、瞬時に無数の小さい花になったり、変幻自在のマスゲームであった。

 次に3年男生徒の「棒倒し」である。3年男生徒600人を半分、300人、300人に分け(確か奇数組と偶数組)、その内の半分150人を攻撃、150人を防御にそれぞれつかせ、それぞれに長さ7m元口30僂阿蕕い凌丸太を立て、丸太をいかに早く倒せるかという単純なゲームである。
 このゲームは少し危険性があるので、身体の弱い人や身体障害者は不参加、眼鏡、腕時計をはずし、上はランニングシャツ、下は白のトレーニングパンツ(トレパン)を着用、先生が10数人監視という、ものものしい雰囲気であったが、生徒はそんなことはどこ吹く風とばかり、色々作戦を練った。
 ゲーム中、手を上に上げたら殴ろうとしていると見なされ、即退場になるので、足で蹴り合ったり、トレパンのバンドを抜き取ったり、スクラムを組んで敵を押しつぶしたりと色々工夫をした。

 聡は攻撃組になったので、4人で騎馬戦の騎馬を組み、馬役は頑健な奴、騎手は小さくて素早い奴、騎馬の廻りを数人配置して騎馬に近づく敵を蹴ちらすという作戦を立て、敵の棒に突進した。
 騎馬役は手がふさがっていて、敵の金多摩蹴り攻撃に弱いので、腰を左右に振りながら棒に近づいた。それでも聡は馬の先頭役だったので、2、3発金蹴りを喰らったのだが、幸いなことに金直撃を喰らうことなく騎手を棒に登らせることに成功した。
 しかし、ここから新たな戦いが始まるのである。敵は何としても登らせまいとして足を持って引きずりおろそうとするし、引きずりおろされまいとして敵の頭を蹴ったり、棒を支えている敵を引っ張ったり、潜り込んで、支えている敵の足を絡めて倒したり、そうさせまいと潜り込んだ奴を蹴飛ばしたりと阿鼻叫喚の戦いになる。
 棒に登った聡の仲間は、早く先っぽに登って後に登ってくる仲間に続かそうとして少し登ったのだが、敵がトレパンの裾を持って引っ張ったため、トレパンがスネの所まで下がり、パンツが丸見えになってしまった。普通、あっとなってパンツを手で押さえようとして落下するのだが、彼はパンツを脱がされても登るぞという覚悟で登り続けた。後で皆に誉められた。
 こうやって次から次ぎへと棒に登り、その体重で棒を垂直に支えきれなくてゆっくり倒れてくる。敵は棒を倒されまいとして倒れてくる棒を支えるので、急激に棒が倒れることはない。
 敵の棒を倒して味方陣を見ると、ほとんど同時に味方の棒も倒されていた。
 ゲームの結果は引き分け。
 戦果は、鼻血を出した者、数人。ランニングシャツがずたずたになった者、数十人。トレパンを脱がされた者、十数人。パンツを脱がされた者、数人。金多摩を蹴られた者、数十人。

 席に戻ると、かおり母娘は、棒を登っている男生徒のズボンやパンツが脱がされているのがはっきり見えたといって、腹を抱えて笑っていた。

 掉尾(ちょうび)を飾るのは3年女生徒全員による校章の人文字である。中年の体育女教師の合図で女生徒300人ずつ東西のゲートから行進曲に乗ってグランドに入場してきた。100人ほどの女生徒の服装は白の体操服に紺のブルマ、500人は紺のセーラー服に紺のブルマ。体育教師はこのゲームを指揮するベテランで、口に笛、手に旗を持って指揮している。あらかじめ地面に石灰で図柄を書いているのだが、元々素人が描いた下手な図柄の上、今までのゲームで白線が消えたりしているので女教師の指揮が重要になってくる。女教師は一所懸命に笛を吹き、旗を操って正常な校章に導こうとしている。
 10分ぐらいたって、女教師がピーと長い笛の音を響かすと、行進曲がピタッと止み、女生徒の行進が止まる。次のピーという笛の音で女生徒は一斉に地面に座る。そこには紫に似たてた紺の金斗雲の中に白で「中」の字が鮮やかに浮き上がって描かれている。紫色の雲の中。中学校の名がばれそうだ。
 聡はかおりの母を誘って校舎3階の窓から見ていたが、見事なものであった。
 すぐに上空でぐるぐる回って待機していたセスナ機がぐーんと降下してきて空中写真を撮っていた。この写真は卒業生に贈られるものだった。
 
 聡やかおりの中学最後の運動会は幕を閉じた。

[言い寄られるかおり]

 ある日、勉強会でかおりは聡に言いにくそうに相談した。

 「あのー、伊吹さんに相談したいことがあるんですけどー」
 「うん、なーに?」
 「あのー、最近、学校終わって伊吹さんちに向かう時に、あのー、待ち伏せされたり言い寄られたりされ始めたんです」
 「え!!、誰から?」
 「あのー、高校生から・・・」
 「そうなの。私が前面に立ってかおりを守っていたんだけど、そいつら私を突き飛ばしてかおりに言い寄るから、私の力ではどうしようもないの」
渡辺さんが言った。

 そういえば、中学校でも最近、かおりの様子をうかがいに教室の近くをウロウロする奴も見かけるようになった。
 多分、聡とかおりが廊下デートをやめて勉強会を始めたため、聡とかおりは別れたと誤解したためと思われる。
 その噂を聞いた高校生が言い寄って来始めたのだろう。

 「うーん。そうか。相変わらず橘さんはもてまくっているんだなー。前にもこういう事はあったんだろー?」
 「ええ、その時はラブレターを渡されるだけだったので、読まずに中学校の焼却炉に放り込んで終わっていたんだけど、今度は強引でしつこいんです・・・」
 「分かった!。学校でも妙な奴がちらほらしだしだしたし、学校の廊下デートを復活して、帰りは僕も橘さん達と一緒に帰ろう」
 「お願いします」

 翌日からさっそく廊下デートを復活した。クラスの連中は、廊下デートが勉強会に移行したのを薄々知っていたので何も言わなかったが、まだかおりを諦め切れてないのか川内だけが二人を睨みつけていた。
 ときどき美香子も参加したが、まあまあ来るは来るは、自称美男子の連中が。美香子はあきれ果てていた。連中は最初、二人を見てギョッとするが、恥ずかしそうに帰る奴と睨みつけて帰る奴がいて、面白かった。廊下デートを一週間続けたら、もう来なくなった。
 問題は学校が終わって勉強会のため聡の家に向かうときであった。たった10分の道のりであったが、何日かで合計5人の高校生がかおりを待ち伏せていた。工業校生3人、商業校生2人であった。
 聡が下校に加わったのを見て、3人の高校生は来なくなった。2人の工業校生がしつこく迫ってきた。
 1人目のときは、聡がかおりを背中にかばい、
 「なんの用ですか?」
と聞くと、
 「うるさい!お前に用はない!!橘さんに用があるんだ、どけ!!」
と聡の胸ぐらを掴んできたので、聡はその手首を掴んで逆手にひねりあげ、手首を直角にひねると、うずくまって
 「うわー!いたーい、はなせー!!」
と叫ぶので
 「橘さんは嫌がっていますので、もう橘さんに近寄らないで下さい」
と言うと
 「分かったから手を離してくれー」
と言うので手を離したら走って逃げていった。
 別の日にもう1人の工業校生がしつこくかおりに言い寄ろうとしたので、聡がかおりをかばうと、いきなり聡に殴りかかってきた。聡はしょうがなく、腫れ上がらない程度に金多摩を足の甲でごく優しくなで上げてやった。高校生は両手で金多摩を覆い、よたよたと逃げていった。
 「しかし、美少女に生まれるというのは大変なことだなー!?」
 「こんな顔で生まれて、得した事なんて一度もなかったわ!」
 「そこが橘さんの一番素敵なところなんだなー」
 「どぉーお、惚れ直した?いひひひ・・・」
 美香子がまたからかう。
  その後、もう高校生の姿を見ることはなかった。

[I八幡宮秋期例大祭]

 10月の半ばにI八幡宮で秋のお祭りが開かれた。I八幡宮はT市全体の守り神で、祭りも全市の祭りとして大々的に開かれる。
 秋の例大祭は、戦前には「神嘗祭(かんなめさい)」と言われたが、戦後「例大祭」と呼ばれるようになった。「神嘗祭」は伊勢神宮に、その年に収穫した米の初穂を奉納する儀式で、各地の神社でも行われていた。もともとは旧暦の9月17日に行われていたが、明治5(1872)年に新暦の9月17日に実施されたが、9月17日では米の生長が不十分だったため、明治12(1879)年に10月17日に変更された。I八幡宮の例大祭は戦前までは10月17日に固定されていたが、戦後からは10月の第3日曜日に固定されるようになった。
 「神嘗祭」と名前が似ている「新嘗祭(にいなめさい)」は、宮中で天皇陛下が神々と一緒に初穂を召し上がるという祭りで、今でも行われているが、その内容は秘密である。「新嘗祭」は11月23日に行われていたが、戦後、「勤労感謝の日」と名前を変えている。
 これらでも分かる通り、日本の伝統的な政治、経済、文化は「米」が中心であった。

[御輿(みこし)]

 八幡宮の例大祭は、10月中旬の金土日の3日間行われるが、特異なものは暴れ御輿である。普通、御輿はきんぴかに作られ、非常に重いのが通例である。ところがI八幡宮例大祭の御輿は、分かりやすく言えばバラックづくりなのである。座布団を2枚重ねたような屋根に4本の細い柱があり、担ぎ棒も細くて長い棒が4本。それを10人前後の大人の担ぎ手が担ぐ。何故10人前後の大人が担ぐかというと、4本の柱の内、対角線の2本の柱に12才の祭り衣装を着た年男の子供をくくりつけ、真ん中に置いた太鼓を2人で「ドンデコドン」と叩かせるのである。「ドンデコドン」のリズムは早くなったり遅くなったり自由自在に叩かせる。そのうち興に乗れば、御輿を横にしたり、縦に立てたり、ひっくり返したりするが、太鼓はその時にも「ドンデコドン」と叩かれているのである。こんな御輿は日本全国の祭りでも珍しいものではなかろうか。
 この御輿は氏子が許可を得て作り、10数基の御輿が氏子だけで市内を練り歩き、主に商売人やお金持ちの家の前でパフォーマンスを繰り広げ、ご神前を貰い、一部を八幡宮に収め残りを来年の祭りのために残すのである。

[神楽(かぐら)]

 全国的にそうなのかどうか分からないが、I八幡宮の神楽は2種類ある。昼に催される本殿での神楽と夜に野外で催される神楽である。昼の神楽は巫女さんや稚児が初穂を持って厳粛に踊り、伴奏は雅楽である。雅楽の奏者は笙とひちりきは神官が演奏し、竜笛や火焔太鼓、鉦鼓、琴などは氏子が演奏していた。
 夜の神楽は丸太で作った低い舞台で行われた。昼とがらっと変わって、出演するのは「おかめ」と「ひょっとこ」と「天狗」であった。伴奏の音楽も篠笛と締太鼓、鉦でピーヒャラドンドンという祭囃子であった。どんな踊りをやるかといえば、ヒョットコと天狗がおかめを取り合うというもので、天狗とひょとこがおかめと踊る時、天狗は長い鼻をおかめの股の間に差し込んだり、ひょっとこはおかめに後ろから抱きついて腰を前後に振り、犬がさかっているような動作をしていた。聡は後でスケベな友人に、あれは四十八手の踊りだと教えてもらった。
 要するに、神さんが寝ている間にスケベな踊りを奉納して、庶民の子づくりの願いを表した踊りなのである。

[露店]

 日曜日の本祭りの昼前に、聡はかおりと美香子と3人でお神楽見物と露店巡りを楽しんだ。かおりと美香子は浴衣を着て、制服を着ているときとは全く違う、大人の女性の魅力を発散させていた。聡は浴衣を持っていなく、さえない私服を着ていたので、一緒に歩くのに気後れした。
 お神楽は巫女さんが稲穂と鈴を持って厳粛に踊っていたが、聡は、同じ振り付けばかりで面白くなかったが、雅楽は面白かった。笙の「シャーーン」という、西洋音楽では聞いたこともない和音にのって、ほっぺたを精一杯ふくらませて吹いているひちりきと爽やかな音色の竜笛が奏でる旋律が面白く、太鼓や鉦も西洋音楽とはまったく違ったリズムで聡は夢中になって聞き入っていた。かおりや美香子はあまり面白くないらしく、早く露店巡りをしようよとさとしをせかしていたが、さとしが雅楽を堪能しているのを見て、ほっぺたをぷっとふくらましていた。
 そうこうしている内にお神楽が終わり、露店をひやかしながら歩いた。かおりと美香子は、昼から家族と露天巡りをするらしく、あっさり露天を見て回って、家族と露天巡りしたときに買うものを下調べしているようであった。
 御旅所(おたびしょ・神社の御輿が休む場所)の広場にお化け屋敷とオートバイ、見せ物小屋がかかっていた。聡達は小学校時代にこれらの小屋に入っていて、中身のインチキさは分かっていたので入らなかったが、見せ物小屋の客寄せ口上が面白いので、しばらく見せ物小屋の前で口上を聞いた。
 「姉は淫売、妹は芸者。末のチョロ松ばくち打ち、兄は火葬場で骨拾い、オイラ上野でモク拾い。こんな一家に誰がした」「親の因果が子に報い、世にも哀れな姿になりはてた、ミヨちゃんやミヨちゃんや、お客に挨拶しな」と外幕を少し開けると、「あーーいー」と蛇娘が返事してその姿がちらりと見える。口上では蛇娘は生きた蛇を口でばりばりと皮をむき、むしゃむしゃと食べることになっているのだが、中に入って見てみると、ただ半裸の女の人が青大将を首に巻いて座っているだけだった。
 また、大道香具師の口上も面白い。バナナのたたき売り、陶磁器のたたき売りとか、インチキ品のがまの油売り、レントゲン筒、早稲田式速記などである。レントゲン筒とは、この筒で手を見ると骨が見えるという代物で、聡も一度買って分解してみると、接眼部分に鳥の羽をを通して見る仕掛けになっており、何を見ても周りがぼんやり見え、中心部分が暗く見えるので手の骨のように見えるインチキ品であった。
 御旅所広場に丁度、早稲田式速記の大道香具師が人を集めて速成速記法の本を売りつけていた。若い男が早稲田の座布団帽子をかむり、学生服で身を固めたテンプラ学生(衣だけ立派)であった。集まった客に早稲田大学の学生証を示し(小さくて客には確認できない)、能書きを述べて、そのうち最前列にウンコ座りしている小学高学年の坊やを手招きし、特別に小学生に商品の速成速記法の本を見せ、速記のミミズが這い回った字を日本語に解読させていた。この小学生は、現地で調達したのか連れてきたのか分からないが、正真正銘のサクラであった。なぜサクラあると分かったかというと、聡が小学生の頃、日と場所が違う時に何回もこの早稲田式速記を見たのだが、客の中から手招きして呼び寄せる小学生は、いつも同人物であったからである。
 そんなこんなして昼飯に長机と長椅子のある大きめの露店に入り、焼きそばとおでんを食べた。食べながら聡は祭りの最後の日だから夜にまた露天巡りしないかと2人を誘った。すると美香子が
 「ごめん、他の人と約束があるから」
と断ってきた。するとかおりが
 「ねーー美香子!?」
とにやにやしながら美香子に言った。美香子は
 「2人で仲良く行きな!!」
と照れながら言った。
 あれ、なんか変だなとそのとき聡は思った。

 夕方6時にかおりは聡の家に行き、聡と2人で夜店巡りに行った。この時代、中学生カップルが仲良く道を歩くのは御法度であった。学則で禁止されている訳ではなかったが、通常一般の空気がそれを許していなかった。大人からは変な目で見られ、年上の学生や若い衆から因縁をつけられた。ただし、正月や祭、市(いち)は例外であった。T市も昔から一六ディという市があり、一と六の付く日、例えば一、六、十一、十六日などに特定の場所で市が開かれていた。
 この正月の初詣、祭、市には若いカップルも堂々と行くことが出来た。聡も通常はかおりと2人で行動するのはできなく、美香子を加えて3人で行動していたが、それでも因縁をつけられることがあった。
 かおりは浴衣ではなく、よそ行きのワンピースを着ていた。凄く似合って綺麗だった。買い物に来ていたわけを知っていた近所のおばさんが
 「かおりちゃん、相変わらず綺麗ね!!」
と声を掛け、かおりは
 「ありがとうございます」
と返していた。

 家を離れると聡はすぐかおりの手を握った。かおりはえっという顔をしたが、すぐにうれしそうに手を握り返してきた。手を繋いだまま2人は祭りの通りまで歩いていった。

[祭の後の勉強会]

 祭が終わった次の日の勉強会。聡はかおりと美香子を色々問いつめるべく手ぐすね引いて二人の到着を待った。
 二人は何か面白い話をしているのかケラケラ笑いながら部屋に入ってきた。
 「何か面白いことあったの?」
と聞くと、
 「うん、この前の祭の見せ物小屋やたたき売りの口上が面白くて、それを話してたの」
と、かおり。
 「そうなのよねー、毎年同じ口上だけど、何回聞いても面白いわ」
と、美香子。
 さっそく聡は
 「口上よりも面白そうなことが、橘さんと渡辺さんにあるようだったなー!?」
 「え!どんなこと?」
 「隠すな隠すな!!なんか言いかけて、慌てて止めた話があっただろう?何の話だったんだ??」
 「そんなこと、あったっけ?」
 二人ともニヤッと笑い、美香子の顔が赤くなり始めた。
 「ホラホラッ、観念して全ての罪を自白しろ!!」
 「何よ!『罪を自白』って。私たち、何も悪いことしてないわよ!!」
 「まあまあ、かおり。いずれ伊吹さんにもばれることだから、私から話すわ」
と、美香子は座り直して話し出した。

 「私ね、近所に幼稚園の頃から仲が良かった二つ年上の男の子がいたの。小学校から中学1年まで、本当に仲が良くていつも一緒に遊んでいたの。だから小学校低学年の頃なんか『大きくなったらお兄ちゃんと結婚するから!』なんて恥ずかしげもなく言っていたの。まわりの大人の人も『まあまあ、仲の良いこと。二人ともお似合いよ』なんてからかわれていたの。ところが、私の成績が中学2年からどんどん下がり始め、反対にお兄ちゃんは最難関校T高校に合格して、部活は野球部という、私から見れば目のくらむようなピカピカの道を歩み始めたんだ。それで私は段々お兄ちゃんに会うのが恥ずかしくなり、二学期からは全然会わなくなっちゃったの。後からお兄ちゃんが話してくれたんだけど、その頃から私はすごく暗い感じになり、三学期に不良の家に遊びに行ったという噂を聞き、すごく心配したらしいの。ところが、三年になり、前のように明るく活発な女の子になり、安心したそうなの。それで、お兄ちゃんから話しかけられ、私は不良の家に行ったことや3人の勉強会のこと、成績が急激に上がったことなどお兄ちゃんに話したの。するとお兄ちゃんは『それじゃー来年、同じ高校になるんだなー!』とすごく喜んでくれ、『来年、楽しみだな!?』って言ってくれたの。それからは忙しい部活の間にちょくちょく会うようになり、こないだの祭に初デートしたの」
と顔を真っ赤にして嬉しそうに話した。

 「うわーーよかったよかった!!渡辺さん、顔が綺麗だしきっぷが良くて世話好きなのに、なんでもてないのか,いつも不思議に思ってたんだ。
 渡辺さん!ずっとお兄ちゃんが好きだったんだろ!!」
 「そうなのよ!私も美香子のことが心配で、美香子の相談にのって何とかして美香子に恩返ししたかったんだけど、どうしようもなかったの」
 「今回のことは、伊吹さんとかおりのおかげだと感謝しています。私を勉強会に誘ってもらって、成績がぐーーんと上がって、その結果、本来の私を取り戻すことが出来たの。成績が上がったから本来の自分になったのではなく、自分自身で努力することが、結果として本来の自分を取り戻せたと思うの。お兄ちゃんも成績が上がったなど目もくれず、『前の美香子に戻った。良かった良かった』と言ってくれたの。だけど、そのきっかけを作ってくれた伊吹さんとかおりには一生恩に着ます」
 「いやいや、僕こそ僕の尻を叩いてかおりさんとの仲をプッシュしてくれて、一生恩に着るよ!」
 「私もよ、美香子!!」
 
 この後、勉強そっちのけにして、昔といっても半年前からの3人の付き合いの思い出を話し合った。

[天体観測]

 10月下旬の土曜日夜に、久しぶりに天体観測をやろうと思い、かおりと美香子を誘った。かおりと美香子は目を輝かせて
 「わあーーいくいく。何を見るの?」
 「うん。月と木星、土星、アンドロメダ大星雲だよ」
 「わあーー素敵。絶対行くから!!」

 聡は小学5年の時、叔母(母の妹)の子(従兄)がいて、その従兄、山口努は聡の次兄と同じ年齢で、反射望遠鏡を持っていることが分かった。聡はその頃から天体に興味を持ち始めていたので、反射望遠鏡を貸してほしいと頼みに行った。努さんは快く貸してくれ、組み立て方、操作の仕方を教えてくれた。

 山口家は聡の家に近く、聡は良く出入りしていた。親父さんの職業ははっきり分からず、経済的に浮き沈みが激しく、景気が良いときには羽振りの良い生活だった。だから、かなり早くにテレビや電蓄、出始めのソニーのテープレコーダーを持っていた。努さんの上に、聡の長兄に歳が近い兄がいて下に聡より1、2歳上の妹がいた。
 反射望遠鏡は努さんが友達と一緒に設計し、筒は板金屋、三脚は指物屋に制作を依頼し、心臓部の8吋(20僉鳳面鏡は完成品を買って天体観測をやったらしい。この反射望遠鏡はオーソドックスなニュートン式反射望遠鏡で凹面鏡で反射させた光をプリズムで横に引き出す方式で、部品が少なくすみ、扱いも簡単で、初心者向きの望遠鏡であった。欠点は、目標の星を捕らえにくいことだったが、筒に小さなガリレオ式屈折望遠鏡を取り付け、それで星を捕捉するようにしていた。
 天体観測は空気が澄み、安定する冬季が良いのだが、なにしろ寒いので、聡は秋の夜に観測していた。

 天体観測の夜、例によって近所の遊び友達3人とかおり、美香子が参加した。
 手始めに月を観測した。望遠鏡の倍率が200倍だから望遠鏡の視野に月が収まりきらず、3分の2ぐらいが見えた。まあ、思いっきりアバタ面の月であった。かおりや美香子は最初、
 「ウサギさん、見えるかなー」
などと冗談を言っていたが、アバタ面を見て
 「ぎゃーー、夢もチボウも無くなった。責任とれーー!!」
と喚いた。
 「まあまあ、今度は土星を見るから機嫌を直して・・・・」
と、土星に望遠鏡を向けた。
 彼女たちは
 「わーー、輪が見える!綺麗だし、素敵--!!」
と機嫌を直した。
 その後、木星を見て、縞模様に感嘆していた。
 最後にアンドロメダ大星雲を見て
 「すごーーい!渦状がはっきり見える!!」
 「何か、すごい神秘的ね!感激!!」
 「僕らが住む地球が属している銀河星雲も、このアンドロメダ星雲のように渦状の星雲なんだよ」
 「銀河星雲って、あの天の川のこと?」
 「そうだよ。銀河星雲の中に地球があるから、天の川のように見えるんだ。地球を離れ、銀河を離れて見れば、銀河星雲もアンドロメダ大星雲のように渦状星雲に見えるんだ」
 「伊吹さん、良く知っているのね!?」
 「うん。俺、宇宙にすごく興味があって、将来、ピアニストになるか宇宙物理学者になるか迷ってるんだ」
 「かおり!こんな大事なこと、伊吹君から聞いたことあるの??」
 「いや、初めて聞いたわ・・・・」
 「これこれ伊吹君、そんな大事なこと、かおりと相談しなきゃ駄目でしょう。かおりのことも考えてあげて!!」
と、聡は美香子に叱られてしまった。

 愉快な天体観測が終わった。

[2学期中間テスト]

 10月下旬に2学期中間テストがあり、次の週の土曜日にPTAがあった。
 3人とも30番代をキープした。
 3人とも担任の先生から
 「よし、3人とも(1人づつ言われたが)T高校合格は、よっぽどのことがない限り間違いないな」
と言われた。
 PTAでは、それぞれの母親に
 「T高校には間違いなく合格しますが、気のゆるみ、病気には十分注意してください」
と言われ、母親達はすごく喜んでいた。
 そして、12月下旬の期末試験の結果で志望校を決定することを告げられた。

 勉強会の時、聡は2人に
 「気を緩めたら駄目といわれたけど、気を引き締めるには20番代や10番代、あるいは1桁代を狙えば気が引き締まると思うけど、皆さんどうします?」
 「伊吹さんはどうしたいですか?」
 「うーーん。僕はあまりガツガツしたガリ勉をしたくないなあ」
 「私もしたくない。今までのペースでいいんじゃないの」
 「私も」 
 「うん、分かった。今までのペースを落とすことなく、のんびりやりますか。
 この勉強方法を教えているクラスメートも成績が上がってきたし、あまりあせってガツガツしない方がいいね」
 「そうよね、それにしてもまさか私たち2人がこんな会話が出来るなんて、夢にも思ってなかった。伊吹さん、本当にありがとうございました」
 「もうそれは言わないことになってるだろう?それよりも、橘さんと渡辺さんが教えているクラスメートの女性徒4人と、僕が教えている男生徒2人が中間テストでいきなりT高校合格圏に入ってしまったのにはびっくりしたな。まあ、6人とも合格圏すれすれだったから当然かもしれない」
 「そうよね、私たちもびっくりしたわ。本当に良かった」
 
  2学期から聡達3人の成績が 急上昇した噂を聞いて、6人のクラスメートが3人に勉強の仕方を教えてほしいと頼まれ、2学期から主に昼休みに教えていた。
 わずか10分か15分くらいだったのだが、彼らももともと頭が良かったようで、すぐに勉強法をマスターしていった。
 そして、、試験前には聡の部屋に合流して一緒に勉強していた。

[ベリカード]

 11月に入っての勉強会。
 休憩のとき、聡は2人から質問された。
 「ねえねえ、伊吹さんの多趣味は分かったけど、一つだけ分からないのがあるの。ねー美香子?」
 「うん、伊吹さんの『ベリカード収集』の『ベリカード』って何?放送局の受信証明書って聞いたけど、何のことかさっぱり分からないの」
 「あっそうか。だけど詳しく説明しても分からないかもしれないよ?」
 「いいの!伊吹さんの全てをかおりは知りたがっているんだから!かおりの気持ちも察してあげて!」
 「分かった分かった」
 聡はドギマギしながら説明した。
 「ベリカードは文字通り受信証明書で、どういうことかと言えば、ある放送局に何月何日何時にこういう番組を受信しました。感度、明瞭度、フェージング、混信度、その他諸々はこうでしたと放送局に報告するんだ。すると放送局から綺麗な写真や絵を印刷したハガキが送られてくるんだ」
 「放送局ってNHKや民放?」
 「うん、そうだよ」
 「だけど、普段聞いているNHKT放送局やN日本放送、Y放送など何の支障もなく聞こえるんだけど?」
 「いやいや、T市の近郊にある放送局でなく、遠い地方にある放送局なんだ」
 「だって、遠い放送局なんて聞こえないでしょ?」
 「ところが聞こえるんだな、これが」
 「へえー、私の家のラジオでも聞こえるの?」
 「みんなのラジオは普通のラジオで感度が悪いと思うけど、夜には注意深く聞いてると遠くの放送局も聞こえると思うよ」
 「へえー、伊吹さんのラジオは私達のラジオとは違うの?」
 「うん。去年、高一中二の通信型ラジオを作って、それで聞いているんだ」
 「高一中二って何?」
 「高周波増幅一段、中間周波増幅二段という意味で、ラジオの専門用語なんだよ」
 「ますます分からなくなってきた・・・」
 「簡単に言うと、普通の家庭用ラジオは高周波増幅はなく、中間周波増幅は一段しかないので、感度が悪く、感度や混信度、分離度が悪いんだ。だけど、夜になれば出力の大きい放送局は遠い地方の局でも聞こえるんだ。例えば北京放送やモスクワ放送は昼でもきこえるだろう?」
 「ああ、その二局は私のラジオでも聞こえるわ」
 「だけど、夜によく聞こえるというのは何故なの?まわりが静かになるから?」
 「違う違う。また専門的になるけど、できるだけ分かりやすく説明するよ」
 「なんか凄いことになってきたなー」
 「放送局のアンテナから出た電波がどういう風に遠くに伝わりかというと、地球の周りに太陽光線で電離した電離層Fがあって、電波はそのF層に反射して地上に戻り、地上で反射して電離層に行きを繰り返して遠くに届くんだ。ただ、反射するとき電波の力はかなり減衰するんだ。一方電離層は昼間は太陽光線が強いので地上近くに降りてきて、電波は遠くに行くまで数多く反射して電波が弱くなってしまい、あまり遠くにまで届かないんだ」
 「ふーん、難しいけど何となく分かるわ。じゃー夜はどうなの?」
 「夜は太陽光線が弱いので、F層は地上から高く離れてしまうから、電波の反射の回数が減り、あまり弱くならないので昼間より遠くに届くんだ。このことを図にして見るとこうなんだ」
 聡はノートに曲面の地上を書き、端の方にアンテナ、昼のF層と夜のF層を書き、電波の反射の仕方を説明した。
 「なるほど、絵で描いてもらえばよく分かるわ。なるほど、同じとこ電波が行くのに昼間は3回反射するのに夜は1回しか反射しないのね」
 「いやー、この図はたとえで書いたもので、実際は何回反射したのかは分からないが、夜は昼より少ないのは分かっているんだ」
 「へー、ラジオの世界も面白いことがあるのねー。ところで伊吹さんはどんな放送局のベリカードを集めてるの?」
 「なるべく遠くの放送局のカードを集めてるよ。少し見せるからちょっと待ってて」
 聡は自分の机の引き出しからカードを数枚選んで持ってきた。
 「これは北海道放送、HBCのカードで、札幌のテレビ塔から大通公園を撮ったカードだ。これはラジオ新潟のトキを撮ったカードだ。これは熊本放送の阿蘇山を撮ったカードだ。これは北京放送の天安前広場と故宮を撮ったカードで、これはモスクワ放送の赤の広場とクレムリン宮殿を撮ったカードだ」
 「うわぁー、札幌の大通公園、すごく綺麗でスケールがでかいわねー。大通公園は町のど真ん中にあるんでしょ。すごいわね」
 「うん。地方の放送局はその地方の名所旧跡のカードで、見ていても楽しいよ」
 「本当にそうね、ところで伊吹さんは中国語やロシア語が分かるの?」
 「いやいや、このカードはそれぞれの日本語放送を受信して日本語で報告したんだよ」
 「なんだ、そうなの。そういえば北京放送もモスクワ放送も『こちらは何々放送です』と日本語で言ってたわ」
 「普通の放送波ではこれくらいしか受信できないけど、短波放送では世界中の放送局を受信できるんだよ。僕もちょいちょい短波放送で英国のBBCや米国のVOA日本語放送を聞いているんだ。VOAは米国のヒット曲をいち早く放送するので、アメリカンポップスの通になれるよ」
 「わあーいいなあー、私アメリカンポップス大好き!」
 「ポップスで面白いことがあるんだ。何かというと、米国でヒットしたポップスを日本でいち早く聞けるのがVOAなのだが、次に早いのが日本各地にある極東米軍向けのFEN(ファー・イースト・ネットワーク)、次がラジオ神戸(現在はラジオ関西)、後は東京の民放なんだ。FENは英語放送なので、日本の放送局ならラジオ神戸が日本で一番アメリカンポップス情報が早いんだ。家庭のラジオでも夜には受信できるよ」
 「うん、試してみる」とポップス好きのかおり。
 「私はポップスより歌謡曲が好きだからパス」
と美香子。

 話しに夢中になり、休憩時の飲み物を忘れていた聡は
 「飲み物を持ってくるの忘れていた。そうそう、T市でもコカコーラが入荷して、僕の家でも売るようになったんだ。コカコーラを持ってくるよ」
 「ええー、コカコーラが飲めるんだ!!」
 「ちょっと待っててね」
 
 聡は店からコーラ3本とコップ3個を持って2階に上がった。
 「おまちどうさま。これがコーラだよ」
 「うわぁー、これが噂のコカコーラかー!!」
 「このビンの形は、女性のボディーラインを模したそうね?」
 「さあ、どんな味か飲んでみよう」

 ゴクゴッ・・・・

 三人が一斉に
 「うわー、ぺっぺっぺっぺ、何だー、この味は!!」
 「薬くさい!」
 「漢方薬みたい!」

 コカコーラは戦前から米国で製造され、世界に拡がったのだが、初期のコカコーラは南米のコカの葉のエキスを入れていたが、強力な麻薬のコカインを連想し、「コカコーラはコカインが入っている」というデマを商売敵のペプシコーラからばら撒かれ、やむなくコカのエキスを入れるのを止め、代替の植物エキス(秘密)を入れているそうである。

 「もったいないから我慢して全部飲もう。最初に飲んだ世界中の人は、僕らと同じ反応をしたそうだけど、慣れたらコカコーラの味にはまってしまい、コカコーラ中毒になったように飲みまくってるそうだ。だから未だにコカコーラは麻薬が入っている、という悪口が流れているんだ」
 「へぇーそうなの。だけどわたしはこの味は苦手だなー」
 「私も」
 三人ともコカコーラの第一印象は最悪だったが、後に三人ともコカコーラにはまってしまった。
 おかげでそれまであった三ツ矢サイダーを始めとする炭酸飲料会社は大打撃を受けることになった。

 「そうそう、来週の土曜日の昼から、学校で僕が作った『ラジオ同好会』というサークル有志が橘さんの隣のアマチュア無線家、松本さんの家に行って無線機器の見学やアマチュア無線の話しを聞くことになったんだが、一緒に行かないか?」
 「私はまったく興味無いからパス!」
と美香子。
 「私、小さい頃から松本さんちによく遊びに行ってたの。私より3つ年上の麻子お姉さんがいて、一緒によく遊んでたの。だけど私が小学6年生の頃からお姉さんは高校受験で、遊ばなくなってしまったの。お父さんやお母さんにも可愛がってもらったの。なつかしいなー。うん、私行くよ」

 「それはそうと、伊吹さんとかおりは音楽が得意だから問題ないと思うけど、私今、音楽の授業で和音や音楽形式をやっているんだけど、さっぱり分からないの。音楽史は何とかなるので、和音や音楽形式を教えてもらったら嬉しいんだけど・・・」
 「ああ、いいよ。試験の前に徹底的に教えてあげるよ。ねえ橘さん」
 「いやいや、私も教えてほしいな」

[アマチュア無線家訪問]

 アマチュア無線家訪問のため、聡は土曜日の午後、「ラジオ同好会」が使っている教室に行った。
 この「ラジオ同好会」は、聡が中学3年生になったこの春、理科担当の釜谷先生がラジオや無線のことに非常に詳しいことが分かり、昨年から仲良くなった聡の家の裏に住んでいた同年の中川と1年下の三岸、土田に呼びかけて、ラジオや無線を先生に教えてもらうために作ったサークルであった。
 中川の家は測量と代書屋で、三岸の家は診療所で父親が当時珍しかった自家用車に乗って訪問医療をやっていた。土田の家は何をやっているのか分からなかったが、土田自身頭がよく、上品だったので、恐らく親父さんは大きな会社の幹部だったのだろう。

 同好会には25人ぐらい集まっていた。最初は初歩のオームの法則から始まったが、すぐLC回路の勉強になり、LのインダクタンスH(ヘンリー)とCのキャパシティーF(ファラッド)を使った共振周波数の計算、2極真空管による整流(交流を直流にする)の回路と原理、検波の回路と原理、3極真空管による低周波増幅の回路と原理、真空管表を使った増幅率の計算、発信の回路と原理、5極管を使った低周波増幅の回路と原理、そして最近終わった7極管を使った周波数混合の回路と原理を教わった。
 5極管付近からかなり難しくなったが、先生は
 「めげないように。こういう事例があるんだという程度に憶えておいてほしい」
というので、聡やその他同好会の生徒は気楽に勉強会に参加していた。

 10月下旬の二学期中間試験の前に、主力の3年生が高校受験を控えているので、同好会の勉強会を止め、来春から活動を始めることになった。そして最後の活動として聡の発案で、学校に近い、かおりの隣のアマチュア無線家松本さんの無線装置を見学することになった。

 中川たち3人とは前から知っていたが、何となく聡たちグループとは疎遠で、そうかといってケンカすることはなく、学校で会えば挨拶する程度であった。
 それが昨年の夏、中川の母が店に買い物の来て例のごとく聡の母とぺちゃぺちゃおしゃべりをしていて、話しが聡の趣味のことになり、
 「聡はラジオ作りに夢中になっているよ」
という母の話に中川の母が
 「ウチの息子もこないだラジオを隣の子二人と一緒に作ったんだけど、それがウンともスンとも言わないの。3人とも困り果てているんで、息子さんに見てもらえないかなあ」
という話しになった。
 聡はこころよく引き受け、中川の家に行った。3人が集まっていた。
 ラジオは普通の並3であった。さっそく電源スイッチを入れ、しばらく聞いていたが、なるほどラジオはウンともスンとも言わない。カソードを見ると赤々とともっている。
 検波管の第一グリッドをドライバーでちょんちょんやっても、音無し。それではと低周波増幅管の第一グリッドをちょんちょんやっても音無し。整流回路を点検しても異常なし。
 ははーんと思い、両方の第一グリッドと第二グリッドの配線を確かめると、これが何と逆に配線している。これではラジオはウンともスンとも言わないのは当たり前である。
 配線をなおして電源スイッチを入れると、無事ラジオは鳴り出した。
 三人とも
 「うわーやったー。伊吹さん、ジュース飲みねー。菓子食いねー!!」
と大喜びしていた。
 聡は
 「間違いは第一グリッドと第二グリッドの配線だけで、後は全て正しかったよ。
 こういうことはラジオ作りではよくあることで、何て言うか作る人の思い込みで、間違った配線を正しいと思い込んでしまうんだ。だから、後で本人が配線をチェックしても間違いを発見できないんだ」
 「そんなときはどうすればいいの?」
 「ラジオ作りに直接携わってない、例えば僕のような人にチェックしてもらえばいいんだ。
例えばみんなみたいに3人で作るのであれば、1人はタッチしないで、何か問題があればその人にチェックしてもらえばいいよ」
 「なるほどなー。ところで伊吹君は今、何か作ってるの?」
 「ああ、丁度今、高一中二の通信型受信機を作っているよ」
 「うわあー、丁度夏休みだから僕ら見学させてくれないかな?」
 「どうぞどうぞ」
 こういった次第で三人と付き合いが始まったのである。

 教室に行くと同好会員15人ほどが集まっていた。
 先生と一緒に歩いて15分の松本宅に向かった。

 松本宅に到着すると、中川の様子が少しおかしかった。盛んにかおりが住んでいるアパートを見上げ、一人で盛り上がっていた。
 聡は、あらかじめかおりと打ち合わせ通り、松本宅に到着してすぐ、アパートにかおりを迎えに行った。
 かおりが少しぐずぐずしたので、二人が松本宅の玄関に行ったときには全員松本宅に上がっていた。
 二人は慌てて家に上がり、居間に行くと皆、居間に座る所だった。皆、びっくりしてかおりを見た。
 松本さんがかおりを見て
 「やあー、かおりちゃんじゃないか。久しぶり。ちょっと見ない内にますます綺麗になったね。
 かおりちゃんもラジオ同好会に入っていたの?」
とかおりに聞いた。かおりは
 「いや、入ってません。隣に座っている同級生の伊吹さんに誘われて、松本の小父さんが懐かしくて来ました。
 麻子お姉さんはいらっしゃいますか?」
と返事した。
 松本さんは聡をじっと見て、かおりに目を移し
 「ああそう、ゆっくりしていってね。麻子はあいにく今日、何か友人と約束があっていないんだ」
と言った。

 松本さんは自分の無線室に皆を案内し、無線装置の説明を始めた。
 ここに来る前に釜谷先生から松本さんの説明を受けたが、松本さんは電電公社に勤めるプロの無線技術者でアマチュア無線技師の免許は無試験で、モールス信号の実技試験だけ受験して、第一級アマチュア無線技師の資格を持っていた。
 この当時のアマチュア無線家の無線装置は全て自作で、松本さんの受信機はダブルスーパー、送信機は807プッシュプルで出力100W(ワット)、それをリニアアンプで500Wに増幅して、庭に立てた2本の竹竿で作った長さ20mのダブレットアンテナで電波を発射していた。
 普通、アマチュア無線家はあまり金持ちはいず、無線装置(シャックと言う)は電波を送受信できればいいやと、無造作に横に並べたり、立てに積み上げて接続線がごちゃごちゃになっているのだが、松本さんのシャックは見事なものだった。まるで放送局の調整台のように無線機や測定器などがカーブを描いた机に整然と並び、機器は全て斜めに据え付け、接続線は全て機器の裏側に整然と配線され、表からは全然見えなかった。聡はさすがプロだなと感心した。

 一応、シャックの説明が終わり、無線交信の実際として、松本さんと先生があらかじめ打ち合わせして、先生の友人であるK県の東端にある町の中学校の先生である能見先生と交信することになった。あらかじめ決められた7mc帯で松本さんがA3(AM変調)で
 「CQCQ、JA×○○聞いてますか?聞こえてましたら返答をお願いします。スタンディングバイ」
と送信すると
 「ラージャー、松本さん、よく聞こえてますよ」
と返事が返ってきた。皆、「おー」とどよめいた。
 「能美さん、後ろに大勢の中学生が控えていて、少々あがりぎみなんですよ」
 「いやー、松本さんのシャックは素晴らしいので生徒さんもびっくりしているでしょう?
 僕のシャックなんて同じビックリでも、雑でそこらじゅう部品や配線がのたくっていて、びっくりするでしょうね」
などと、のんびり面白いラグチュー(交信)を楽しんでいた。

 能美先生との交信が終わり、居間に移って生徒からの質問と感想を述べることになった。
 色々質問と感想が述べられ、聡も質問した。
 「庭に立っているアンテナは20mのダブレットアンテナで14mc用のアンテナのようですが、7mcや21mcのときはどうするんですか?
 それと、まん中のハシゴフィーダーが断線したとき、どうやって修理するのですか?」
 「なかなかいい質問だね。14mc以外にでるときは、アナテナカップラーを調整して出るんだよ。少々能率が落ちるけど。
 ハシゴフィーダーが断線したときは、アンテナ線の両端に滑車を取り付けて長い紐でアンテナ線を結び、その紐を竹竿沿いに下に垂らして固定しているから、その紐をゆるめば、アンテナ線は地上まで降りてきて、フィーダーを簡単に修理できるんだよ」
 すると、今まで黙って聞いていたかおりが
 「えっ、あの2本の竹竿は物干竿ではないのですか?」
と質問した。
 松本さんはびっくりして
 「えっ、物干し竿?なんでそう思ったの?」
 「いや、あのー、前に伊吹さんに、隣の家に立っている2本の竹竿は何に使うの?ってたずねたら、伊吹さんは、『ああ、あれは物干し竿だよ。ああやって洗濯物を鯉登りの親子みたいに縦に繋いで干しているんだよ』って答えてくれました。変だなーって顔をしていたら伊吹さんは『ああやって干す習慣のある地方もあるらしいよ。ああやったほうが太陽の光や風が強く当たるので、乾くのが早いそうだ』と言ったので納得していたんですが・・・・」
 皆、どっと大笑いになった。聡は頭をボリボリかいて
 「橘さん、ごめん。アンテナと説明しても橘さんは理解できないと思い、でたらめの説明をしてしまった。本当にごめん!」
 松本さんは
 「その説明、もらっていいかい?面白い。仲間とのラグチューでその説明を紹介するよ。大受けするだろうな!今から楽しみだ」
 「わははははは」

 和気あいあいの内に帰る時間になった。
 帰り支度をしているとき、聡たちの隣に座っていた中川がかおりに
 「あのー橘さん、僕、昨年2年生のとき同級だった中川です」
と顔を赤くしながら言った。かおりは中川の顔をじっと見たが
 「中川さんごめん、私、男生徒の顔と名前はほとんど覚えてないの。ごめん」
と言った。
 中川は淋しそうな顔をしていた。

 皆立ち上がって松本さんに挨拶して玄関に向かった。
 かおりは一番最後に玄関で松本さんにお礼を言った。
 「今日は本当にありがとうございました。前みたいに、ちょいちょいお宅に伺ってよろしいでしょうか?」
 「ああ、ぜひどうぞ、浅子も喜ぶから」
 すこし声を落として
 「かおりちゃん、伊吹君はかおりちゃんの彼氏?」
 かおりは真っ赤になって
 「ええ、そうです」
 「いい子だねー。無線のことはよく分かっているし、頭が良さそうだし、なによりすごく面白い子だね。仲良く付き合ったらいいよ」
 「はい。今日は本当にありがとうございました」
と言ってかおりは外に出た。

[新築中の橘家]

 かおりが松本さんの玄関から外に出ると、聡と中川、三岸、土田が待っていた。
 「さあ、伊吹君、一緒に帰ろう」
と中川は言った。
 「いやあ、ちょっと橘さんと用事があるんだ」
と聡がいったとき、丁度かおりのお母さんがアパートの玄関から右手にお盆に茶碗とお菓子、左手に魔法瓶を持って出てきた。
 「ああ、貴方たち、丁度よかった。これを持って一緒に来て」
と言って、お盆をかおりに、魔法瓶を聡に渡した。
 「そういう訳だから、ここで失礼」
と言って、中川たちを置いて3人で新築中の家に向かった。
 残った3人は唖然とした顔で聡たち3人を見送った。

 かおりのアパートの裏に敷地の広い旧家があったのだが、誰も住む人がいなくなり、売りに出し、不動産会社が買い取ったのだが、家が大きすぎ、古いので壊してしまい、更地にしているところをかおりのお父さんが気が付き、即不動産会社から買い取り、家を新築することになった。
 敷地は200坪、建物は60坪で、お父さんの書斎やお母さんの本格的な茶室、お弟子さんに教える稽古用茶室、かおりのピアノを置いた部屋など、今までのアパートよりかなり広い家であった。
 7月に着工して、家の外観は出来上がり、今は内装と茶室、庭を作っていた。
 その職人さんにお茶を持って行くのだが、そのついでに聡に見てもらおうというかおりの魂胆だった。

 家に着くとその外観は立派に出来上がっており、和風の数寄屋造りの平屋であった。庭はかなり広く、3/4は明るい感じの和洋折衷の庭を庭師が作っていた。残りの1/4は本格的な茶庭で、中門や待合い、つくばいなどがある露地庭園を別の庭師が作っていた。聡は初めて見る茶庭をじっくり見学した。つくばいの所から茶室に入るにじり口も興味深く見た。心の中で「なんでこんな狭い入り口から入るのだろう?」と思った。
 かおりが
 「早く私の部屋を見て!?」
というので、かおりの部屋に行った。
 12畳くらいの広い部屋であった。まだ内装は終わって無く、ベッドや家具はまだ入ってなかったが、ピアノがデンと控えていた。ピアノは盗もうにも大変なので、早めに買ったそうである。
 かおりが
「ねえねえ、何か弾いて!?」
というので、新築を祝してショパンの幻想即興曲を弾いた。壁に吸音材を張り、壁の厚さも厚くしてあるので、ピアノやかおりの歌う声が外に漏れることや内にこもることはないそうだ。
 確かに、ピアノを弾いていても、心地よい残響は豊かだが余計なわずらわしい反射音は全然無かった。
 お母さんも来て聡の弾く幻想即興曲をうっとりしながら聴いていた。
 「聡君のピアノ、初めて聴くけど、素晴らしく上手ね。びっくりした。家が完成したらちょいちょいピアノを聴かせてね」
 と言った。
 聡は
 「お母さんにお願いがあるんですが、高校に行ったらお茶を教えてほしいんですが」
と言うと、
 「大歓迎よ。特別にかおりと2人だけで教えてあげるわ」
 「わっ嬉しい、伊吹さんと一緒にお茶を習える!!」
と、かおりは大喜びだった。

[「ワルソー(ワルシャワ)コンチェルト」と「パヴァーヌ」]

 11月中旬、週末に遠足を控えたある日の3人の勉強会。中間の休憩の時間に聡はピアノに向かって小品を弾いた。曲はアディンセル作曲の「ワルソーコンチェルト」(ピアノ・コンチェルト)。
 かおりがさっそく反応した。
 「なになに、その曲。初めて聞くけど、すごいロマンチックな曲だわ」
 「ああ、この曲は戦争映画『危険な月光』のために作曲された曲なんだよ。勇敢な飛行士で作曲家でもある主人公が劇中でピアノ演奏する曲なんだ」
 「へえー、映画音楽なんだ。なんかラフマニノフのピアノコンチェルトみたいにロマンチックね!?伊吹さんはなんでこの曲を知ったの?」
 「姉が買ったレコードの中にこれがあったのさ。『星空の下のコンチェルト』と銘打ったEP盤で、裏表にこの曲が入っているんだ。レナード・ペナリオのピアノでカーメン・ドラゴン指揮ハリウッド・ボール交響楽団の演奏だよ」
 「そのハリウッド・ボールってなんのこと?」
 「これはロスアンジェルスのハリウッド郊外にある野外演奏劇場の名前で、夏になると夜に演奏会を開くそうだ。3万人も収容できるんだって」
 「いいわねー。私も聴きに行きたいわー」
 「いつ行けることやら。この曲はどうだ?」

 聡はおもむろに次の曲を弾き始めた。途端にかおりは
 「えっ、なになにっ、その曲!!」
 「うん、フォーレの『パヴァーヌ』だよ。元は管弦楽曲だけど、フォーレ自身がピアノ曲に編曲しているんだ。ピアノよりやっぱり管弦楽の方が素晴らしいよ。そうだ、これらの曲は小品だから、勉強を止めてこれからレコードを聴かないか?渡辺さんもどう?」
 「うん、聴く聴く!!」
と、かおり。
 「私は遠慮するわ。2人のデレデレに付き合うつもりは毛頭ありません!。2人でせいぜいイチャイチャして下さい!!」
と言って、美香子はさっさと帰ってしまった。

 「もうー、美香子ったらー」

 聡は照れ隠しで、すぐに「ワルソーコンチェルト」のレコードに針を落とした。
 曲の最初は下から沸き上がるような管弦楽の旋律に始まり、すぐにピアノのロマンチックな旋律が流れる。かおりは
 「わー、ロマンチックな旋律ネー!」
と言って、うっとりと目を閉じる。
 この曲は、苛烈な戦闘場面に流れる詩的な音楽のすばらしい対照的な効果が見る人の心を打って、やがてこの作品は単独で演奏されるようになったのである。

 曲が終わるとかおりは
 「ラフマニノフよりロマンチックな曲ね。私、すごく気に入ったから、ちょいちょいこの曲を聴かせて、お願い!」
 「ああ、いいよ。気に入ってくれてありがとう。
 次にかける曲は、僕が今、はまっている曲で、フォーレの『パヴァーヌ』だ」

 聡はレコードに針を落とした。レコードは10吋LPの「フォーレ作品集」で、「シチリアーノ」や「ノクターン」、「夢のあとに」等、管弦楽曲やピアノ曲、チェロ独奏曲が入っている。

 弦楽器のピチカートにのって管楽器が優雅な主旋律を奏でる。かおりはすぐ
 「んっ、んっ」
と言って目をつむる。
 やがて弦楽器のユニゾンで主旋律が高らかに流れてくる。

 ♪ラーーシドーーレドシドラシーードシラシソラーー♯ソミーーーー♪
 ♪ドーーレミーーソファミファレミーーソファミファレミーー♯レミーーー♪

 かおりは
 「えっ、えっ、何これ!」
と言って頭を聡の肩ににコテッとのせた。
 びっくりしたのは聡である。どうしていいか分からず、かおりの顔を見ると、かおりは少し口を開けて忘我の境地のようであった。このチャンスに聡はかおりの肩を抱くという勇気もなく、そのままにした。

 曲が終わるとかおりはガバッと頭を起こし、
 「お願い!もう一度かけて!!」
と、頭を聡の肩にのせた記憶がないようであった。
 聡はまた、レコードをかけた。するとまた、かおりは頭を聡の肩にコテッとのせた。
 聡はまた、そのままにした。

 曲が終わるとかおりは「うーーーん」と言いながら頭をゆっくり聡の肩からあげ、そしてハッとしてようやく聡の肩に頭をのせていたことに気付いた。
 「ウワーー、ごめんなさい、気が付かなかった!」
 「いいよいいよ、いつでもどうぞ!」
 「本当にいいの?」
 「エッ!」
 「冗談冗談。だけど本当にすごい曲ねー!ビックリしちゃった」
 「そうだねー。今までラベルの『亡き王女の為のパヴァーヌ』にはまっていたけど、同じパヴァーヌだけど、今度はこのフォーレにはまりそうだよ」
 「確かにそうね。ラベルのパヴァーヌはどちらかというと上品で、おしとやかな感じがするけど、フォーレは何か私の感情にドンピシャリのような気がするわ」
 「確かにそうだね。同じパヴァーヌという古い宮廷舞曲の形式をとっているけど、雰囲気が全然違うねー。僕もフォーレの方がピッタリかもしれない」

 かおりが帰りしなに
 「今日は今までの最高の音楽を聴かせてくれて本当にありがとうございました。
 伊吹さんと一緒にいると、最高の人生が送れると思うわ。ずーっと一緒にいたいな!?」
 聡は勇気を出して
 「僕も橘さんと、ずーっと一緒にいたいよ!」
 かおりはニコッと笑って
 「ありがとう」
と言って、帰って行った。

[2年生の修学旅行]

 11月中旬の土曜日、この日は聡たち3年生と1年生は遠足に行くが、2年生は2泊3日の修学旅行に行く。これはいつから始まったのかは分からないが、S中学校の伝統行事であった。
 聡も昨年、修学旅行で九州に行ったが、それはそれは大変な旅行であった。何せ1200人が大移動するのである。旅行業者や引率の先生方は苦労が耐えなかっただろうと思う。
 当日の朝5時に起きて朝飯を流し込み、6時にT港に集合した。裏のラジオ仲間、中川と一緒に港に向かった。港まで歩いて20分程だが、15分ぐらいのところで中川の大失敗に気付いた。なんと中川はあわてて家を出たので、下駄を履いたまま港に向かったのである。今から引き返すのは不可能だ。
 「えーい、しょうがない。九州でズックを買おう。小遣いが少なくなるが、下駄を履いての旅行はS中学の語り種になってしまう」
という訳で、そのまま港に向かった。

 朝、6時半に瀬戸内海航路のK汽船蠅料ィ雲匹鮗擇蠕擇蝓一路大分県の別府に向かった。
航海中は天気も良く、友人と写真を取り合ったり、カモメが船と同じ速度で飛ぶため、カモメが空中に止まって見え、餌を手ずから食べさせたり、瀬戸内海の景色を堪能しながら午後4時頃、別府に着いた。
 港には大型観光バス20台が我々を待っていた。壮観な眺めであった。バスのフロントガラスにクラスの番号が貼りつけてあり、クラス毎にバスに乗り込んで、市内の地獄温泉巡りに出発した。

 5分ごとに湯が吹き出す「間欠泉」、真っ赤な色の「血の池地獄」、真っ青な色の「海地獄」、泥からブクッブクッと大きな泡が出る「坊主地獄」を2時間かけて見て廻り、温泉旅館に着いた。1200人も泊まることが出来る旅館があるのかなと思っていたら、300人を収容できる旅館4軒を借り切り、分散して泊まるという。いやはや大変だなと思った。
 飯を食い、温泉に入って恒例の枕投げと布団蒸しをして遊び、就寝。

翌日、朝7時に起き、朝飯を食べてクソをして、8時半に熊本の阿蘇山目指してバスで出発した。昼飯は旅館が用意してくれた。大分市を経由して、細い一般国道を20台のバスを連ねてトコトコ走って行く。
途中、豊後竹田市に寄り、岡城址を見学する。名歌「荒城の月」の作曲者である滝廉太郎は竹田市の生まれで、「荒城の月」を作曲する時、故郷の岡城址をイメージして作曲したそうである。城址に大きな滝廉太郎の銅像が立っていた。ちなみに、バスガイド嬢の説明によると、作詞家の土井晩翠は仙台生まれで、青葉城をイメージして作詞したそうである。

 またバスに乗り、阿蘇山を目指す。昼過ぎに中岳下駐車場に着き、バスの中で昼食をとって徒歩で中岳を登る。中岳展望台に着く。それまで火山なんか見たこともなかったので、全員「わーーーーーー!」であった。でかい火口から噴煙がもくもくと上がり、そのスケールのでかさに皆ビックリしていた。

 それからまたバスに乗り、別府めがけてバスを連ねてトコトコ走った。
 途中、大分と別府の間の高崎山に寄り、野猿を見物した。ここの猿は図々しく、餌をやらなければポケットに手を突っ込んでくる。ポカリとぶん殴ったら、ギャーと猿がわめくと周りの猿が助っ人じゃない、助っ猿で10匹ほど集まって来て、歯ををむき出してかかってきた。空手の突きと蹴りで応戦していたら、飼育の人が飛んできて猿を追っ払ってくれた。
 「大丈夫か?」
と声をかけてくれた。
 「大丈夫です」
と答えると、
 「何で猿がかかってきたんだ?」
と聞くので、説明すると、
 「そうか、やっぱり。最近、猿が図々しくなり、その手のトラブルが増えているんだ。本当に困ったものだ」
とぶつぶつ言いながら帰っていった。

 午後5時頃、別府港に着き、バスを降り、行きに乗ったK汽船の船に乗り、翌日の朝6時にT港に無事帰ってきた。
 この修学旅行で聡がビックリしたのが2つあった。いずれも別府のことであった。
1つは、別府の旅館に泊まって寝ようとした時に気付いたのだが、床がしょっちゅうカタカタと小さく揺れるのである。T市はめったに地震が起こらない所なので、皆はビックリしていた。
 2つは、夕飯を食った後、大便をしに便所の大便器にかがみ、出すものを出し、しゃがんだままほっとしていると、向かいから大勢の女生徒の賑やかな声が聞こえてくる。何だろうと思い何気なく壁の下を見ると高さ20僂阿蕕い両禹劼目に入った。ちょっと障子を開けて下を見ると、何と女性の脱衣所で、大勢の女生徒が服を脱いだり着たりしていた。聡はマズイと思ってすぐ障子を閉め、何喰わぬ顔で便所を出た。
 かなり後になって友人に話すと、そんなのはまだ可愛い話で、悪質な所は女湯の洗い場の鏡がマジックミラーになっていて、金を取って男客に見せる旅館もあるそうだ。

[中学最後の遠足]

 11月中旬の土曜日、2年生は朝早く、恒例の九州への修学旅行に出発し、3年生と1年生は遠足である。
 聡は弁当を持って普段通り学校に行った。学校の周りに大型バスが3年生用20台、1年生用14台が停まっていた。

 聡はかおり、美香子と一緒に7組のバスに乗り込んだ。席は一番後ろで、窓側から聡、かおり、美香子と並んで坐った。
 行き先は全国的に商売と海運の神様で有名なK宮。聡は何回か仲間と自転車で行ったことがある。自転車では約2時間半、バスでは多分1時間かかる。

 1時間の道中、みんなで歌を歌ったり、クイズをやってる内にK町の駐車場に着いた。
 さー、これから785段の石段を1時間かけて登らなければならない。お年寄りや身体に障害がある人は有料の駕籠(かご)に乗って行けるが、365段目の大門までである。大門から上は神域になり、商売は出来ないからである。土産物屋も大門までである。

 聡たちはエンヤコラと石段を登り始めた。石段の左右は土産物屋がびっしり続き、盛んに客の呼び込みをやっていた。しかし、先生から登りはただひたすら整然と登り、店に行かないことを厳命されていた。何故かというと、御本宮に着いたら御本宮の横で記念写真を撮るのだが、20組も撮らなければならず、 ベルトコンベヤー式に整然と写真を撮るので、店に寄ったりしてクラスがばらばらになったら時間がかかるからである。土産物買いは石段を下りる時にどうぞご自由にであった。

 聡達3人は男生徒群の後ろ、女生徒群の前に右から聡、かおり、美香子の順に並んで登って行った。男生徒も女生徒も聡とかおりに遠慮して、誰も聡達の横に並ばなかった。
 聡達は土産物屋をにらんで、帰りにはあれ買おうとか、いやーこっちのほうがいいよとか大声で話しながら登った。大門から店が途切れ、何とか神社とか何とか殿、何とか社が次々現れたが、3人ともそれらには興味がなく、先生の厳命もあったので、3人は過去の知り合った頃の思い出話、面白話、先生のあだな話などをキャアキャア言いながら、かおりなんかは興に乗ると聡の肩や背中をバンバン叩いたり、腹を抱えて笑ったりしていた。

 御本宮にあと20分ぐらいの所で、前を行く男生徒の1人が突然止まって聡とかおりの間に割り込んできた。誰かと思ったらあのかおりに振られた川内であった。顔を紅潮させ、目が据わっていて不気味だった。こいつ、まだ諦めきれないのかと聡はむっとしてかおり達を促して前に進み、聡とかおりはぴったりくっついて歩いた。すると川内はまた後ろから聡とかおりの間に分け入ってきた。また聡達は急いで前に進んで川内を振りきった。
後ろを歩く女生徒達から
「何よ、川内さん気持ち悪-い!」
「頭おかしくなったんじゃないの!」
「もういいかげん諦めなさい!」
と声が上がった。川内はますます意固地になってくると思った聡は、極めて大胆な行動に出た。聡は左腕を伸ばし、かおりの腰を抱き、右腕を後ろに回してかおりの右手を掴み、聡の右腰を抱くようにし、聡の右手を添えた。そしてかおりをぐっと引き寄せた。こうすれば川内は割り込めない。
後ろから
「キャッ、すごーい!」
「いいなーうらやましー!」
「かおり、よかったね!」
と声がかかった。
 しばらくそのまま登って後ろを振り返ると、川内の姿はなかった。
 「青白い顔をして登って行ったよ」
と女生徒が言った。
 腰を抱くのは止めて、普通に歩こうとすると、かおりが手をつないできた。
 「かおりー、頑張ってー!」
と言う声に、かおりはちらっと振り返って軽く会釈した。かおりは女生徒にも人気があるんだなーと聡は思った。

 手をつないだまま御本宮まで登り切ると、さすがに2人は手を離した。御本宮横に写真を撮る場所があり、流れ作業的にクラス毎に整列して順番に写真を撮った。
 写真を撮ったあと御本宮にお参りした。お参りする前に聡は、
 「神さまにお願いしたことを、それぞれ後で明かすこと」
と宣言し、2人とも同意した。

 お参りが終わり、聡がお願いを明かせようとする前に美香子が
 「本来なら言い出しっぺの伊吹さんから明かすのだろうけど、私から明かしまーす。まず第1はT高校に合格すること。第2にお兄ちゃんとずーっと一緒に居れること。以上でーす」
あっけらかんとした美香子の口振りに、聡とかおりはぷっと吹いた。
 「何笑ってるの!?さーさー伊吹君の番だよ!」
 聡はつばをごくっと飲み込み
 「僕のお願いの第1は渡辺さんと同じくT高校に合格すること。第2に・・・・」
聡は声が震えるのをグッと抑え
 「第2は近い将来、橘さんと結婚できますようにとお願いしました」
 美香子はうんうんとうなずき、かおりは顔をぱっと赤らめ、目がうるうるしてきた。
 「さあさあ、かおりの番よ!」
と、かおりに促す。
 「私も第1はT高校合格です。そして第2は近い将来、伊吹さんと結婚できますようにとお願いしました」
 聡は天にも昇る気持ちだった。今までのかおりとの色々な情景が頭に浮かび、しばらく言葉が出なかった。
 美香子が見かねて
 「あーーじれったいなー!神さまにお願いしたのは分かったけど、伊吹君、どうするの!?」
 聡は分かってるよーとうなずきながらかおりの前に立ち、
 「橘さん、近い将来、僕と結婚してくれませんか?」
 途端にかおりの目からブアッと涙が溢れた。
 「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」
 聡も涙がこぼれそうになった。
 「私が見届け人兼証人になるから、2人、指切りげんまんして!?」
 2人で
 「♪指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲-まそー♪」
 「よっしゃー、確かに見届けました!かおり、伊吹君、おめでとう!!」

 かおりは、わーと言って美香子の胸に飛び込み、
 「美香子、ありがとう、ありがとう!」
と泣きじゃくった。本当は聡の胸に飛び込みたかったのだろうが、生徒で溢れているこの場所では、そうすることも出来なかったのだろう。付近の生徒が不審そうにかおりと美香子を見つめていた。

 いつまでもこうしてはいられず、3人は御本宮の近くの絵馬堂に行った。かおりと聡は雲の上を歩いているようだった。
 絵馬堂に行くのは、かねてからの聡の希望で、実は絵馬堂に清水次郎長の絵馬がかかっているのを確かめたかったからで、遠足に行く前からかおり達に伝えていた。以前に2、3回自転車でK宮に行ったのも、そのためであった。しかし、確かめられなかった。絵馬堂の天井が高くて、よく分からなかったのであった。次郎長の絵馬が奉納されているのはK宮も発表しており、奉納したのは、2代目広沢虎蔵の浪花節「石松代参 三十石船道中」の有名な森の石松であった。
 「すし食いねえ」「江戸っ子だってねえ」「神田の生まれよ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」という虎蔵の名調子は昭和23年発表以来、一世を風靡した。聡も大好きであった。
 しかし、またもや絵馬は発見できなかった。やはり、望遠鏡を持ってこなければ発見できないことが分かった。
 「今度来る時は望遠鏡を持ってこよう」
で絵馬堂を離れ、隣の展望台に行った。

 展望台からの眺めは素晴らしいものであった。S平野が眼前に広がり、「S富士」と称される飯山や遠くに瀬戸内海が広がる。聡とかおりはこの風景を見ているうちに先ほどからのドギマギも治まり、普段の調子を取り戻した。
 展望台の近くの石畳に座り込んで弁当を食べた。

 食べ終わって聡は
 「さあ、これからどうする?奥社まで583段の石段を40分かけて行くか?。それとも麓に降りる?」
と聞いたら、2人とも
 「もう石段はコリゴリ。降りましょう」
と言うことになった。
 降りるのに裏参道という降り方もあったが、もと来た表参道を降りて土産物店でお土産を買うことにした。

 大門を過ぎると土産物店が軒を連ねていた。色々冷やかしながら歩いていると、K宮のマーク丸Kの入った万年筆を売っていた。日付と名前刻印は無料とあったので、聡はかおりと美香子に相談した。
 「ねーみんな、この万年筆を買って、日付と3人の名前を刻印して貰わないか?今日は僕と橘さんの特別の日だし、渡辺さんも見届け人兼証人だから渡辺さんの名前も刻印してもらおうと思うんだけど?」
と言うと、2人とも賛成した。店に入って主人にその旨伝えると主人は
 「うーん、困ったな。無料サービスは1人の刻印だけなんだ。オーバー分は追加料金をもらうよ?。3人は仲良しグループなのかな?」
 すると美香子が
 「仲良しグループなんだけど、それ以上に今日、この2人が御本宮の前で結婚の約束をして神様に報告した特別な日なんです。私はその見届け人なので、この日を忘れないように刻印してもらおうと考えたのです。追加料金はいくらですか?」
 「えーー、それは目出度いことだ!。こんな目出度い客は初めてだ。追加料金はいらないよ。すぐ刻印するからちょっと待ってね」
と言って刻印し始めた。
 3人それぞれ代金を払って万年筆を受け取った。
 万年筆を見ると

       伊吹 聡
 丸K             渡辺 美香子   昭和32年11月吉日
       橘 かおり
と金色に刻印されていた。


[橘一家と食事会]

 聡とかおりが婚約した遠足の一週間後の土曜日、聡と美香子はかおりの両親から夜の食事に誘われた。
 T市では有名なフランス料理店だった。以前2回、かおりの父親と母親の誕生日に、中華料理と懐石料理を橘一家と行ったことがあるが、聡も美香子もフランス料理は初めてであった。
 席にかおりの母、かおり、かおりの父と並び、向かって美香子、聡が座った。フランス料理は初めてなので困ったなーと聡は思っていたら、かおりの父が
 「かしこまる必要はないよ。僕らの食べ方を真似て食べればいいんだよ。ナイフやフォークは外側から順番に使えばいいんだ。ここの料理は最高に美味しいから、ゆっくり味わいながら食べてもらえば嬉しいな」
 聡と美香子はこの言葉にほっとした。
 今回はフランス料理のフルコースではなく、ハーフコースだという。聡は何のことだか分からなかったが、料理が出てくるのを待った。
 最初に出てきたのはコンソメスープであった。聡と美香子は橘家の食べ方をじっくり見てスープをすすり始めた。大きめのスプーンを右手に持ち、左手を皿に添え、背筋をぴんと伸ばし、スプーンを手前から向こうに動かしてスープをすくい、じゅるじゅるとすすらず、スープをぱくりと食べるように飲んだ。
 その後、野菜サラダや魚料理、肉料理と進み、デザートのアイスクリームをぱくつき、最後のコーヒー(聡はコーヒー嫌いなので紅茶)を飲みながら今回の食事会の本題に入った。
 かおりの父が姿勢を正して
 「今回、食事に誘ったのは、伊吹君と渡辺さんにお礼がしたかったからなんだよ」
 聡と美香子
 「へっ!?」
 「実は先週末、かおりから遠足でT宮本殿の前でかおりと伊吹君が結婚の約束をしたと聞いたので、その感謝としてこうやって食事会をもうけたんだよ」
 聡は
 「えっ!えっ!うわーー、すみません、お父さんやお母さんに挨拶しなくて・・・」
 「いいのよ、挨拶は結婚する前でいいのよ。あなた達はまだ法的経済的に結婚できないでしょう?」
とお母さん。
 「そうだよ、君がかおりと結婚する約束をしてくれたことに対するお礼と、常にかおりをプッシュしてくれた渡辺さんに対するお礼なんだよ。どう、渡辺さん?苦労しただろう?」
 「ええ!こんなに奥手でヘタレな人、始めて見ました」
 「プッ、そうだろう?かおりの奥手は夫婦二人で心配の種だったが、伊吹君と話したら、かおり以上に奥手なんで、夫婦二人して『あの二人、どうなるんだろうね』と心配していたんだ」
 「私も二人にはやきもきして、露骨にプッシュしていました」
 「そうだろうね。まあ伊吹君とかおりはあわてずじっくりと愛情を育んで下さい。渡辺さんもこの二人はまだまだ心配なので適当にプッシュしてやって下さい」
 「分かりました!」
と三人。


[最後の音楽実力テスト]

 11月下旬に中学最後の音楽実力テストがあった。このテストは、生徒が何か楽器を習っているときはその楽器を持ってきて演奏するというもので、習っていなければ歌を歌うことであった。このテストは比較的重要視され、筆記テストが良くても実力テストが悪ければ良い点は取れないと言われていた。これは1年、2年でも行われ、聡はピアノを習っていることが皆にバレたら恥ずかしいので歌を歌ったのだが、今回は中学最後のテストなのでピアノを弾くことにした。かおりは聡のピアノ伴奏で、日頃よく歌っていたレハールの喜歌劇「メリー・ウィドウ」の「唇は黙せど」を歌うことにした。幸いこの曲は2年生の時、「レハールのワルツ」という名で音楽教科書にあり、日本語の歌詞を皆で歌ったりしていたので、生徒全員知っていた。
 女生徒からテストが始まった。ピアノを弾ける女生徒が3人いて、それぞれツェルニーの曲を弾いていた。かおりの番になってかおりは独身女性教師のS先生に
 「伊吹さんのピアノ伴奏でレハールの『唇は黙せど』を歌います」
と言うと、S先生はかおりが歌のレッスンを受けていることを知らなかったようで、ビックリしていた。S先生は音大の声楽科を卒業して音楽の教師をしていたので、かおりの歌には興味津々だった。
 聡の導入部の旋律の後、前奏の歌を飛ばしていきなり
「リーペンシュバイゲン フリュースターガイゲン ハーブ ミッヒ リーブ・・・」
とドイツ語で朗々と歌い始めた。
 先生と生徒たちはビックリしていた。歌い終わると拍手喝采であった。
 先生は顔中ビックリマークをつけて
 「橘さん、あなた声楽を習ってるの?もう完全なオペラ歌手の領域よ!!それに伊吹君、あなたもピアノを習ってるの?」
 二人とも
 「はい」
と返事して席に戻ろうとすると先生が
 「伊吹君、ちょっと順番が狂うけど、あなたこれから実力テストのピアノを弾きなさい。あ、橘さんは席に帰っていいよ」
 「えっ、今のピアノ伴奏で駄目ですか?」
 「あれは伴奏だから駄目駄目。独奏曲を弾きなさい!」
 「分かりました」
 「それで、何を弾くの?」
 聡は少し考えて、華やかで、一般受けする曲を弾くことにした。
 「ショパンの幻想即興曲を弾きます」
 「うわー!、皆さん、伊吹君がショパンの幻想即興曲を弾いてくれます。謹聴、謹聴!」

 主和音をどーんと弾いて華やかでテンポの速いアルペジオを弾いていると、突然、教室の後ろのドアがバターンと開いて数学の若い先生、H先生が飛び込んできた。噂ではS先生の彼氏らしい。
 聡はそんなのにかまわずピアノを弾き続けた。
 早いパッセージは少し遅めに、情感タップリな中間部は少し早めに、サンソン・フランソアを真似て弾いた。
 曲が終わると大拍手喝采であった。華やかで著名な曲を選んだ聡の思惑どうりであった。
 H先生がすぐS先生の元に近づき、
 「うちの学校にこんな素晴らしい生徒がいたんだ!?」
 「そうなんだね。わたしは全然知らなかった」
 「校舎の外を歩いていたらレハールのワルツが2階の音楽室から聞こえてきて、レコードと違い生のようなので急いで確かめようと音楽室に向かった所、今度はショパンの幻想即興曲が聞こえてきた。本当にビックリしたよ」
 「わたしも夢を見ているのでないかと何度もほっぺたを抓ったわ」
 「ピアノを弾いた君とレハールを歌った彼女、素晴らしかったよ。もう一度二人に拍手を送ろう!!」
 大拍手の中、聡とかおりは皆に深々とお辞儀をした。

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