夜空に羽ばたく蛾のように (エロくない体験談) 1777回

2018/05/12 18:46┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:あでゅー


(一)

「なあ、七海(ななみ)。あんた、キムラパンでアルバイトせーへん?」
 母はそう言って、高校の入学式から帰って、晩ごはんを作ってくれた藤崎七海に聞いた。二重まぶたの母とは違って、七海は一重である。きっと、出て行った父に似てしまったのだろう。そのためか、母は七海に冷たかった。
「頼むけ。かあさんを助けてや」
 母は、晩ごはんを食べて、違うパートへ行くための暫しの休憩をしていた。帰って来るのは、真夜中の零時を過ぎている。そして、朝の七時には眠い目をこすって、また朝のパートへ行くのだ。そのため、七海は小さい内から家族のまかないを引き受けていた。
 なぜ、そんなに働くか聞いたことがあるが、母は弟に小さい頃から塾に通わせて、将来はいい所へ就職してもらって、面倒を見てもらうのだと言う。そのために、母は毎月積み立てをしていたから、食費を切り詰めざる負えなかった。
「まかないは、次子(つぎこ)に任せたら、よかとよ」
 七海は素敵な名だが、妹の次子はおざなりの名前である。この頃から、母と父は折り合いが悪かったようだ。その次子に、母に言われてまかないを教えていたことから、アルバイトをすすめられると薄々感じていた。
 姫路市の七海の住んでいるアパートの近所には、小さな商店が立ち並び、細々と商売をしている。その中に、パン屋キムラパンがあった。七海が、そこでアルバイトをすると言うことは、母子家庭の母を助けることなのだと分かっていたが、近所を見ても高校生からバイトをしている友だちがいないことを考えると、憂鬱になった。
「なにむくれているんや。きっと、売れ残りのパンがもらえるけぇ」
 七海は、この言葉に喜ぶ。七海の下には、中学三年の次子と、小学六年の優斗(ゆうと)がいる。弟は、いっぱい食べられるが、妹と七海は、いつもお腹をすかしてひもじい思いをしていたのだ。その妹のためにも、七海はアルバイトをしようと決意した。
「よかとよ。明日、キムラパンに行ってみるで」
 母は、安心したのか、鼻歌まじりの古い歌を歌って、次のパートへ出かけた。母が行った後に、塩をまいてお清めをする。
 自分勝手で、弟しかかわいがらない母が、七海は大嫌いだった。これは母のためにアルバイトをするのではない。自分と妹たちのためにするのだと、心の中で何度も繰り返した。

 次の日、学校が終わってから、キムラパンに行ってみると、皺の寄ったおばさんが、白いまい掛けをして店頭に立っていた。年の頃は六十ほどで、優しさが顔ににじみ出ている。
「いらっしゃい」
「こんにちわあ。あの、これ見て来たんやけど」
 七海は、アルバイト募集の張り紙を指差した。堂々とした楷書で書かれていることから、その字はおばさんではないと思った。
「あら、これはもう少し大人になった人を募集してたんやけど」
「わい、身長は低いけど、もう高校生や」
 そう言って、七海は生徒手帳をおばさんに見せた。いつも、お腹いっぱいに食べられないので、平均身長から大分低かった。
「ほんまや。けど、親はこのこと知っているんけぇ?」
「うち、貧乏で親に言われて来たんや」
「おーい、あんた。アルバイトが決まったけぇ、表の張り紙はがすで」
 おばさんがそう言うと、奥の厨房から頭の禿げたおじさんが現れた。両手は、白い小麦粉の粉が付いており、その手が周りのものに触れないように、手術室の外科医のように手をかかげている。
「なんや、男じゃないんか。んで、この低いタッパ。ほんまに、大丈夫け?」
「おっちゃん。うち、一生懸命働くけぇ、よろしく頼んます」
「ほんとけ? よしゃ、その言葉信じたけぇ。明日から頼むど」
「はい」
「所で、パンは好きけ?」
「うん、ごっつー好きや。けど、お金ないけぇ買えんとよ」
「なんだ、ほだらこれ持って行ったらええやん」
 そう言って、おじさんはおばさんに促して、袋一杯に総菜パンとお菓子パンを詰めてくれた。本当にありがたい。七海は、頭を下げて感謝をした。
 春の日は、もう暮れようとしている。七海は、妹たちの喜ぶ顔を想像して、家路を急いだ。


(二)

 パン屋のおじさんは、七海のパン作りの作業を、目を細めて見ている。
「驚いたでぇ。パン作りをはじめて半月もたっておらんのに、ほとんどのパンを作ってしもうたけぇ」
 ほとんどのパンとは、食パン、総菜パン、お菓子パン、それに編みこみパン。特に編み込みパンは、形をそろえて焼くのが難しい。
「おっちゃん、ほんまけ?」
「おっちゃんは、もう止めや。これからは、師匠って呼びいな」
「師匠。ほんまけ?」
「ああ、これやったらドイツのマイスター並みや」
「マイスターってなんや?」
「そりゃ、職人たちに、免許皆伝を与える制度や」
「ふーん」
 七海は、美味しいパンを作りたい一心だった。それは、妹たちのためであり、キムラパンに毎日のように買いに来てくれるお客のためであった。
 おじさんは、自分の子供を見るように目を細めて七海の作業を見ている。この腕だったら、店を継がせてもいいのではないのかと思った。もしも、子供がいたらどんなに嬉しいことか。しかし、妻にはとても言えない。だから、おじさんは頑固おやじを演じて、子供なんて嫌いだと嘘を付いていた。そして、齢(よわい)六十となってかわいい弟子ができた。腰の痛みも忘れて、おじさんは喜んだ。
 その晩、おじさんは妻に相談する。
「なあ、おまえ。七海に将来このパン屋を預けたいんやが、どうや?」
「あんたも、わいと同じこと、考えていたんやね」
「なんや、お前もか」
「あの子を、養子にするなら、わい、賛成や」
「そうか、そうか。所で、七海に持たせる分のパン。ちーとばかし、総菜パンを増やした方がええけ?」
「食べ盛りの子が三人もおるから、その方がいいかも知れんね」
「よっしゃ、分かったで」
 おじさんは、出入り業者に電話を掛けて次の日の材料を増やした。
 養子。その申し出を受けてくれるかは分からない。年老いた夫婦の面倒を見てもらえるかも知れない。そして、婿をもらって孫の顔を見れるかも知れない。老夫婦は、そう思うと自然と笑顔になった。いつ話そうか、悩んだ。


(三)

 あれは、七海が高校二年の冬だった。朝からみぞれ交じりの雪が降り、人並みに伸びた手足が寒さに悲鳴を上げている時だった。七海の身長は伸びて百七十センチを超えて、パン作りのために張り出した肩は、まるで水泳選手のようであった。そして、長い黒髪は否応なしに人目を引いていた。
 七海は、パン屋の裏に隠れるようにその身体を小さくして、年下の女の子を抱きしめていた。
「キスして、よかと?」
「うん、いいとよ」
「知登世」
 はじめてのキスだった。それも、女同士で。七海は、欲情していた。手が勝手に知登世の胸をまさぐる。そして、下半身に届きそうな時、突然大声で怒鳴られた。
「こら! 何しよとか!」
 見ると、キムラパンのおじさんが、立っていた。険しい目で、両手に握りこぶしを作って。
 七海は、顔面蒼白なりながらも、知登世をかばうように立っていた。そうすることで、知登世の心の負担を少なくしてやろうと思ったからであるが、七海自身、この重圧に、押しつぶされようとしていた。
「七海。女は、男と愛し合わなくちゃならんのや。女と女じゃ、子供はできんとよ」
 そう言うと、おじさんは踵を返して店に入ってしまった。
 おじさんの言葉は、最後の方が弱くなり、お願いをしているように聞こえた。頼むから、男の子と一緒になってくれと言う気持ちが、言葉に表れたのだろう。
 だが、七海には無理なことだった。どうしても、男の子にはドキドキしない。胸が痛くなるほど、恋焦がれるのはいつも女の子なのだ。そして、知登世ははじめて七海に告白してきた娘だった。ピンクに染まる唇。小動物のようなつぶらな瞳。女の子らしい華奢な身体。小さな胸。ちょっと太り気味のお尻。そして、まだ誰も踏み入ってないだろう子宮。七海は、激しく欲情した。これのどこがいけないと言うのか。
 知登世は、分かれ際、涙をポロポロとこぼす。
「もしも、このまま付き合っても狭い姫路、すぐに噂になる。わい、耐えられん」
「わいが、守るとよ」
「ごめんね。もう仕舞にしよう」
「知登世」
「さいなら」
 それが、はじめての恋人との最初の失恋であった。七海は、パン屋にも顔を出せずに、一人夜の街をさまよった。広い道路に出ると姫路城が見えた。スポットライトに照らされて白い壁が大きく映し出される。昔の人は、男色におおらだったと聞くが、女同士には皆口をつぐむ。だが、平成の世になって、近頃は同性結婚も許される国が出て来た。七海は、はやく日本にもその波が来ないかと願っていた。
 だが、人の気持はそんな制度によって変わるのもではないと、薄々感じていた。そして、ここ姫路には七海を受け入れてくれる可能性は、絶望的だった。高校を卒業したら、姫路を出ようと七海は決心した。

 その翌日、七海はおじさんに謝った。表面上はレズを止めると嘘をついて。老夫婦は喜んだが、七海は胸が痛んだ。ごめんなさいと心の中で頭を下げた。

 七海は、この頃から、目をつむると夜空に羽ばたく蛾の幻を見るようになった。頭がおかしくなったと思い、こっそり精神科へ行ってみたが、医者の見立ては、きっと自分を汚いものに思えて、見るのだ。他に悪い所はないから、うまく付き合っていきなさいと言われて、薬も渡されないで帰された。そんなものかと思い、あきらめている。


(四)

 高校を卒業した日に、七海は姫路を一人旅立った。手荷物は、修学旅行で買った大きなバックだけ。それに、衣類や大事なものを詰めて。東京に向かう新幹線は、発車のベルがなり、緩やかに速度を上げて行った。東京に決めたのは、大阪などは知っている顔と出会う可能性があるからだ。
 姫路城も遠くなって見えなくなり、ふと自分が泣いていることに気付いた。あんなに嫌っていた町なのに。自分勝手な母。レズを許さないパン屋の老夫婦。だが、それは町を嫌っていたのではなく、自分自身を嫌っていたのだと、漸く分かった。涙は、いつまでも止まらなかった。
 通路を挟んだ席に座っているサラリーマン風のおじさんが、大丈夫かと心配顔で聞いてきた。七海は、「放っておいてや」と小さく返した。
 新幹線は、速度を上げて線路を飛んで行く。あっという間に、目的地、東京に着いてしまうのだろう。遠い場所であって、すぐに行ける場所。まるで、七海の身体と心のように矛盾していると思った。

 東京駅に降り立った七海は、目の前に立ち並ぶビルを眺めて、深く息を吐く。これから、お世話になる所はレズの店。写真を送ると、入店を許された。七海は、メモした住所に中央線に乗って移動した。
 新宿駅東口を出て歌舞伎町に入って行くと、『平成レズ学園』の大きな看板を見つける。七海は、ためらいながら扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
 薄暗い照明の中から、女が現れる。ロングスカートに、胸を強調する水着を着て、手を膝に当て、ほどよく笑みをたたえて挨拶して来た。七海の顔は紅葉するが、頭を振って自分の名前を言った。
「あの、この前電話した藤崎七海ですけど」
「あら、あなたが」
 七海を頭からつま先まで値踏みするように見詰める。
「うん、合格は正解ね。愛音ー」
「はーい、なに?」
 そう言うと、かわいい感じの女の子が現れた。ピチピチと言う表現が合っていた。
 彼女は、すぐに七海を見てため息を付いた。
「はい、一万円出して」
「ちぇ、はい一万円。その切れ長の一重まぶたに高身長、それに広い肩幅。あなた、タチね?」
「そうですけど」
 七海は、そう言って愛想笑いをする。だが、口もとが引きつって、なんだか分からない顔になる。
「私は、響生(ひびき)よ。よろしく」
「私は、愛音(あいね)だよ。よろしくね」
「藤崎七海です。どうぞ、よろしくお願いします」
 その時、いかにもママと言うような色っぽい三十歳ほどの女性が顔を出す。頭をアップにしており、床をするドレスは、ママ然としている。
「あら、藤崎七海さんですよね。もう着いたの。疲れたでしょう?」
「この人は、ママの楓(かえで)さん」
 響生さんが、紹介してくれた。やや声が緊張している。ママは、きっと修羅場をくぐりぬけて来たのだろう。顔は、ほほ笑んでいるが、目線は頭からつま先まで見て、やや口角を上げる。どうやら、お眼鏡に叶ったようで、七海はホッとする。
「それで、源氏名はどうする? 七海でいい?」
「はい、それでいいです」
「七海さん。あなた、言葉には気を付けているようだけど、イントネーションが関西風ね」
「ママ。七海ちゃんはそのままがいいんじゃないですか。色っぽくて」
「うん、いいんじゃない」
 七海は、愛想笑いするしかなかった。自分では、標準語を喋っているつもりでも、はたからみたら立派な関西弁だった。七海は、この時、はじめて、標準語のイントネーションを意識するようになる。
「今日は、慣らし運転してみよか?」
「はい」
 店の奥で黒いドレスを渡され、それに着替えた。それを、ママはジーっと見ている。ブラジャーを外した所で、ママは目を見張り、生唾を飲み込んだ。
「あなた。胸の形、いいわね。ああ、髪はストレートのままでいいわ。きれいだものね」
「はい」
 そう言って、ママはフロアーに歩いて行った。後姿を見ても、すきがない。七海は、叶わないと思った。 
 その日は、お客の接待だけだった。席に着いて、挨拶をして愛想笑いする。もう何度目だろう。七海は、胸や足を触って来る客にも、なんなく対応する。関西弁がいいと言われて、少しほっとする。
 明日は、きっと客を取らなくてはいけない。普通の女性だったらと七海は思った。

 店が終わってマンションへ連れて行ってもらった。新しい建物のようで、まだペンキの匂いがする。
「この部屋よ」
 そう言って、愛音は扉を開いた。部屋に入ると香水のいい匂いがする。クリーム色の壁につつまれ、低いソファーがお出でお出でをしている。台所は、コップと深皿しかない。きっと、食事は外食ですませて、簡単なコーンフレーク位なのだろう。電子レンジと冷蔵庫がどうどうと置かれてある。これだけ、ものがないと掃除も楽そうだ。
「あなたの部屋は、こっちよ」
 鍵付きの扉を開くと、ベッドに真新しいシーツ。その横には、パソコンに打ってつけの机があった。
「クローゼットは、こっちね」
 くくり付けの扉を開くと、洋服タンスが広がって、こんなに必要かと思った。七海は、そこに重いバックを置く。この部屋に不釣り合いだと思った。
「どう、素敵でしょ?」
「ええ、凄く」
「このマンションは、四人用。それが、五つあるわ」
「そんなに」
「まあ、それ以上多くなると、崩壊するけどね」
 なぜかは言わなかった。少し、悲しそうな顔をする。だが、すぐに気を取り直したのか、笑顔で七海の肩を叩いた。
「それじゃ、取り敢えず何か食べに行こうか?」
「はい」
 響生と愛音、それともう一人のルームメイトたちに連れて行ってもらった所は、ファストフードの店。七海は、響生たちと同じように、ハンバーグと、ドレッシングが掛かった野菜、それに暖かい飲み物を頼んだ。食べて見て思ったのだが、ハンバーグのパンが柔らかすぎて、噛むとベッチョっとして気持ち悪い。もっと、硬めに焼いたらいいのに。だが、そんな素振りも見せずに、美味しそうに食べた。
 食事から戻ると、七海はおやすみなさいと言って、自分の部屋のベッドに顔をうずめた。
 明日から、戦いの日々が続く。それは、パン屋を持てるお金がたまるまで。七海は、どんなに嫌な客にも、笑顔で身体を開こうと決意した。


(五)

 夕方六時。それが開店時間だった。その前の五時に店へ入り、掃除や打ち合わせをする。初日の七海も、愛音にならって店の準備の手伝いをする。テーブルをきれいに拭いて、カウンターのコップを磨く。それが終わったら、トイレに行って舐めれる位きれいに磨く。新人の仕事は、とにかく多い。
 しかし、上になって行くと、どうすれば客が来る店になるのか、頭を悩ませなくてはならない。競争が厳しいこの世界。ただ待っていればいいと言うのではない。そう、愛音に教わった。
 彼女は、この店がはじめてで、もうすぐ一年になろうとしていると言った。その間に、性病の検査は毎月欠かさず受けて来たが、それでも引っ掛かったことが一度だけあったと言った。幸い、薬で治る性病だったのでよかったのだが、やはり不特定多数を相手にする商売には、避けて通れないことなのだと知った。
 しかし、七海にはどうしてもお金をためてパンの店を持つと言う目標がある。石にかじり付いてでも稼ぐのだと、自分の弱気を振り払った。

「いらっしゃいませ」
 お客が来店すると、全員で挨拶をする。
「お客さま、当店ははじめてでしょうか?」
「は、はい」
「でしたら、まずはワインを一杯ご注文してくださいませんか? 五百円とお得になっております」
「じゃ、それで」
 ワインに口を着けると、四人のホステスが付く。タチ役とネコ役、二人ずつだ。お客は、話しながら好きなタイプに目線を置く。胸やら太ももやらを見始めると、店外デートとなる。だが、はじめの一回だけは、我慢してもらう。店にお金を下ろしてもらうのと、踏みとどまる人のためだ。大人しく、会話を楽しんでもらう。
 七海は、最初から指名客が着いた。身長が、百七十四センチと高いうえに、肩が水泳選手のように張っていて、目元が切れ長の一重だったからかも知れない。そう、さながら宝塚の男役のように。髪が長ったことが唯一の違いである。
「おねえさま。お名前は?」
「悪いね。まだ、名刺がないが、私は七海だ。君は?」
「はい。柚子(ゆず)と申します」
 柚子はそう言って、自分の手を七海の膝の上に置いた。七海は、その瞬間、全身に電気が走って、アソコからドロッとした欲望が、パンティに染みて、やがてスカートの内布を濡らした。
「オッパイ大きいね。触ってもいい?」
「どうぞ」
 七海は、震える指先で軽く下乳に触れる。真っ赤になった柚子が、もじもじして下を向く。七海は、思わず唇を奪い、組み敷いてやろうかと、獲物を狙った鷹のような鋭い目付きになる。
 だが、相手は初心者。それはできない。心の中で、なんども蹂躙した。
「次は、いつ来る?」
「来週の土曜日に」
「待ってるよ」
「それじゃ。あっ」
 店先で、別れ際。七海は、柚子の唇を奪う。それは、長いようで短い、約束のキスだった。
 七海は、柚子を見送りながら、この商売が向いていると思った。性欲を見たし、お金も稼げる。いいことだらけだと。
 店内に戻ると、七海は響生にクローゼットに呼ばれる。
「七海。あまり気を許すんじゃないよ。お金がなくなって、冷たくあしらったら、いきなりズブリ。なんてことも、あるからね」
 そうだった。自分は少なくないお金をもらって女の相手をするが、相手は決して裕福とは限らない。多くの場合は、少ない給料から日々節約をして、お店に通って来るのだ。
 これでは、あまりに不公平だと言わざる負えないが、こちらには不特定多数を相手にすると言う、リスクがある。嫌いなタイプの女にも笑顔で抱かなくてはならない。選択の自由はないのだ。
 七海は、次にヘルプに入った。はじめてのお客は、そんなにはいない。どんなにお客が気に入っても、指名を変えると言う行為は、店の中に歪を生み、何一ついいことはない。大人しく同じホステスを指名するしかないのだ。

 翌週の土曜日、七海は柚子を抱いた。唇も、胸も、お尻も、アソコも、全部美味しかった。夜明けのコーヒーを二人で飲んだ。


(六)

 それは、秋風が冷たく吹き付けて、おまけに雨まで降っていて憂鬱な日のことだった。そのため、お客はまばらで、皆暇を持て余していた。
「今日は、お客さん少ないね」
 七海は、外を眺めポツリと言った。
「本当よね。家に帰って、ツタヤでドラマでも借りて見たいわ」
「ねえ、愛音はどんなドラマがいい?」
「そうね、レズが思いっきり大声を出して、もだえるのが見たいわ」
「……聞いた私が馬鹿だった」
「嘘うそ。純愛もの。例えば、北川悦吏子(きたがわ・えりこ)の『愛してくれと言ってくれ』とか、『ロングバケーション』、それに『ビューティフル・ライフ』なんかが、いいわね」
「それって、いつ頃の?」
「二千年頃ね」
「ふーん、五年前か」
 その時、店の呼び鈴が鳴って、ヒールの音がした。これは、この店では珍しい典型的なタチ役で、女王さまの足音である。愛音は、やや緊張した面持ちで、フロアーへ出て行った。七海も、一緒に行って愛音のサポートをする。
「お待たせ、いたしました。私は、愛音と申します」
 そう言って、名刺を差し出す。お客は、六十歳ぐらいの年寄り。しかし、タイトスカートとヒールを履いていることから、まだまだ性欲があり、物色しているのが分かる。それでも、よる年波には勝てないようで、突き出たお腹と全身の皺は、もはや隠しようがない。
 七海は、軽い吐き気がして、それをごまかすためにジンライムを口にする。少し落ち着いた。
「このお嬢さんは?」
「はい。ヘルプの七海です」
「ふーん。あなた、タチ役ね。私は、シトネよ」
 敵対心を燃やすように、七海の目をにらんだ。七海は、その視線をそらしてジンライムを飲み干した。
「お代わりしていいかしら?」
「いいわよ。その代わり、私の指をなめて」
 どういうことだろう。タチ役の女が、タチ役に指を舐めさせる? 混乱しながらも、七海はシトネの指に舌をはわせた。軽くレモンの味がする。
「やっぱり、タチね。全然感じないわ」
「失礼しました」
 その後、七海は話し掛けられることはなかった。二杯目のジンライムが空となった所で、失礼しますと言って、席を立った。離れ際、愛音と軽くタッチをする。大丈夫だと言う合図だ。
 七海は、奥の控室に着くと、響生がどうだったと尋ねて来た。七海は、さあと言ってイスに腰掛ける。実際、危険かどうかは分からない。だが、七海は心のすみで、関わりたくない女だと直感した。
 七海は、少し心配をする。店には、友人と呼べるものは、最初に会った響生と愛音しかできなかった。他の人には、軽く挨拶をする程度で、イヤフォンで音楽を聴いている。大抵は、モダンジャズだが、歌謡曲の場合もある。愛音に、東京ではじめて映画を観に連れて行ってもらったのだが、その中で演奏していた音楽が、とても気に入ったからである。もしも、生まれ変わったならモダンジャズのサックス奏者になりたいと思った。


(七)

 それから一週間後、愛音はシトネとホテルへ行って、帰って来るとはなかった。普通はホテルに入る時と、出る時に連絡をしてくるはずなのに。そして、お泊りするなんて、通常では考えられない。七海と響生は、無言で連絡を待っていたが、朝の十時になってしまった。事態は、最悪の結果を示していた。
「ねえ、響生。きっと何かあったんだよ。警察に知らせようよ」
「あんた、この商売を合法だと思っているの? 正直に話したら、全員ブタ箱行きだよ」
「それでも、放っておけないよ」
「……そうだね」
 皆と口裏を合わせて、警察に相談しようとした時、開店前の店に警察官が現れた。人数は六人。皆制服を着ている。
「失礼します。この店の責任者は?」
「はい。私ですが」
 ママの楓が、名乗り出た。眉間に深い皺を寄せて、両手を組んでいる。きっと、震える手を抑えているのだろ。それは、愛音を心配しているのか、それとも営業停止を心配しているのか、七海には分からなかった。
「昨夜、愛音さんは殺されました。犯人は、年配の女性で、どうやら無理心中のようで、その女性も自分の胸を刺して重症です。それらしい振る舞いはなかったでしょうか?」
 皆、シーンとなった。自分もいつか同じような死に方をすると思ったのだろう。その中で、響生と七海は、抱き合って大声で泣いた。そのために、事情聴取は翌日に持ち越された。
 結局、店は営業停止になり、それぞれ事情聴取を受ける。事情聴取と言うと分かりづらいが、ようは取り調べである。机の前で根ほり葉ほり聞かれて、皆疲れ切って自白をはじめた。
 売春。やってはいけない事だとは分かっているが、必要とされるから商売が成り立つ。必要悪なのだ。
 そんなことを言っても、仕方ないのだが。
 事情聴取の中で刑事は、シトネは病気を苦にした無理心中だと言った。レズの末路を見せつけられた思いで七海は、その話を聞く。シトネは末期ガンだったのだ。それも、六十にしてたった一人。余命を告げられたシトネは、きっと衝撃を受けたに違いない。
 しかし、納得いかない。なぜ、まだ二十歳にもなっていない愛音が、六十の老人の道連れとされなければいけなかったのか。何度考えても悔しい。思い出すたび、悔し涙が出る。

 翌日、七海たちは厳重注意を受け警察署から解放されて、その後、店は解散となった。七海は、途方に暮れた。
「どうしよう……」
「他の店に行くしかないけど」
「響生さんは、どこへ行きます?」
「私は、暫く休んでから、友だちが勤めている店に行ってみようと思うけど」
「私も、連れて行ってください」
「分かったわ」
「ありがとうございます」
 愛音の遺体は、愛音の故郷である長野に引き取れていった。金銭以外の遺品は、処分してくれと言われて、ママが業者に引き取ってもらったと言う。七海たちは、そのことを知らなかった。その処分された荷物は、段ボールにして、たった四つだけだったと聞く。
 愛音の生きた証が、跡形もなく消えてしまった。写真一枚さえもない。七海は、愛音の顔を思い出して手を合わせたが、いずれ顔も思い出せなくなり、やがて忘れてしまう。
 レズの七海は子供も産めずに、一人死んで行くのだろう。寂しい。とても寂しいと七海は思った。せめて写真を残そうと思い、響生と一緒に写真を撮った。二人とも、寂しそうな笑顔だった。

 この頃の七海は、酷かった。毎晩のように夢にうなされ、夜空に舞う蛾の幻を見てしまう。病院に行って、安定剤と睡眠導入剤を飲んでいた。そのため、一日中頭がボーとしていた。だが、薬を止めると、悪夢を見るという繰り返しだった。死んでしまいたいと思ったことはあったが、パン屋を開くのだいう目標を思い出し、踏みとどまったのだ。


(八)

 ちょうど十二月になった日に、七海と響生は新しい店で働きはじめた。場所は、池袋となり、ちょっと狭くなったが、人数が少ない分、皆と親密になった。住み家も狭くなって、隣の音が響くが、その音が聞こえるとホッとする。人が恋しいのだ。
 七海が帰りじたくをしていると、声を掛けられた。
「七海ちゃん、今夜暇?」
「弥生さん。なにもないです」
「だったら、美味しいお店があるのよ。一緒に行こう」
「はい」
 七海は、新しいお店の弥生に、声を掛けられた。響生は、今夜は指名が入って、ホテルに出掛けている。七海は、一人寂しく帰るしかない。一人になると、どうしても愛音のことを思い出して、落ち込む。だから、声を掛けられて、嬉しかったのだ。
 弥生に連れて行ってもらったお店は、バーのような雰囲気で、軽くジャズが流れていた。七海は、ひとめで好きなり、目を輝かせた。
「中華や、本場のカレー、タイ料理、それにベトナム料理もあるから、どれでも好きなの頼んでね」
「はい」
 七海は、トムヤムクンを頼んだ。ヤケにスパイシーだが、身体が芯から温まって、汗をかいた。癖になりそうだ。
 弥生は、ベトナム料理のフォーを頼んだ。七海も、一口味見させてもらったが、麺ならやっぱりラーメンが一番だと思った。これに、パンを組み合わせるなら、フランスパンがよさそうだ。七海は、暫しパンの味わいを思い出す。
 そう言えば、最近パンを焼いてないが、果たして味は落ちていないだろうか。しかし、パン作りの道具がない。確かめられないのだ。目標の金額がたまるまで、我慢しようと思った。
 弥生が、しめに中華の甘点心(かんてんしん)を頼んだ。食べて見ると、落ち着きある甘さで、とても美味しかった。

 弥生と話しながらアパートに戻ると、ちょうど響生が帰って来た。扉を開けるなり、ソファーに突っ伏して顔をうずめる。七海は、心配して肩を抱いた。
「響生、どうしたの?」
「あーー、七海ー!」
「よしよし」
 そう言いながら、七海は響生の頭をなで続ける。響生は、何があったのか言わないが、きっと嫌な思いをしたのだろう。思いっきり、甘えさせる。これが、一番の薬だと、七海は経験上分かっていた。
 その晩は、響生を抱きしめて眠った。北風が、時折強く吹き付け、電気や、電話の引き込み線が、ギシギシ鳴っていた。


(九)

 東京に出て来て、二年がたった。漸くお金がたまり、この世界から足を洗う決心をする。無駄遣いをしなかったのが、はやくお金がたまった要因でもあるが、付いたお客が金持ちだったのもある。
 普通出て行く者は、黙って出て行くのが習わしなのだが、七海は、響生と弥生にだけお別れを言うと決めていた。いつ出て行くか言ってしまうと、やっかんで意地悪をされたりするからだ。
「どうしたの? お店に出ないの?」
 七海は、ドレスではなく、地味なパーカーとジーンズと言う服装で立っている。深く頭を下げて、響生と弥生は何事かと思ったが、すぐに出て行くのだと分かった。
「弥生さん。響生さん。お世話になりました」
「七海ー」
 二人は、七海を抱きしめる。涙が自然とあふれ出す。
「元気でね」
 三人は、互いの胸を濡らす。だが、もう店に出る時間だ。七海は、鍵を弥生に預けて、もう一度深くお辞儀をすると、アパートを後にした。
 荷物は、手さげ鞄一つ。そう、東京に出て来た時の荷物である。ドレスや、ハイヒールは、勿体ないが燃えるゴミに出してしまった。七海は、一人、JRの電車に乗って神奈川の平塚市へ向かった。

 平塚に近付くと、海の匂いがして来た。店の下見に何度か訪れたが、海にはまだ行ったことがない。きっと、もの凄くショッパイのだろう。だが、この辺の海は、船が吐き出すオイルや、汚染水で汚いと言う。どうして、その汚い海で泳がなければいけないのか、七海は分からない。多分、それでも泳ぎたくなる何かがあるのだろう。血が騒ぐ。波が呼んでいる。そんなことを言うようだが、やはり不思議でならない。北海道の摩周湖や、屈斜路湖ならば別だが。
 七海は、平塚駅を出て、商店街を歩いて行った。やがて、シャッターが掛かった店の前に立つと、鍵を廻してシャッターを上げた。まだ、ペンキや接着剤の匂いがする。きっと、二、三日、日に当たると、すぐに落ち着くだろう。
 七海は、長い黒髪を後ろにくくると、まず、床と窓を水拭きして、床をワックス掛けをした。やり方は、レズのお店で、やらされて知っていた。剥離作業はポリッシャーが必要なので、業者に頼むことになるだろう。
 次に、ショーケース、トレー置き、レジ台、それにレジスター。奥に置いてある生地の管理装置、オーブン、ミキサー。
 どれも、中古で安く買った品だが、保証が付いている立派なものである。七海は、それらを丁寧にメタノールで拭きあげて行く。誰が触っているか分からない製品は、そうするしかない。
 窓とシャッターに貼るステッカーを注文しなくては。それに、フジサキ・ベーカリーとデザインしてもらう予定だ。
 ひととおりきれいにすると、パンの材料を注文した。腕が、鈍っていると思うので、練習するためだ。
 気が付くと、朝日が登っていた。七海は、シャッターを下ろすと、新しく借りたアパートへ向かった。少し古いが、歩いて三十分の距離で、部屋は広い。寝に帰るには、十分だ。
 途中に、小さな川が流れていた。よく見ると、大きな鯉が泳いでいる。なんだか、いい夢を見れそうだ。

 店を整備して、ほぼ一か月。漸く営業許可が下りた。食品衛生責任者の証書が、誇らしげに壁に掛けてある。簡単な講習を受けるだけで、もらえた。
 バイトは、常に一人だけにする。主に主婦のパートを採用することになるだろう。
 七海は、その人たちには、さすがに手を出さないと決めた。嫌な噂が流れると、商売に響くからだ。大人しくひたすらパンを焼くと決めた。


(十)

 パン屋――フジサキ・ベーカリーを開店してから、二年と数か月がたった。漸く、経営が軌道に乗って、七海の心に余裕が出て来た。周りのお店とも、うまくやっている。いたって平和である。七海は、もらい物の焼き栗やお煎餅を、おやつ代わりに頬張っていた。たまに食べると美味しいものである。
 午後六時。いつものようにパートが引きあげて、七海が店頭に立っている時だった。その日は、小雨が降っていて、少し肌寒かった。
「いらっしゃいませ」
 傘もささずに、前髪から水をしたたらせた女が一人入って来た。長い金髪にカールをまいて、フリフリのドレスを着ている。まるで、雑誌の中のモデルのように。しかも、胸が大きかった。七海は、気になって目が離せなかった。
「あの、タオルいかがでしょうか?」
 そう言いながら、七海は女の髪に手をかざした。大きな瞳が、現れる。きれい。そう思った。
「どうしたの?」
 女の目は、みるみるうちに涙をためて、やがて大きなひとしずくが、こぼれ落ちた。
 七海は、女を抱きしめる。人が見ていたってかまわない。女は、大声を出して泣いた。あとから入って来た客が、そーっと店を出る。皆、優しいのだ。
 その晩は、はやばやと店じまいした。そして、アパートに連れ帰って、一晩中抱きしめて眠った。七海は、その時は手は出さなかった。弱みに付け込むようで嫌だったのだ。
 翌朝、七海がしたくをしていても、女はまだ眠っていた。七海は、頬にそーとキスをすると、朝食用のパンにサランラップを掛けて、アパートを出た。『鍵は、郵便受けに入れて』とメモを残して。
 七海は、店へ行ってからも終始機嫌がよかった。あの女は、レズじゃないかも知れない。けれど、久々に甘えられて心地よかった。友だち付き合いでかまわないと思った。

 翌日から、女は毎日のようにパンを買いに来た。それも、決まってパートが引きあげる六時過ぎに。七海の顔は、思わず紅葉する。だが、どういうつもりなのか分からない。
 それが七日続いて、七海は確信する。女はレズだと。客の手前、べたべたとはできないと思い、こっそりメモを渡す。『九時に店が終わったら、店の駐車場で』と書いて。
 女は、目をうるませてコクリとうなずくと、パンを買って出て行った。軽やかな足元からスキップの音がしそうだ。
 七海は、店がはやく終わりの時間が来ないかと、そわそわする。午後九時になり、急いで駐車場へ行くと、どこにもいない。ガッカリするが、その車の影から女は現れ七海に抱き着いた。大きな胸の重みに、めまいがしそうだ。
「ビックリした?」
「した」
 そう言って、七海は女に口付けをする。
「そう言えば、名前、聞いてなかったね」
「私は、サーヤ。よろしくお願いします。おねえさま」
 サーヤは、お店の名札で『藤沢七海』と分かっていた。柔らかさを出すために、丸文字であった。
「車に乗って」
「はい」
 七海は、軽自動車を発進する。
「もしかして、沖縄出身?」
「よく分かりましたね」
「イントネーションで少しね」
「本名は、渡真利咲彩です。そう言えば、おねえさまも関西風のアクセントですね?」
「そう。わいは、姫路の生まれや。よろしく頼むど」
「きゃー、素敵ー!」
「サーヤ!」
「おねえさまー!」
 七海は、アパートに着くと、待ち切れないようにサーヤの身体をむさぼった。それは、夜明けを知らせる鳥の鳴き声が聞こえるまで続いた。

 翌朝、七海とサーヤは、それぞれ自分の職場へ向かった。七海は、パン屋フジサキ・ベーカリーへ。サーヤは、コスプレショップ――湘南コスプレへ。二人とも、眠たかったが、アドレナリンが出ていてウトウトすることはなかった。
    

(十一)

 フジサキ・ベーカリーが開店してから四年目を迎えようとしていた。七海は、変わりなくサーヤと付き合っている。だが、短い時間を一緒に過ごすだけで、デートはしていない。たった一人でパンを焼いて、年中無休で働いているので仕方ないが、サーヤは少し不満がたまっているみたいだ。
「ねえ、おねえさま。店も軌道に乗って来たみたいだし、もう一人パン職人を雇ったら?」
「また、その話か。だから、味が変わるから嫌だ」
 ベッドに腹ばいになりマルボロ・メンソールに火を点ける。最近吸い始めたのだが、あの蛾の幻覚を見づらくなったのだ。おそらく精神安定剤の代わりをしていると思う。いいことだ。
「分かったわよ。もう言わない。だから、別れるなんて言わないでね」
「すまないね、いつも部屋で会うだけで、デートできなくて」
「うんん、我慢するわ」
 七海は、サーヤの大きな胸にも、助けられている。その胸で寝ると、夜中に一度も目を覚まさないのだ。言ってみれば、睡眠導入剤を飲んでいるような気分だ。だが、こちらは起きてから足がふら付くこともないので、たいへんありがたい。
「そうだ。今度、コスプレ仲間を七海さんのお店に連れて行っていい? 凄く、パンが好きなんだって」
「嬉しいな。いいよ、連れて来なよ」
 そうは言っても、七海の仕事量は限界に近かった。それは、丹念に作っているからである。これは、人を増やせばいいと言う訳ではない。売り上げを伸ばすには、弟子を育てる必要があった。七海は、それを面倒くさがっている。簡単なことではないのだ。

 翌日の六時すぎ、サーヤは約束どおり店に現れた。思いがけず男を引き連れて。全身黒ずくめで、コミケ帰りか、両手に大きな紙袋を下げている。
「おねえさま。コスプレ仲間のユウトです。こちらは、パン職人の七海さんです」
 七海は、固まったようにユウトを見つめる。ユウトも同様である。
「優斗」
「おねえちゃん」
「……えー!」
 七海は、どう対処すればいいのか分からない。姫路に家族を残して、東京に逃げて来たのだ。だが、優斗は嬉しそうに駆け寄る。
「よかった。生きていたんだね」
 優斗の目から、涙があふれる。七海は、その涙で恨まれていないことを悟り、ホッとして肩を抱いた。
「今、なにやってるんや?」
「大学に行ってるんけど。ほれ、Y国立大学」
「頑張ったんやねぇ」
「大したことあらん」
「でも、遠くへ来たんやねえ」
 それ以降、優斗の口は重たかった。それでも、どうにか聞き出すと、優斗も、母に黙って家を出て、バイトをして大学へかよっていると言うのだ。七海は、笑い出してしまう。そして、妹も家を出て、金沢で元気に暮らしていると言う。妹は、弟と連絡を取っていた。
「今、電話番号送るから」
「うん」
 赤外線で、電話番号を交換する。どうやって、振り込みをしているか聞いたが、ごまかされた。多分、誰かお世話になっている人がいるのだろう。
「あ、もうすぐバイトの時間だ。それじゃ、またゆっくり話そう」
「待って。荷物になるけど、パンを持って行って」
「こんなに? この匂い、懐かしいな」
「食べきれないなら、バイト先に配って」
「うん。それじゃ、また」
 優斗は、あわただしく出て行った。

 それから、優斗は数回泊まりに来て、卒業と共に姫路に帰ることにした。はやり、母を捨てることはできなかった。母に強制されて同居するのではなく、自分の意思でそうすることは、天と地ほどの差がある。一度、母を捨てたことで、心に余裕が生まれたのだろう。頼もしい笑顔で、七海にお別れを言った。その笑顔が、七海にはとてもまぶしかった。


(十二)

 店を開店してから十年目の夏。七海とサーヤは、別れたりやり直したりを何度か繰り返した。七海の仕事が忙しいので疲れているのに、サーヤがべったりとまとわりついて来るのが原因だった。だが、七海はそれに気が付かない振りをしている。歳を取ったなどとは認めない。いつまでも、二十歳の頃の気分でいるのだ。
 それでも、三十歳の誕生日を迎えて、将来に不安を持った。七海は、子供をどうにかして持ちたいと、考えていた。

 午後九時の閉店間際、長身のサラリーマンが入って来た。オドオドとキョドってはいるが、かわいい顔している。
「いらっしゃいませ」
「ど、どうも」
 七海は、上から下まで眺めた。
 名札を外し忘れている。どうやら、市役所に務めているみたいだ。名前は、坂ノ下洋平。歳は三十歳ぐらい。身長は百八十センチほどあって、肩幅がある。似ている。
 髪はさっぱりと短くそろえて、パリッとしたワイシャツは奥さんがいるように見える。しかし、薬指に指輪がないので独身のようだ。爪は、短く切りそろえており、清潔を保っている。靴は、はき古しているがよく手入れしている。
 七海は、好感を持った。
「あのー、失礼ですが名札、外し忘れていますよ」
「ああ、しまった。ありがとう」
「いいえ。ゆっくり選んでくださいね」
 公務員は、腕時計を見ると急いで選びはじめる。総菜パン数点と、食パンを、トレーに取ってレジに小走りに来た。その心使いにも惹かれる。
「マーガリンとジャムは、どうしますか?」
「あ、両方とも付けてください」
「千五百八十円になります」
「はい」
「ありがとうございます。ところで、売れ残ったパンはいりませんか?」
 七海は、そう言ってお菓子パン、クロワッサンなどをバスケットで出した。全部で六つくらいである。
「よかったら、これ全部、どうぞ」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
 公務員は、顔をほころばせて店を出て行った。
 笑顔で見送ると、七海はシャッターを下ろした。帰りじたくをしながら公務員のことを考えた。キョドっているが丁寧な言葉。かわいいのに、どこか影がある表情。きっと、何か事情があるのだろう。七海は、公務員のことをもっと知りたいと思った。
 店に鍵をかけると、駐車場の軽自動車に乗り込んだ。お気に入りのオレンジ。七海は、車を走らせると、ふたたび公務員のことを考えてしまう。なぜ、こんなに胸が苦しいのだろう。
 アパートに着くと、サーヤが入り口で待っていた。七海は、ため息を付いて車を出す。今夜は、そんな気分ではない。カプセル・ホテルにでも泊まるしかないのか。
 重い気持ちで信号に捕まっていると、先ほどの公務員がコンビニから出て来た。右手には七海の店から買ったパンの袋と、左手には飲み物が入った袋を持っている。どうやら、今から帰宅するようだ。そう思うと、身体が勝手に車をよせていた。
「ねえ、坂ノ下さん」
 七海の声は若干上ずる。まるで、好きな人に声をかける若い女のように。
 それに対して、驚いて後ずさりする坂ノ下。街灯が暗いためか、不審人物に会ったようにおびえるような表情をしている。
 七海は、あわてて付け加えた。
「パン屋の女ですよ」
「……ああ、先ほどはどうも。どうか、されましたか?」
「訳アリでねえ。いきなりで悪いんですけど、今夜、泊めてくれません?」
「え!」
 坂ノ下は、目を白黒させてる。
「いや、本当、泊めてくれるだけでいいんですけど。駄目?」
「女の子が、いきなり駄目ですよ。もっと、自分を大切にしないと」
「女の子って歳でもないですけど。私、今年で三十です」
「それでも、いけません」
「あー面倒くさいなー。私、レズだから、ヤッテもいいわよ?」
「そ、そうでしたか。でも、レズだって人権はあります。そんな投げやりなこと言っちゃいけない」
「驚いた。理解あるのね」
「ええ、まあ。この前、ジェンダーについて研修で習いましたから」
「ああ、それでね。それじゃ、かわいそうな女の人権、守ってよ」
 七海は、そう言うと、坂ノ下の腕を取って車に押し込んで、発進した。こんなことは、はじめてである。七海は、自分の行動に驚いていた。
 坂ノ下は、無理に押しのけることもできず、シートベルトをしめる。あきらめ顔である。
「この道、真っすぐでいいの?」
「はい。それで、あの郵便局の所で、右折してください」
「分かった」
 坂ノ下は、七海の太ももを盗み見てる。足には自信がある。七海は、ほくそ笑む。
「あのアパートです。一番左に止めてください。お客用の駐車場ですから」
 坂ノ下は、車を降りると、階段を上って行った。そして、二〇三号の前に立つと、震える手で鍵を廻した。
「ど、どうぞ」
「おじゃましまーす」
 玄関にはキチンと揃えられた運動靴。ピカピカに磨き上げられた台所。髪の毛一本落ちていないカーペット。そして、一番気になるベッドのシーツは、染み一つなくて、柔軟剤のいい香りがする。このベッドで眠ったらきっといい夢が見られる、そう七海は思った。
「きれいね。男の部屋には見えない」
「そ、そうですか? それより、このパン、食べましょうか?」
「うん」
 坂ノ下は、ひら皿に買って来たパンをよそおうと、ティーパックで紅茶を入れてくれた。オレジペコのいい香りがする。
「いただきます」
 七海は、クロワッサンをほお張る。バターのいい香りが口の中いっぱいに広がる。手の込んだ製法で作っているので、よりサクサクとして香ばしい。師匠直伝のレシピである。
 坂ノ下は、どういう訳か総菜パンをチビチビちぎって食べている。見ていてイライラする。
「ちょっと。私の作ったパンを、そんな不味そうな食べ方しないで。思い切りかぶり付いてよね」
「そうですか? それじゃ」
 そう言って、坂ノ下は思い切り口を開いてかぶり付いた。咀嚼している顔を見ると、笑顔になった。笑い声まで上げている。
「ね、美味しいでしょ?」
「はい」
 坂ノ下の笑顔はかわいい。まるで女の子みたいだ。七海は、決意する。種をもらおうと。
 坂ノ下を誘惑するのは、そんなに難しくなかった。スカートを上げて黒いストッキングを見せたら、その気になった。


(十三)

 翌日、七海は店で身体を動かしていても眠たかった。あくびを何度もする。
 七海は、昨夜のことを思い出す。
 坂ノ下の腰の動きは、はじめぎこちなかったけれど、すぐにスムーズになった。あれは、はじめてではない。きっと、久しぶりのことなのだろう。
 それにしても、私が男に抱かれて快感を覚えるとは。思い出すと、子宮がうずいてしまう。坂ノ下の笑顔がそれをもたらしたのだろう。
 もしも、子供ができたら何て言おう。言わない方がいいのかも知れない。
 七海は、坂ノ下との未来を想像した。それは、幸せな想像だった。

 七海は、午後の休み時間、落ちるように眠った。物音で目覚めると、パートのおばさんが、あきれ顔で立っていた。
「七海さん。時間ですのであがります」
「佐藤さん。ありがとうございました」
 七海は、急いで顔を洗った。水が気持ちいい。さっぱりした気持ちで店頭に出た。
 八時すぎ、売れ残りの整理をしていると、サーヤが現れた。一晩中寝ていないのか、目の下にクマができている。
「おねえさま。昨日は、どこに泊まったんですか?」
「どこだって、いいでしょ?」
「やっぱり」
 サーヤは、泣き出してしまう。大粒の涙が床を濡らして行く。その時、七海はサーヤを抱きしめる。
「困った子だね」
「おねえさま」
「今日は、大人しく帰って。明後日、アパートへ来て。かわいがってあげるから」
 サーヤは、はいと返事をして店を出て行った。もともと、別れるつもりはなかった。最近、少々甘えが過ぎたのだ。七海は、明後日までぐっすり眠れることに、ホッとした。
 七海は、昨夜のことを思い出していた。自分は、女にしか感じないと思っていたが、坂ノ下とはできた。もしかしたら、普通の女になれるかも知れない。けれど、サーヤとは別れたくない。こんな自分をずいぶん勝手な女だと思う。結局、自分はレズなのだと思い知るのだ。

 閉店間際、坂ノ下は前の日のように現れた。今日は、名札をしてない。歩み寄って何か話そうとするが、七海はいらっしゃいませと言うと、表情を変えずに売れ残りのパンを整理する。坂ノ下は、ガッカリしたようにパンを買って出て行った。
 七海は、心の中で謝った。だが、いずれ慣れか、それとも来なくなるだろう、そう思った。


(十四)

 男と交わってから一か月余りが過ぎた。七海は、生理が止まり熱っぽく、吐き気をもよおした。確かに、命の誕生を感じてる。
 午後、パンを焼き終わって、近くの産婦人科へ行った。受付で問診表に書き込むんで待合室と入ると、そこには数人座っていた。そして、お腹の大きな妊婦の隣が空いてたので、一言断わって席に着く。
 七海は、隣の妊婦の大きなお腹をまぢかに見て、圧倒される。こんなに大きく育って、膣から生まれているのか。きっと、死ぬほど痛いに違いない。それでも、この妊婦はこの命を産むのだ。七海は、なんて神々しいのだろうと思った。
「あの」
「はい、なんでしょう?」
「お腹、さわっても、いいかしら?」
「どうぞ」
 妊婦は、小さな子にでも話すように、ほほ笑んだ。
 七海は、そーっとお腹に触れる。思ったよりも固い。こわごわと、お腹をなでていると、何かが七海の手を蹴った。七海は、驚いて手を離した。
「あら、ごめんなさいね。この子、わんぱくだから」
 そう言って、妊婦は笑った。七海は、自分の手のひらを見つめる。確かに、ここに新しい命がある。そして、自分のお腹にも宿っているかも知れない。この掛けがえのない命を守りたいと思った。
 七海は、ありがとうございましたとお礼を言った。それから数分して、検査に呼ばれた。検査結果は、陽性だった。色々注意を受けて病院をあとにする。煙草を控えるように言われたのが、一番こたえた。
 病院を出て、六時すぎに店に帰ると、パートのおばさんが待っていた。
「佐藤さん。遅れてすみません」
「いいのよ。で、どうだった?」
「何がですか?」
「子供よ」
「……なぜ、分かったんですか?」
「あんなに、ゲーゲーやってたらね。それより、上手くやったわね。レズなのに」
 全部、バレていた。主婦の目はあなどれないと思った。
「理解あるんですね」
「まさか。でも、あなたの焼いたパンは、好きよ。ネチョネチョしてなくて。まあ頑張って、弟子を育てなさい。分かった?」
「はい」
 七海は、お礼を言って店頭に立った。
 七海は、焼いておいたパンを並べながら考えた。安定期に入る前、体調管理に気を付けよと言われた。だが、パンを焼かなくては食べて行けない。それに、休むと客が減る。苦しいが、騙しだまし行くしかない。
 だが、出産まぢかの数か月間は、さすがに重労働はできないから、パートのおばさんのいうようにパン職人を募集して、同じ味を出せるように育てなければいけない。七海は、翌日から募集のビラを貼った。

 午後六時、パートが引きあげて七海が店頭に立っていると、サーヤが難しい顔をして入って来た。
「サーヤ。どうしたの?」
「ねえ、七海さん。表に書いてあるパン職人の募集だけど」
「誰かいい人いるの?」
「違うの。それ、私ができないかな?」
 七海は、固まってしまう。この仕事は、頭を使うと同時に、重労働を延々と続けなければいけない。とても、普通の女にはできないのだ。サーヤには、無理だと思った。
「サーヤ。この仕事は、なまはんかな気持ちではできない。爪だって、短くしなきゃならないし」
「軽い気持ちで行ったんじゃないわ。私、本気よ」
「サーヤ……」
「いい? 絶対に他の人を雇ったら駄目だよ。明日一日、待っててよ」
 この日の夜、七海は煙草を吸わなくても、蛾の幻を見ることはなく、そして、二度と見ることはなかった。考えられるのは、赤ちゃんができたことによる身体の変化。それとも、時間が七海の身体を変えたのかも知れない。いずれにせよ、七海にははっきりした理由は分からなかった。

 翌日、サーヤは現れた。アルバイトを辞め、長い髪をバッサリ切って、作務衣(さむえ)を着てる。作務衣は、違うと思うが、その心意気に打たれた。七海は、笑顔で握手を求めた。
「よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」


(十五)

 長い夏も終わろうとしていた。七海は、連日サーヤの指導に手こずっていた。どうしても、上手く焼き上がらない。そのため、失敗したパンはお店にも出せず、経営を圧迫した。もちろん、サーヤに給料を払っている所為もある。どうにかして、この状態を打破しなければならなかった。
 頭を悩ませていると、店に坂ノ下が入って来た。七海は、あの日の夜のことはなかったように振る舞っていたのだが、相変らずパンを買いに通って来る。よほど、七海のパンを気に入ったようである。
 七海は、サーヤに隠れて坂ノ下にメモを渡した。『喫茶ヘブンで』と書いて。
 坂ノ下は、それを複雑な表情でポケットに入れると、会計を澄まして出て行った。

 店が終わると、七海は適当な理由を付けて喫茶店に向かった。中に入ると、坂ノ下はコーヒーを飲んでいる。あいた椅子には、先ほど買っていったパンの包みを置いて。
「おまたせ」
「ど、どうも」
 七海は、ウエイトレスに声を掛けてハーブティーを頼んだ。よく眠れるハーブである。
「あの、坂ノ下さん」
「はい……」
「子供ができました」
「え! こ、こ、子供?」
「そうです。あなたの子供です」
「あ、あ、ありがとう。ありがとう。そうだ、結婚しよう」
 坂ノ下は、そう言って泣き出してしまう。きっと、もう来ないでくれと言われると思っていたに違いない。
「坂ノ下さん。子供は産みますけど、あなたとは結婚しません。前にも言ったように、私、レズですから」
「そうですか、残念です……。それじゃ、なぜ子供ができたって教えてくれたんですか?」
「本当に悪いんだけど、少し援助してもらいたくて」
「分かりました。どれくらいですか?」
「十万ほど」
「待っててください。今、コンビニで下ろしてきますから」
 坂ノ下は、そう言って掛けて行った。七海は、ホッとしてウエイトレスが持って来たハーブティーに口を付ける。
 窓の外には、電車を降りたサラリーマンが家路を急ぐ。きっと、家には愛する人が待っているのだろう。七海は、つくづくキツイお願いをしたと、今更ながら思う。心が、ズキッっと傷んだ。だが、それをスンナリ受け入れる坂ノ下の人柄に、心惹かれたのは事実であった。
 間もなく、坂ノ下は息を切らして戻って来た。額には、大粒の汗まで掻いている。
「七海さん。はい、お金」
 ずいぶん分厚いと思い封筒の中を確かめると、百万円入っていた。
「どうして……」
 そんなに優しんだと言いたかったが、喉が詰まって言えなかった。
「僕には、お金の使い道がないから」
 坂ノ下は、そこまで言って、黙ってしまった。七海は、訳を聞きたかったが、秘密だと言って決して話そうとはしない。なぜ、女性と付き合おうとしないのか。なぜ、七海には結婚しようと言ったのか。いつまでも、その疑問は七海の心に残った。
 最後に、七海はお金をもらう代わりに、子供の成長を写真をそえて伝えると約束した。偶然、会うこともあるだろうと言う言葉に、坂ノ下は満足そうに何度もうなずいた。


(十六)

 冬の足音が、ここ神奈川にも押しよせた頃、七海は朝早く車に火を入れて、吐く息で指を温めていた。この頃、サーヤも漸くパン職人が板に付いて来て、七海の手を煩わせることもなくなった。もう、坂ノ下に援助を求めることもないだろう。お腹も目立って来たし、もうそろそろパン作りをサーヤにすべて任せようかと考えていた。

 閉店間際、いつものように坂ノ下は、七海の店にやってきた。張り合いができたためか、声の張りが出会った頃とは違う。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
 坂ノ下は、サーヤに見えないように、メモを渡した。『お願いがある。喫茶店で』と書いてあった。
 七海は、サーヤに店の後じまいを任せて、喫茶店へ向かった。
「お待たせ」
「いいえ」
 七海が、ウエイトレスに飲み物を頼むと、坂ノ下は心配顔で聞いて来た。懐に手を入れて、分厚い封筒が見える。
「あの、お金足りていますか?」
「ああ、そのことね。サーヤが失敗しなくなったから、どうにかプラスになったわ。ありがとうね」
「そうですか……。でも、これはもらってください」
 七海は、一度断るが、強引に渡される。やはり、百万円入っていた。
「それで、お願いと言うのは、言いにくいんですけど」
「なに? 言ってください」
「実は、僕の友人に新聞記者がいるんですけど、七海さんことをうっかり話すと、ぜひ、インタビューしたいって言って。もちろん、名前は伏せるし、礼金もわずかだけど出るようです」
「それは、レズのことね」
「はい」
 七海は、暫し考えた。坂ノ下の友人なら、しつこく質問することはなしだろう。言いたくないことは、言わなければいいのだ。
「お世話になってる坂ノ下さんの頼みだから、断れないわね。分かった、OKよ」
「よかった。いつにするか、後で電話させます」
 飲み物が来て、二人ですすった。まったりする時間が流れる。坂ノ下にとっては、こんな時間でさえ、大切なのだろう。嬉しそうな顔を見ていて、そう思った。
「七海さん」
「はい?」
「お腹、触ってもいいですか?」
「いいわよ」
「失礼します」
「まだ、四か月だから、動かないでしょ?」
 坂ノ下は、大事そうに触っている。まるで、宝物を鑑定するように。七海は、笑みを浮かべて黙って触らせていた。
「あ! 動いた!」
「え!」
 七海も、自分のお腹を触って確かめる。
「本当だ」
 二人は、顔を見合わせ、ほほ笑んだ。
 七海は、坂ノ下の顔を見てドキリとする。やはり、かわいい。七海は、自分はレズなのに、坂ノ下とはもう一度セックスしたいと思った。やはり、彼は別格なのだ。だが、その気持ちを抑えて、「じゃ、またね」と言って帰路に着いた。


(十七)

 クリスマスも迫ってきて、七海は早く用事をすませようと、約束の日を決めた。場所は、ちょっと離れた町の喫茶店。何かと、聞かれたくないことを話すかもしれないので。
 七海が、目立ってきたお腹をかかえ、約束の少し前に店に入って行くと、新聞記者はすでに来ていた。メモを見て、何か確かめているようだった。
「あ、坂ノ下の?」
「はい。七海です」
「お腹が大きいのに、すみませんね」
「いいえ」
 そう言うと、新聞記者は名刺を差し出した。K新聞社社会部編集次長、『柚原裕二(そではら・ゆうじ)』と書いてある。七海は、どのくらいのポストなのか、分からなかった。ただ、それなりに偉い人なのだと思った。
 させ型の短髪に、天地が狭い眼鏡。ネクタイはしてないが、グレーのきれいな背広。いかにも、仕事ができるように見える。
 ウエイトレスが七海の頼んだハーブティーを持ってくると、インタビューははじまった。
「あの、録音してかまいませんか?」
「はい。できるだけ、気を付けて答えますから」
 柚原は、アハハと笑った。だが、目は少しも笑っていない。これからする質問を、頭の中で組み立ているように思えた。
「それでは、まずご自分がレズだと思ったのは?」
「中学生の体育の時に、友だちの胸を見て欲情した時ですね」
「男の子には?」
「かわいい男の子には、少しだけ。ヒゲを見たら、引いてましたから」
 柚原は、乾いた笑いをする。彼のあごには、青白いひげ剃り跡があり、かなり濃いよう見える。
「すみません」
「あ、そんな意味で言ったんじゃありません。あくまでも、レズとしてですから」
「それで、どのくらいの歳で、その体験を」
「十七でキスをしました。でも、その時バイト先のおじさんに見つけられて……」
 言うか言うまいか少し迷ったが、口が勝手にしゃべっていた。それは、とてもつらいこと。
 その時、七海はとがめられ、選択を迫られる。男を愛するか、それとも故郷姫路をすてて出て行くか。七海は、どうしても男を愛すことができず後者を選択する。思い出すたび、胸がしめ付けられる。
「そんな、過去があったんですか」
 柚原は、眉間にしわを寄せると、続けて言った。
「でも、人口の二割は同性愛者だって言うじゃないですか。皆、どうしたんでしょうね?」
「それはきっと、私みたいに選択を迫られて、仕方なく異性と結婚する人がいたんじゃないですか?」
「やっぱり、そうでしょうか。でも、それで幸せな人生を送る人もいるんじゃないかな。何が、幸せの基準か分かりませんが。あ、インタビューしていたのに、語っちゃった。ごめんなさい」
「いいえ」
 七海は、坂ノ下のことを考えた。もしもあの頃、坂ノ下に出会っていたら、きっと結婚してただろうと。そして、いまも姫路でパンを焼いたのかも知れない。
「それで、神奈川に来て、どうにかパン屋をはじめたんですか?」
「はい。それは、もう必死で働きました」
 嘘は言っていない。ただ、詳しく話さないだけである。
「いや、きょうは貴重なお話、ありがとうございました」
 そう言って柚原は、ボイスレコーダーを止めて鞄にしまった。それから、冷めたコーヒーに口を付けると、掛けていた眼鏡を外して言った。
「実は僕、ホモなんです」
「やっぱり。そうじゃないかと思いました。ほら、その目」
 柚原の目は、女から見ても色っぽかった。たぶん、長いまつげがそうさせていたのかも知れない。
「ねえ、柚原さん。どこで、坂ノ下と出会ったんですか?」
「言っときますけど、彼は完全にノンケですよ。彼と出会ったのは、高校時代。僕がホモだってバレてクラスの皆に無視されていた時、唯一僕に話しかけてくれたんですよ。どんなに、馬鹿にされても。そう、いい奴なんです、坂ノ下は」
 そこで、柚原は目がしらを抑えた。十年以上たっても、忘れられない思い出。それが、彼にはあるのだ。
 七海は、ふと疑問を口にした。
「そんなにいい人なのに、今まで結婚できなかったんですか?」
「いいえ。彼は、一度結婚に失敗しています。それも、母親の所為でね」
 話を聞くと、坂ノ下の母親はモンスターペアレントで、大学を卒業してもそのままのモンスターだった。そして、坂ノ下が結婚すると、すべての攻撃を嫁に向かってはじめた。子供がすぐにできなかった事も、拍車を掛けた。嫁は、すぐにノイローゼになって実家に帰ってしまう。いまだに人に会うことに怯えていると言う。
 責任を感じた坂ノ下は、母親をすて家を出た。そして、臆病になって女性とは上手く行かないのだと言う。
 父親は、坂ノ下の元嫁に慰謝料のすべてを払い、もしも母親が坂ノ下に会いに行ったら、すぐに離婚だと言って千葉に留まらせていると言う。
「このままじゃ、坂の下は一人で死ぬことになる。それだけは、回避させてやりたいんだ。幸い、七海さんは坂ノ下と一度セックスしているし、子供だってできている。だから、お願いだ。坂ノ下を救ってください」
 そう言って、袖原は頭を下げた。
 七海は、心動かされたが、すぐには答えられなかった。考えさせてと言って、柚原と別れた。

 後日、柚原の記事は大きく新聞に載った。テーマは『二割の同性愛者の今』。どうやって、隠れ同性愛者を探したのかが、最大の謎である。


(十八)

 クリスマスの日、ケーキを作っていないパン屋はどこも暇であろう。はやばやと店を閉めると、七海はサーヤと共にタクシーに乗って、少し遠くにあるレストランへ行った。七海は、その長身に合う肩の開いた黒いドレスを。そしてサーヤはショートカットに似合うかわいいコスプレをして。二人は、いろいろな意味で目立っていた。
「おねえさま。こんなお店、私来たことがないわ。場違いじゃないかしら?」
「そんな、ことないよ。この店で一番かわいいよ」
 七海がそう言うと、サーヤは顔を赤らめる。三十になっても、こころは二十歳の頃のままである。
 七海は、ギャルソンを呼んでシャンペンを満たしてもらうと、かしこったように言った。
「実は、乾杯の前に、サーヤに合わせたい人がいるんだ」
「えー。おねえさまと、二人きりだと思ってたのに」
「ごめん。お願い」
「分かったわ。でも、今夜は、朝まで一緒にいようね」
「しょうがないわね」
「やったー」
 最近は、お腹の子供に気を付けて、セックスは控えていたのだが、サーヤも無茶なことはしないだろうと、七海は承諾したのだ。
 その時、男が七海たちのテーブルへ歩いて来るのに気付いた。坂ノ下である。彼は、緊張した面持ちで、タキシードをそつなく身にまとっている。
「こんばんは、坂ノ下洋平です。どうぞ、よろしくお願いします」
「この人は、いつもパンを買いに来る人ですね? そう、あなたが赤ちゃんの父親」
 サーヤはそう言って、坂ノ下を上から下までじっくりと眺める。だが、どこにも隙ないのだ。それは、七海のおかげである。
「ふん。赤ちゃんの父親なんだから、これくらいはね」
「こちら、渡真利咲彩。サーヤって呼んでね」
「お噂は、かねがね聞いていました。どうぞ、よろしく」
「どんな噂?」
「それは、コスプレイヤーでいくつもの顔を持っている。でも、メインは巨乳メイドだって。確かに、迫力ありますよね」
「こら。サーヤには手を出さないで」
 七海は、笑いながら坂ノ下に、くぎを刺した。もちろん、坂ノ下はそんなことをするはずはないと、確信している。
「それにしても、かわいい顔してるわね。今度、女装してコスプレしない?」
「ちょっと、止めてよね。さあ、紹介もすんだし、料理、出してもらおうか。あ、その前に、乾杯ー!」
 雪が降っている白いホールケーキ。こんがり焼けた七面鳥。マッシュポテトのツリー。抹茶が入ったバニラアイスとワッフル。
 どれも美味しかったが、中でも七面鳥には、皆喜んだ。まず、スマートフォーンを出してピースサインを収めると、夢中でかぶり付いた。口々に美味しいと言ったのだが、唯一細かい骨に苦労した。


(十九)

 年が明けて、七海とサーヤと坂ノ下の三人は、海沿いに立つ白い洋館を買った。と言っても、全部坂ノ下が出したのだが。
 その洋館は、広いテラスをそなえて、そこでは洗濯物を干したり、日向ぼっこを楽しんだりできた。
 七海は、そのテラスで青い海を眺めながら思った。
 子供生まれたら、一度故郷に帰ろう。遠いようで近い姫路へ。
 母は、元気にやっているか。弟の優斗は家庭を持っただろうか。妹の次子は金沢で結婚して子供を育てているだろうか。パン屋のおじさんとおばさんは、まだ痛い腰を抑えて、パンを作っているだろうか。
 会いたい。会って私は生きていると叫びたい。子供ができて毎日忙しく生活していると言いたい。
 私は、七海。
 姫路に生まれ、東京で危ない橋を渡り、神奈川で今も生きている。


 七海は、六月に三千六百グラムの男の子を産んだ。その子供のために、坂ノ下の籍に入った。


<了>

出典:星空文庫
リンク:http://slib.net/a/18416/
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