Mと妹とぼくと (エロくない体験談) 32723回

2006/07/02 02:31┃登録者:えっちな名無しさん┃作者:名無しの作者
 四年前から妹としゃべってない。

 三年前から目も合わせなくなった。

二年前に妹は大学に合格した。去年、ぼくは大学を卒業した。
今年、就職浪人をするわけでもなく、フリーターになった。
 今日、インターホンが鳴る。配達記録の郵便だった。はんこ
が無かったのでサインで済ませる。はい、ありがとうございま
すの声に、ありがとうございました、と返した。癖だと思う。
A4サイズの大きな封筒、妹宛てだった。
 妹と仲良くなりたい。
 二十三年間、そんなこと思わなかったのに。封筒を見つめる
と、ちょっとだけ力が入った。しわになるのはいけないから、
息をはいてみる。何だかくさいような気がして、歯をみがいた
ら血が出た。
 四年ぶりの妹の部屋と気づく、緊張する。まあるいにおいが
した。ぼくのとは違い、酸っぱいにおいはしなくて。日当たり
のせいかもしれない。妹はベッドに上半身をあずけ、昼寝をし
ていた。そうか、大学はもう春休みだ、そんなことも忘れてい
た。起こすのも悪くて、三分くらい見つめていた。多分、今す
ごく気持ち悪いことをしている。物音に気づいたのだと思った
、妹が起きた。どうやって切り出せばいいのか分からない。恐
る恐る、右手をあげてみた。
「やあ」
 言葉が続かない。
「久しぶり」
 言葉が続かない。
「なっ……なん」
 妹が何かを言いかけて、へろっと顔が歪んだ、泣き出した。
頭のなかが真っ白になってしまう、全然何もできない、何をす
ればいいのかも知らない。ずっと突っ立っていると、
「いやっ、いやです」
 細く、さけんだ。ちらり、にらんでまた泣き出した。ごめん
なさい、謝って部屋を出た。謝ってしまうのも、癖なのだと思
う。ちょっぴりへこんだ。妹の部屋を背にすると、とてもへこ
んでいることに気づいた。涙が一筋、流れた。
 これだけ嫌われているといっそ気持ちいいくらいで。両親が
死んでから、クリスマスもなければ正月もない。おはようだっ
て、ない。妹が高等部に上がってしばらくして、そんな風にな
った。今でもそんな風だ。キモイ男でデブな兄に愛想を尽かし
たのかもしれない。その理由がそれっぽくて、ちょっと納得し
てしまう。そりゃそうだ。こんなのが兄じゃいやだろうな。妹
はまだ泣いている風だった。ため息は、やっぱりにおうような
気がした。
「あの、兄さん」
 ドアを閉めるのを忘れていた、やばいと思った。
「ん」
「ちょっと話いいですか」
「ん」
 妹の顔はなんだかよれていた。
「じゃあ、下に行きましょう。私、お茶淹れます」
「ん」
 返事をすることしかできなかった。だから嫌われるのかな、
と思った。少しして、妹がカップを二つ、持ってきた。飲んだ
こともない、香りのあるお茶だった。
「私、兄さんのことが嫌いです」
 十分間の沈黙の後、妹は口を開いた。もう湯気はたっていな
い。
「そっか」
「私、兄さんのことが憎いです」
「そっか」
「理由は絶対に言いたくありません。でも、兄さんのこと、こ
ころの底から恨んでます」
「そっか」
 会話になっていない。でも、四年振りに妹と話した。うれし
くて、こころのなかでガッツポーズをする――妹ににらまれた
ので、慌てて手をおろした。
「さっきはごめん。そんなのも知らないで勝手に部屋に入った
りして。あの、これ。きみに」
 さっき渡しそびれた封筒を渡すと、ありがとうございます、
妹は頭をぺこり、下げた。
「さっき泣いたのは、別に兄さんのせいじゃないんです」
 妹の顔がまた、くちゃくちゃになる。修羅場はやだな。
「あの、私、変なんです」
「そっか」
 反射的に返事をしてしまって、まずいと思った。けど、妹は
そんなこと気にはしてくれなくて、ほっとする。
「彼氏の携帯を、見たくてたまらなくなるんです。いけないっ
て分かってるんですけど、どうしても覗いちゃって。私、おか
しいんです。ずっと悩んでて、友達に相談しても変だって言わ
れるだけで。でもやめられなくって、何度も何度もそれで破局
して。もう誰にも相談できなくなっちゃって、爆発しそうで。
そしたら兄さんが来たから……」
「爆発した、と」
「そうです」
「そっか」
 また沈黙が部屋に居座った。お茶をごくり、飲みほしたら、
冷たかった。
「兄さん。私って、変ですか」
 自分で変だって自覚してるのに。何て言ってあげたらいいの
か、よくわからなかった。また沈黙か、やだな。正直、彼女な
んていたことがないから、そういう感覚は知らない。仮に彼女
がいたとしても、見たくはならないんじゃないのかな。ぼくは
多分、普通なんだと思った。
 沈黙をどかしたのは、妹のお腹が鳴る音だった。
「あ……」
 妹はうつむいた。耳たぶが赤くなっていた。
「ごはん、買ってくるね。お腹空いたんでしょ」
「はい、すいません」
「ちょっと行ってくる」
 考えがまとまらなかった。逃げた、それが一番正しい。ぼく
は逃げた。上着を羽織って、玄関を出た。まだ二月の末日、寒
かった。朝ごはんも、昼ごはんも食べてないのだろう。妹が普
段どんな生活をしているか、知らない。向かいの吉野家で牛焼
き肉丼をふたつ買った。多分高校生、バイトの子の笑顔がまぶ
しかった――妹もあんな風だったのかな、そんなことを考えた

 妹は部屋に戻っていた。階段を上がり、牛丼買ってきたよー
、ちょっとひかえめに呼んだ。妹は何だかぼんやり見えた。ふ
たりで食べる食事はとても気まずかった。妹がお茶を出してく
れた。お腹がきりきりして、二回もトイレに行った。牛丼は味
がしなかった。妹はもう食べ終わってしまい、手持ち無沙汰そ
うだった。ちょっと勇気を出して、さっきの話だけどさー、話
しかけた。
「携帯はさ、世間では覗かない方がいいってことになってると
思うんだ。その方がスマート、っていうのかな。覗いちゃうっ
て気持ちは悪いことじゃないとは思う。でも、本当に覗くと周
りとの信頼感に関わるから。自分は正しくないって思ってるか
もしれないけど、その世間の正しい、っていうのは、それっぽ
い、とかナイスな感じ、っていうだけで、本当は根拠なんてな
い。きみは黒いんじゃなくて、他の人とちょっと違った色を持
ってるんだと思う。だから、そのことには折り合いをつけてい
く生き方は身につけなきゃいけないんじゃないかな」
 ずっと妹は黙っていた。気まずくなった。多分変なことを言
ってしまったのだと思った。
「何か、えらそうなこと言ってごめん。何言ってるか全然わか
んないし」
 ぼくの焼き肉丼はまだ半分残っている。変な音がしたな、と
思うと妹がしゃくりあげていた。この場合の正解って、何だろ
う。誰か教えてくれ、って思った。正しいのは、何だろう。結
局そのままでいた。へたれでごめん。
 しばらくして落ち着いたらしく、あちらから話しかけてくれ
た。
「兄さんは誰かとお付き合いしたことがありますか」
「いや、全然」
 自分で言っていて、ちょっと悲しくなった。
「じゃあ、誰かを好きになったことは?」
「ごめん、この話は混乱するから確認。その好きっていうのは
、好ましく思う、愛おしく思う、どっち?」
「愛おしく思う方です」
「そりゃあるよ」
 反射で言ってしまった。いろんなことを思い返すとあるかも
しれないけど、ぱっと頭に浮かんだ中にはなかった。うそをつ
いてしまったと思った。
「……そうですか。私は、ないんです」
 ため息みたいな声だった。
「好きでもない人と付き合ってること?」
「そうじゃなくて、好ましく思うの次は欲しいなんです」
「なるほどねー」
「それっておかしいですかね、好ましいと欲しいの間に何かが
ないとおかしいですか」
 妹の視線は、ぼくをにらんでいるみたいだった。
「いやいいんじゃない? それもアリだと思うよ」
「けど、友達はみんな違うって言いますよ」
「それも良いと思うよ。醜いアヒルの子の存在は罪じゃないと
思うし」
「変なお世辞はやめてください」
「いや、醜いアヒルの子が白鳥になるのは百回に一回くらいじ
ゃない?」
 自分で何のたとえ話をしているのか訳がわからなかった。妹
にらむにらむ。ぐさぐさと突き刺さって、痛いような気がした
。ちょっとため息をついて、話を聞いてくれてありがとうござ
いました、席を立とうとしたので、
「じゃー、しばらくぼくとおつきあいのため練習する?」
 なんとなく、軽口が出てしまった。自分で何を言っているの
かよくわかってなかった。それでも止まらない。ぼくはきみだ
ったら何されてもいいよ、携帯見てもいいし。それを聞いて、
妹がとてもとても怖い顔をした。
「兄さん。私は駆け引きが好きじゃありません。だからそのま
ま聞いてくださいね。さっきも言いましたけど、私は兄さんが
大嫌いですし、憎んでもいます。それを忘れないでください」
 そんなことも忘れていた。お昼にした話なのに。妹とおしゃ
べりできて、調子にのっていたのだと思った。
「口調がおかしいのもそのせいなの?」
「大学に入ったときからずっとこれです」
「そっか」
 大学の友達に敬語を使うって、どうなんだろう。少なくとも
ぼくのせいじゃないことを知って、ほっとした。
「本当に大嫌いですから」
 念を押さなくてもいいのに。はいごめんなさいと頭を下げて
、自室に引きこもった。やりきれねー、疲れたよもー。自然と
そんなことばが出た。両親が死んで放っておいたから、かもし
れない。それだったら、ぼくは本当にだめ兄だ。でも、一歩だ
け踏み出せたのは、確かだった。小さく、ガッツポーズをして
みた。

 寝てしまっていたらしい。妹と久々にしゃべった夢を見た。
ほっぺをつねった、痛い。当たり前だ。あれは、夢だったのだ
ろうか。もう深夜だった。
 妹は風呂に入っているみたいだった。ふと、さっきのが夢じ
ゃなかったかどうか確かめてみたくなる。ドア越しに、ちょっ
と話がある、と言ったら、あとで部屋に行きますと返された。
それはちょっとまずい。酸っぱいし、見られたくないものもた
くさんあるし、汚いし。十分ほど片付けてみたけど、エロ本が
あっちからそっちに移動しただけだった。一階は寒いし、ぼく
の部屋はこんなんなので、妹の部屋で話すことになった。少し
してから来てくださいと言われたので、五分待って行った。ま
たお茶を淹れてくれた、今日で三回目。うれしくって、勢いよ
くカップに口をつけたら火傷した。
「話ってなんでしょう?」
 角のある感じだった。
「さっきの話さ、ぼくを嫌う理由ってなんだろうって思って。
教えてよ?」
「言えませんし、言いません。だいたい言ってどうなるもので
もないですから」
 妹はちらり、ぼくをにらんだ。妹はにらんでばかりだ。
「けど言わないと伝わらないよ? ぼくは憎まれているなんて
知らなかったし」
 妹は返事をしなかった。
「それに、憎む相手が何とも思ってないのってつらくない?」
 妹はうつむいた。ぼくも黙った。それ以上、ことばが出てこ
なかった。
「もう寝ます」
「ん?」
「もう寝ます」
「ああ、ごめんなさい」
 今日は謝ってばっかりだ。妹の部屋を背にすると、やっぱり
へこむ。明日からは、もうちょっと頑張ろうと思った。朝ごは
ん、つくってあげよう。あとお弁当。近所のスーパーで材料を
買い込んだ。深夜でも結構お客さんがいるものだ。妹が気にな
った。部屋に行くと、妹はもう寝ていた。自分が気持ち悪いこ
とをしているのは分かっていた。近くまで寄って、今まで放っ
といてごめん、つぶやいた。妹の目尻から涙が流れて、顔がへ
ろってくずれた。寝返りうって、うーって泣きはじめた。肩に
手をおこうとして指先が触れたら、いやです、いやっ、って言
われた。身をよじってよけようとしていた。でも、ここで引い
ちゃいけない気がして、妹の横に腰をおろして、頭をなでた。
いやです、って何度も言っていたけど、ずっとなでた。そのう
ち、ただ泣いているだけになった。まだちょっとひっくひっく
しながら妹は言った。
「兄さんが、大嫌いです」
 うん、と答えた。
「放っておかれたんじゃなくて、ひとりでいたんです」
 うん、と答えた。
「つむじを押すのをやめてください」
 ごめん、と答えた。無意識に押していたみたいだった。落ち
着いたころ、明日はぼくが朝ごはんつくるよ、そう言って妹の
部屋を後にした。
 今まで妹を放っておいたことを、ぼくは後悔し始めていた。
今日はへこんでばかりだ。けれど、ぼくはうれしかったのだ。
余韻に浸っていると、ノックされた。ドアの向こうに妹がいた

「兄さん、私朝ごはんいりません」
「ん」
「朝は食べない主義なんです」
「ん」
「あと、大学も休みなんでお弁当もいらないですから」
「そっか」
「では」
 パタパタ、スリッパの音が家のなかに響いていた。どうにも
長い一日だった。

 四年間、妹とはしゃべっていなかった。

これだけ嫌われているといっそ気持ちいいくらいで。両親が死
んでから、クリスマスもなければ正月もない。おはようだって
、ない。妹が高等部に上がってしばらくして、そんな風になっ
た。今でもそんな風だ。キモイ男でデブな兄に愛想を尽かした
のかもしれない。その理由がそれっぽくて、ちょっと納得して
しまう。そりゃそうだ。こんなのが兄じゃいやだろうな。妹は
まだ泣いている風だった。ため息は、やっぱりにおうような気
がした。
「あの、兄さん」
 ドアを閉めるのを忘れていた、やばいと思った。
「ん」
「ちょっと話いいですか」
「ん」
 妹の顔はなんだかよれていた。
「じゃあ、下に行きましょう。私、お茶淹れます」
「ん」
 返事をすることしかできなかった。だから嫌われるのかな、
と思った。少しして、妹がカップを二つ、持ってきた。飲んだ
こともない、香りのあるお茶だった。
「私、兄さんのことが嫌いです」
 十分間の沈黙の後、妹は口を開いた。もう湯気はたっていな
い。
「そっか」
「私、兄さんのことが憎いです」
「そっか」
「理由は絶対に言いたくありません。でも、兄さんのこと、こ
ころの底から恨んでます」
「そっか」
 会話になっていない。でも、四年振りに妹と話した。うれし
くて、こころのなかでガッツポーズをする――妹ににらまれた
ので、慌てて手をおろした。
「さっきはごめん。そんなのも知らないで勝手に部屋に入った
りして。あの、これ。きみに」
 さっき渡しそびれた封筒を渡すと、ありがとうございます、
妹は頭をぺこり、下げた。
「さっき泣いたのは、別に兄さんのせいじゃないんです」
 妹の顔がまた、くちゃくちゃになる。修羅場はやだな。
「あの、私、変なんです」
「そっか」
 反射的に返事をしてしまって、まずいと思った。けど、妹は
そんなこと気にはしてくれなくて、ほっとする。
「彼氏の携帯を、見たくてたまらなくなるんです。いけないっ
て分かってるんですけど、どうしても覗いちゃって。私、おか
しいんです。ずっと悩んでて、友達に相談しても変だって言わ
れるだけで。でもやめられなくって、何度も何度もそれで破局
して。もう誰にも相談できなくなっちゃって、爆発しそうで。
そしたら兄さんが来たから……」
「爆発した、と」
「そうです」
「そっか」
 また沈黙が部屋に居座った。お茶をごくり、飲みほしたら、
冷たかった。
「兄さん。私って、変ですか」
 自分で変だって自覚してるのに。何て言ってあげたらいいの
か、よくわからなかった。また沈黙か、やだな。正直、彼女な
んていたことがないから、そういう感覚は知らない。仮に彼女
がいたとしても、見たくはならないんじゃないのかな。ぼくは
多分、普通なんだと思った。
 沈黙をどかしたのは、妹のお腹が鳴る音だった。
「あ……」
 妹はうつむいた。耳たぶが赤くなっていた。
「ごはん、買ってくるね。お腹空いたんでしょ」
「はい、すいません」
「ちょっと行ってくる」
 考えがまとまらなかった。逃げた、それが一番正しい。ぼく
は逃げた。上着を羽織って、玄関を出た。まだ二月の末日、寒
かった。朝ごはんも、昼ごはんも食べてないのだろう。妹が普
段どんな生活をしているか、知らない。向かいの吉野家で牛焼
き肉丼をふたつ買った。多分高校生、バイトの子の笑顔がまぶ
しかった――妹もあんな風だったのかな、そんなことを考えた


料理って手間なんだなぁ、つくづく思い知らされた。朝食をつ
くるのに二時間もかけてしまった。あれから、結局一睡もでき
なかった。漫画に触発されて土鍋でごはんを炊いてみたら、ほ
こりくさくて食べられそうになかった。仕方がないので、コン
ビニでパンを買ってきた。いらないとは言っていたけれど、妹
の分もつくった。
 妹はまだ寝ていた。声をかけても起きなかったので、歌った
。嫌いな人に触れられるのはいやだろうなって思ったから、歌
った。曲は天城越え。レパートリーは三つしかない。あの素晴
らしい愛をもう一度、モルダウ、それだけ。すぐに妹は目を開
けて、じーっとにらんできた。気にせず歌い続けた。音痴だけ
ど、気にしない。
「おはよう。目が覚めた?」
 一曲丸々歌ってしまった。かなり鬱陶しかったと思う。
「おはようございます」
 ぺこり、頭を下げた。あいさつなんて何年振りだろう。思わ
ずにやけてしまったかもしれない。ぼくを凍らせるみたく怖い
顔をしているので、ご飯食べよう、と言って逃げてきた。すべ
りまくりだと思った。妹が部屋から出てくる気配はなし。とり
あえず一人でご飯を食べて、バイトに出かけた。

 用意した朝ごはんは食べてくれたみたいだった。調子にのっ
て作った夕飯はカレーと肉じゃが、重いのばっかり。材料が同
じだから楽だと思って作った。センスないなと思った。お腹空
いたけど、妹が帰ってくるのを待とうと思った。また一緒にご
はんを食べたい。
 ドアの音がしたような気がしたので下に降りた。妹は不審そ
うな顔をして台所をのぞいていた。ぼくに気づくとゆらゆらし
ながらにらんでくる。仲良くなりたい欲でいっぱいなので、お
かえりー、なんてあいさつしてみる。カレーのにおいより強い
酒のにおい。妹はとても酔っぱらっているらしい。
「カレーですか?」
「うん、そう。ご飯はこれから炊くけど」
「私の分もありますか?」
「うん。けど食べてきたんだよね? もう遅いし」
 妹の顔がまたぐじゃって歪んだ。
「嫌いです、大嫌いです! 何回も言ってるじゃないですか」
「あ……うん」
「なんでこんなことするんですか? 本当なんですよ」
「ん」
「兄さんは嫌いな人にご飯を作ってもらって一緒に食べる気に
なりますか?」
 また修羅場だ。細木数子にカレー作ってもらって一緒の食卓
を想像した。妹のつらさがちょっとわかった気がした。
「もうやめてください」
 妹は叫んでいた。うん、と言いそうになって、けど言ったら
また情けない気がしたので、目をそらして、言い返した。
「けど……きみと仲良くなりたいし」
 目をそらすぼくはやっぱり情けない。
「いやです、嫌いです」
嫌いです、を繰り返す妹。一分くらい聞いたかな。わかんねー
けどもうやめてくれ、もうたくさんだ、と思いながら聞いてい
た。叫び疲れたのか、妹が一息ついた。それがトリガーになっ
た。
「しーおーびーおーえる!」
「は?」
「しーおーびーおーえる!」
「兄さん」
「しーおーびーおーえる!」
「な」
「超俺馬鹿だけどお前ラブ! しーおーびーおーえる!」
「なに」
「超俺馬鹿だけどお前ラブ! しーおーびーおーえる!」
「なに言ってるぅあ」
妹が戻した。カレーのにおい台無し。お酒のにおいもなくなっ
た。拭いておくからトイレいきなよ、と促した。タオルをひと
つかみ分とって、後始末した。酸っぱい、自分の部屋より酸っ
ぱい。でも、いやじゃなかった。ざばざばとタオルをお湯で洗
った。カレーとゲロのにおいが混ざり合ってきつかったけれど
、お腹は空いた。今からご飯を炊くのも面倒だったから、冷凍
うどんを解凍して食べた。カレーうどんはおいしかった。
 妹はずっとトイレから出てこない。鍵がかかっていた。声を
かけても反応がない。どうやら寝ているようだった。泥酔して
嘔吐すると、のどにつまって呼吸困難で死ぬ、そんなことを思
い出してぞっとした。鍵を開けられないかと思ったけれど、手
に負えそうにない。ドライバーを持ってきて、ノブを分解する
ことにした。ドアノブに体重をかけた瞬間、周りの板ごとばき
っと抜けた。デブ万歳。この家を建ててくれたじいちゃん、手
入れが悪くてごめん。妹はやっぱり寝ていた。洋服はゲロまみ
れで、トイレのなかは酸っぱかった。声をかけても起きない。
仕方ないから、お姫様だっこで運んだ。十段ごとに休むぼくは
、かよわい。力が欲しいと思った。ぼくの服にもゲロがたくさ
んついた。このままベッドに寝かすわけにもいかず、一旦ぼく
の部屋に連れて行った。ベッドに寝かせて、汚れた上着とシャ
ツを脱がせた。聞こえていないだろうけれど、ごめんと謝った
。妹の腹に顔が描いてあった、大笑い。なにやってんだこいつ

 三分くらい笑ってから妹の部屋まで運んだ。口周りを拭いて
、布団をかけて、エアコンをかけた。妹の服は手もみ洗いして
おいた。トイレも掃除をした。まだくさかった。
 玄関にでかい花束が置いてあった。すごくお金かかってそう
。なんかのイベントなのかね。腹踊りやるようなイベントって
なに? ぼくにはさっぱり分からなかった。思ったのは、やせ
ようってことだった。顔はかわらないけど、デブは直したい。
コンビニ行って、妹が常備しているポカリを補充した。こんな
ことやったら怒られるかもしれないと思ったけれど、引いちゃ
いけない、それだけが頭のなかに響いていた。

妹を起こしに行った。やっぱり酸っぱいにおいがした。寝かせ
たときのまま、下着姿で、寝苦しかったのか布団がはがれてい
た。お腹に書いた顔丸出し。三分くらい笑って、ポカリを置い
て帰ってきた。今日は歌うのはやめた。土鍋でおかゆをつくっ
ておいた。今日はほこりくさくない。
 ジムに通うことにした。日常での一番激しい動作がダブルク
リックであるところのぼくは疲れてしまった。運動苦手だから
、きつい。でも、頑張ろうと思えた。家に帰ってすぐ寝てしま
った。

 深夜、目が覚める。明日の朝ごはんの買出しにスーパーに行
った。帰ると、妹が玄関で突っ伏していた。今日はただ寝てい
るだけで、つらそうじゃなかった。またお姫様だっこしたのだ
けど、ジムのせいで全身が疲れて力が入らない。十分くらいか
けて部屋に連れていって、コートだけ脱がせてベッドに寝かせ
た。
 冷蔵庫からエビアンを持ってきて、枕元に置いた。妹が目を
開けてこっちを見ていた。
「……すみません」
「いやいいけど。調子はどう?」
「酔っている気がします」
「まあそうだよね。ちょっと飲み過ぎ?」
「はい……はしゃぎすぎました」
 ふぅ、妹は息を吐き、天井を見つめた。
「兄さん」
「ん?」
「なんであんなことしたんですか?」
「代名詞使われてもわかんないよ。言いたいことははっきり言
わないと伝わんないよ?」
 ごまかしたつもりだった。ここ数日のことを思い返してどれ
だろう、とびびっていた。怒られるんだ。
「いや、あの顔はぼくじゃないよ、もう書いてあったし」
「あっ……見たんですか?」
「いやその、少し。介抱するときに」
「夢じゃなかったんですね」
「ごめん不可抗力。で、そのこと?」
 ふるふる、妹が首を振った。
「……高等部にあがったとき、兄さんの変な噂で一杯でした」
 ぶわっと全身から汗が出た。
「みんな私を白い目で見ました」
「ずっとそのことでからかわれて、あんまり情けなくて」
「うん」
「吹奏楽部もすぐやめちゃって、無視されて」
「だから兄さんが嫌いなんです、憎いんです! わかります?

「今わかったよ」
「それで兄さんはあんなことをしていて何も変わらない」
 だらだらと冷や汗が流れる。妹の顔はどんどん赤くなってい
く。
「なんで? どうして? 今すぐ死んでもいいくらいなのに」

 今死にたくなったよ。

「そっか、死んでもいいか」
「あ……」
「いやいいけど」
 でも、今すぐ死んでいいくらいなのだと思う、こんなだめ兄
は。

 Mという後輩がいた。結構かわいかった。ぼくが高等部三年
の時に、Mに相談された。できちゃって、どうしたらいいかわ
からない、どうしよう。そのときにお金を貸した。なぜかぼく
がMを妊娠させて手切れ金みたいな形で金を渡したって噂にな
って、その噂を否定すると、じゃあ本当はどうなんだって話が
Mのところにいくと思ったから、笑って流してた。そうしたら
、釣り合わないくらいかわいいので尾ひれがついて、Mをレイ
プしたみたいな話になって、それでも流してた。その話が残っ
ていたんだろうな、童貞だけど。
 ぼくの中ではMはいいやつ。
 初等部のとき、ぼくもMも、将棋や百人一首で遊ぶ室内遊戯
クラブに所属していた。ある日、クラブ中に大音量で屁をして
しまった。周りの連中が犯人探ししているとき、はす向かいに
座っていたMはじっとぼくを見ていた。冷や汗が出た。ばらさ
れるんだと思った。Mと目が合うと、Mはにこっと笑って、唇
に人差し指を当てて、内緒のポーズをしてくれた。

 そのときから、ぼくの中でMはいいやつ。

 相談されたときは、Mの相手が道ならぬ相手で、それが露見
するのがまずいと思ったので、周りに言い訳はしなかった。だ
から流していた。正直なところ何やってんだと思ったけれど、
Mのこともその相手のことも好もしく思っていたから、フォロ
ーしてやろうと思った。Mともそう約束した。
 卒業するちょっと前、廊下ですれ違ったときに、ごめんなさ
いって言われた。
 だまされているのかな? でもだまされたことで借りは返せ
たと思うので、それはそれでいいと思っている。それが妹を悩
ませるきっかけになったんだとしても、それはあくまでもきっ
かけであって、責任はぼくと妹にあるんだと、思った。
 そんなうわさ、卒業したら消えているだろうと思っていた。
でも、ずっと根は深いようだった。妹が高等部一年のときは結
構話していたつもりだったけれど、その話は出たことがなかっ
た。ひょっとすると、サインを見逃していたのかもしれない。

 Mとはそこそこ仲はよかった。けど、ぼくに相談したのは金
持ちのボンに見えたのが理由のひとつではあると思う。貸した
のは二十万。堕ろすお金なんていくら必要かわからなかったか
ら、ちょっと多めに。ずっと貯金してきたお年玉を、Mに貸し
た。でも、やっぱり多かったみたいだった。あれば必要なだけ
使っちゃうだろうし、簡単に返せない、こんな額。野暮な自分
に乾杯。金は返してもらっていない。Mが今どこにいるかも、
知らない。出世払いでいいよ、なんて言ったけど、出世してん
のかね。卒業してからMとは一度も会っていない。

 ずっと流していたのは、Mとそう約束したから。ぼく自身、
紳士とは、ということを初めて考えさせられたエピソードだっ
たのだけれども。

 妹が気にしていたことは、その噂のことだった。説明の途中
から身を起こして、けれどだんだんその頭がたれていった。
 一通り話し終える頃には、泣き出していた。
「兄さん」
「ん?」
「その話、本当ですか?」
「ん」
「そうですか……くっ、ひっく、ごめんなさい」
 呼吸ができない風に、妹はしゃくりあげた。
「なに? 信じちゃうの?」
 びくん、肩が揺れ、顔を上げてにらんだ。怖い。
「……うそなんですか?」
 とてもとても怖い。
「そんなに簡単に納得しちゃって終わるのはよろしくないと思
うんだけど」
 妹の顔はまだ怖い。ぼくは目をそらしてことばを続けた。
「伝言ゲーム、やったことある?」
「え?」
「伝言ゲーム。遠足のバスの中とかでやったことがあると思う
んだけど」
「あります」
「あれってさ、最初と最後で、ずいぶん違うでしょ」
「はい」
「そういうもんなんじゃない? きみは最初のほうにいなかっ
たよね」
「はい」
「自分の立ち位置は確認した?」
「はい……きっと端っこにいたんだと思います」
「じゃあ、そこからレッツ反省」
「はい」
 なんか随分えらそうだなと思った。けれど、妹の顔はやわら
かくなっていった。ゆるゆるした顔だった。
「けど、今日は寝ようよ」
「はい」
「もう半分寝てるね」
「はい」
「しーおーびーおーえる」
 超俺馬鹿だけどお前ラブ。妹は変な顔してぼくを見ている。
「おやすみ」
「あの、兄さん」
「ん」
「明日……M先輩に会ってきます。スタート地点の話を聞いて
きます」
「あれ? Mと知り合い?」
「今は電車で乗り合わせても無視されちゃいますけど」
 Mと面識があったなんて知らなかった。妹もMも吹奏楽部だ
ったから、交流はあったのかもしれない。
「そっか。よろしく伝えといてね。それじゃ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
 妹の部屋を出ても、へこんだりはしなかった。かちかち、妹
の部屋から漏れる明かりが消えた。Mはきっと全てを話してく
れるだろう。ぼくは甘いのかもしれない。でも、それが紳士な
のだったら、ぼくはいくらでもMを信じたい。

 そして、Mから電話が来た。

電車に乗って、Mのいる街に行った。メモどおりに進んでいく
と、古ぼけたアパートがあった、二〇八号室。チャイムがなか
ったので、ひかえめにノックした。こんばんは、おじゃましま
す、手土産のシュウマイを渡した。Mはそんなに変わったよう
に見えなかった。おひさしぶり、と何回か言い合った。目を細
めるとすごくかわいい。
 そして泥酔している妹。
 ちょっと飲ませすぎちゃって、と申し訳なさそうに言った。
妹はこたつに入ったまま大の字になって寝ていた。
「ベッドで寝かせた方がいいと思うんですけど、先輩手伝って
もらえますか」
 妹をお姫様抱っこしようとしたんだけれど、力が入らなかっ
た。ジムで筋肉痛もひどい。結局Mと一緒にベッドへ運んだ。
もしや、と思ってお腹のところを捲り上げてみると、猫の顔が
描いてあった。Mがぼくの手をやんわり振り払って、妹の服を
直した。
「あのですね、これはその……すごいですよね。ここまででき
る人なかなかいないですよー」
 ぽん、Mは両手を合わせた。
「いや見たことないけど。すごかった?」
「ええと……ここで話していると起こしちゃうので、そっち行
きましょう」
 二人でこたつに入って、手土産のシューマイやいろんなもの
を突っつきながら飲み始めた。ぼくはお酒を飲まないのでウー
ロン茶。Mは焼酎に色々混ぜながらぐいぐいのんでいた。妹も
こんな風にのむんだろうか。しばらく昔話をした。室内遊戯ク
ラブのときの話をすると、Mはそのことを覚えていて笑ってく
れた。ぼくも笑ってごまかした。Mは本当にぐいぐいのんでい
た。何杯目かをのみ干した後、切り出された。
「あ、あの、先輩」
「ん?」
「あの、あの時、いえ、あのときからずっと先輩に、あの迷惑
かけっぱなしで」
 Mは止まらない。
「あの、借りているのも、あの、返せなくて、あの」
 Mは止まらない。
「あの、すみません、あの、返せなくて、あの、ごめんなさい
っていうか」
 あの、が多いなーって、思いながら聞いていた。果てがない
ような気がしたのでMを止めた。いいから。もういいから。も
う全部許すから。
「え、でも、あの、返さないと」
「違うって。あのときの色々と、今まで返さなかったことを全
部、許す」
 ぼくは息をはいた。
「あの時は、ぼくの中では借りを返したということで、そもそ
も許すも何もないけど」
「え?」
 何のことだか分かってくれなかったようだけど、話を続ける

「お金はめぐり合わせによってはどうしようもない時もあるし
。Mは就職決まった?」
「いえまだ」
「じゃあ、初ボーナスで豪遊よろしく」
 ぼくは笑顔をつくった。ふにゃけた笑顔だった。
「……うわぁっ」
 Mが泣き出した。地獄の魔女のみたく大きい声で、ちょっと
びっくりした。女の人って結構、すごいんだなって思った。こ
こ最近、毎日泣かれている気がする、前はどうしたんだっけ、
って思った。Mのそばによって、頭をなでた。Mがこちらに寄
ってきて、支えきれずに倒れてしまった。ほんとに体力ない。
仰向けになったぼくに乗っかる形で、Mは泣きつづけた。Mの
頭をなでつづけていたが、ジムでのなれない運動がたたったせ
いか、眠くなってきた。Mは泣いているのに。眠気を覚まそう
と、開いている手でほっぺたをつねった、デブだから肉があま
っている。ぐにぐにのばしていると、Mがこっちを向いた、最
悪。
 ぐぢゃぐぢゃの顔で、Mは吹き出した。なにやってるんです
か。いや、胸当たってるし、その、素数を数えるのと併用して
理性保ってる、なんてくだらない嘘をついた。眠気覚ましより
もましに見えるかな、って思った。Mは一瞬目を見開いた後、
変なスイッチが入ったような顔になった、童貞喪失。

 ――。

 しかけたが、しなかった。全然気がこもらない。なゆなゆの
ままだった。裸じゃないから、って言われた。恥かかせちゃっ
てごめん、って謝った。すごく情けなかった。Mは笑って許し
てくれた。またしましょう、って。
 服を直して、腕枕しながらいろんな話をした。血が止まる感
じで腕がしびれたけど、そんなこと口が裂けてもMには言って
はいけないと思った。
 あの時付き合っていた男とはすぐ別れたと聞いた。ちょっと
脱力する。その相手はぼくが色々な噂に晒されていることを都
合がいい、と言ったそうで、それで冷めた、とも聞かされた。
「でもあたしも……実は都合がいいと思っていて。それに甘え
ちゃって」
 また泣き出しそうだったので、きちんと言った。それはさっ
き許すって言った。あのときの全部だから。
「けどそのせいで先輩たちも」
「それがきっかけかもしれないけど、きっかけってだけだから
。ぼくと妹の責任。そこまで気にしなくていいし、しょいこま
れても困るよ」
 ぼくのふにゃけた笑顔は、Mに届いたろうか。
「彼女、ずっとからかわれて。そんなこと知らなくて。あたし
の前でその話する人、いなくて。そんなこと知らなくて、彼女
と話さなくちゃと思っても逃げられて。先輩との事で怒ってい
るんだって思って……」
 もう限界がきて、頭をなでつづけているうちに、寝てしまっ
た。妹とMがなにを話したのか、妹がぼくのことをどう言って
いたのか聞きたくなったりもしたんだけれど、やめた。直接話
そうと思った。

朝、目がさめると隣に妹が寝ていた。
 何度も何度も確認した。これは妹。間違いなし。では昨晩、
致しかけたのは――M。間違いなし。
 こたつから抜け出して、隣の部屋のベッドを確認した。寝て
いるのはM。間違いなし。何がなんだかわからなかったけど、
もうバイトに行く時間だったので、九時と十時に電話する、と
メモを置いて出てきた。いったん家に戻って、着替えて、バイ
ト。
 九時にMのところに電話した。出ない。
 十時にMのところに電話した。出た。
 今日、仕事が終わったら妹を迎えに行くことになった。もう
修羅場はいやだな、直感的にそう思っていた。仕事が終わって
から、ジムにも寄らずに直接Mのところに行った。

 そして泥酔する妹、再び。

 ちょっと飲ませすぎちゃって、と申し訳なさそうに言った。
妹はこたつに入ったまま大の字になって寝ていた。二日連続で
お世話になるのは迷惑なので、今日は晩御飯を一緒したら帰る
ことにした。何か食べに行こうと思ったが、妹が寝ているので
、二人で晩御飯を作った。牛丼を提案したら断られた。
 作っている最中に、いろんな話をした。なんとなく仲良くな
った気がしたので、日曜日に遊びに行こう、と誘ってみた。M
は複雑な顔をした。やべー調子に乗りすぎたデブのくせに、と
後悔した三秒くらい後に、いいですよって返ってきた。人生初
デートだ。日曜日の午後、ぼくは一皮向ける。うれしかった。
 どこに行こうか、なんて相談をしながら飯を作る。どこに行
くのがいいかなんて全然わかんなかったけど。妹は寝ている。
話の流れの中、Mは笑顔で、昨日払えなかった利息も払わなく
っちゃいけないですしねー、と言った。

 ぐらっときた。
 何も考えずに、反射だけでものを言った。いらないから。返
してくれなくていい、豪遊もいらない、そんなのいるかよ。利
息なんていらない。
 ぽかんとするMに背を向けて、妹を起こした。ぐにゃっとし
ているのを無理して立ち上がらせて、コートを渡して玄関に引
っ張った。ただならぬ様子に、妹もすぐに目を覚ましたようだ
った。
「兄さん、待って。バッグが」
 妹の手を離し、ぼくは先に外へ出た。M先輩、どうもありが
とうございました、ってあいさつして妹も出てきた。ぼくはず
んずん歩いていく。妹が追いついてきて、歩きながら質問攻め
をする。
「兄さん、なにがあったんですか?」
 ぼくは返事をしない。
「けんかしたんですか?」
 ぼくは返事をしない。
「私のせいですか?」
「M先輩は兄さんのこと好きだって言ってましたよ?」
「M先輩泣いてましたよ」
「なにか誤解があるんじゃないですか?」
 ぼくは絶対返事をしない。
「話さないとわからない、って言ったのは兄さんでしょう!」
 そこで足が止まった。そのとおりだ。
 ぼくはMの先輩なんだから、間違っているところを諭して、
謝る機会をあげなくちゃ、って思い出した。Be a 紳士、って
口に出してみた。ぼくは英語が弱い。ジェントルマンくらい普
通に出てこい。
 妹に礼を言った。先に帰るように頼んで、Mのところに戻っ
た。床に突っ伏して泣いていた。近くにしゃがみこんで、話し
た。
「笑える冗談と笑えない冗談がありますよー」
 はふ、って返事がきた。
「言っていいことと悪いことがありますよー」
 へい、って返事がきた。
「悪いことしたらどうするんだっけ?」
 ごめんなさい、って返事がきた。
「よく謝れた。えらい」
 Mの頭をなでた。中等部や高等部のときに、Mとこのやりと
りよくしたな、と思い出した。もちろん、ぼくが謝ったときの
方が多かったけれど。Mが妊娠したときも、こんな風にしたの
を思い出した。
「もういいよ、許すよ。今日はもう帰るけど、日曜日楽しみに
してる、豪遊も期待してる」
 Mは無言でうなずいた。
「後片付け任せちゃうな。ごめん」
 そしたら突然、口のところを殴られた――ではなくて、Mに
頭突きを食らった。しゃがんでいる格好からひっくり返ってし
まう。
「あの、ごめんなさい、あの、先輩っこれは違くて、あの、抱
きつこうと思って」
 Mが必死になってぼくの頭を触ってきた。
「あのだいじょうぶですか」
 だいじょうぶじゃないです。鼻血がどくどくだった。格好悪
い。犬歯の横の歯がぐらぐらしてる。Mのおでこも切れていた

 二人とも治療して、今度は穏やかに別れを告げて、部屋を出
た。外で妹が待っていた。黙ってアパートの階段を下りて、角
をひとつ曲がったところで妹が切り出した。
「お疲れ様でした」
「ん」
「仲直りできました?」
「なんとか」
「M先輩は、兄さんのこと好きだって言ってましたよ」
「そっか」
「私は嫌いですけど」
「そっか」
 二人の足並みが合わなくて、何度か手をぶつけた。部屋の外
で待っていたせいか、妹の手は冷たかった。
「手、冷たいよ?」
「女性は冷え性ですから」
 妹がいきなりぼくの手を取った。冷たさと、いきなりのこと
にびっくりした。
「兄さんの手はあったかいですね」
「相対的なもんじゃないの」
「いえ絶対的に」
 デブだからかなー、なんて馬鹿みたいなことを考えた。
「知ってます? 手の冷たい人は、心があったかいって」
「じゃあ手のあったかい人は?」
 ぎゅ、手を握る力が強くなった。妹はうつむいて、
「心もあったかいに決まってるじゃないですか」
 かすれるくらい小さな声だった。
そのまま駅まで手をつないでいた。
「お腹空かない?」
「えぇ、空いてますけど……兄さんは?」
「ぼくも」
 妹は多分、夕飯も食べていないはずだった。
「じゃあ、あそこ行きませんか? 昔家族でよく行ったレスト
ラン」
「ん。じゃあ奢るよ」
「いいんですか? じゃあデザートもお願いします」
「よくパフェ食べてたよね」
「兄さんだって食べてたでしょう」
「ん」
 両親の話もした。小さかったころの話も、した。けれど、駅
前のレストランは潰れてしまっていた。妹は、吉野家でいいで
す、と笑顔で言った。信用ならない笑顔だと思った。それと、
ごめんと思った。吉野家は相変わらず空いていた。ほうじ茶が
熱くて、また舌を火傷した。
「兄さん、牛焼き肉丼好きですよね」
「ん。でもきみも同じの頼んだじゃない」
「私は……別に好きじゃないですけど。兄さんと同じのがよか
ったから」
「そっか」
 食べ終わるまで、無言だった。何か話さなきゃいけないのか
な、と思ったけれど、いやな感じではなかった。妹は食べるの
が早かった。
「兄さん、話があります」
「ん。いいよ」
「そうじゃなくって。ここじゃちょっと……九時に部屋に行き
ますから」
「ん」
 妹から話なんてなんだろう。Mのことかな、と思った。もし
違う話なら、Mとのことを聞いておきたい。それからは話もな
くて、吉野家を出た。

 九時半になった。妹はこない。部屋をのぞいてみると、よく
寝ていた。赤い、旅行用のスーツケースが置いてあった。いび
きもうるさい。しばらく頭をなでてみた。全然起きそうにない
。三分くらいなで続けた。飽きたのでつむじをマッサージした
。起きないと思った妹がいきなり手を取って、頬の下に敷いた
。お手々枕ですね、ってつぶやいた。小さかった頃、ぼくの手
を枕代わりにして寝ることがあった。
「待っていても来ないから見に来たんだけど? 眠かったら明
日にする?」
「ああすみません……起きます」
「いいよ明日で」
「いいえどうしても今日話しておきたいので……お茶淹れてき
ます」
 少しの間、二人とも黙ってお茶を飲んでいた。言い出すのを
待つのはやめよう、なんとなく思った。
「Mと話せた?」
「はい。M先輩とは中等部の時に仲がよくて、それ以来でした
けど。昨日、もっと仲良くなれた気がします」
「そっか、よかったね」
 妹がこちらをにらんだ。あんまり怖い風には感じなかった。
「兄さん」
「ん?」
「ごめんなさい。今までごめんなさい」
 両手で顔を覆うと、涙が手首を伝わった。
「ん」
「私、兄さんのことを誤解してました。まずそのことを、ごめ
んなさい」
「ん」
「兄さんのことを恨んだり憎んだりしました。そのことも、ご
めんなさい」
「ん」
「兄さんのこと、憎んでいたので、つらい態度に出たこともあ
るかと思います。とっとと死んじゃえばいいのにな、って思っ
てましたし」
「ん」
「それも、ごめんなさい」
「ん」
「信じなくて、ごめんなさい」
「ん」
 オウム状態。なにか言わなくちゃ。
「ん、いいよ。全部許すよ」
「兄さんに、確かめなかったことも……」
「ぼくのことずっと恨んでてさ」
 妹のことばを遮った。
「はい」
「しんどかった?」
「はい」
「もう楽になっていいから」
「はい」
「ごめんな。Mのためってことばかり考えて、きみのことまで
考えられなかったよ」
「それは私が見せないようにしていたので」
 泣きそうな顔をしていた。
「みんなが変な噂してて、そんなの言えなくて。そのうち私も
その噂が本当だと思っちゃって。伝言ゲームの端っこにいるこ
とに気づかなくて……」
「ん」
「私、馬鹿です」
 妹が泣き出した。もう修羅場はいいのに。妹のほっぺたをむ
にむにと引っ張った。
「安心しろ、ぼくも馬鹿だ」
 妹がきょとんとした顔でこちらを見た。ぼくはふにゃけた笑
顔になった。
「そうですね、兄さんも馬鹿ですね」
 涙をごしごしと拭うと、目は真っ赤にはれていた。
「しーおーびーおーえる!」
「なんの略でしたっけ」
「超、俺、馬鹿だけど、お前、ラブ!」
「しーだぶるびーえーえる」
「なんの略?」
「超、私、馬鹿ですが、あなた、ラブ」
「ラブ? ラブ?」
「あ、いえ、ラブとは違うような……」
 妹は斜め上に目をやった。
「likeかbe fond of か……愛しいにあたるのってなんでしょ
う?」
「ぼくに英語聞くなよ」
 ふぉんどおぶ、とか言われてもさっぱり分からない。
「んー、しーだぶるびーえーけー?」
「それはなに?」
「超、私、馬鹿ですが、あなた、キライ」
「そっか」
「そうです。兄さんのこと大嫌いです。けど、さっきまでの話
です」
 妹と目が合ったので、慌ててそらした。
「今はなんだか、兄さんのことがとても好き」

 会話がとぎれた。


二分くらいずっと黙っていた。心の中ではガッツポーズだ。き
っとにやにやしていた。先に妹が切り出した。
「そろそろ寝ますね。寝る前にシャワーしなくちゃ」
「ん。ちゃんと顔落としてね」
「……見たんですか?」
「ちょっとだけというか不可抗力で。きみっていつもあんなこ
としてるの?」
「いえそんなっ、そんなことは……」
 ゆでだこみたくなった。
「にやにやするのやめてくださいっ。感じ悪いですよ」
「んー、だってなー。見たいじゃん」
「見せません」
「だめ?」
「見、せ、ま、せ、ん」
「んー」
「あーもうシャワー浴びるので出て行ってください」
 結構大きな声を出されてびっくりした。
「あーわかった、また明日ね」
「あ」
「ん?」
「朝……起こしてくれますか?」
「いいよ。何時?」
「何時でもいいです」
「は?」
「特に予定はないんですけど、起こしてほしいんです」
「じゃあ、これから毎日起こすから」
「モーニングコールですか?」
 妹は首をかしげた。
「コールっつか、歌」
「よろしくお願いします」
「レパートリー少ないけどな」
「あ、天城越えですけど……」
「その歌ははずせないよ?」
「いえその、こぶしのきかせどころが違っているんじゃないか
と」
「へ?」
 深夜の歌唱特訓、どうして。でも、妹の歌う声をひさびさに
聴いた。まあるくて、きれいな声をしていると思った。ぼくは
音痴だった。
「今のでいい感じです」
「やっと……」
「けど朝から天城越えはやめてくださいね?」
「安心しろ、明日は別の曲」
「なんですか?」
「内緒。明日の朝楽しみにしといて」
 妹はこくり、うなずいた。
「でさ」
「はい?」
「あの……ぼくがきみにしちゃったこといっぱいあるけど」
「はい」
「一番悪かったことは、何もしなかった、だと思っているけど

「はい」
「つらくさせてごめん。許してほしい」
 頭を下げようかと思ったけど、それはずるいと思った。妹の
目を、逃げないで見つめようと思った。
「許します、兄さん」
「ありがと」
「お互い様です」
「いや、お互い様で相殺するんじゃなくて、それぞれ示し尽く
すというか、よくまとまらないけど」
「わかる気がします。甘えを入れないで、謝れることは全部謝
る?」
「きっとそんな感じ。寝るね。おやすみ」
「おやすみなさい」
 妹が手を差し伸べた。つないだ手は、やっぱり冷たかった。
あたためてあげられたら、そう思った――退室。
 朝。六時に起きた。起こすのはまだちょっと早いかな、思っ
たけど、何時でもいいと言われていたので、起こしに行った。
 妹の寝顔を見て、さあ歌うぞと意気込んだのだけど、もうち
ょっと寝顔を見ることにした。やっぱりぼくは気持ち悪い。昨
日決めていた、モルダウを歌った。妹と一緒に歌った、思いで
の曲だ。二小節目で妹は起きてしまった。構わず歌い続けよう
と思ったけれど、途中で止められた。
「上のパートを歌われると私が入れないんですけど」
 一回通しで合唱して、ご飯にすることにした。妹が一緒に食
べたいって。部屋を出るときに、おはようございます。起こし
てくれてありがとうございます、って言われた。いい気分にな
った。
 妹が身支度をする間、朝食を作ることにした。ご飯、キャベ
ツのみそ汁、焼き鮭、卵焼き、キュウリの浅漬け。土鍋で炊い
たご飯はまたほこりくさかった、どう見ても食べられません。
おかしいな。おかゆは平気だったのに。
 パン、ジャム、キャベツのみそ汁、焼き鮭、卵焼き、キュウ
リの浅漬け、紅茶になった。妹は食卓を見て複雑な顔をしてい
たけれど、何も言いはしなかった。できた妹だと思った。
 妹と一緒の朝食。もうあまり緊張しなかった。今日の予定を
教えあった。ぼくは午前中ジム、妹は部屋の掃除。
 昼食は妹が用意してくれた。スパゲッティとコールスローサ
ラダ。普通においしかった。食べながら、いろんな話をした。
Mの話になった。M先輩とおつきあいするんですか、って聞か
れた。
「つきあうとかってよくわかんない。仲良くなれればいいとは
思うけど」
「今まで誰かとおつきあいしたことありますか?」
 ぎくり、痛いところをつつかれた気がした。
「んー、一人未満、かな」
「それごまかせてないです」
 くすくす、妹は目を細めた。
「まあとにかく。仲良くなれれば、と思うよ。明日一緒に遊び
に行くんだ」
「え、明日……ですか? まあそれはともかく、兄さんはデー
トしたことありますか?」
 痛いところをつつくのが上手だ。
「んー、一回未満、かな」
「それもういいですから」
 しょぼんとするぼく。にやにやの妹。
「私が練習台になってあげましょうか」
 組んだ両手にあごをのせながらぼくを見ていた。
「金額によるかな」
「うーん諭吉さん一枚」
「そんなにくれるの? よっしゃー行こう練習台よろしく」
「なんでそうなるんですか」
「誘った方が払うのが礼儀だとなにかの本で」
「それは正しいですけど、たとえ女の子から誘われたとしても
ですね……」
「だって金も体力も甲斐性もないし」
 妹が両手をぱん、勢いよく打った。
「兄さん、出かけましょう。私を練習台にしてください」
「一諭吉で?」
「兄さん持ちですっ……M先輩に逃げられますよ?」
「そっか」
「そうです」
「けどその、テンプレートに自分を当てはめるのはどうも」
「テンプレートじゃなくプログラムの問題です」
「そっか」
「そうです」
「実はきみがぼくとデートしたい……というわけでもなく」
「そっ、そうです。勘違いしないでください。もう、にやにや
しないでください」
「にやにや? してる? そっか」
「そうです。感じ悪いです」
 つんつんしてるけど、かわいいな、と思った。
「じゃあすぐに出ますから、仕度してください」
「ん」


妹と出かけるのなんて、本当に何年振りのことだろう。みなと
みらいに行って、ちょっと買い物して散歩して、遊園地に行っ
た。夜景が綺麗な時間らしくて、観覧車の待ちはすごく長かっ
た。
「これやめようよ。並ぶ時間が惜しい」
「そうですね。そうしましょう」
 やけにあっさり切り替える妹。
「あれ? あっさり逃げるね」
「逃げるってなんですか? 兄さんを気遣ってるんです。高い
ところ苦手ですよね?」
「いつの話? いつまでも昔のぼくじゃないよ?」
「いや兄さんは昔のままの方が……ま、いいです」
「レッツ観覧車」
 五十分待ってやっと乗れた。待っている間はしりとりをした
。ぼくは押されっぱなし。ずっと「ず」で攻められていた。し
りとりに戦略ってあるんだな、勉強になった。
 頂上付近。思ったより揺れる。けどすごく綺麗な夕焼け。
「綺麗です……こういう、記憶に残りそうな景色を大切にする
んですよ」
「うん」
「こういうときはとなりに座って肩を抱いたりするといいんで
すけど」
 人差し指をくちびるに当てた。
「兄さん、こっちに来てください」
「無理」
「あれれ、やっぱり怖いんですか?」
 にやにやする妹は、ちょっと感じ悪い。
「そっちまで動いたショックで、支えている部分の弱いところ
が折れて地上まで落下。デブだし。きみがこっち来てよ」
「こちらの方が景色がいいんです」
 そんな妹を見て、黙ってにやついていた。
「もう、感じ悪いですよ」
 結局ずっと向かい合わせに座ったままだった。落ちなくてよ
かったと、思った。
 夕食は中華街の店に入って食べた。普通にまずかった。店の
選択がまずかった。その後、横浜で買い物をした。
「なにか記念になるものを、二人で買うといいと思います」
「アイポッドとか?」
「ええ、白と黒でおそろいですね」
「ピアスは?」
「ひとつずつつけるんです。穴はちゃんとしたところであけて
くださいね」
「痛そう……血とか出ない?」
「大丈夫です」
 耳に針を通すなんて、ちょっと想像できなかった。
「一諭吉で済んでない件について」
「ちょっとオーバーしちゃいましたね。魔法のカードがあって
良かった」
「まだ三十歳じゃないし」
 三十歳までに済ませないと、魔法使いになれるらしい。
「え?」
「いや、こっちの話。本当にプレゼントの練習が必要だったの
かな」
「もちろんです。いったん経験すると次から楽にこなせます」
「きみの知能が低下して見える件」
「これは気をゆるめてるからです」
 今までが締めすぎだったんだな、きっと。

 帰りしな、近所のスーパーで台所用洗剤を買った。家はずっ
とジフを使ってる。
「レモンジフってのもあるね」
「レモン味なんでしょうか」
「あー、どうなんだろうね」
 それが冗談だとわかるのに四秒くらいかかった。
「飲んでみればわかるよ?」
「飲んだらきっと地獄行きです、私」
「一緒に堕ちるか」
 だめですよー、妹が笑いながら言った。にこっ笑うってこれ
かー、と思った。じんわりなった。
「兄さんは天国に行って、私をつり上げてもらわないと」
「蜘蛛の糸か」
「そうです。だからがんばって善行を積んでくださいね」
 一生真人間でいよう、って思った。
「練習になりましたか?」
 うんと答えた。
「そっちは?」
「お金で買えないものがたくさんあったのでまあまあです」
 もう一度、笑顔をくれた。帰ったらレシート渡す、と返した
ら、感じ悪いです、ってまた言われた。そんなに感じ悪いのか

 練習になったかどうかは知らないけれど、初回に限ってはす
べてこちら持ちだと、今日たたき込まれた。実践もさせられた
。理屈はよくわかんなかった。
 でも、お金で買えないものがたくさんあったから、練習は成
功だったのかもしれない。

 家に帰って、妹のあとでシャワーを浴びた。目覚ましをセッ
トして、今日は疲れたから九時前に就寝――しようとしたら妹
が部屋に入ってきた、ホルスタイン柄のパジャマで。
「今晩……一緒に寝てもいいですか?」
 断る理由もなかったし、いいよ、と答えたけれど、また修羅
場なのかなと思った。
「失礼しますね」
 ごそごそと布団のなかにもぐりこんできた。ちょっと狭い。
「いいけど、なんで?」
「もうわたしのベッド片付けちゃいまして」
 下手ないいわけだと思った。通い始めたジムやここ最近の寝
不足ですぐに眠ってしまいそうだった。おやすみ、また明日っ
てがんばってそれだけ言った。朝立ちますね、って聞こえた。
 え? なに? 今のエロワード? こんなに眠いのに脳に刻
印できるかな、なんて考えた。このまま寝たらエロ夢みられる
なー、って。思わず妹の方を見たら、妹がまぶしいものを見る
ような目つきでこっちを見ていた。ちょっとだけ目が覚めた。
朝立ちの同音異義語を探して、「あさたちますね」を聞き間違
えたんだとわかった。朝断ちますね。朝絶ちますね。朝裁ちま
すね。

 朝発ちますね。

いくつか思い浮かべて一番それっぽいのが見つかった。妹の部
屋の赤いスーツケースの映像がシンクロした。
「旅行? どこ行くの? まあいいや、詳しくは明日ね」
 眠かったので、どうでもいいと思っていた。肩に小さな痛み
が走って、全身がゆさぶられた。眠気が覚めた。妹が怒ってい
た。怒っているように見えた。
「兄さん。聞いてないですか?」
「な、なに?」
「私、留学するんですよ。旅行じゃなくて」
「え?」
 何を行っているのかよく理解できない。妹はまくしたてる。
「T伯母様から聞いてないですか?」
「M先輩から聞いてないですか?」
「だってモーニングコールって!」
 言葉が出なくて、首だけ振った。妹はため息をついた。
「私……留学するんです」
「ん」
「知らなかったんですね」
「ん」
「確かに私から言ってないです。T伯母様から伝わっているも
のだとばかり」
「いやなんにも」
「ごめんなさい、ここ数日兄さんがおかしかったのは、T伯母
様から聞いて、それで溝を埋めようとしているんだと思ってま
した」
「おかしかった?」
「はい」
 確かにおかしかったかもしれない。
「そっか」
「そうです。兄さん? 本当に知らなかったんですね?」
「ん」
 妹はうつむいて、そうですかってため息をついた。
「ごめんなさい、私、兄さんのことをまだ誤解していたみたい
です」
「いいけど」
「兄さんは、わたしに、最後に過去の清算をさせてくれたんだ
と思ってました。けど違うんですよね? 最後じゃないんです
よね?」
「最後ってそりゃ」
 大げさすぎる。
「最後です。私帰りませんから」
 妹の声は真っ直ぐだった。
「永住ってこと?」
「そうです」
「どこいくの?」
「МITです」
 なんの略かも知らない。アメリカにあることしか知らない。
「あっちって九月からでしょ? 早くない?」
「****(聞き取れなかった)っていう語学学校に通います

「明日から?」
「明日は出発です。学校は来週から」
「行くんだ?」
「行きます」
「そっか」
「そうです」
「あの……こんなこと言うとなんだけど、せっかく仲良くなれ
たのに、って思うよ」
「私もです。でも前から決めてました」
 力が抜けて仰向けになった。それが刺激になったのか、涙が
どばっと出てきた。泣いてしまった。泣き顔を見られるのは嫌
だったけれど、逃げ場がなかった。妹がぼくの上に乗っかって
きて、泣いていた。二人でわあわあ泣いた。今日も修羅場かよ
、ってちょっと思った。
 十分くらい泣いてたら、ちょっと落ち着いた。
「行くんだ?」
「はい、行きます」
 妹の声は真っ直ぐだった。
「ここ何日かおかしかったのは、きみと仲良くなりたかったか
らで。最後なんて思ってなくて、これからだって」
「ありがとうございます」
「あの花は送別会?」
「そうです」
「連夜泥酔してくるわけだ」
「感じ悪いですよ?」
「えっ、にやにやしてた?」
「してました」
「そっか」
「そうです」
 話すことが見つからなくて、そのまま妹を抱きしめた。妹に
も抱きしめ返された。
 十五分くらいそうしていると、妹がぼくの上でもじもじ動き
出した。そんな妹を見ても、ぴくりともしてくれない。
「あの……兄さん。あの」
 あの、が多いのはМもそうだっけ、と思った。それとも、女
の人はそうなのかもしれない。
「記念になること、しませんか?」
「ん? なに?」
「あの、兄さんまだですよね? あの……私が練習台になって
あげます」
「お断りだ」
 笑顔で返した。
「なっ、あの」
「恥かかせちゃってごめん。けどこりゃ違うでしょ」
「あの……あのっ」
 妹が足をずらして太ももでこすってきた。それでもぐにゃぐ
にゃしている。
「あの……あのっ」
 ピンときた。
「いやそれちがうから。今週調子悪いだけで」
 そういえば、妹に嫌いだって叫ばれてから気が注入できない
なー、なんて思った。Мのときもだめだったし。ぼくの性欲は
妹に奪われたままさ、って心の中でつぶやいてみた。最高に格
好悪いと思った。
「あの、どんなシチュエーションだったらいいですか?」
 妹の顔がゆでだこみたくなった。
「へ?」
 間抜けな声が出た。
「女子高生とか?」
「いやあ」
「熟女ですか?」
 妹の質問がいくつか続いた。全部は覚えてない。だんだん設
定がマニアックになっていった。こいつ何勉強してるんだろう
。輸出するのはよくないと思った。
「経験豊富な年下に奪われるってのはどうですか?」
「いやあ」
「人肌欲にまみれた妹の慰み者になるというのは?」
 人肌欲という言葉に心が反応した。その言葉がちょっといい
かもって思った。
「人肌欲いいね」
「じゃあそれでいきます」
「へ?」
「こっち見ないでください」
 妹が背を向けてパジャマを脱ぎだした。ずっと見てしまった
。妹の下着姿。
「見ないでって言ったじゃないですか」
「いやいいから服」
「いいんです!」
 妹がパジャマの上からぎゅっとつかんだ、ぐにゃ。そのまま
こねくり回されたりしたけど、そのまま。
「もういいから」
「すみません……私もあんまり経験なくて。どうしたらいいか

「どうもしなくていいから。まず手を離そう」
 妹の手をつかんで、引き離した。
「あ……あの、兄さんもパジャマ脱いで。あの、しなくていい
から」
 妹は一呼吸置いた。
「抱き抱きしませんか?」
「だきだきってなに?」
「えっと、裸で抱き合うことを抱き抱きって……母さんが言っ
てたんですけど、聞いたことないですか?」
 そんなのないよ。
「あの、二人の距離はマイナスじゃなくてもよくて、もう練習
台とかじゃなくて」
 もう一度、深く息を吸った。
「本気で抱き抱きしたいんですけど駄目ですか?」
 妹の目は真っ直ぐだった。なんか駄目じゃなくなった。それ
なら、本気ならいいような気がした。
 妹を抱き寄せた。
「駄目じゃなくなった模様」
「きゃっ……あの、兄さんもパジャマ、脱いで」
 パジャマを脱いだ。デブだけどいいよね。また妹を抱き寄せ
た。
「あの……脱がせてください」
 まだ下着が残っていた。どういう構造になっているか知らな
いけど、後ろに何かあるだろう、と見当をつけて背中に手を回
した。何もなかった。ダメージを受けた気がした。
 下着を脱がせて、ぼくも妹に脱がしてもらって、抱き抱きし
た。本気でうれしい、って妹が言った。妹の身体は柔らかくて
、すごく気持ちいい感じだったけど、気が注入される気配なし
、童貞。そのまま二人とも眠った。
 夜中、目が覚めると妹が腕のなかにいた。涙がかわいて、跡
になっていた。妹が明日いなくなっちゃうんだ。明日から、い
なくなっちゃうんだ。
 ぼくは泣いた。

七時過ぎに起き出して、朝食の準備をした。ご飯、キャベツの
みそ汁、納豆、海苔、キュウリの浅漬け。土鍋で炊いたご飯は
うまくいった。お焦げもついて、すごくいいにおいがした。
 妹を起こそうとしたけれど、もう一度抱き抱きしてみた。す
ごく、いいにおいがした。目を覚ますと、おはようを言ってく
れた。うれしくて、ちょっと強く抱きしめた。ふたりでまたモ
ルダウを歌った。
 夜のうちに昼過ぎの飛行機だと聞いていたので、ゆったりし
たペース。出発のずっと前、普通の電車だと十分、新幹線は三
十分、飛行機なら二時間くらい前に出発点にいないと駄目なん
です、って言っていた。そういうものらしい。
 服を着て朝食をとった。ご飯のにおいとおいしさに、妹が目
を見張ってた。残ったご飯は妹におむすびにしてもらって、俺
の鞄に入れた。
 九時頃に家を出た。妹が家にお辞儀をした。雨が降っていた
。妹は荷物をボストンバッグとスーツケースにまとめていた。
軽いんだったら持つよ、って言うと、兄さんは変な人ですね、
って笑った。イエース、って返事をしてスーツケースを押した
。軽くなかった。
「きみって理系だったんだ?」
「そうですよ? 知らなかったんですか?」
「T大に行ってるのはおばさんに聞いて知ってたけど。ぼくが
なんのバイトしてるか知ってる?」
「いえ……」
 妹の顔がちょっとくもった。
「そっか」
「そうです。私たち、なにも知らないんですね」
 ため息は重かった。
「取り返しのつかないことしちゃったみたいです」
「いや別に取り返さなくていいんだけど」
 妹が複雑そうな顔をした。取り返さなくても、これから作っ
ていけばいいのにって思ったけれど、言えなかった。だって帰
ってこないんだもんな。
「なに勉強するの?」
「向こうへ行ったら建築を勉強します」
「そっか」
 建築って言われてもなにも知識がないし返せない、格好悪い
。そのまま東京駅まで二人とも黙ったまま。
 Mのことを思い出した。そうだ、今日一緒に遊びに行くんだ
。東京駅で、こないだ訪ねたときのメモを見て連絡した。「午
後に、って言ったけどちょっと遅くなるけど」「いいですよ、
妹さんによろしく言っておいてください」
 そっか、Mは知ってたんだ。日曜日、遊びに行こうと行った
ときに複雑そうな顔をされたこと、思い出した。
 成田エクスプレスの乗り場まで行く途中、妹に話しかけられ
た。
「兄さんも携帯持ってたんですね」
「そりゃもう今時の若者であるからして」
 ちょっと見栄を張ってみた。けどあんまり意味がないと思っ
て、生き恥をさらした。ケータイは時計代わり。電話帳はバイ
ト先の一件。リダイヤルはバイト先と今かけたМの番号。着信
記録は全てバイト先。受信記録はスパムのみ。発信記録……な
し。着信音もなにもかも買ったときのまま。暗証番号をかける
価値もない。こんなの、誰も覗きたがらない。
 成田エクスプレスに乗っていると、規則的な振動に眠気を誘
われた。 寝ちゃ駄目だ、これで最後なんだ、って思って頑張
って起きて、妹の横顔を見ていた。視線に気づいて、妹が話し
かけてきた。

「兄さん」
「ん?」
「しーだぶるびーえーあい、です」
「なんの略?」
「超、私、馬鹿ですが、あなたを、愛してます」
「しーおーびーおーえる」
「言い返さなくていいですから」
 妹の顔がちょっと赤くなった。
「……愛してます、ならあいじゃなくてえーじゃない?」
「あ」
「英語だいじょうぶ?」
「これは英語じゃないですから」
「ん」
「感じ悪いです」
 妹は唇をとがらせた。
「そっか」
「そうです。だから兄さん、愛しているので携帯貸してくださ
い」
「ん」
「めずらしい型ですよね?」
 そうでもないと思う。
 正直どういう理屈かわからないし、とってつけた理由も気に
なったけれど、妹の中でこの順番が正しいんだったらいいやと
思って、携帯を渡した。妹は熱心にケータイに見入っている。
「兄さん」
「ん?」
「眠かったら寝てもいいですよ。着いたら起こします」
 目が覚めたらいなくなってた、とかだったら漫画みたいだな
ー、って思いながらその言葉で電池切れ。着いたらちゃんと起
こしてくれた。
 空港に着いた。飛行機には乗ったこともないし、空港は初め
てだった。なにもかも新鮮。ほとんど迷子寸前で、妹について
行くので精一杯だった。搭乗開始の手続きまであと一時間くら
いとのことだった。
「ぎりぎりです」
「そっか?」
「そうです」
 ベンチに座って、売店で買ったお茶をちびちび飲んでいた。
会話も全然ない。三十分くらいそのまま。とりあえずなにか言
い出せば会話が生まれるはず、だってふたり仲直りしたし、仲
良いし。デブだけど。いやデブは関係ない、けどあるな。なん
てごちゃごちゃ考えているのがつらくなったので妹の手を取っ
た。妹も握りかえしてきた。それをきっかけに話し始めた。
「元気でね」
「兄さんも」
 もう言葉が出てこない。格好悪い。デブとか関係なしに格好
悪かった。 泣きそうになったけど、泣いたら負けだと思った

「帰ってきます」
「え?」
「もう家に帰らないつもりでしたけど、帰ってきますから」
「そっか」
「そうです」
「ん。いつでもね」
「なにかの節目には、帰ります」
「ん」
「兄さん、私がいなくても」
「元気でやるよ、だいじょうぶ」
「いえその、いいんですか? 止めたりしないんですか?」
「止めてほしい?」
「いえその……そういうこと言われたら困るな、って」
「きみが、きみのやりたいことを、きみのやりやすいようにや
ってくれれば、それでいいかな、と」
「……そうですか」
 言ってから、しまったと思った、一瞬だけ。今朝、ずっとア
メリカについて行こうか、って妄想していた。フリーターだし
、失うものも何もないし。けれど、今その選択肢を消した。で
も、まあ妄想だから。
「正直もっと一緒にいたいと思うよ? けど、行くな、なんて
口にしたらうそっぽいし」
 ぼくにそんなことば、言えないことくらい、妹はわかってい
る。
「それに帰ってくるんならさ」
「そうですね……うそっぽいですね」
「でしょ?」
 妹がうつむいた。

「あの、うそでもいいから、言ってみてください」
「……行かないでくれ」
 妹が笑った。
「えへへ、思いっきりうそくさいし、思いっきりうそだし」
「ずっと一緒にいたい」
「えへへ」
「いっそついていきたい」
「えへへ」
「好きだ結婚してくれ」
「えへへ詐欺師……」
「きみがいないと寂しい」
「えっへくっ!」
 舌をかんだのかと思った。妹の顔がへろっとゆがんで、ぼく
の肩に顔を埋めて泣き出した。
「嫌いです! 嫌いです!」
「え?」
 何がなんだか分からずに慌てふためくぼくと、大きな声でわ
めき散らす妹。
「もう帰ってこないんです!」
「寂しくないんです!」
「ごめんなさい!」
「さっさと死んじゃえばいいのに!」
「本当にごめんなさい!」
 向かいのベンチの人が変な目で見ていた。どれがうそなのか
、わからなかった。妹は十分くらいそのまま泣き続けた。
 妹が顔を上げて、立ち上がった。
「それじゃ、いきますね」
「え?」
「アナウンス出たので」
 全然聞き取れなかった。立ち上がるのが少し遅れた。妹の手
が頭を押さえて立ち上がれなくなった。キスされた。
 混乱しなかった。キスされたことに納得できた。歯を磨いて
なくて、格好悪いって思った。妹が涙まみれの顔で笑った。
「練習です」
「初ちゅーだ」
「え? あ、あの、ごめんなさい、二回目です」
 夜の、あんまり経験なくて、を思い出した。
「二人目ってこと?」
「違います、一人目です。ごめんなさい、あの、今朝しちゃい
ました」
「え?」
 妹に顔を抱え込まれた。これで三回目だ、ぼくも妹も。長く
て、時間って止まるんだな、ぼくは実感した。
「さびしくさせて、いろいろいたらなくて、ごめん」
「好ましいと欲しいの間を教えてもらえたので、まあまあです

 ふふ、妹は笑った。
「しーだぶるびーえーあいです、兄さん」
「いやだからそれはあいじゃなくてえーじゃ」
「英語じゃないから良いんです」
 頭が解放された。十秒くらいみつめあって、抱きしめた。頬
にキスした。少しの間抱き合って、身体を離した。
「それじゃ。M先輩にもよろしくです。兄さん、お元気で」
 妹は搭乗口に入っていった。泣き顔じゃなかった。妹の後ろ
姿に、振り向けって念を送ったけど振り向かなかった。
 それから二時間くらい空港の中をぶらぶらして、半分迷って
電車に乗って帰った。大井町で発車を待っているときに、Mの
ことを思い出した。待ち合わせの連絡を取ろうとしてケータイ
を開いたら、壁紙が変わっていた。
 寝こけているぼくと笑顔の妹が写っていた。涙が出た。電車
の中でめそめそしているぼくは、東京一格好悪いと思った。一
生妹とは話さず生きていくのかな、って思ったときもあったけ
れど、なんとか間に合った。 滑り込みだけど、間に合った。
 ふと、電話帳を見ると、登録件数が一件増えていた。Мの名
前がそこにあった。



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