20180930-青春だなあ 41枚 (エロくない体験談) 7638回

2018/10/05 21:01┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:あでゅー
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 世の中は、バブル崩壊の時代。佐藤武史は就職に失敗して、その日その日をバイトで食いつないでいた。中でも、コンビニのバイトは、身体が一番楽な仕事で、もう三年勤めている。
「佐藤くん、今日はもう客、来ないみたいだから、上がっていいよ。後でタイムカード押しておくから。ご苦労さん」
「ありがとうございます、店長」
 いついもより一時間早い、午前六時のバイト上り。登りはじめた太陽に思わず手をかざす。その中に見えるものは、夜勤明けの男の疲れ切った顔だった。思わず、コンビニ定員の挨拶が出てしまう。
「お疲れさまです」
 疲れ切った男は、不思議そうに目線を上げて武史を見た。
「ああ、コンビニの。お疲れさま」
 男は、ニッと笑って首を下げて、コンビニへ吸い込まれていった。戦友、そう思っているに違いない。武史は、生きづらい時代を必死になって生きている仲間として、わずかなエネルギーを得た思いだった。
 夜食は午前五時に食べている。これからは、歩いて十分のアパートへ着いて顔を洗い、シングルベッドに百七十六センチの身を投げ出すだけである。そう思うと、なんと気持ちいことか。
 築二十年の六畳一間と、一体型バス・トイレ付。家賃六万円は学生街では、普通だろう。武史は、このアパートに大学一年から住んでて、かれこれ七年もお世話になっている。まさか、これほど長く住むとは思っていなかった。もうそろそろ出て行きたいが、いかんせん金が掛かる。そこまで考えて、思考を停止させた。
 武史は、眠い目をこすりながら、アパートの一階の一〇三号室にたどり着いた。その時、不意に一〇二号室のトビラが開いて、出て来た女と目が合ってしまう。三十歳ぐらいか。百六十センチほどのスリムな身体に、ジーパンにジャンバー言ういでたちで、キャップをまぶかに被っている。武史は、思わずいつもの口癖が出てしまう。
「お疲れさまです」
「え?」
 女は、目を白黒させていたが、探るように「お疲れさまです」と返した。
「あ、すみません。いつもの口癖が出てしまって」
「そうでしたか。えーと、私は昨日引っ越してきた、向田です。よろしくお願いします」
 そう言って向田は、キャップを取って頭を下げた。ボブカットが美しい放射線を描く。そのうなじに、武史は息を飲む。
「俺はコンビニ店員をしてます、佐藤武史です。お弁当は、いつもニコニコ、丸さんコンビニへ。お茶、サービスしますよ」
「あら、そうなんですか。そのお店だったら、今日、行ってきましたけど?」
「それは、どうも。でも、俺は夜番なんで、午後七時からなんですよ」
「それじゃ、晩に、お茶をご馳走になりに行きます」
「わかりました、待っています。では、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 向田は、敬礼をしてさっそうと歩いて行った。もしかして、警察官かなと思いながら、武史は一〇三号室のカギをまわして、部屋に入って行った。眠かったはずなのに、なかなか寝付けなかった。ひさぶりに寝酒をあおった。




 午後二時。佐藤武史は、目覚ましの音を止めて、起き上がる。カーテンを開けると、強い日差しが差し込んで、手をかざす。今日は天気がいい。
 顔を洗って、朝食は食パンにマーガリンを塗って、コーヒーで流し込む。そして、リンゴを一個丸かじりしている間に覚醒する。歯を磨くと、ゆっくりと新聞に目を通した。
 一九九三年四月十九日、月曜日。昨日、航空機事故が発生したらしい。重軽傷者五十八名の痛ましい事故であるが、幸いにも死者はでなかったそうだ。しかし、重傷者の中には、もしかしたら腕や足を失った人がいるかも知れない。武史は、航空機事故はやはり怖いと思う。できたら新幹線で移動したいものだと思った。もっとも、乗る予定はないのだが。
 新聞の見出しにさーと目を通すと、ほかに気になる記事はなかった。続けて挟んである広告に目を通すと、パン屋が新規オープンしたらしい。武史の好きなクロワッサンが、クーポンでなんと百円である。急いで身支度をすると、パン屋を目指した。
 コンビニとは反対側の歩いて十分のところに、お店は開店していた。ベーカリー芳江の看板が新しい。その前は、確か回っていないお寿司屋さんだったが、景気が悪くなって客足が減ったのだろう。その代わり、庶民の見方、安くて美味しいパン屋に生まれ変わったのだ。これも、時代の盛衰として歴史に刻まれて行くのだろう。
 店の中へ入って行くと、客でごった返してある。主婦と学生たちが目を輝かせてパンを選んでいる。武史は、残りわずかとなったクロワッサンをうれしそうにトレーに乗せた。
「あれ! 佐藤さん」
 その声に振り向くと、向田がたくさんの客をかき分けて、にこやかに近付いて来る。白いユニフォームと、清潔そうな帽子を被って、手の甲には白い粉が付いている。その指先を見ると、なにも塗っていない爪が短く切りそろえられている。武史は、その指にも魅力を感じた。
「向田さん、こんにちは」
「今朝から開店したんですよ。あなたにも知らせようと思ったんですが、時間がなくてすみませんでした」
「ええと、もしかして向田さんのお名前が、芳江ですか?」
「ええ、そうです」
 そう言って、向田はバツが悪そうに笑った。たぶん、親がお金持ちなのだろう。そう武史は思ったが、触れられたくないことだと思い、話題を変えた。
「今日が開店で急いでいたのに、声を掛けちゃってすみませんでした」
「いいえ。ところで、このグリッシーニはぜひ食べてくださいね。おやつのように食べれますから。それじゃ、失礼します」
「ありがとうございます」
 そう言って、武史は五本のグリッシーニをトレーに取ると、スコーン、そしてサンドイッチも加えた。夜食には充分である。トレーを年配の女性が待ちかまえるレジのカウンターに置くといらっしゃいませの声が響いて、種類ごとに袋に包まれ、それが大きな袋にまとめられた。武史は、会計をしようと財布を出した。
「向田から聞いております。本日は、サービスですのでお代はけっこうです」
「え! どうも、ありがとうございます」
 たぶん、千五百円はする。これは、ぜひともお返しをしなくてはと、武史は思った。

 パン屋を出ると、学生街は夕日に染まっている。講義を終えた学生たちが、たむろってどこかへ出かける。食事か、それともコンパかわからないが、みな楽しそうになにかを話している。武史は、最近仲のいい友だちはいなくて、一日の内で話すのはコンビニの業務連絡だけである。それを、べつだん悲しいと思ったことはなく、返ってわずらわしくなくて、いいことだと思っていた。
 だが、今日出会った向田ともう少し話していたいと言う欲求がふつふつとわいて来た。武史は、その思いを振り払うように、コンビニへと入って行った。




 午後八時。武史は忙しくコンビニで働いていた。相棒の根岸は気が利かないので、武史が仕切ることになる。製品の補充と発注、弁当の受け入れと賞味期限切れの弁当の廃棄、電気代などの入力、そして店の清掃。やることは多い。武史は、それらをソツなくこなしていた。
 その時、ピンポーン、ピンポーンとチャイムが鳴って、客が入って来た。
「いらっしゃいませ」
 と言って武史が見ると、向田がキャップに手を掛けて微笑んでいる。つられて、武史も笑顔で頭を下げる。向田は、手にカゴを持つと、まず弁当とお茶を選んでから、日用品売り場へ行ってティッシュや爪切りなどを選んだ。そして、雑誌コーナーで文庫本をゆっくりと選んでいる。武史は、その姿を時々盗み見て、弁当の搬入をしていた。
「ありがとございました」
 武史が搬入の業者に挨拶すると、向田はカゴにたくさんの品を持って、レジにやって来た。
「いらっしゃいませ、向田さん」
「どうも、佐藤さん」
「今日は疲れたでしょ?」
 手を動かしながら、言葉を返す。当然、目線は常に製品に行っている。
「ええ、でも今日は完売でしたから疲れも吹き飛びました。明日も、こうだったらうれしんですけど。それで、どうでしたか、味は?」
「すみません。まだ、食べていません。夜食にしようと思って。でも、自信があるから開店したんでしょ? 美味しそうだもの」
「はい、自信はあります。でも、万人に受け入れられないと。だから、ひとりひとりの感想が欲しいんです」
「わかりました。明日のこの時間でかまわないですか?」
「ええ、よろしくお願いします」
「はい、わかりました。えーと、四千六十二円になります」
「はい」
「三十八円のお返しです。お茶は、サービスです。ありがとうございました」
「ありがとうございます、それじゃ」
 微笑みながら、向田は店を出て行った。後ろ姿も格好いい。
「先輩。あの格好いい女性は誰ですか?」
 一緒に見取れてた根岸が、武史のコンビニの上着を引っ張って、言った。
「ああ、あの人はお隣さん」
「先輩、うらやましいです」
「なに言ってるんだ。ただの隣人で、これからはアダルトビデオもボリュームしぼって聞かなきゃいけないんだ」
「わざと大きくして聞かせるとか?」
「バカ」
「へへへ」

 武史は、深夜零時に夜食を食べた。クロワッサンはバターがほどよく効いていて、サクサクした触感が食欲を誘う。サンドイッチは、ちょっと硬めの食感で、新鮮野菜とハムにマッチした黒コショウが絶妙である。そして、グリッシーニはサクサクしてまるでおやつのように胃袋に入ってしまった。
 なるほど、これだけの腕があれば、勝負してみようと思っても、不思議ではない。武史は、いちどでファンになった。




 武史のシフトは、夜七時から朝の七時まで。週に一日、不定期に休みを取っている。その方が、ありがたられ、時給がいいのである。そして、常に夜番で時給は跳ね上がる。それで、月二十五万もいただいているのである。
 バブルがはじけた時代。バイトでこれだけもらったら文句は言えない。まじめにコンビニ店員を勤めていた。

 午後八時過ぎ。向田は現れた。今夜の服装はガラッと変わって、あわい色のセーターに、ベージュのフレアスカートを身にまとっていた。店内にいた人は、みな彼女にくぎ付けである。もちろん、武史も恋人に向けるような視線を送って、いらっしゃいませと言った。
「こんばんは。それで、食べてみた感想は?」
 向田は、よほど武史の言葉が聞きたかったように、矢つぎばやに言った。まるで飼い主に餌をねだる子犬のように。
「美味かったですよ」
「本当ですか? よかった。で、どこがよかったですか?」
「全体にサクサクした噛み応えで、俺の好きなクロワッサンなんて香ばしくて、なにも付けずに全部食べちゃいました」
「本当に? うれしいな」
 向田は、満面の笑みでよろこんだ。武史は、思わず抱きしめようと思ったが、ふたりはそんな関係ではない。おまけに、今は勤務中である。
「すみません。俺、今バイト中なんですよ。しかられますから」
「佐藤さん、バイトの時間って、いつなんですか?」
「夜七時から朝の七時までです」
「私が、朝六時から晩の八時までですから……」
「合いませんね、時間が。それに、俺のお休みは、大抵、平日ですから」
 武史がそう冷たく言うと、向田は固まってしまった。
「すみません。それじゃ」
 そう言って、武史は通常業務に戻って行った。
「先輩。もしかしてフラグが立っていますよ。コーラを補充している場合じゃないでしょう?」
 後輩の根岸だけではない。コンビニにいる者は、みんなそう思っているに違いない。だが、武史の考えは違った。向田は、パンの評価をよろこんでいる。決して、コンビニ店員が好きになったとは考えられない、そう思っていたのである。
 そもそも、武史が向田にはじめて会った時に、コンビニ店員だと告げたのは、世の中に対する引け目からだった。どうせ俺なんてバイトを職業としていて、いちども正社員になれなかったのだから、誰も好きになるはずはない、そう信じていたのである。
 だが、向田の受け取り方は違かった。コンビニ店員であることに誇りを持って、どうどうとそれを告げる武史を、精神的に大人であると思っていたのである。
 ふたりの初対面は、はたから見たら上手く行ったように見えて、その実、決してまじわらない平行線だった。
 向田は、肩を落として帰って行った。まるで、己が交際を断られたように。




 武史が拒絶した翌日、向田は変わらずに現れた。前日と同じ柔らかい色の装いで。
「いらっしゃいませ」
 無言で会釈をする向田。ゆっくりと弁当を選ぶと、カウンターにカゴを置いた。
「いらっしゃいませ」
 武史の声に対して、やはり無言である。それを見ている根岸は、息を止めてうかがっている。
「五百二十円になります。それから、お茶は、サービスです」
 向田は、六百円をカウンターには置かずに、武史に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
 受けった時に、向田の手が触れる。武史は、気を持たすのは止めてくれと心の中で叫んだ。
「あの」
「はい」
「バイトの前に、私の仕事場へ来ていただけませんか?」
「え!」
 武史は、思わず手を止めてしまう。
「私の仕事を知ってもらいたくて」
 向田の目は真剣である。
 武史は、前々からパン工房に興味を持っていた。だが、募集が中々なくて、あきらめていたのである。それを見せてくれると言うのだ。向田との関係を考えないで、思わず言っていた。
「ぜひ、見せてください。お願いします」
「よかった」
「向田さん……」
「ほら、さっさと会計してね」
「すみません」
 向田さんは、会計を終えると、にこやかに会釈をして店をあとにした。
「先輩、よかったですね」
 根岸はそう言って、武史のわきばらを小突いた。
「いて」
「まったく、先輩は意固地なんですよ。コンビニ店員だって、恋する権利はありますよ」
「根岸くん……」
「明日は、早起きして行ってくださいよ。そして、パンの作り方、よく見て来てください」
「そうするよ。ありがとうな、根岸くん」
 その時、お客のひとりが言った。
「青春だなあ」




 翌日のお昼に目が覚めてしまった。あいにくの雨だった。武史は、シャワーをあびると、朝食もそこそこに傘をさして表へ出た。この雨は、夜半には止むと今朝の天気予報で言っていた。それにしても、激しい雨である。武史は、ジャンバーの襟を立てて歩いて行った。
 ベーカリー芳江に着くと、武史は傘の水滴をはらって、店の中に入って行った。今日も大勢の客が来ている。武史は、客の中をかき分けて店員に声を掛けると、厨房のトビラを開けた。
 向田は、白いユニフォームに身を包み、ステンレスの台の上で、生地を織っていた。武史が、来たのがわからないほど、真剣にその動作を繰り返している。武史は、唾が飛ばない距離で、声を掛けた。
「こんにちは、向田さん」
「ああ、ビックリした。佐藤さんでしたか」
 向田は、うれしそうに微笑んだ。武史もそれにつられて笑顔になる。
「今、クロワッサンの生地を織っています。これを、五十四回繰り返します」
「大変ですね」
「そうでしょう。あと十回ほど織ったら、食パンを仕込みますから、ちょっと待っててくださいね」
「はい」
 厨房の中はひんやりとするくらいの温度で、十八℃くらいか。その中で、向田はもくもくと生地を織っている。きっと、クロワッサンを織るには、中に織り込んだバターが溶けないくらいの温度がいいのだろう。それでも、向田の額には汗がにじんでいるので、かなりの重労働のようである。長袖のユニフォームで腕は見えないが、スリムな身体のわりにきっと太いだろう。
「できた。あとは冷蔵庫に一時間、寝かせてから焼き上げます。そうすると、ちょうど夕食の時間に合いますから、匂いにつられてみなさん、買ってくれます」
 そう言いながら、向田は切り分けた生地を丁寧に冷蔵庫に入れて行った。
「寒いでしょう? 今、お厨房の温度、上げますから」
 そう言って、向田はクーラーの温度を上げた。そして、汗を手拭いでぬぐうと、一口、ペットボトルの水を口に含んで、両腕を上げてひとつ伸びをした。
「あ、この動作はルーティンで、ひと作業終えるごとにしています。疲れが溜まらないから、佐藤さんもやってみてください」
「わかりました。コンビニで作業をひとつ終えるたびにやってみます」
「それじゃ、食パンの仕込み、はじめますね」
 向田は、小麦粉の袋からステンレスの容器に計り取ると、大きな撹拌機に入れた。そして、水、砂糖、塩、バター、ドライイーストを次々と加えると、撹拌機のスイッチを押した。
「どう? 食パンは疲れないでしょう? 手でこねるのは、焼く前の形を整える時だけだから」
 そう言って、向田は再び顔を拭いて水を飲むと伸びを打った。無意識の内にできるらしい。
「明日から、やってみる?」
「え! いいんですか?」
「コンビニの仕事ぶりから、スカウトしようと思ったのよ」
「本当に?」
「本当に。明日の三時に入ってくれる? その時間にクロワッサンの仕込みをはじめようと思うから」
「わかりました」
「よかった。これから、食パンの仕込みの仕上げ、はじめますから、見ていてください」
「はい」
 そう言って、向田は撹拌機から生地を出すと、三十℃のホイロ(恒温機)に入れた。そして、隣りのホイロから生地を出すと(たぶん、何時間か置いたのだろう。)、ガスを抜いてすばやく切り分けて、形を整えた。そして、四十℃のオーブンで三十分置くと、食パンの型にショートニングを塗って生地を乗せると、二百℃のオーブンに入れた。
「食パンは、形を整えるのが肝ね。上手くやらないとパンがきれいにさけないから」
 そう言って、向田は手で引きさく動作をした。
 タイマーで三十分後に、焼き上がった食パンをオーブンから出すと、いい匂いに厨房が満たされる。武史は、こんな匂いに包まれて仕事ができる幸せを感じていた。
「どう、いい匂いでしょう?」
「はい、本当に」
 向田は、その言葉に満足そうに微笑んだ。
「それで、給料だけど時給二千円でいいかしら?」
「え! そんな、もらえませんよ。教えてもらっているのに」
「佐藤さん。覚えるのも仕事だよ。すぐに、戦力になってもらうからそのつもりで真剣にやってね」
「わかりました」
「これで、私の労働時間が十二時間切るわ」
 俺は、十六時間労働になると言おうとしたが止めた。いずれコンビニを辞めなくていけないと、武史は思った。
 その時、雷が鳴り響いて一瞬電気が消えた。
「きゃ!」
 そう叫ぶと次に瞬間、向田の身体が武史の腕の中にあった。その感触を武史は味わう。そう言えば、セックスしたのはもう四年も前になる。就職が上手く行かず、女に見限られたきりだった。
「す、すみません」
 そう言って、向田は背を向けた。それは、真っ赤になった顔を見られないためか。
「佐藤さん。もう、コンビニの時間ですよ」
 その声に、腕時計を見ると、あと十分で午後の七時だった。武史は、しつれいしますと言うと、傘をさしてコンビニへ走って行った。




「先輩、ねえ先輩!」
「ああ、根岸くん。どうしたんだ?」
「しっかりしてくださいよー」
 根岸は、泣きそうな声でそう言った。
「え?」
 武史が手元を見ると、空き缶のバーコードをなんども読み取っていた。お客が、心配そうにレジに立っているのに気が付くと、あわてて間違いを消去して会計をはじめた。
 いつもの武史は、テキパキしているのに、今日の彼はまるで魂を抜かれたように別人だった。
 レジを打ち終えると、武史の意識は再びどこかにさ迷っていた。根岸は、ため息を付いて武史の両手を抑えると、お願いした。
「先輩は、今日はなのもしないでください。僕が、やっておきますから」
「……でも、根岸くんは搬入なんかしたことないんじゃ?」
「大丈夫です、先輩の仕事ずっと見ていたから、できます」
「根岸くん……」
 今日の根岸は、いつにも増して、頼もしく見える。武史は、自分で何でもやり過ぎたと反省し、ありがとうと言うと、バックヤードに消えた。
 武史はイスに腰掛けると、ボーとした頭で根岸とお客の会話を聞いてしまう。
「いらっしゃいませ」
「ねえ、今日の彼、おかしいんじゃない?」
「お客さんも、そう思いますか?」
「あれは、きっと恋わずらいだよ。にやけた顔を見るとわかるよ」
「実は、パン屋の美人にラブコールを受けて、今日行ったんですよ。そして、帰ってきたら、ああなっていました」
「やっぱり」
「治るでしょうか?」
「治ると思うけど、きっと長引くなー」
「はあー」
「あははは、青春だなあ」
 そう、うらやましいそうに言って、お客は店をあとにした。雷が鳴り響く中、お客の足取りは軽やかだった。




 次の日から、武史は午後三時からベーカリー芳江で働き、午後七時からコンビニでバイトをすると言う生活をしていた。身体はつらいが充実した毎日をすごし、短い期間でお客に出すパンを任せられようになった。
 なぜ、これほど優秀なのに正社員として就職できなかったかと言うと、それはプライドが高かったからである。
 IQ一八〇。それが武史の知能指数。そんな知能を持っていて、勉強をせずに遊びほうけて、入った大学は三流のなんの技術も身に付かないところであった。
 それなのに、就職活動ではへんなプライドを持って、一流企業しか受けなかったのだから、就職に失敗するのは当然だった。親にも見放された武史は、やむなくコンビニのバイトの面接を受けたのである。
 だが、徐々にいい方向に変わり始めた。それを、武史は身体で感じていた。

 午後九時、コンビニの客はまばらで、いそがしい時間をすぎた頃だった。武史は、先に休憩を取って、しばし目をつむって仮眠をむさぼる。その時、バックヤードへ根岸が、あわてて入って来た。
「先輩。今、先輩にお客さんが」
「ああ。ありがとう」
 武史が、店頭に顔を出すと、そこにはスーツを着たグラマーな女がいた。
「くるみ」
「武史、ひさしぶり」
「どうしたんだ?」
 卒業以来、三年ぶりの再会である。確か、文具メーカーに勤めたと思うが、化粧が上手くなって、ますます遠いところへ行ってしまったと、くるみを見つめる武史の目に、まだ未練がある。大学一年から付き合って喧嘩もしたが、心底愛していた。だが、武史の就職が中々決まらないうちに、くるみは距離置くようになり、卒業と共にお別れをした。
 そして、誰からか聞いたのであろう、武史の勤めているコンビニへ訪ねた来た。武史は、一体なぜ会いに来たのかわからなかった。
「元気そうね?」
「まあまあね」
「その分だと、世の中のきびしさがわかったようね?」
「ほんと、バカだったよ、俺」
 そう言って、武史は力なく笑った。それを見て、ほっと安心したようなくるみ。
「ねえ、小さな事務用品の会社だけど、正社員になる気はない? もちろん、給料は安くてサービス残業はあるけれど、社会保障はあるから安心よ?」
「くるみ……」
 なぜ、俺に就職を世話してくれるのか疑問はあったが、くるみの申し出は、正直ありがたかった。だが、今は向田に付いてパンづくりを学んでいる所だ。これが、生涯の職業になるかはわからないが、途中で止める訳にはいかない。向田について行こう。そう、武史の中で答えを出した。
「ありがとう。でも、今はやりたい仕事があるんだ。だから、その話は遠慮するよ」
「仕事ってなに?」
「パン作りだよ」
「パン? それで、その仕事は安心なの?」
「いや、俺はやり始めたばかりだし、開店したのはついこの間で、まだ安定のかはわからない」
「それでも、やってみたいのね?」
「うん」
「わかったわ。でも、気が変わったらすぐに電話してね」
「電話番号は?」
「ポケベルは、あの頃から変わってないよ」
 そう言ったくるみの顔はひどく悲しそうで、無理に笑っているのがわかる。まだ、武史を愛しているのだろうか。くるみの後姿は、駅に向かって歩いて行って、やがて消えた。




 なにかもが順調だった。武史は、はやばやと食パンの製造を任さられ、難しいクロワッサンもOKが出た。あとは、折り込みパンなどをひとつずつ習得していった。また、総菜パンは、おいおいやることした。
 コンビニのバイト時間を徐々に減らしてもらってきたのだが、もうそろそろパン職人一本にしぼろうかと思い、コンビニのバイトを辞める時をうかがっていた時だった。
 朝眠ってすぐに、電話がなった。武史は眠い目をこすりながら、受話器を取った。
「はい、佐藤ですが?」
「こちら、長野総合病院ですが」
 一気に目が覚めた。武史は、緊張して用件を聞くと、母が倒れたと言う。すぐにコンビニとベーカリー芳江に電話して事情を話すと、駅に向かった。
 長野に向かう列車の中で、武史は親不孝な自分を恥じた。小学校の時に父が死んでから、たったひとりで育ててくれた母。大学の学費を奨学金にたよらず、必死で仕送りをしてくれた。それなのに、就職もせずに心配かけた自分が恥ずかしい。
 武史は、はじめて後悔の念に駆られた。

 長野総合病院に着いて病室を訪ねた。名札を確認して病室へ入って行くと、母は眠っていた。三年見ぬ間にますます痩せたようである。看護師に病状を尋ねると、若い女性医師が説明をしてくれた。
「お母さん、ずいぶん無理していたようで、腎臓がだいぶ弱ってました。透析をして、今は落ち着きましたが、週二日の透析が必要です」
 原因は、過労による高血圧と診断された。そんなになるまで仕送りして、その時俺は遊びほうけていたんだ。武史は、そう思うと涙が止まらなかった。
「母さん、これからは俺が面倒見るから、ゆっくり休んでね」
 その言葉を、眠っている母に語り掛けた。




 雨の降る中、夜行で東京へ帰った武史は、出勤する向田を待っていた。やがてカギがまわり、向田はくらい表情で武史の前に現れた。
「佐藤さん」
「さっき、帰ってきました」
「それで、お母さん、大丈夫だったの?」
「はい。どうにか持ち直して、よく眠っていました」
「よかった」
 向田は、自分の母親のように、よろこんだ。目じりに涙までためている。その向田の表情を見て、武史はこれから言うことに躊躇した。だが、言わなくてはならない。喉の奥から鉛を吐き出すように口を開いた。
「向田さん、本当にごめんなさい……。パン工房を辞めさせてください」
 武史は、それしか言えなかった。向田は、思いも掛けないその言葉に、声を失う。呆然と、流れ落ちる雨を見ていた。静かに、時間が過ぎて行く。
「それで……、どうするの?」
「大学時代の知り合いに、仕事を世話してもらって、正社員として働こうと思います」
「そうか……。お母さんのためだよね?」
「はい、俺が守ってやらないと」
「そうか……、お母さん、大事にしてね」
「それじゃ、失礼します」
「さようなら」
「……さようなら」
 向田は別れを言うと、雨の降る中、足早に歩いて行った。口に手をあてて、声をもらさぬように。
 武史の足は重たかった。あんなによくしてくれたのに、これから告白しようと機会をうかがっていたのに、これで終わりだなんて。
 だが、前を向いて歩いて行かなければならない、母のために。武史は、自室のカギをまわすと、くるみのポケベルにメッセージを入れた。


十一

「さあ、挨拶して」
「今日からお世話になります佐藤武史です。よろしくお願いします」
 まばらな拍手が少ない人数を、さらにきわだたせる。
 その後、十人いる社員の自己紹介が続いたが、それを全部覚えてしまった武史。それを見て満足そうにうなずく社長。
「いや、やっぱり頭のいい子を入れてよかったよ。その調子で、仕事をどんどん覚えてくれたまえ」
 先輩社員が説明してくれたのだが、この前辞めた社員が、あまりにも物覚えが悪くって、文具メーカーに勤めるくるみに愚痴をこぼすと、それじゃIQ百八十の男はどうですかの言葉に、すぐに飛びついたと言うのである。
 しかし、知能指数では発想のすばらしさや、アクシデント時の対処の仕方、それに忍耐強さは、測れない。知能指数が高くたって、何か問題が起こるたび、耳をふさいで震える者もいるのである。
 だが、武史の知能指数以外の脳力は素晴らしかった。それは、コンビニでもまれたせいでもあるが、なによりも人の心を読み取る能力がずば抜けているおかげであった。
 武史は、知能指数とこの脳力をフルに生かしいて、仕事をこなしていった。

 事務用品の会社で働きはじめて一か月がすぎた。一日の仕事を終え、喫茶店で待ち合わせた武史とくるみ。軽食をつついて、武史の近況を報告する。
「どう、仕事は?」
「順調だよ。給料も、思ったよりもあるしね。くるみのおかげだよ、ありがとう」
「よかった。それで、お母さんは元気?」
「ああ、透析を週二回しなきゃいけないけど、落ち着いてるよ」
「よかった」
 コーヒーをすすって、パンケーキを口に入れるくるみ。その表情は、とても幸せそうである。
「それで、なにかお礼がしたいんだけど、なにがいい?」
 くるみは、口をナプキンでぬぐうと、おそるおそる口に出した。
「私ね、武史と別れてから、いろんな人と付き合ったけれど、武史以上に私をわかってくれる人はいなかったわ」
「くるみ……」
「ねえ、一緒にお母さんを大切にして行きましょう?」
「それって……」
「ええ。私と結婚して」
「くるみ」
 武史は、くるみの両手を取って、手の甲にキスをした。


十二

 事務用品の会社に勤めて、はや七年の月日が流れた。武史は、仕事があって、ひさしぶりになつかしい学生街を訪れた。ところどころ、見慣れない建物が立って、事務用品の店の道を間違えないようにするのが骨だった。
 仕事が終わると、なつかしいコンビニに行ってみたが、ライバル店の看板に代わっていた。中に入ると、知らない人が忙しく働いていた。武史はさみしく思い、ベーカリー芳江へ足を向ける。
 まだ、ベーカリー芳江はあの場所に立っていた。うれしくなって中をのぞくと、コンビニの後輩、根岸がいそがしく働いていた。まさかとは思ったが、武史は店のトビラを開けずに立ち去った。顔に、やられたと言う表情がにじみ出ているが、目が笑っている。

 武史は、電車に乗ると、向田の顔を思い出そうと思い、目をつむったが、どうしても思い出せなかった。青春は、終わったんだと思うと、頬に涙がこぼれた。


(終わり)

出典:あ
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