三流大学を卒業して就職難の中、そこそこ大きな印刷会社に就職した。営業部に配属されるものだとばかり思っていたが、いきなりデザイン部に回された。 当然パソコンでアプリを使っての仕事になる。が、パソコンなんてネットをやるくらいでしか、触れたことはない。Illustrator? Photoshop? InDesign? なにそれ? 初日は新入社員が会議室に集められ、社長や専務の話を聞いた後、それぞれ配属された部署の部長に連れられて、部屋へ向かう。デザイン部に配属されたのは、俺を入れて三人。他の二人は、デザインの勉強をしていたとかで、主任が指導するらしいが、俺は完全にゼロからのスタートだったので、教育係をつけてマンツーマンで指導するんだという。どんな人だろう? 怖い先輩だったらやだなー、と早くも不安になる。 部屋に入って、まず部長が、新入社員を紹介する。一人一人自分の名前を言って、よろしくお願いします、と頭を下げる。緊張のためか、少し声が上擦ってしまった。 部署は十五〜六人くらいで男六割女四割くらい。平均年齢は結構若そうだった。まず二人が主任のところへ案内され、俺だけが、 「君はこっち」 と、促される。主任とは少し離れた場所に座っている、女性の後ろで部長は立ち止まる。ん? 女の人か……。その人はモニターに向かって、マウスをカチコチやっている。 「○○(苗字)君」 「はい」 返事をして、女性は椅子を回してこっちを向いた。 「昨日言ってたK君だ。完全な初心者なので、よろしく頼むよ」 「はい、わかりました」 そう言って女性は椅子から立ち上がった。顔を合わせたとき、俺は息を飲んで見とれてしまった。すごく綺麗な人だったんだ。 ほっそりとしていて背が高かった。俺は身長が百七十八センチあるので、大抵の女性の顔は、いつも目線よりかなり下にあったのだが、彼女はさほどでもない。多分百七十センチはあるだろう。白いブラウスとスリムのジーンズがすごく似合っていた。モデルをやっていると言えば誰でも納得するだろう。 髪は肩にかからないくらいのショートで、ちょっと栗毛がかっていてサラサラしていた。目が大きくて、とくに瞳が大きかった。 あまりに整いすぎていると、冷たくきつい雰囲気になるのだろうけど、唇がちょっとポッテリしていて、コケティッシュというのか、微妙に柔らかな印象を与えていた。 「Kです。よろしくお願いいたしますです!」 緊張しまくって変な日本語になり、九十度近くお辞儀をしてしまった。彼女はくすっと笑いながら、アルトの柔らかく響く声で、 「○○です。こちらこそよろしくお願いしますね」 と言って少し頭を下げた。俺も慌ててまた頭を下げる。 部長はもう一度彼女に、頼んだよ、と言って部屋を出ていった。その後ろ姿に、また頭を下げていると、彼女は可笑しそうに、くすくす笑った。 「そんなにかしこまらなくてもいいから。疲れちゃいますよ?」 「は、はい」 それが紗恵さんとの初対面だった。 場違いなところに放り込まれたなあ、と憂鬱だった気分が一気になくなり、逆に楽しみになってきた。現金なものだ、と自分でも思ったが、あんな綺麗な人に毎日仕事を教えてもらえるのだから、男なら当然じゃないだろうか。 入社して二週間後くらいに、新入社員歓迎会があった。しかし歓迎会とは名ばかりで、派手な飲み会みたいなもんだ。 先輩達は飲んで食って騒いで楽しめる、ってもんだろうが俺達新入社員はそうはいかない。あちこちテーブルを駆けずり回って、よろしくお願いいたします、とお酌して歩く。社長や専務、経理部、営業部、工場部、とあちこちのテーブルを回り、それだけで疲れてしまった。 デザイン部のテーブルへ辿り着いたときは、なんだかホッとした。二週間足らずとはいえ、毎日顔を合わせているからか、やっと親しい人たちのところへ戻れた、という気になった。 「お疲れさま」 紗恵さんが笑顔で言ってくれた。ああ、なんかもう、ホッとしたよ。紗恵さんの隣に腰を下ろした。 「どうだった?」 「いや、もう、みんなテンション高くて大変でした」 「あはは、この会社の人は呑んべが多いからねえ」 そういう紗恵さんも手に持ってるのは、ビールグラスじゃなく水割りだった。 「あ、お酒もっと持ってきましょうか?」 「いいよ、気遣わなくて。これ以上飲むとマジで酔っちゃうから」 紗恵さんは肌が白いのだが、アルコールのせいか、頬に紅みが差していた。艶っぽくてどきりとする。 「そ、そうですか……。結構飲む方なんですか?」 「ははは、嫌いじゃないよ」 かなり酒の入った先輩達があちこち徘徊し始めている。他の部署の人たちがデザイン部の方まで来ては、なにかと紗恵さんに話しかけていた。みんな、紗恵ちゃんとか紗恵さんと名前で呼んでいる。かなり人気があるらしい。狙ってる男連中も多そうだ。中には、ここ終わったらいつも行ってる店にみんな行くんだけど、一緒にどうすか? とか誘ってくる営業もいた。紗恵さんは、にこやかに話しながら、さりげなくかわしている。 紗恵さんは指輪をしていなかった。そういえば彼氏とかいないのかな? あれこれ詮索されるのが面倒で指輪はしてこない、という可能性もあるけど。 「歌、歌える?」 紗恵さんが唐突に聞いてきた。 「歌、ですか? あんまり……」 カラオケはあまり得意じゃない。はっきり言って嫌いだ。 「聞いてない? この後歌わされるよ、新入社員はいつもそうだから」 「マ、マジっすか? やだなあ……」 「音楽は嫌い?」 「いえ、聴くのは好きですよ。でも歌うのは、ちょっと」 それがきっかけで、音楽の話になった。どんなジャンルを聴くか、とか好きなアーティストとか、結構趣味があって盛り上がった。 だが、そんな俺達をチラチラと見ていく視線も気になった。新入りがあまり馴れ馴れしくしてんじゃねえよ、てとこなんだろうか? しばらくして、営業部に入った新入社員が呼びに来た。どうやら恒例のカラオケが始まるらしい。 「しっかり歌っといで〜」 紗恵さんは笑いながら手を振った。俺とデザイン部に入った二人は、席を立つ。 「お前、いいよなあ〜。○○さんに仕事教えてもらってるんだろ?」 呼びに来た営業部のNが羨ましそうに言う。 「ん、ああ」 「そうだよ、俺も教えてもらいたかったよ」 主任に教えてもらっているJも調子を合わせて言う。やっぱり考えることはみんな同じなんだな。 「営業部でもファンの先輩が多いんだよ、あんまりベタベタしてると嫉まれるぞ」 「ベタベタなんて……そりゃ毎日顔合わせてるから、話す機会も多いけどさ。それだけだよ」 「まーな、お前がその気になっても、相手にされないだろうけど」 大きなお世話だ。 「でもかなりガードが固いらしいぜ。誘ってもみんな玉砕しまくってるらしいし」 「ふ〜ん……彼氏でもいるんだろ」 「実際どうなの? いるの?」 「知らないよ、そんな個人的なことまで聞かないよ」 Nが声を潜めて言う。 「噂だけどさ、男嫌いだとかレズだって話しもあるぜ」 「まさか」 Jも、さらに声を潜めて、 「でもマジにそうだったら、興奮しねえ?」 「するする、○○さんが女同士でキスしたりとか、エッチしてるとことか考えたら……」 JとNは、笑いながら勝手なことを言っている。無性に腹が立ってきた。 「お前らな」 紗恵さんのことを、興味本位で下品な話題にして欲しくない。いい加減にしろ、と俺が言おうとしたとき、Jと同じく主任に就いて仕事をしているM美が、 「いいじゃない、別に」 「え?」 「○○さん綺麗だもんねえ〜。女のあたしでもゾクッとくるよ。あの目で見つめられて口説かれたら、オチるかもだわ」 M美もなかなか綺麗な顔立ちをしているが、切れ長の涼やかな目と、薄い唇が、どこか冷たくて気の強そうな印象を受ける子だ。そんな子がキッパリ言い放つので、JもNも気圧されたように黙り込んだ。 「人のことあれこれ噂するもんじゃないの。ねえ?」 そう言うと俺を見てニッと笑った。 「うん、そうだな……」 それで紗恵さんの話は終わりになった。 その後、新入社員は全員歌わされた。みんな上手かった。中でもM美は歌姫と言われて人気のある歌手の曲を歌って、それがまたハマッていて、拍手喝采を浴びていた。俺は汗をかきながら、少し古めの曲をなんとか歌いきった。なにかというとカラオケ、という日本の風習は、ほんとなんとかして欲しいな。 「一生懸命歌っていてよかったし、別に下手じゃなかったよ」 紗恵さんが、そう言ってくれたのは嬉しかったけど。 歓迎会が終わると、二次会に行く者、気のあった顔ぶれだけで、飲み直したりカラオケに行く者、帰る者、とそれぞれ分かれた。 デザイン部署の人は、気の合った二、三人でこれから飲みに行くという一組がいるだけで、もう帰る、という人ばかりだった。紗恵さんも帰宅組の女の子達と一緒に帰っていった。 俺も帰りたかったが、Nに強引に引っ張られて、JとM美と一緒に営業部だけの二次会に拉致られてしまった。 なんで他部署の俺達が? と思ったが、すぐにわかった。M美が誘われたのは、営業部の先輩達がNに、あのデザイン部の可愛い子を呼んでこい、と命令したらしい。俺が呼ばれたのは、紗恵さんは誘っても絶対に来ないから、紗恵さんに就いて仕事をしてる新入りを連れてこい、と。 実際、まだほとんど話したことのない営業部先輩達から、紗恵さんに彼氏はいるのかとか、毎日どんなことを話しているのかとか、色々探りを入れられた。歓迎会で、紗恵さんの隣に座って話をしていることが多かった俺に、あからさまにではないにしろ、あまりいい気になるなと釘を刺す意味もあったのか。目をつけられてはたまらないので、それほどプライベートことを知るほど親しくありません、とか、仕事以外の話をすることはあまりないです、と当たり障りなく答えておいた。 Jはなんで呼ばれたのかわからないが、俺達二人だけ呼んで一人だけ呼ばないのは変だというところだろう。しかしJは社交的な性格で、すぐに馴染んで周りと上手くやっていたようだ。 終電近くになって、やっと俺達は解放された。 「すまんな、先輩達がどうしてもお前ら連れてこいって言うから……こんなに遅くなるなんて」 Nは申し訳なさそうに言う。先輩達はまだこの後、別の店に行くらしい。当然Nもつきあわないといけない。今日が金曜で明日が休みという日程も重なったためなんだろう。気の毒に、Nも苦労してるんだよな。気にすんなよ、と言っておいた。 就職したら、仕事よりも会社の体質や人間関係で苦労することが多い、と大学の先輩から話を聞かされていたが、その通りだな。 電車の路線の違うJとは途中で別れ、同じ地下鉄に乗るM美と駅まで歩いた。 「もてて大変だったな」 「別に……K君こそ○○さんのことを、色々聞かれて大変だったね」 「んー、あれだけ人気あるなんて驚いたけど。ま、実際綺麗な人だもん」 「ライバル多くて大変だね」 M美が笑いながら言う。心中を見透かされているようでドキッとした。 「なんでそうなるんだよ。まるっきり先生と教え子って立場だぜ。年下だし、俺なんか相手にされないよ」 「ふーん、早々に諦めるんだ?」 「なに言ってんだよ、そんなんじゃ……大体まだ二週間で諦めるとかなにも」 「好きになるのに時間は関係ないと思うけど?」 「おい、あのな」 「ごめんごめん、冗談だよ」 まったく、なに言い出すんだ。いや、完全に気持ちを見透かされてるってことか。その後は紗恵さんの話をすることなく、たわいもない話をしながら、駅から電車に乗り、途中の駅でM美は降りた。 終電近いのに席が埋まっている。吊り革につかまって揺られながらぼんやり今日の出来事を思い返した。 紗恵さんと音楽の趣味が一緒だとわかったし、ちょっと酔って紅く染まった紗恵さんの顔はすごく艶っぽくて綺麗だった。 紗恵さんが、多くの男性社員に人気があるのはわかる。女の子達からも慕われているし。そんな人に俺は毎日身近で仕事を教えてもらってるんだな。 俺は完全に紗恵さんに惹かれていた。デザイン部に配属されてよかったな、と改めて思った。 もちろん、浮かれてばかりいたわけではない。覚えることは山ほどある。ただ手順を覚えればいいのではなく、デザインのセンスも磨かなきゃいけない。なにからなにまで、初めて見たり聞いたりしたりすることの連続だ。 家にあるのはウィンドウズだったが、会社ではMacだった。文字の入力、コピーアンドペーストといった基本的なことでも、キーボードの違いから、そこからいきなり戸惑う。 「焦らずに。少し時間はかかってもいいから確実に覚えていってね」 紗恵さんはそう言ってくれるが、本当に時間ばっかりかけるわけにはいかない。 定時が少し過ぎると、 「うん、今日は帰っていいよ。お疲れさま」 「はい……○○さんはまだ帰らないんですか?」 「もう少ししたら帰るよ。じゃ、家でしっかり復習してきてね」 いつもそう言っていたが、翌日、退社時間を見ると、紗恵さんは十時や十一時近くまで残業していた。昼間は俺を教えるのに時間を取られて、仕事が止まっているからだろう。他の人たちにも、そのしわ寄せがいっているようで、なんだかみんな忙しそうだ。 JとM美は、俺よりかなり早く仕事を覚え始めているようで、自分はなかなか上達しないような気がして焦った。 それ以外に、雑念もあった。むしろこっちの方が深刻だろうな。 「あの、すいません。ここからどうすればいいんですか?」 行き詰まって、隣に座っている紗恵さんに質問する。 「ん? どこ?」 紗恵さんは少し目が悪いらしく、体を寄せてモニターを覗き込む。息がかかるほど、目の前に紗恵さんの横顔が、接近してどきりとする。 まばたきするたびに、長いまつげが揺れる。鼻梁がくっきりしていて、『鼻筋が通った』っていうのは、こういうのを言うんだろう。 髪から漂うシャンプーの香りと、コロンの香りが、鼻をくすぐった。襟元が大きく開いたニットを着ていて、白い胸元が目に入る。集中しなきゃ、と思いつつ、そちらに目がいってしまう。 「ここはね……」 そう言いながら手を伸ばして、俺のマウスやキーボードを操作するときに、手が触れあう。 はっとするほど、端正で繊細な指だった。爪は短く切り揃えられ、綺麗に磨かれている。 間近で見る紗恵さんの肌はきめが細かく、透き通るように白かった。触れるとすべすべしてるんだろうな。 「……なの。わかった?」 紗恵さんの声で我に返る。しまった、聞いてなかったよ。というか聞こえてなかった。 「は、はい」 「んじゃ〜、やってみて」 断片的に耳に残った説明を頼りに取り繕おうとするが、完全に行き詰まって、手が止まってしまった。 「どうしたの?」 「あの、ここからどうするんですか?」 紗恵さんは訝しげに言った。 「今、説明したよ……聞いてなかったの?」 「……すいません」 「……もう一回説明するね、いい?」 紗恵さんは少し、むっとした表情になる。 「申し訳ないです……」 「もういいから、今度こそきちんと聞いてね」 今度こそ、俺はきちんと聞いた。 「じゃ、やってみて」 初めから聞いていればなんてこともないことだった。 「はい、今度はできたね」 紗恵さんは、ちょっと俺を睨みながら腕を組んで不機嫌そうな声で言った。美人が怒ると怖いってのは本当だ。 「すいませんでした……気をつけます」 紗恵さんは、ふ〜っと息を吐き出すと、いつもの柔らかな表情に戻った。 「疲れてるんじゃない? ちょっと休憩してきたら?」 「いえ、大丈夫です」 「そんなに根詰めてちゃ、続かないから。休憩しようか」 紗恵さんは立ち上がって、おいで、というふうに俺を促した。 デザイン部の部屋を出て、すぐ横の階段の踊り場には長椅子と飲料水の自販機があり、そこは喫煙所にもなっている。俺も紗恵さんも煙草は吸わない。紗恵さんは自販機にコインを入れる。 「コーヒーでいい? よく飲んでるよね」 「あ、はい」 紗恵さんは、缶コーヒーを俺に手渡した。 「有り難うございます」 コーヒー代を出そうとしたが、いいから、と紗恵さんは首を振った。紗恵さんは冷たい烏龍茶を買った。 「ちょっと座ろうよ」 二人並んで腰を下ろした。 「ふー」 烏龍茶を一口飲んで紗恵さんは息をついた。お説教を喰らうと思って、俺は神妙な顔つきで紗恵さんの言葉を待った。 紗恵さんは両肘を膝につき、屈み込むように俺の顔を覗き込んだ。 「大丈夫なの? ほんとに」 「はい……」 「んんん〜」 紗恵さんは顔をしかめて唇を歪め、唸るような声を出す。 「そうかな〜、最近ときどきボーっとしてるし」 「す、すみません」 「ううん、べつに不真面目だって言ってるんじゃないよ。朝はいちばん早く来て、自分で取ったノートとか見返したり、空き時間にアプリの課題やったりしてるし。すごく頑張ってると思うよ」 「いえ……」 「ほんと疲れてない? さっきだって、ねえ」 紗恵さんに見とれていて聞き逃しました、なんて言えるはずがない。 「なんか仕事のことで悩んでることでもある?」 確かにそれもある。それもあるけど。でも紗恵さんは先輩で仕事もできて、俺はほんの駆け出しで、仕事を教えられている立場なのに、紗恵さんのことを意識している、正直言って好きになってしまってる。が、いちばん問題なんだよなあ。 「ちょっと……どうしたの、そんなに深刻なの?」 どうやら俺は、すごく暗い顔をしていたようだ。紗恵さんは、俺がとんでもなく悩み込んでいると思ったらしい。 「いえ、そうじゃないんですけど、ただ……」 「なに?」 紗恵さんは大きな目で俺の顔を覗き込む。綺麗な目だな……光の加減か、角度のせいなのか、碧みがかって見えた。吸い込まれそうになる。 「○○さんは、俺のことどう思います?」 思わず口について出た。 「……へ?」 紗恵さんはポカンとした顔で、俺を見返した。やべえ、つい。慌てて言葉を継ぐ。 「あ、その、仕事のことです。上達が遅いとか、覚えが悪くてコイツ使えないな、とか」 「どうして?」 「一緒に入った二人は、もうだいぶ仕事を覚えてて。簡単な仕事なら一人でやってるのに、俺はまだ……」 紗恵さんはちょっと眉を曇らせる。 「あの二人は、以前からデザインの勉強してたんだし、未経験のK君より早く覚えるのは当然だと思うよ」 「それに、○○さんは昼間、俺に教えていて仕事が止まってるんですよね。だからいつも帰りが遅くなって、他の先輩達にもしわ寄せがいってるみたいだし」 なんとか誤魔化した格好になった。でも、実際これも本音なんだよな。紗恵さんはちょっと笑うと、 「私やみんなの退社時間が遅いのは、別にK君のせいじゃなくって、この仕事は時間が不規則なのは当たり前なのよ。朝入ってくるって言ってたデータが昼過ぎになったり、束見本が出来上がるのが、定時過ぎになっちゃった、とかしょっちゅうだしね」 「ええ、それはそうなんでしょうけど」 「ほら、そんなこと気にしないで。先輩が後輩の面倒見るのは当たり前だし、私もみんなも迷惑だなんて思ってないよ」 「はい……」 紗恵さんは俺の肩をポンポンと叩いた。 「頑張って、期待してるんだから」 そうだよな、まず一人前にならなきゃな。じゃないと、いつまでも先生と生徒のままだ。 「ふにゃあ……」 は? 今、紗恵さん、なんか言った? 見ると足下に烏龍茶がこぼれ、紗恵さんの手からも滴り落ちていた。どうやら話すのに夢中で、持っていた缶を傾けてしまったらしい。 「だ、大丈夫ですか? 服にかかったりしてませんか?」 「うんうん、大丈夫。あーもう、なにやってんだろ……あ、ハンカチ、鞄に入れたままだ」 「俺、タオル取ってきます!」 「ごめんね、給湯室にあるから。あと雑巾も持ってきてくれる? 床拭かなきゃ」 俺は給湯室の棚から、真新しいタオルと、雑巾を持って急いで戻った。 「○○さん、早く手、拭いてください、床は俺拭きますんで」 「有り難う」 紗恵さんにタオルを渡すと、雑巾で床を拭いた。ふにゃあ、て言ったよな、さっき。 「あーごめんねー、床拭きまでさせちゃって」 「いえ、構わないっす」 「話してたらお茶持ってるの忘れてて。よくやるのよ、一つなにかやり始めるとそれまでやってたこと忘れたりとか」 「そ、そうなんですか」 そんな一面があるなんて意外だった。美人で、優しくて、仕事もできて、大人でしっかりしてて、が俺の中の紗恵さんだったから。床を拭き終わって立ち上がる。 「ふう、ありがとね」 「いえ。あの、さっきはすいませんでした。これから一生懸命頑張ります」 「ふふ、しっかりね。でもあんまり思いつめないようにね」 「はい」 「じゃ、仕事に戻ろ」 前を歩く紗恵さんの後ろ姿を見て思った。さっきの、ふにゃあ、も素なんだろうな……。やばいよ、余計に惚れちゃったよ。 七月になる頃には、なんとか俺は基本的なことを大体覚え、紗恵さんの仕事を手伝ったり、簡単な仕事を時々させてもらえるようになっていた。 八月になり、盆休みも近づいた、ある朝のこと。 「ほら、これ見て」 紗恵さんに一枚の紙を渡された。それは俺が初めて一人で、ラフデザインから仕上げた携帯電話のチラシだった。街頭で配るようなやつで二色刷の簡単なものだったけど。バックに載せるイラストや、見出しの書体など、ああでもないこうでもないと悩んだものだ。 「あー、出来てきたんですか、へえー」 「明日、一斉に配るんだって。どう? 自分で見て初仕事の出来は?」 「うーん。なんだか、まだまだですよね、こんなのでよかったのかな?」 「お客さんは、このデザインでいいって思ったからOKが出たんだよ。自信持っていいと思うな」 紗恵さんは、にこにこしながらチラシを眺めてる。確かに、自分の作品、というほど大げさなもんじゃないけど、これが大勢の人の手に渡るのかと思うと、正直嬉しかった。 「なんか不思議です。これ見てそろそろ買い換えようかな、て思ってくれる人もいるんでしょうね」 「そうでしょ? 自分が考えて、創ったものが人の心を動かすのよ。この仕事の醍醐味だよねえ」 「紗恵さんが初めての仕事もそうでした?」 その頃には苗字ではなく、紗恵さんと呼ぶようになっていた。 「うん。私はね、フリーペーパーの一ページ三分の一くらいの広告だったんだけどね、よく駅とかに置いてあるやつ」 「ああ、よくありますね」 「うん、嬉しかったなあ。配布日に駅まで取りに行ったよ。一人ニヤニヤ眺めてて危ない奴と思われたかもね。今でもビニールに入れて取ってあるってのは内緒だけどね」 「そ、そうなんですか」 ほんと紗恵さんって、こういう可愛いとこも普通に持ってるんだよなあ。 「この仕事するようになって、それまでは見ずに捨ててたチラシも必ず見るようになったしね、雑誌の広告も目を通すようになったし。これも誰かが一生懸命作ってるんだな、と思うとね」 「ああ、そうですね。俺も見るようになりましたよ」 「それと、このデザインはまだまだだな、この色遣いはイマイチ、とか、ああ、このレイアウトは使えるな、なんてこともね」 「ははは、職業病ってやつですか。確かにありますね」 そんなことを話して笑っていると、出社してきた部長が、俺達に声をかけてきた。 「お早う。どうだ? 調子は」 「あ、お早うございまーす」 「お早うございます」 紗恵さんが、チラシを部長に手渡した。 「K君の初仕事なんですよ」 「ああ、そうなんだってね。……うん、なかなかいいんじゃないか?」 「ウチの子は優秀なんですよ、もっと大きな仕事やらせてあげてください」 紗恵さんが、笑いながら言った。 「師匠がいいんですよ」 俺は苦笑しながら言う。 「この調子で頑張ってくれ。九月になったら、来年用の旅行のパンフレットや通販のカタログも始まるからなあ、しっかりやってもらわないとな」 部長は主任に、これから会議だから後を頼む、と言ってまた部屋を出ていった。 「来月から忙しくなるんですか?」 「うん、そうなの。いつも忙しい時期だから。でも今年は楽できるかな、K君がいるから」 「プレッシャーかけないでくださいよ」 来月から忙しくなるのか、頑張らないと。 自分の仕事が形になったのはもちろん嬉しい。でも俺の初仕事を紗恵さんが、自分のことのように喜んでくれたことが、いちばん嬉しかった。 盆休みに入った。六日ほどの休みだったが、俺は実家に二日間帰っただけで、とくにどこにも行かなかった。 実家と言っても、帰省と言うほど大げさなものではない。電車で二時間もあれば着く距離だ。大学が家から通うとなると二時間以上かかったので、大学合格とともに今のアパートで一人暮らしを始めた。そこからなら大学まで二十分足らずだったからだ。就職したら戻る予定だったが、結局そのまま一人暮らしを継続している。約束が違うと親には文句を言われたけど、気ままな暮らしに馴れて、家に戻る気にならなかった。 ただ、休みの日は時間をもてあますことも多かった。今は彼女もいないしね。 初めて女の子とつきあったのは中学二年のときだった。その子とはキスまでしたけど、その先はなかった。高校が別になって自然消滅。 その次の子は高校一年の夏くらいだったな、つきあい始めたのは。初体験はその子だったけど、お互い初めてで、よくわかんなくって、その頃は夢中だった。 こいつと結婚する、なんて思ってたが、所詮ガキの戯れ言。高校卒業してあっさり別れた。 その次につきあったのは大学入ってすぐ。同い年で地味な感じの子だったけど、すごく可愛くて一緒にいるとホンワカできたな。嫁さんにするならこんな子なんだろうな、と思ったが、つきあって一年過ぎる頃、態度がおかしくなってきて、問い詰めると他に好きな男ができたという。そいつはかなりのいい男で遊び人。女の子の扱いにも慣れてる奴だったから、俺といるより、楽しかったんだろう。その後、彼女は男の影響か、どんどん派手になっていき、学校にもあまり来なくなってしまった。 その次につきあったのは同じサークルで、一年上の先輩だった。綺麗な人で、大人の女って感じで。憧れてた奴も多かった。俺もその一人だったけど、そのときはほんとにつきあってる彼女が好きだったし、ただの憧れの人ってだけだった。 飲み会で、友人が 『こいつ、彼女に振られたんですよー』 と言うと、彼女は 『可哀想にねえー、なぐさめてあげる』 なんて言って、完全に酒の肴にされてるっぽかったのだが。そのうちヤケ酒になって、酔い潰れた俺を介抱してくれて、一人暮らしの彼女に部屋に連れてかれて……。それがきっかけだった。周りには、 『あんないい女、お前にはもったいない』 『けしかけなきゃよかった』 とか言われた。経験豊富な彼女で、今までの彼女たちとのセックスは――と言っても二人だけだけど――おままごとみたいなもんだと思うくらい圧倒されっぱなしだった。思えばあれから綺麗な年上の女の人に惹かれるようになったんだよな。 その彼女も就職して、仕事が忙しくなってあまり会えなくなり、俺も早く卒業して就職し、彼女と対等になりたいと思っていたが、卒業目前で破局。落ち込んだな、あのときは。それ以来セックスしてねえなあ。 だめだ、暗くなる。別のことを考えよう。 紗恵さんは今頃どうしてるかなー、旅行から戻ってるのかな? 紗恵さんは、盆休みに北海道へ旅行へ行くと言っていた。まさか一人旅じゃないだろうしな。誰と行くのかは聞かなかった。いや、聞けなかった。彼氏と行くんですか? と聞いて、そうだ、と言われたら……。 未だ紗恵さんに恋人がいるのかどうか聞いていない。ごくまれに携帯でメールしたり、声を潜めながら笑顔で話しているのを見かけていた。あの笑顔は彼と話してるのかな、とかメールで仕事後のデートの時間を確認してるのかな? とかすごく気になってはいるのだが。 指輪はしてないから、彼氏はいないよな、と都合のいい方へ解釈している。仕事の方でもまだまだ彼女に教えてもらってばかりだ。そんな状態で、好きだ、なんて言えるわけがない。いや、そもそも、年下の後輩で、教え子みたいな立場で、紗恵さんと恋人同士になれるなんてことがあるんだろうか。とにかくせめて仕事で独り立ちしないとな。ってこれ、前の彼女のときと状況が似てないか? いや、そもそも今はつきあえるところまでいってないわけだけど。 休み明け。普通なら憂鬱になるのだろうが、俺の気分は軽かった。 紗恵さんに会えるからだ。いつもより早く目が覚め、会社にもかなり早く着いてしまった。 紗恵さんはいつも通り、近くのスタンドカフェで買ったカフェラテを片手に、始業時間の十分前に出社してきた。 「お早うございます」 「お早よー、久しぶりだね、元気だった?」 紗恵さんは笑顔で言ってくれた。薄いベージュのサマーセーターと、ジーンズ。デザイン部署はスーツ着用じゃないから、みんなラフな服装だ。俺も入社した当時は、しばらくスーツで来ていたが、しばらく経って、 「別にスーツは着てこなくていいんだよ」 と、紗恵さんが言ってくれたのでスーツは着ないようになっていた。夏の暑いときにネクタイなんかしてられないよなあ。営業部の人たちはそうもいかないから大変だろうと思う。 「休みは楽しかった?」 「とくにどこもいかなかったんですけどね、まあのんびりしました。紗恵さんは、北海道どうでした?」 ほんとは誰と行ったのかがいちばん聞きたいんだけど。 「んー、楽しかったよ。人が多くて大変だったけど」 「休みはどこもそんなもんでしょうね、ビール園とかいったんすか?」 「ははは、ベタだねー。行ったけどね」 よし、この調子でさりげなく。 「お酒好きだって言ってましたもんね。一緒にいった人も飲むんですか?」 「え?」 「誰かと一緒にいったんじゃないんですか? それとも一人旅とか?」 「ううん、そうじゃないけど……」 思い切って聞いた。 「もしかして、彼氏とか?」 違うって言って欲しい……。 「ん〜」 紗恵さんは、唇を尖らせ、一瞬言葉を切って。 「彼氏、じゃないけどね」 「ああ、友達と行ったんですか」 紗恵さんは、少し曖昧な笑顔を浮かべた。 「んー、まぁね、そんなとこ」 彼氏じゃないのか、よかった。でも、なんか微妙な表情と口調だったな。 「あ、そうそう。これお土産」 そう言って、小さな包装紙を取り出した。 「え? 有り難うございます」 紗恵さんにお土産もらえるなんて。少し感動して受け取った。なんだろこれ? 薄くて固い紙みたいだけど。 「開けていいですか?」 「いいよー」 開けると、それは『熊出没注意』のテレカだった。一瞬、俺はどう反応していいのかわからなかった。 「あ、有り難うございます」 「あれ? リアクション薄い」 紗恵さんは、ちょっとがっかりしたように言った。 「い、いえ、そんなことないです。嬉しいです」 「……ウケると思ったのに」 ウ、ウケを狙ったのか? そういうキャラじゃないっすよ、紗恵さん…… 「ほんと嬉しいですよ」 「ウケると思ったのに……」 さらに暗い声で紗恵さんが言う。 「いやいや、北海道といえば熊ですよねーははは、テレカなんて最近珍しいっすよねえ〜」 慌てて取り繕う俺を見て紗恵さんは、ぷっと吹きだした。 「いいってば、無理しなくても。ホントのお土産はね、こっち」 紗恵さんはそう言うと、これも小さな包みを取り出した。透明なラッピングシートに五、六個のバター飴が包まれていた。 「あ〜、バター飴ですか、うまいんですよね、これ」 「うん。私も結構好きなのよね」 久し振りの紗恵さんの笑顔。なんかそれだけでも、幸せな気分になれるな。 その日の帰り、M美と一緒になった。 「休みどうしてたの?」 「んー、実家に帰って、後はゴロゴロしてた」 「寂しいねえ」 M美はからかうように言った。 「いいだろ、別に。休みだからってなんであちこち出歩かなきゃいけないんだよ」 M美は沖縄に行ったとかで、よく陽に焼けていた。 「若さがないねー」 「うるさいな、お前こそ沖縄に行ったんなら気の利いた土産くらい買ってこいよ」 「食べたでしょ、ちんすこう」 M美は昼の休憩時間に、沖縄に行って来ました、と部署のみんなにちんすこうを配っていた。 「あれねえ……」 「なによ、紗恵さんのバター飴は嬉しそうに持って帰ってるくせに」 「あ、お前ももらったんだ?」 「紗恵さん、みんなに配ってたよ。多分箱入りかなんかでたくさん買って、一人分づつラッピングしたんだろうね」 そういや、買ってそのままって感じじゃなかった。わざわざ包んだのか、紗恵さんらしいな。 「残念だね、自分だけ特別じゃなくて」 「なんだよそれ」 M美は紗恵さんのことで、なんだかやけに俺に絡む。からかわれてるんだと思うが、俺が紗恵さんに想いを寄せてるのが見透かされてるようでどうも弱い。 「もらったの、バター飴だけか?」 「うん、そうだけど。なに? 他になんかもらったの?」 「いや、そういうわけじゃないけど」 「会社の同僚にまで、一人づつお土産買うわけないでしょ。何人いると思ってんの、お金かかってしょうがないって」 「そ、そうだよな」 するとテレカは俺だけか? 出来の悪い弟子に、ちょっとプラスアルファしてやるか、てとこなのかな。俺だけがテレカをもらったというのがわかって嬉しくなる。ウケ狙いだったみたいだけど。 「ねね、紗恵さんは誰と旅行に行ったと思う?」 「友達だろ? そう言ってたよ」 「そうかなぁ……。あたしもね、お土産もらったときに、誰と行ったんですか、って聞いたんだけどね」 こいつも聞いたのか。 「友達、って言うから、ほんとですかあ〜? 彼じゃないんですかっていったらさ」 そこでM美は、ちょっと首を傾げる。 「な、なんだよ」 「彼、じゃないよって、言ったんだけどね」 なんだ、俺が聞いたのと同じじゃないか。少しホッとする。 「表情や口調から、もしかしてあまり言いたくないのかな、と思ってさ」 そういえば、俺が聞いたときも、曖昧な口調だったよな……。 「不倫旅行だったりして」 「まさか」 紗恵さんが不倫? そんなわけない、絶対に。 「あのな、なにを根拠にそんなこと言ってんだよ。それにお前、前に人の噂話をあれこれするもんじゃないって言ってたろ」 「ははは、そうだね。ごめんごめん」 M美は笑いながらあっさりと言った。 「でもさ、やっぱりみんな気になるのはわかるよ。綺麗だし、独特の雰囲気持ってるもん、紗恵さんって」 「うん」 「知ってる? 紗恵さんの曾お婆ちゃんだか、そのまたお婆ちゃんだかはスウェーデン人だったって」 「え? それは初めて聞いたよ。そうなの?」 「わかんない、あたしも人づてに聞いただけだから」 「へえ」 「でも、なんとなくわかるなあ。紗恵さんの肌の白さって、日本人の色白とはまた別の種類の白さっぽくない?」 「ん〜、まあ、言われりゃ……。でもそんなに前なら血は薄まってるんじゃないの?」 「隔世遺伝ってのがあるじゃない、髪の色も栗毛がかってるし。あれ、染めてるんじゃないよ、地毛だって」 確かにちょっと日本人離れしているところがある。そんな噂があってもおかしくないよな。 「異国の血が混じってる美人でスタイルよくて仕事もできる優しい先輩、そんな人に惚れちゃってるわけだ。大変だねえ、釣り合わないよ君ぃ」 「また、そっちへいくのかよ。いい加減にしろ、怒るぞ」 M美は、ふと表情を変えると、俺の顔を見返した。 「好きなら好きって言わないと……いくら側にいても伝わんないもんだよ、気持ちって」 どん、と拳で胸を叩かれたような気がした。 「……そうなんだろうな」 俺はM美から目を逸らした。 その後、あまり会話はないまま駅に着き、電車に乗って、途中の駅でM美と別れた。 年が明けた。寒い日が続いている。徐々に複雑な仕事も任せてもらえることも多くなっていた。 なんとか半人前くらいにはなれたろうか? 少しでも早く、せめて紗恵さんの足下くらいには追いつかないと。 そんなとき、紗恵さんがシステムキッチンのPRパンフレットを担当することになった。百ページ近くある、かなり大きい仕事だ。 丁度そのとき、手が空いていた俺と、M美がサブに就くことになった。紗恵さんと仕事ができるのはいいけど、なにかと俺を紗恵さんのことでからかうM美と一緒なのは気が進まなかったが。 納期的にも決して余裕があるとは言えない仕事を、紗恵さんはテキパキと要領よく、先のことまで見越して進めている。クライアントも紗恵さんの企画書やデザインに、ダメ出しや注文をつけることはほとんどなく、お任せの状態だ。 俺とM美は紗恵さんの指示に従って、その通り作業を進めているだけでよかった。 「紗恵さんってやっぱりすごいよね、独立しても十分やってけるんじゃない?」 M美は尊敬の念を込めて言った。今更ながら、紗恵さんに追いつくのは並大抵のことじゃないと思い知らされた。 その日、朝から体調が悪かった。システムキッチンの仕事が佳境に入って、かなり忙しい日々が続いている。 毎日十時、十一時近くまで仕事をし、疲労が蓄積していた。前の日、部屋に帰って飯を食う気も起きず、シャワーだけ浴びて髪も乾かさないまま、パンツ一枚で寝込んでしまって、風邪をひいたらしい。熱を計ると、三十七度五分くらいあった。しかし忙しいときなのだ。紗恵さんもM美も同じように仕事をしているのに、俺だけ休んでいられない。 とりあえず解熱剤と、ビタミン剤を飲み込んで、会社に出る。しばらくは薬が効いていたが、夕方を過ぎると、また体調が悪くなってきた。頭痛も酷くなっている。薬を追加して、その日はなんとか凌いだ。 次の日はさらに悪化していた。熱はかなり高いようだが、計らずに部屋を出た。熱が何度あるかわかったところで休むわけにはいかない。薬を飲み過ぎているせいか、眠気もひっきりなしに襲ってくる。 「K君、顔色悪いよ、大丈夫なの?」 朝、顔を見た途端、紗恵さんが言った。 「いえ、大丈夫ですよ」 「昨日もなんとなくおかしかったもんね」 気取られないように気をつけていたが、どうやらばれていたらしい。 「いえいえ。ちょっと寝不足なだけっすよ」 俺は無理に背筋を伸ばし、笑った。 「そう? ならいいけど。具合が悪いときは早めに言ってね」 かなり悪い状態なのは自分でもわかった。昼休みに紗恵さんとM美に知られないように、病院に行って点滴を打ってもらう。 「今日は家へ帰って、二、三日休んだ方がいいね」 診察した医者は言った。熱が三十八度近くあった。 「はい、そうします」 言って、俺は病院を出た。もちろんそうするつもりはない。点滴のおかげか、かなり楽になっていた。今日明日を乗り切れば、土曜だ。二日間、部屋で寝てれば治るだろう。 跡形も残らない夜空 vol.2 http://moemoe.mydns.jp/view.php/13669 出典:* リンク:* |
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