ナターシャ (ジャンル未設定) 9488回

2019/01/13 15:30┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:名無しの作者


(一)

 なだらかな丘を下って谷地に着くと、一匹のエゾ鹿がいた。まるで自分の領地であるかのようにゆうゆうと角をこきざみに振って、芽生えたばかりの若草を美味しそうに食んでいる。私は息を呑んで、その姿に見とれてしまった。まだ溶けきれない雪が所々残った沼地で、器用に毒草である福寿草をさけて食べている姿は、生きるために十分な知能を持っていることを示している。話しかけると、返事をしそうだ。そんなことを思ってしまった。
 やがて、私の姿に気づくと、ヒーと一声鳴いて、丘に駆け上がり見えなくなってしまった。私は、その姿を見届けると、コナラなどの炭焼きに適した木を切り倒しにかかった。
 昭和三十年初期。ここ北海道東部の別海町西春別では、まだ酪農に移行していなかった。春にはソバやナタネなどの種をまいて秋にわずかな収穫しか得られず、炭焼きは一年をとおして収入が得られる大切な仕事だが、私たちが持てるような小さい炭窯では十分な収入を得られない。それに、買い取ってくれるところも、そんな多くは買ってくれなかった。それゆえ、当時は借金をして、年を越さなければならなかった。食べる物にも困って、子供はお茶碗に一杯だけ、私たち親は食事を抜くこともあった。みんな生きるのに必死だったのだ。
 そんな中、野生のエゾ鹿に出会うことは、ささやかな楽しみだった。私の背以上に跳躍して逃げるさまは、私に生きるエネルギー与えてくれるし、四月から五月にかけてオスのエゾ鹿から抜け落ちる角をたまに拾っては、あばら家に持ち帰って床の間に飾って悦に浸るのだった。
 加えて北の空にそびえる阿寒岳の雪につつまれた清廉とした山々。これを見るだけで、どんな辛いことがあっても、元気になった。広島の街中で生まれ育った私には、この大自然がなによりもご褒美だった。
 そんな私にも苦手なものがあった。熊と蛇である。その頃は、熊が時々出没して馬や豚などの家畜を襲った。まれに人間が襲われて死人が出たので、誰にでも怖かったであろう。運よく、私の農場には現れなかったが、となり人は熊と戦って胸に深い傷跡を残した。
 蛇は毒を持っていなくても、私は怖かった。それは、一度家の中に蛇が紛れ込んで、寝ている私の首に巻きついたからだ。それ以来、時々うなされて目が覚めたし、毒を持っていない青大将に出会った時でさえ、一目散に逃げる始末だ。今にして思えば、当時の家は薄い外板一枚に、外気を遮断する油紙一枚だけだったので、容易に蛇が入って来たのだろう。

 汗だくで木を切り倒して、炭窯に火を入れると、身重の妻が呼んでいる。私は、いそいで丘を駆け上がると、玄関先で待っていた妻に声をかけた。
「どうしたんじゃ?」
「買い出しに行ってもらいたくて。はい」
 そう言って妻は、私にチラシのうらに書いたメモをわたした。妻は、去年の女の子につづけて、秋にはふたりめの子供を産む。こんどは、男だといいが、こればっかりはどうにもならない。
 妻の生まれた国は、中国にかつてあった満州国である。そこで、中国の大地をかけまわり元気に育った。まわりには、日本人のほかには、満州人、蒙古人、漢人、韓国人などがいた。満州人の中には、妻と仲良くしてくれた人がいて、その友だちの家へおじゃましたときの、甘点心(かんてんしん)の美味しさと、チャイナ服の美しさを、なんども聞かされた。戦争に負けて千キロもの距離を歩いてやっとの思いで日本に帰ってきたときは、なんども死ぬと思ったと言った。父親の故郷福島で父親の帰りを待つ五年の日々。おさない妻は、子供のおもりをして母と兄たちにわずかだが手助けをした。父親が、シベリアの抑留地から帰ったときは、信じられなかったと言った。そして、父親はすぐに北海道行きを決めてっしまって、なくなく雪が背以上もつもり、熊が出る北海道にきた。父親は、ここで二度目の開拓に挑んだのだ*1。
 この話を妻から聞かされたときは、すごい親子だと思った。それで、妻に中国語が話せるかと聞いたが、引き上げるときに全部忘れてしまったと言った。それだけ、過酷だったということだ。

 私は、妻の書いたメモをふところに入れると、自慢のスズキのバイクにまたがって、畑の中にできた山道を走って、十二キロほど離れた西春別旧市街へ向かった。いたるところに雪が溶けて大きな水たまりができているデコボコな山道。この前は、転んで肩をしたたかに打ち付けて、真っ青になりながら診療所に駆け込んでしまった。それゆえ、スピードをおさえている。

*1:満州国の弥栄村(いやさか・むら)から標茶へ移住して二度目の開拓に挑んだものは、多かった。その人たちは、主に富山県、長野県の出身だが、妻の父親は福島県の出身である。


(二)

 あばれるバイクをおさえこんで、西春別旧市街まであと四キロほどになったとき、ひとりの女性が歩いて町に向かっていることに気づいた。茶色の厚手のズボンに、青色のヤッケ、後ろで丁寧にまとめた金髪。あきらかに外国人だった。私はバイクをとめて彼女を乗せるのに、一瞬躊躇した。だが、戦後開拓に入った仲間は、助け合わなければならない。そう思って、バイクをとめて声をかけた。
「どこまで、行くんじゃ?」
「西春別駅前までです」
 広島の海のように青い目が美しい女性は、少し戸惑い、それでもほっとしたように流ちょうな日本語で言った。私は、ゴーグルをとって美しい女性に見とれた。
 西春別駅前とは、西春別旧市街からさらに四キロ行ったところにある町だった。
「お嬢さん。広島弁、わかるんじゃの?」
「はい。私のお友達に、広島出身の人がいましたから」
「ふーん、そうか。ところでバイク、乗っていくか?」
「はい。よろしくお願いします」
 彼女は、うれしそうにそう言って、私のバイクの後ろシートにまたがった。そこには、日本人にありがちな遠慮はなく、やはり外国人だと思った。私は、いつもよりもスピードを落としてバイクを走らせた。
「お嬢さんは、どこの国の人じゃ?」
 バイクの爆音に負けないように大声で聞いた。
「父と母は、ロシア出身です。革命の戦火を逃れて、樺太から日本に亡命したと聞きました」
 無学な私は、それがどれだけ大変なことだったのかわからず、ありきたりの返答しかできなかった。
「ふーん、大変じゃたのー。それで、なんであんなとこ、歩いとったんじゃ?」
「友だちを訪ねてきましたが、留守でした」
「誰の家へ?」
「前田さんの家です」
「ああ、それじゃったらこの前、前田が農作業中に怪我をして、標茶の病院へ行っとる思うよ」
 昭和三十年初期は、この辺にはまだ電話は通ってなかったので、急ぎ用事を伝える手段は電報しかなかった。その電報を打つ場所も十二キロはなれた西春別旧市街に行かなくてはなかった。それゆえ、電報を打つ暇もなく、もよりの泉川駅から汽車(ディーゼル機関車の車両)に乗って隣町の標茶の病院へ行ったのだろう。
 標茶駅と泉川駅は標津線にあって、その間たったふた駅。距離して十キロほど。同じ町内の別海への四十キロとくらべて距離も近くて乗り換えもなく、そして大きくて信頼できる病院もあった。
「え! それで、大丈夫なんですか?」
「大丈夫。肩を脱臼して、大事をとって、病院へ行ったみたいじゃからのー」
「よかった」
 その瞬間、彼女の腕が私の身体を強くつかんだ。そして、厚い防寒具ごしに彼女の胸が押し付けられた。私は、あせってアクセルをふかしてしまった。
「そ、それであんたは、どこから来たんじゃ?」
「ナターシャです。別海から来ました。父は、その町でパンを作っています」
「わしゃ、大野海じゃ。海と書いてカイと言うんじゃ。パンか。それで、どんなパン作っているんじゃ?」
「普通の食パンから、アンパンや、クリームパンも作っていますよ。焼きたては、美味しいですよー」
「それはぜひ、食べてみたいのー」
 私は、生唾を飲み込んだ。聞いた焼きたてのパンに、いやが応にも想像がふくらむ。
「ねえ、私を別海まで連れて行ってくれるなら、ご馳走しますよ?」
「うーん、有難いんじゃが、家には身重のお母ちゃんと一歳の娘が腹をすかしているんじゃ。わしだけが食うわけにゃいかん」
 私がそう言うと、ナターシャはきゅうに黙ってしまった。私は、どうしていいかわからずこう言った。
「なにか、気にさわることを言ったんじゃったら、すまんのー」
「いいえ、なんでもありません」
「えかったー」
「それだったら、奥さんとお子さんの分も持って行ってください」
 私は、ナターシャの言葉によろこんだ。別海までは、道路で三十キロほどの距離。私は、うれしくてつい、身の上話をしてしまった。
 幼いころ、父が他界して、おまけに母が結核にかかり、親戚の家にあずけられて育ったこと。小学校のころ、アルバイトをして映画館で映写機を回していたこと。戦時中に軍需工場で働いていたが、空襲にあって母が死んだこと。広島に遊びに行ってもう少しのところで原爆で死ぬところだったこと。終戦後、漁船に乗って沖縄までいって、米軍の巡視艇に追われ千キロもの距離を逃げてようやくあきらめてくれたが、エンジンが掛からなくなり、なん日も漂流してもう少しのところで死ぬところだったこと。大しけのときに海に落ちて、ついてなければ死ぬところだったこと。それにこりて船を降りて、九州の由布院で炭焼きをしながら温泉につかって一年近く遊んだこと。この北海道に男兄弟三人でやってきて、満州国生まれの根っからの開拓者の妻と出会い入植したと言った。
 こうして思い起こすと、私はついているのかもしれない。それは、亡くなった両親が天国で見守っていてくれるおかげだと思った。
 私の話を黙って聞いていたナターシャは、頑張ったのねと言った。心なしか、ナターシャに頭をなでられたような気がした。
 彼女は、続いて自分の身の上話をした。一九一七年、ロシアの皇帝が革命によって倒され、やがて共産党が支配してソビエト連邦が誕生する。当時、日本領だった南樺太にいた両親の親たちは、追われるように北海道へ渡った。別海に移り住んだ両親は、家業のパン屋を開業する。決して裕福ではないが、家族が食べてゆけるだけの収入はあったらしい。だが、一九四一年一二月、アメリカに真珠湾攻撃をしかけた日本は当時敵国だったソビエト連邦出身の両親たちを厳しく監視した。それでも、日本を離れなかったのは、父親の作ったパンが多くの客に愛されていたからだという。太平洋戦争中に日本で生まれたナターシャは、幼かったのでそのときの苦労をしらない。友だちに恵まれてなに不住なく今まで暮らしてきた。その友だちが嫁に行って、今回西春別まで訪ねてきたという話だ。
 私は、彼女の両親の数奇な運命に驚いた。自分の国を追われるということはどういうことなのか、私には想像もできなかった。だが、非常につらく、心細く、そして悲しかったに違いない。私などが、なぐさめやねぎらいの言葉をかけるのは余計なお世話だと思うが、なにかしてあげたい思いにかられた。残念ながら今の私には、なのもできないとは思うが。


(三)

 別海の市街地の中心部にナターシャの家はあった。日本では、めずらしいレンガ作りの店。その店にはナターシャによく似た風貌の年配の女性がいた。ナターシャは、バイクをおりると小走りに駆け寄り、その女性の腕を引っ張って言った。
「お母さん。この人に送ってもらったの」
「まあ、ありがとうございます」
 少し太り気味のナターシャのお母さんは、そう言って頭を下げた。ロシア人の女性は、年配になると太ることは話に聞いている。その容姿をのぞけば、日本人のような言葉使い、そして振る舞い。私は、日本人以上に親しみやすい印象を受けた。
「いいや、大したこたぁない。こんな時代だから助け合わにゃあ」
「私は、マリア・モロゾフです。そして今厨房でパンを焼いていますが夫は、イワン・モロゾフです。どうぞ、よろしく。それで、あなたのお名前は?」
「わしゃ、大野海じゃ。海と書いてカイと言うんじゃ。よろしゅう」
「まあ、いいお名前ね。それで、お仕事はなにをやっているの?」
「仕事? わしゃ、西春別で農業をしているんじゃ。戦後、嫁と出会って入植したんじゃ」
「あら、そうなの。残念……」
 ナターシャのお母さんは眉をさげてそう言うと、表にとめた私のバイクを眺めた。タイヤは泥水をかぶり汚れているが、ガソリンタンクは銀色に輝ている。
 ナターシャが、お母さんのそでを引っ張って小声でなにか文句を言ってるが、私はお気に入りのバイクを自慢したくてこう言った。
「そのバイクは、知り合いから買ったんじゃ。ええバイクじゃろ?」
「ええ、本当に」
「スズキのコレダST。一二五CCのツーストロークじゃ」
 私は、胸をはって言ったのだが、生暖かいほほ笑みを返されただけだった。バイクに関心のない人には、どうでもいいことだろう。
「海さんは、広島出身よね?」
「ああ、そうじゃ」
「大変だったでしょう?」
「そうじゃ。なにも残っとらんかった。ただ、鉄筋コンクリートの建物だけかろうじて残っとった。さいわい、わしゃとなりの呉に住んどって、難をのがれたんじゃが……」
 私は、十年以上たったいまでも、この話をすると、自然と涙が出てくる。もしも、原爆が一日前に落ちたら、いまの私はいない。この幸運に感謝しなくては。
 私の涙が伝染し、ナターシャのお母さんが涙ぐんだ。ロシア革命の戦火を思い出したのかもしれない。
「ねえ、お母さん。海さんに、たくさんパンをあげて」
「ええ、わかってますよ。ちょっと待っててくださいね」
 大きな紙袋いっぱいにパンはつめられ、私のショルダーバックにすっぽりと収まった。
「こんなにたくさん、悪いのー」
「いいえ、汽車に乗って別海まで帰ったら三時間はかかりますから、大変助かりました」とナターシャのお母さんは、ほほ笑みながら言う。
「そんなに、かかるかのー」
「ええ、それくらいかかるわよ。それじゃ、気をつけて」
 名残りおしそうにナターシャは、言った。心なしか目が潤んでいるように見える。
「ありがとの」
 私はそう感謝して、バイクにまたがり帰路についた。だいぶ行ったところで振り返ったが、ナターシャがまだ見ていた。私は、うれしくなって手を振った。


(四)

 昭和三十年後期。この辺一帯に、酪農が取り入れられた。私の家も妻の実家からジャージの子牛を借り、家の一角を牛舎に改造し、作農地から牧草地へ作り変え、必死になって働いた。そのお陰で、五年後どうにかやっていける感触を得た。
 当時は、トラクターはなく、ペルシュロンという品種の馬が、よく働いてくれた。用途は、馬車やソリを引いたり、切り倒した牧草にテッターをかけて乾かしたり、切り株を抜いたり、妻は裸馬にまたがって七キロほどはなれた実家に里帰りしたりと、とにかく重宝した。
 一方、私の兄や弟は農業でも四苦八苦していたのに、動物を飼うことにはげしく拒否反応を示して、せっかく手に入れた土地を離れてしまった。兄は、もともとのやっていた大工を、弟は危険だが実入りのいい炭鉱につとめた。西春別をたつ朝、兄たちは私の肩をだいて、元気でなと言った。
 ちょうどそのころ、私の家にもついに電気が通った。それまでの照明はナタネ油を燃やすランプだったが、明るくて安全な電球に代わった。それを追うように電話、水道が通った。電話機は、今では見られない黒い電話。私はうれしくなって、分厚い電話帳から妻の父親の名前を見つけると電話をかけた。
「もしもし、岡野さん方? わしゃ、大野だけどのー」
「やあ、大野さん。あんたのとこにも、電話が通ったんだね。よかった、よかった」
 はじめての電話は、妻のお兄さんが出たが、口べたな人だったので、挨拶だけで終わった。私はそれだけで満足だった。これで、広島にいたころのような、文明的な環境が整ったのだ。私は、より一層仕事に励もうと思った。
 その翌日、ひと仕事終え休憩に家に帰ると、思いがけない人から電話が入った。
「お父ちゃん。へんな女の人から電話」
 妻が不審そうな顔で、私に受話器を渡した。心当たりのない私は、首をひねって電話に出た。
「もしもし?」
「おひさしぶりです、海さん。ナターシャです」
「ああ、ナターシャ! ひさしぶりじゃのー。元気しとったか?」
「ええ、おかげさまで、両親も元気です」
「そりゃあ、よかった。あのときは、うまいパンをたくさんありがとの。家族みんなで味おうたよ」
 私がそう言うと、事情がわかった妻の顔が、般若(はんにゃ)の顔から、いつもの穏やかな顔になった。
「よろこんでもらえて、よかった」
「ところで、なにかあったんかのー?」
「私、来月結婚するんですよ」
「そりゃ、おめでとう。ほんに、よかった、よかった」
 私の言葉に一瞬ナターシャは沈黙するが、すぐに彼女本来の明るい声で言った。
「ありがとうございます。それで、相手の人は前田さんの弟さんですよ」
「ええー!」
「もう一度、嫁いだ友だちに会いに行って、知り合ったんですよ。それで、パン職人にならないかって聞くと、なりたいって言ったんです」
「前田の弟は、見栄えもええし、優しいところもある、ええ男じゃけぇの」
 私は、このとき羨ましいと思ってしまった。それは、ナターシャが嫁になるからではなく、パン職人になることだった。自分には、酪農よりもよっぽど向いていると思った。だが、妻と別れるなんて、どう考えてもできない。私は、妻を心底愛しているから。
「ええ、本当に」
「これで、ナターシャの両親も安心じゃろうね」
「でも、あなたほどじゃないですよ」
「え? なに、急におだてているんじゃ」
「おだてているじゃないわよ。事実よ! あなたは、あの日妻と子供が家でお腹をすかしているから、パンを遠慮するって言ったのよ。普通、私みたいにかわいい女の子をバイクに乗せると、奥さんがいることを隠して、私を口説くものでしょう。それが、まったく感じられなかったの」
「えーと……」
「ごめんなさい。今言ったことは、忘れて」
 しばらく無言のまま受話器を握っていた。妻が不思議そうに私を見つめた。いけないと思い、私は次のようなことを話した。
「それで、いつ結婚するんじゃ?」
「六月十日に……。招待状おくりますから、結婚式には来てください」
「わかった。必ず行くけぇ」
「それじゃ、奥さまによろしく」
「ああ、ありがとの。お母さんにもよろしゅう」
 私は、そう言うとしずかに受話器を置いた。突然のナターシャの告白。私は、非常に混乱した。だが、そんなことはわかるはずもない妻が聞いてきた。
「お父ちゃん。ナターシャって、以前パンをたくさんくれたロシアの人よね?」
「ああ、そうじゃ」
「本当だったのね」
「じゃから、そう言ったじゃろ」
「ごめんなさいね。それでその人、前田さんの弟さんと、結婚するだって?」
「そうじゃ。それで、結婚式にゃあぜひ来てくれって」
「ずいぶんなことねえ。一度、会っただけなのに」
「……」
「でも、前田さんの結婚式だから、行かなくちゃね」
 私は、妻のその言葉にほっとした。その後、夫婦同伴の招待状が届いたが、妻は子供がまだ小さいからと、遠慮した。


(五)

 六月十日。私は、窮屈な礼服の上にジャンバーを着て、バイクにまたがり別海の結婚式場に向かった。
 右手に流れる西別川の水流が穏やかだ。雪解け水がすっかり流れたせいだろう。この川には、秋になると鮭(しゃけ)が海からのぼってきて、自らの命とひきかえに子孫を残してゆく。だいたい三、四年で、自分の生まれた川に帰っていくという。それは、なん万年、なん十万年、なん百万年前からかもしれない。学がない私には、正確なことはわからないが、想像するだけで言い知れぬロマンを感じる。
 そんなことを考えながら別海の外れに来たとき、私はびっくりしてバイクを止めた。土ぼこりが舞いあがる。
「ナターシャ!」
「こんにちは、海さん」
「どうしたんじゃ、こがいなところで?」
「結婚式、逃げてきちゃった」
 ナターシャは、そう言って無理に笑った。私は、そんな彼女を放っておけるはずもなく、バイクの後ろ乗せた。とりあえず行先は、別海から離れたところへ。無言のままバイクをとばして、別海から十キロほど来たとき、私はナターシャに聞いた。
「どこへ行くんじゃ?」
「海さんの家へ行っていい?」
「むさ苦しいところじゃが、ええよ」
「ねえ、奥さんてどんな人?」
「うーん、顔ははっきり言うて、そこそこきれいじゃ。西春別では一番じゃろな。でも、身体はズングリむっくりじゃろうか」
「へー、美人なんだ」
「満州って知っとる?」
「うん、知ってる」
「妻は、満州で生まれたんじゃ。毎日、中国の大地をかけまわっていたそうじゃ。じゃが、戦争に負けて千キロもの道を幼い身体で必死で歩いて、骨と皮だけになって日本に逃げて来たという話じゃ」
 生きて日本にたどりついたのは、まさに奇跡だといえよう。事実、妻のふたりの弟は、中国の大地にいまも眠っている。そんな、妻の味わった苦労にくらべれば、私の苦労なんて笑い話だ。
 ナターシャは、それきり口をつぐんだ。経験もない過酷な逃避行。ナターシャには、いったい何が映っただろう。死のとなりで、懸命に生きることを望んで、なん億歩も足を前に出した幼いころの妻の姿だろうか。それとも、死神の誘惑を打ち払う守護霊の姿だろうか。いずれにせよ、妻は生きのびて、広島から来た私と巡り合ったのだ。奇跡。そう言ってもいいだろう。

 妻とナターシャの対面は、静かに終わった。ナターシャは、だまって妻を抱きしめると、ひと言ふた言なにか言った。あとで妻に聞いたが、笑うだけで教えてくれなかった。
 それから、私たちは妻の作った昼食を仲よくとって、泉川駅へナターシャを送って行った。
「ダスヴィダーニャ」
 彼女は、最後にそう言うと、私に口づけをして、汽車に乗り込んだ。
 行先は、聞かなかった。知ってしまうと、人に聞かれたときに、嘘を言わなければならないからだ。それでも、どこかで生きていると、私は信じているし、きっといつか連絡がくるように思う。


(六)

 ナターシャが、いなくなって三年がすぎた秋の日。私は自動車の運転免許をとるために、仙台の合宿講習を受けようと、出発しようとしていた。そのとき、郵便配達人がバイク乗ってやってきた。
「大野さん。手紙です」
「どうも、すまんのー」
 私は、私あての手紙を受け取ると、読む暇もなくバイクにまたがり、一緒に合宿講習を受ける仲間が待っている泉川駅へ向かって、急いだ。
 約束の時間に間に合ってバイクを駅長にあずけると、汽車に乗り込んだ。ほっとして、先ほど受け取った封筒の裏を見るとナターシャからの手紙だった。私は、急いで封を開けた。

 ナターシャです。海さん。お元気ですか? 私は、函館の修道院に入って、毎日の修行に明け暮れています。
 はじめの頃は、忙しさに目が回りましたが、この頃やっと余裕が出てきて、父や母は元気にやっているだろうかと思いをはせています。けれど、連絡を取ったら、ここへやって来て、連れ戻されるのは目に見えています。
 それで、考えあぐねたすえに、海さんに父と母の様子を見てほしくて、手紙をしたためました。
 海さん。どうぞ、よろしくお願いします。

 それから、手紙を書いたもうひとつの理由をお話します。
 私が、なぜ結婚をやめて姿を消したかといいますと、それは海さん。あなたのせいです。
 私は、あなたと出会ったときに、すでに恋に落ちていたように思います。あなたの日に焼けた精悍としたお顔。たくましい背中。バイクをあやつる俊敏な動き。大変な人生を歩んできたのに、少しも卑屈にならない強い意志。そして、奥さんとお子さんを思いやる優しい心。これ以上の人に果たして出会えるでしょうか?
 そう思ったとき、私の心はざわつきました。けれど、あなたはすでに妻子ある身。私は、途方に暮れいちどはあきらめて、違う人と結婚しようとしました。けれど、どうしても我慢できなくなり当日に逃げ出してしまいました。前田さんの弟さんには、本当にすまないことをしたと今も思っています。
 そして、海さんの家におじゃまして奥さんにあったときの、聖母のようなやさしいお顔に、なにものにも負けない強い意志を感じました。なにについて私が勝つことができるでしょう。私は、負けを認め、心穏やかに生きることのできるここ、T修道院へ入ることにしました。
 俗世の情報はなにも入ってこない閉ざされた世界。毎日がお祈りと、労働の日々。私の精神は、ただキリストとともにあります。
 けれど、ここの生活にも慣れてきたころ、私の父や母は元気だろうか。そう思った次第であります。
 海さん。くれぐれも、父と母のこと、よろしくお願いします。

 あなたのご家族に、幸おおかれ。アーメン。

 手紙はそこで終わった。父親と母親のことを知らせてほしい。と同時に、なにかあったらよろしく頼むともとれる内容だった。私は、正直ほっとした。閉ざされた生活をしていても、やはり親子の愛情は消せないものなのだと。
 便箋には、なんども書き直したペンのあとが残っていた。それでも、言わずにはいられなかったのだろうナターシャの告白から、心のひだを覗いたような気がした。正直、申し訳なく思う。だが、修道院へ入った理由は、私にはなぜなのかわからなかった。そういう生き方もあるのだなと、思うしかなかった。
 私は、十時間後に函館の町へ到着すると観光案内所を訪ねたが、修道女には会えないことを知った。後ろ髪をひかれる思いで、私は青函連絡船に乗り込み、青森をめざした。遠ざかる函館の町を、いつまでも眺めていた。
 手紙を返すことを考え、仙台へ着くと便箋と封筒を買ったのだが、筆不精の私はとうとう出さずじまいだった。ただ、ナターシャの父親と母親の様子だけ電話で知らせた。前田の弟が跡取りとして養子になり、嫁を迎えて子供ができて、店もナターシャの両親もあんたいらしい。だから、心配しないようにと伝えてくれと頼んだ。

 その後、感謝の手紙が届いたが、それきり手紙はなかった。ナターシャのその後は、わからない。



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